命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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育てよう健全信徒(28)あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン
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     「自分は、あるがままで神様から愛されている」あるいは「神様は罪人の自分をそのまま愛してくださった」さらに言い換えるなら「対象に依存しない神の無条件一方通の愛」は、福音が持つ大切な要素だと思います。10代で「自分に価値がない」と思っているのが、世界で一番多い日本社会においては、「あるがままの自分のためにいのちを捨ててくださった神の愛」は正しい自己価値確認のニーズを満たす福音の一要素でしょう。

     しかし、これはあくまで福音の一要素に過ぎません。これが福音のすべてではないのです。あるがままで愛されたら、もはやあるがままではいられないのが普通でしょう。愛とは交わりであり、応答の世界です。あるがままで愛された者は、あるがままで愛してくださった方に喜ばれるような自分になりたいと願うのが、当然かと思うのですが、どうでしょう?

     言い換えるなら、あるがままで愛された者はその愛に応答して、「今のままの自分」から、「神様が願う自分」へ、「わがままな自分」から「みこころのままの自分」に変えられたいと願うのが聖書の教えだと思うのです。

     ところがどういうわけか、この「あるがままの愛」が福音の全てになってしまうクリスチャンがいます。それが「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」であります。その福音理解は、「神様は自分をあるがままで愛しておられる。だからずっと今のままよい」という内容です。これは、「現状肯定と成熟拒否の神様の無条件の愛による正当化」であります。あるがままで愛されていることを、「自分が変らず、悔改めず、ずっとそのままでよい」とのお墨付きにしてしまうわけです。

     当人にとっては「あるがまま、今のまま、ずっとわがままでよい」と絶対者から保証してもらっているのですから、行くところ敵なし状態です。自分にとって不都合な変化、成長、悔い改めを命ずる聖書のことばも、そのみことばに従って愛をもって導く人々も、ありのまま愛してくださる神様がご一緒なら、大丈夫?というわけです。

     「聖書は、心の一新によって自分を変えなさいと命じていますね」と問われても、「変えなくても愛されているから自分は満足です」と顧客満足度発想で返答。

     「栄光から栄光への主の似姿へと変えられましょうね」と勧めれば、「変えられなくても愛されているのだから、必要ない」と頑なに現状肯定であります。

     「聖書は『愛されなさい』でなく『愛しなさい』と命じていますね。あるがまま愛されたその愛で、人を愛する者に成長しましょう」と招けば「今のまま、ずっと愛される側でいたい」とがわままな拒否。

     「それは神様が悲しまれますね。悔改めましょう」と牧師が愛をもって罪を示し悔改めに導こうとすれば、「先生は自分を、罪のまま、あるがままで愛していない、先生には愛がない!」と逆切れしかねません。

     どうもこのタイプのクリスチャンにとって大切なのは、「あるがまま愛されている自分」であって「あるがまま愛してくださっている様」ではないようです。重要なのは、「あるがまま愛されて自己価値確認できる安心感」であって「その愛への応答責任」ではなさそうです。発想としては、「あるがままで愛される顧客満足度」が大切なのであって「あるがまま愛してくださっている神様の側のご満足」はどうでもいいのでしょう。どこまで行っても「自分のための神様」止まりで「神様のための自分」には至りません。いいえ、程遠いままです。

     そこで、思いついたのが、「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」の信仰告白です。名づけて「あるがまま信仰告白」。


     「あるがまま信仰告白

     我は天地の造り主、我をあるがままで愛する全能の父なる神を信ず。
     
     我はその独り子、我をあるがままで愛する我らの主、イエスキリストを信ず。

     主は、我をあるがままで愛するため、聖霊によりてやどり、・・・・・・

     ・・・・・三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、我をあるがままで愛さんと全能の父なる神の右に座したまえり。

     かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを、あるがままで愛したまわん

     我は、人々をして我をあるがままで愛さしむる聖霊を信ず。

     我をあるがままで愛する公同の教会、

     あるがままで愛し合う聖徒の交わり、

     あるがままで愛するが故に、悔改め不要の罪の赦し

     今のままでも与えられる体のよみがえり、

     ずっとわがままでも保証されるとこしえの命を信ず。

     
     以上です。これは、すごいですね。「父、御子、御霊」から、「教会、永遠」に至るまで総動員で、「あるがままの自分」を正当化しているのですから。この「あるがまま信仰告白」が、聖書そのものより権威があるのですから、聖書が記す自己変革、成長、悔改めの言葉などは、すべてスルー、あるいは排除となるのです。

     「あるがまま」は福音の重要要素。でも、それがすべてとなれば、それは、もはや「福音」と呼ぶべきではないでしょう。「甘口の福音」でさえないと私は思います。

     「育てよう健全信徒」と題したものの、これまた、どうしたらいいんでしょうね?何といっても、「あるがままの愛」以外のみ言葉は拒否ですから、大変です。個人的には、洗礼前後の書記の段階で、「神、罪、救い、教会生活」と共に「みことばへの従順成長、自己変革、悔改め」などをしっかり教育することかなと考えています。

     読者の皆様にはこの拙い記事が「あるがまま信仰告白」に生きるクリスチャンたちの「傾向と対策」に少しでも役立てば感謝でございます。また、「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」当人の皆様におかれましては、この拙い記事が、ご自身を神様の視点より客観視し、聖書を基準に過ちをお認めになり、やがては悔い改めの実を結ばれる一助になればと切に願います。
    | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 21:25 | - | - | - |
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