命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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福音提示の単純化=宣教の効率化≠宣教地の愚民化
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     このタイトル、あるブログ記事に触発されて思いついたものです。同じブログばかり紹介して恐縮なのですが、やはり大変有意義な議論がなされているので、またまた紹介。

    一キリスト者からのメッセージ「わかりやすさがもたらすもの」
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=270

     記事はもちろんのこと、コメント欄も充実しております。私自身も触発を受けて、こうしたタイトルを思いついたので、少し記します。

     四つの法則やそれに類するような福音の本質を理解しやすく提示すること、それ自体には、問題はないだろうと私も考えています。むしろ、洗礼後に福音理解を広げ深め、と福音に生きる生活へと導けていないことが、教会の大きな課題だろうと思っています。

     福音をわかりやすくするための福音提示の単純化は、言葉は適切ではないでしょうが、宣教の効率化につながります。特に日本のように、十分なカトリック宣教もキリスト教の基盤もほとんどない社会にあっては、初めて聞く福音入信に必要最小限の本質に絞って単純に提示する意味は大きいと思います。もしかすると二度と福音を聞く機会がないかもしれないですし。

     では、福音提示の単純化が、入信後の福音理解や福音実践の乏しさを招いているか?といえばどうでしょう?罪ゆえの永遠の滅びへの恐れが、動機となって、キリストを信じた方は、その後も、愛ではなく恐れが、信仰生活の動機になりやすいとの指摘をお聞きしたことがあります。また、「あるがままで愛されている」に感動して、信じた方は、「あるがままでいるのではなく、御心のあなたに成長して欲しい」という神様の御心に歩み出すことが、困難になる傾向があるとの声もお聞きします。

     だからと言って、「罪ゆえの滅び」や「あるがまま愛する愛」という福音提示が悪いという論理にはならないでしょう。もちろん、それらがより本質的な福音の要素に著しく先行したり、極端にバランスを欠いて「そればっか」なのは問題でしょうが、そうでなければ、許容範囲かと思うのです。

     要は、こうした福音提示に応答した福音理解のままで、終わらせないということでしょう。「そのまんま東」ならぬ「そのまんま天国」にしては、あまりにもったいないわけです。「生涯初心者コース」で終わらせてはならないでしょう。


     言い換えますなら、「点をもって線と思うな」「線をもって面と思うな」「面をもって立体と思うな」です。
    いくら中心、本質とは言え、ヨハネ3:16が聖書全体を完全に代弁しているわけではありません。本質的とは言え、一部を全体像として、受け止めてしまえば、福音の持つ、線の長さ、面の広さ、立体の深さや多面性を捨て去ることとなります。 これでは、「天国行きの切符をもらってうれしいな」で一生を過ごさなくてはなりません。そうなれば、やはり、3年が寿命でしょう。

     福音提示の単純化は、「キリストとの出会いへのショートカット」にはなれても、「キリストと共に歩む生活のショートカット」にはなれません。むしろ、逆効果の場合も。

     福音提示の単純化は「天国行きの切符獲得」には有効でしょうが、「乗車後の正しい旅路」にまではその効果は及びません。

     福音提示の単純化は「福音の最大公約数の理解」には役立ちますが、「福音の深さと広さの理解と実践」には、役立ちません。

     福音提示の単純化が悪いのではありません。その「有効期限が洗礼まで」であることが意外と自覚されていないことが問題なのでしょう。こうした有効期限が自覚されていれば、教会(教職も信徒も)は、かなりの労力を裂いて、福音全体提示やそれに生きるための教育をすることでしょう。

     こうした福音提示の単純化の有効期限が自覚されてないと、起こるのが、やはりクリスチャン寿命三年未満現象、あるいは、3年を超えて生き残ったクリスチャンの信仰理解と実践の乏しさでありましょう。

     救拯論から先のない先のない福音理解、教会生活以外の現場なき信仰生活、神との個人的関係に終始する交わり、政治や環境問題など社会事象を適用外とする信仰姿勢、他者を宣教対象としか見ない隣人愛、その他、信仰の内心化や観念化など、そうした状況に信徒が留まっていることを、安易に容認しながら、他方で、礼拝出席、聖書、お祈り、奉仕、伝道、献金というマニュアルは、しっかりと教育し、実行に導くとしたら、それはどうかと思うわけです。

     これは、真理の授与者である神様の目からご覧になれば、一種の愚民政策と評価されかねないでは?と危惧します。万人に啓示されている聖書の膨大な真理の一部だけを信徒に提供し、逆に信徒には教会への忠誠?貢献?とそれに伴う労(本来は恵みへの応答のはず)を要求するわけですから。

     もちろん、意図的に愚民政策をする牧師など、まずいないでしょう。しかし、指導者側の福音理解の不十分さや、伝達力の欠如、信徒が賢くなることへの劣等感や恐れ牧師が望む信徒像神が望む信徒像への優先などが、ある時に、あくまで、無意識のうち、結果的に、教会のあり方を愚民政策化してしまうことは、決して少なくないのでは?と思うのです。少なくとも、わが身を振り返れば、30代の頃の自分は、愚民政策的な教職だったとなーと反省するばかりです。信徒の側にも依存的で自立を願わぬ体質、霊的向上心の欠如など、愚民政策化されやすい体質はあるのだろうとも思います。

     よく考えてみれば、聖書の記述のほとんどは「いかにして救われるか」ではなく「救われた者が、いかに生きるべきか」についてです。そのバランスから考えると、牧師の仕事も、「未信者をいかに救いに導くか」より「救われた者をみことばに生きるようどう導くか」の方が重要なのかもしれません。

     きっと、福音提示の単純化が問題なのではなく、その有効期限の無自覚が問題なのでしょう。あるいは、福音提示の単純化が愚民政策化をもたらしているのではなく、福音の豊かさを伝え、それに生きることを目指す意識の欠如が課題なのでありましょう。それは決して牧師のような指導者側だけでなく、教会全体の課題かと思うのですが、どうでしょう?

     というわけで、タイトルに戻って、まとめるなら・・・。

     「福音提示の単純化=宣教の効率化≠宣教地の愚民化」であります。

     福音提示の単純化の有効期限は、洗礼前後まで。大切なのはシフトチェンジ、洗礼後は、福音の豊かさを提供し、その豊かさに生きるための、牧会、教育、交わりなどであります。もちろん、その実行は、およそ簡単な事ではありません。多くの場合は抵抗勢力が起こるでしょう。しかし、このシフトチェンジをするか否かは、将来において、いいえ、長い日本の教会の歴史において天と地との差が生ずるのだろうとは思うのですが、どうでしょう?

    | | キリスト教界(論説読みきり) | 16:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - |









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