命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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代理母問題(3)生殖器は人格的器官につきレンタル不可
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     代理母問題については、以下の「三者の合意があればいいのでは?」という考え方があります。
    (1)代理母という方法によって出産を願う夫妻
    (2)代理母を申し出る女性
    (3)それを実現する医師
     (正当な医療として許可する社会や法律が背景に)

     臓器移植の時も論じましたが、当事者がよければそれでよいという理論はメチャメチャです。それは「売春してでもお金欲しい女子中高生」、「お金出してでも女子中高生と性関係を持ちいおじさん」、「それを仲介する生産業」の三者の合意があれば、当人がよいのだからいいのでは?という理論と同じです。その事象、行為、方法論自体の倫理的是非を問うことをしなくなったのが、現代社会の病的状況なのでしょう。

     今回はタイトル通りのアプローチで、代理母出産という方法論自体の不当性を論じたいと願います。生殖器官は人間のそれ以外の機関とは、本質的に大きく異なる器官であることを聖書は示していると私は考えます。

     創造主である神様が人類に生殖機能を与えられた目的は二つ。「結婚した男女が愛し合い深く結びつくため」と「いのちを生み出すため」です。これはどちらも人格と深く結びつき、伴侶や子どもという人格に対して大きな責任を持つものです。そうした人格的要素を強く持つ生殖や性関係のために、性があり、それを実現化するために生殖機能があり性器があるのです。ですから、生殖器官は極めて人格的な器官と言えるでしょう。聖書的には、性器、生殖器は「人格直結器官」、「人格表現器官」と呼べると思うのです。

     割と最近まで日本では、特別な人々の生殖機能を奪うという人権侵害行為がひっそりとしかし問題視されずに為されていました。月経があると介護が大変ということで、知的障害を持つ女性の子宮が摘出される、ハンセン氏病の男性に子孫を残さないように強制的に断種手術が行われるなどの蛮行があったのです。それが国際的に非難を受けてなくなったのは、それ程昔のことではありません。

     では、なぜ、生殖機能を奪うことが人権に反するのでしょう?それは、生殖器が、人格の深い部分と直結し、人格的愛の表現と実現に用いられるべき個人的な器官だからでしょう。「使わないから」「必要ないから」「あると不便だから」と言って、当人の意思に反して奪い去ることは、人格否定、人権蹂躙に他なりません。極論すれば、人格の本質部分を奪うことでしょう。

     それは売春や生産業などの性的労働についても言えることです。性労働者、セックスワーカーを正当な労働者として扱おうという思想があります。実際、オランダでは売春は合法で行政管理の下で行われています。そのために性労働者の人権や労働上の権利が一定守られているようです。もちろん、そうした方々の人権は尊重されるべきです。しかし、その労働行為自体は正当だとは言えません。
     
     全身、頭脳、手、足、目、鼻、口などの身体器官を用いて、サービスをすることは正当な労働です。肉体を用いてのそのサービスが金銭と交換されることは倫理的に正しいでしょう。しかし、自分の生殖器を用いて、あるいは相手の生殖器に対してサービスをすることは不当な労働です。それは人格と金銭を交換したことになるからです。金銭と交換してはならないものを交換するから不当な労働なのです。

     では、サービスをする側が金銭を受け取らないボランティアなら正当ではないのか?という議論も起こります。ヨーロッパのある国にはセックスボランティア組織があり、一定普及しているとか。(日本にもあるそうですが、普及はしてない様子)。
     障害ために、結婚や通常の恋愛、いわゆる風俗通いで性的な欲求を実現できない人々のために、奉仕の精神で性的サービスを無報酬でするボランティアです。
     障害者にも性的自己実現の権利がある→現実にそれが不可能に近い障害者が存在する→その人たちに少しでも豊かな性生活を送らせることはである→そのために善意をもって奉仕するボランティアが必要→自主的であり、金銭と交換しないなら、それは正当なボランティア活動である

     きっと、そんな論理だと思います。障害者の性の問題は、非常に深刻な問題であり、最近は日本でも、障害者の性的自己実現の権利を強く主張する考え方が主流のようです。

     血も涙もないと言われるかもしれませんが、聖書に立つ時、私はそうしたボランティアもやはり不当だと思います。金銭との交換はなくても、それは「人格なき性」だからです。たとえ動機が社会的弱者を助けるという善意であったとしても、性と人格を切り離して、生殖器を用いることは、性を与えた神様の御心に反することでしょう。動機は正しくても手段が間違っているのです。生殖器を人格的愛のない異性との間で用いることは間違った手段なのです。

     賢明な読者は、本題の代理母問題のために、なぜ長々と生殖器官とそれに関連する事項の是非について論じてきたかはご理解いただけるでしょう。女性の子宮は生殖器官であり、人格的器官です。たとえ、自主的であり善意の動機だとしてもレンタルすることは不当なのです。神様は女性の子宮が、実験における細菌の培養のように、機械的に人間の培養するようには作ってはいません。子宮の中の子どもと妊娠した女性は、既に一定の人格的交わりや心理的共感などを持っています。そうした面からも子宮は他者のためにレンタルすべきものではないといえるでしょう。本来的意味からして、極めて個人的で他のいのちとの絆を形成する器官と言えるからです。

     では、乳母はいいのか?という話になるでしょう。聖書的にも、乳母は正当なのです。もちろん女性の胸部は性的な器官であります。それを金銭と交換してもよいのかという話になります。
     生まれる前のいのちは、基本的に女性個人の子宮の中で育成されるべきです。しかし、子宮から外に出た後は、親だけでなく、共同体と社会が子どもを育てるのです。母乳が出ない場合は、他者がそれを補うことは正当です。ですから、授乳代理業は正当な労働だと言えるでしょう。子宮はどこまでも個人的人格器官ですが、女性の乳房は場合によっては、社会的補助機能でもあると私は聖書に立って考えています。

     子宮はいのちと直結し、その女性自身の人格とも直結する極めて個人的で人格的な器官。善意とは言え、他者のためにレンタルすること、他者の幸福実現のために利用されることは、性と生殖器官と機能を与えられた神様の意図に、やはり反するのではないかと思うのですが、どうでしょう?
    | | 妊娠・出産・不妊治療 | 14:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - |









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