命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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教会不祥事問題、「躓きそうな弱者の立場」から「被害者女性の立場」へ
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     今回のオピニオンは最後の締めくくりが感動的です。暗い事実、厳しい現状に向き合いながら、主のご栄光を目指していこうとする希望の光があります。最後の趣旨を私なりにまとめるとこうなるでしょうか。

     セクハラの被害者たちは、沈黙は再発を産むと気がつき、自ら傷つくことも覚悟で声を上げて、その実態が明らかにしてきた。このことが牧師不信でなく、教会の聖さ、被害者の回復につながり、主の栄光が現されることを願う。

     私なりに言い換えるなら、被害事実や起訴事実などの具体的伝達が、牧師不信や教会不信にではなく、再発防止につながり、最終的には本当の意味での神の栄光が証しされればということになるでしょうか?教会外にある「美しい誤解」に依存した「神の栄光」ではなく、「事実」に立脚した「神の栄光」が現されることを願っているとも言えそうです。

     かつてのミートホープ事件で、私自身が最もショックだったことは、ミーとホープが行った不正それ自体ではありませんでした。元役員たちが、公益通報(内部告発)をしたのに、行政が誠実な対応をせずに、放置されていたことです。証拠品を提示しても受け取らず、後日、形だけの訪問をして、具体的な対処をしていなかったのです。
     さらに、そうした行政の責任放棄さえも放置されていたのですから、末期症状です。汚染米の場合も同様の構造的問題が指摘されました。既に隠蔽体質は固定化しており、自浄作用が望み得ない状況に陥っていたのです。

     同様の問題が、牧師から性犯罪被害を受けた女性に起こります。私が被害者女性から、実態をお聞きした事例のうち、二件は、加害者牧師がそのまま同じ教会で牧師を続けています。団体に所属しない独立の単立教会ですから、場合によっては、そんな暴挙がまかり通ってしまうのです。

     他の例では、加害者牧師が団体からの指導を受け、悔い改めをすることを拒否して、団体離脱近くで一部の信徒を引きつれ単立教会を始めるという「悲しいお約束のパターン」が多いです。

     これは、ちょうど、ミートホープ社の不正が告発され続けているのに、そのまま営業している、あるいは、同じ町内で別の店名で営業しているようなものです。この状態を神様が、お喜びになるはずがありません。でも、どうしようもない構造的な限界がプロテスタント教会にはあります。各団体の教会論もありますから、一定の限界はどうしても生じてしまいます。

     「内部告発」という表現は、どうしても「身内を裏切って外部に恥をさらす」「背後に組織や上司への復讐心があるのでは?」というマイナスのニュアンスがあります。しかし、今は「公益通報」という言葉に代わりつつあるようです。「公の利益のために組織の不正を外部に知らせることはよいことである」というニュアンスがあるのでしょう。日本独自の閉鎖的な「村意識や身内意識」から、「公の社会の利益」へと、視点の変化を感じます。

     牧師による性犯罪被害者たちの多くはそうした「公益通報」の意識で声を上げているのです。主の正義や同じような被害にあう女性がおこらぬことを願ってのことなのです。

     しかし、多くの場合、加害者牧師の擁護者によって傷つけられます。「あなたも悪い」「誘惑したのでは」などの言葉が本当に浴びせられるのです。周囲のクリスチャンからも「赦しなさい」と言われて苦しめられます。正しいことをしているのに、さらなる苦しみを女性たちは受け続けるのです。「それでは、罪が隠されたままで放置された方がよかったのですか?!」と尋ねたいような言動をする人々がいるのが普通のようです。

     被害者女性にとっては、自分が受けた被害に加えて、そうした二次被害を受ける場合がほとんどです。残念なことにそうした二次被害を与えるのが、クリスチャンたちなのです。最終的に、加害者牧師が真実な悔改めも謝罪も償いもしない場合、次には、その事実がその後も被害者女性を傷つけ続けます。同じ教会で牧師を続けているという事実、近くで新たな教会で牧師をしているという事実が、時には受けた性被害以上に女性を苦しめ続けていくのです。

     そうして、PTSDに苦しめられ、フラッシュバックに悩まされ続けるのです。中には深刻な心の病を患ったり、自傷行為に走る方、実際に空しさを覚えて自死に至った女性もいるのです。牧師からの性被害は、通常の性被害に増して、深い傷を女性に与え、その傷は長く女性を支配し苦しめかねないのです。

     私自身、近年、そうした女性たちの声を受け止めてきた者として、こうした実態をお知らせしたいと願うのです。従来の良識であった「信徒や求道者を躓かせない建徳的配慮」がすべて悪いとは思いません。そうした配慮も意味のあることでしょう。しかし、そちらに焦点が行過ぎると、「本当の意味での公益」を失いかねないでしょう。隠蔽体質も自浄作用喪失状態も同様事件の再発も継続、声を上げた女性たちの勇気や信仰は踏みにじられていくのです。

     私たちはまだ、どこかで「傷つけられた者の内部告発」というニュアンスで女性たちの声を受け止めており、「主にある公益通報」として、受け止めきれていない部分があるのではないでしょうか?

     私は思います。「事実を知って躓くと予想される人々への配慮」よりも「現実に今、深く傷つき人生を台無しにしそうな被害者女性への配慮」が優先されるべきであると。

     一般の社会では、内部告発者あるいは公益通報者の保護は当たり前のことです。一般のセクハラ対策でも、被害者の保護が優先されます。「事実が外部に知られないこと」が優先されるたら、それは不当、隠蔽だと評価されます。

     さらに私は疑問に思うことがあります。「信徒の躓きを防ぐために事実を知らせない」という発想は、本当に教会論的だろうか?と。むしろ、一人が痛んだら、教会全体が共に痛むことが教会論的ではないか?と。被害者の許可があれば、周囲がその事実を知り、共に痛み悲しむことも、また、聖書が示す教会論的あり方なのではないかとも思うのです。そうした共同体での痛みの共有が、被害者女性の受けた傷を癒す「教会論的癒し」を期待してもいいのではないか?と。

     「躓きそうな弱者の立場」に立つか?「被害者女性の立場」に自らを置くか?もしかしたら、それは「宣教的視点か?教会論的視点か?」の違いにもリンクするのかもしれません。もちろん二者択一ではないでしょう?しかし、その優先順位とバランスについては、変わりつつある時代に、お互いは生きているように思えるのです。

     四回にわたりましたが、今回で完了とさせていただきます。
    | | 教会不祥事&AERA報道関連 | 10:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - |









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