命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「公益による弱者人権侵害の正当化」としての橋下市長慰安婦発言
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     橋本徹大阪市長の慰安婦発言に波紋が広がっております。人権オタクの私としては記事にせざるをえないわけです。

     ブログ「松ちゃんの教室」では、昨日から本日にかけて、様々な視点からの発言がされております。「こういう視点もあったのか」との記事もあり、お勧めです。
    http://yaplog.jp/shinkichi1109/

     さて、橋下市長によるこの発言の趣旨はなんでしょう?「軍と性の問題は深刻。建前論やきれいごとでは済まされない。蓋をせずにこのことを直視した上で、慰安婦問題を論ずるべき」との趣旨であるなら、現実志向の保守政治家としては、許容範囲の提言かもしれません。

     どうも、その後の発信を見ているとそうではないようです。「軍と性の問題は深刻。建前論やきれいごとでは済まされない。当時の各国は慰安婦を持っていたのだから、日本軍の慰安婦のみ問題とされるのはおかしい。」というのが趣旨ではないかと受け止めています。

     歴史認識や強制連衡の有無など、認識や見解の違いはあるでしょう。本件については、様々な論じ方があるでしょうが、私は人権論から、本件を考えたいと思います。私は、今回の橋下発言は「公益による弱者人権侵害の正当化」であることに問題性があると思います。与党、政府関係者からの苦言も、歴史認識の問題としてではなく、女性の人権問題として、とらえているように観察します。

     つまり「軍隊が果たす公益や国益のために、慰安婦は必要なのだから、女性の性的人権が犠牲にされたことも仕方なかった」という「公益による弱者人権侵害の正当化」がこの発言の本質かと思うのです。私は歴史認識の違いだけではなく、橋本市長には「男性中心主義による女性の性的人権感覚の欠如」があるように観察します。野田聖子議員なども女性として、そうした指摘をしているようです。そのことは、彼自身が、若かりし時、弁護士でありながら、買春行為を日常的にしていたことや近年暴露された性的スキャンダルとも無関係ではないでしょう。

     週刊朝日の「ハシシタ記事」の時は、人権擁護の立場から、橋下市長の味方をしましたが、今回はそうはいきません。今回の発言は、数ヶ月前に人権侵害の被害者であった橋下市長が、旧日本軍の人権侵害を擁護しているという構図のように思うのですが、どうでしょう?
     
     もし、この「公益による弱者人権侵害の正当化」が正しい論理であるなら、どうなるでしょう?残念な必要悪のための人権侵害は、現実論として許容されるとしたら、こういう論理が正当化されるのでは?

     安全保障という国益のためなら、地理的な必然性から沖縄に基地が集中し、その住民の人権が侵害されるのも仕方ない。

     電力安定供給という公益のためなら、警報中でも、線量計を外して働く原発作業員は必要だから、奴隷労働としての人権侵害があるのも仕方ない。

     安価な農産物を輸出するという公益のためなら、不当な児童労働、奴隷労働は必要だから、また、その恩恵に日本の消費者は浴しているのだし、そうした人権侵害は仕方ない。いや、なくなってしまうと値上がりし、不都合だ。

     農民に下を見て暮すよう諭し、国家を統治し、穢れに結びつく職業を代々担わせるという国益・公益のためには、被差別部落の存在は、必要となるのだから、部落差別という人権侵害も仕方ない。

     国益や公益が、人権侵害を正当化するなら、ほとんどの人権侵害や差別は、許容されてしまうでしょう。これは聖書が示す「人権」はもちろんのこと、日本国憲法の根幹をなす「基本的人権」にも反することでありましょう。どのような国益や公益も、個人の人権の深い部分に優先するはずがありません。著しい人権侵害を必要悪として許容してまで、国益公益を優先することについては、キリスト者は反対を表明し、抵抗を示すべきと私は考えます。

     注目すべきは公益・国益のために人権侵害を受けるのは、社会的弱者ばかりです。多くが、大和民族とは異なる沖縄住民、危険な原発作業な児童労働、奴隷労働などに従事するのも、貧困者、被差別部落出身者が、不当な貧困を強いられてきたことは言うまでもありません。

     しかし、旧約聖書を読めば、神様は女性や在留異邦人などの弱者に目を留められ、その人権侵害がないように、愛の配慮をしておられます。イエス様も、原則として社会的弱者の側に身をおいて、宣教の働きをされました。その意味で、キリストの体として、教会は、そして、個々のキリスト者は、「公益・国益よる弱者の人権侵害正当化」には異議を唱えるべきでしょう。

     しかし、そのような聖書の記述がありながら、現実のキリスト教会の歩みはどうだったでしょう。キリストの教会はその歴史の中で、同様の罪と過ちを繰返してきたのではないでしょうか?国益や公益ならぬ神の国の拡大や布教という大義名分によって、侵略行為、異教徒の殺戮、不当な植民地支配、奴隷制度容認、女性差別、民族差別を正当化してきたのではないでしょうか?その正当化のために、時には聖書の言葉を根拠としてきたはずです。キリスト教会がそれをしてきたというのが言いすぎなら、意図的ではなくとも、教会がそれを許容し、それに便乗して布教をしてきたというなら、受け入れていただけるでしょうか。

     近代から現代にかけて、キリスト教会はこうした過ちを正直に認めて、悔改め、悔改めの実を結び人権が尊重される世界をつくるサポートをしてきたはずです。そのことを思いますに、キリスト者たるもの、橋下市長を一方的に、人権侵害者として批判している場合ではないでしょう。日本のキリスト者悔改めとその結実の不徹底やそうした社会的責任への無関心、悔改めの社会への発信の弱さも、橋下発言が起こる一因ではないか?と自らを省みる必要があるのはないかと思うのです。

     今回の橋下氏発言の趣旨が「公益による弱者人権侵害の正当化」であるならば、これに異議を唱え、そのことを社会に発信すべきだと思います。私個人もこうして発信しています。しかし、それ以前の前提として、単なる他者批判などできるはずもない自らであること、同様の罪を、我が罪として悔改め、その実を結ぶべき、キリストの体の一部としての自らであることを覚えなくてはならないでしょう。
     
     「この国の罪を自らの罪として受け止め、悔改めとその結実を願うキリストの体の一人として、橋下氏慰安婦発言に異議を唱え、発信したい」

     今回の橋下発言に際して、そうした思いに至りました。


    〈追記〉
     本日15日の午後になり、橋下市長は「慰安婦を容認する意図はない」との見解を示しました。当初からそうであったなら、昨日のうちに訂正したはずだと私は思います。この弁明を真に受けるのは、おめでたすぎると判断しています。ですから、上記の記事は削除、変更等はしないこととします。
    | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 10:32 | - | - | - |
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