命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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代理母問題(2)義務でも権利でもなく賜物としての出産
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     代理母のような現象の背景には、「既婚者女性は出産をする権利を有する」という思想があるように思います。今日、世俗的な価値観は、「自己選択権」が最優先されます。もともと「自分は出産する権利がある」と多くの女性は考えており、「自分は出産を願う」という自己決定はその権利を行使するという発想という面も強いのではないでしょうか?

     かつて出産は既婚者女性の義務でした。「子を産まざるによりて」という理由で昔の女性たちは離縁をされました。それが正当な理由であったのです。子孫、跡取りを生み出しえぬ妻は、義務を果たしえないので、不要ということです。女性の人格が認められず、女性が男性主義的な社会の中での機能でしかなかった時代のお話。

     時代は変わってもそうした「出産は義務」との名残はまだまだあります。それでも、出産は「女性の自己決定」や「夫婦の合意による決定」という思想が強くなります。20年ほど前からは、DINK(Doubel Income No Kids)という形態を積極的にとる夫婦も出現。社会の注目を集めました。どうも、そのころから、出産は「義務」から「権利」へと大きく変ったように思うのです。

     産む産まないを権利とする時、両面の問題が起こります。どちらを選んでも人間の力では100%の実現はできないからです。産まない方を選択します。正しい避妊実践によってかなりそれは実現可能でしょう。しかし、現実には予期せぬ妊娠は起こります。それでも「産まない権利」を行使するなら、芽生えたいのちを犠牲にせざるを得ません。

     産むほうを選択するなら、それも100%の実現は不可能です。不妊治療の方法によっては受精卵が選別されたり、稀に多胎児になった場合は一部が中絶されます。代理母の場合は善意の申し出であっても、他者の生命を危険にさらします。どうしても「産む権利」を行使しようとするなら、他者のいのちを傷つけたり、危険にさらす可能性は避けられません。

     こう考えますと、本会の働きの中心である「中絶問題」と「代理母問題」は両極端なようでも、共通の中心点を持っているかのようです。「望まぬ妊娠」と「望み得ない妊娠」、どちらも、それを人間の力のみで何とかしようとする時、深刻な別の問題が生じてしまうのですから。

     代理母問題については個人の権利ばかりに焦点があてられ、そればかりが尊重され、権利の行使の最大限の実現のみが着目されるとしたら、あまりにバランスが悪いでしょう。昨日も記したようにそうした個人感情や個人的願望実現が過度に尊重されるのが大衆社会の危険性。それに伴う他者への責任、社会や次世代への責任が果たされなければ権利の主張自体が不当だと思えるのです。

     かくして、神を除外して出産を考えるなら、それは、当然、人間中心の発想となります。出産は「社会から女性に課せられた義務」になるか「女性が主体的に所有する権利」のどちらか。

     そこで考えたいこと。聖書は出産を「義務」としているでしょうか?「権利」と位置づけているでしょうか?

     光栄なことに某雑誌より近藤勝彦著「キリスト教倫理学」(教文館刊4600円+税)の書評の依頼をいただき、先日800字の原稿を提出したばかりです(これはお笑いコント作家が大江健三郎の書評を書いているような無謀さがあります)。同著の生命倫理の章に記されていたある言葉は、まさにこの問いに対する聖書からの単純明快な回答。

     「出産は賜物であって権利ではない」

     聖書の詩篇127:3に「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」との言葉の通りです。

     賜物ですから、それは人ではなく神に由来する、一方的なプレゼント。報酬ですから、与えるか否かの決定権は主にあるのです。

     出産が賜物であるなら、人間には管理責任はあっても決定権はありません。原則として、「与えられたいのちを破壊する権利」もなければ、「与えられるために他者のいのちを犠牲にする権利」もないでしょう。

     不妊に対しての医療的克服自体は正当なものだと私は考えます。しかし、「権利としての出産」という価値観に立ち、視野狭窄状態となり、その権利ばかりを実現しようとするなら、それは神の主権の侵害のレベルに至ることもあるのではないでしょうか?
     
     思い通り願いどおりにならない時、私たちは二つの代表的な反応をするでしょう。願いどおりにしようと、さらにできる限りの手段を講じること。もう一つは、道が閉ざされた意味を考え、神の深い摂理や導きの中を歩むことです。そこから予想もしなかったような豊かな可能性や選択肢が広がることも珍しくはないでしょう。「何が何でも願いどおり」という発想は、多様な可能性や選択肢、さらには人生の豊かさや深みまでも制限しかねないもの。

     聖書が示す「義務」でも「権利」でもなく、「賜物」としての出産。 「産む産まない」を100%コントロールできない現実。それは、むしろ脱宗教的な社会に生きる私たちが、いのちの与え主である創造主の存在を思う「最後の砦」なのかもしれません。
    | | 妊娠・出産・不妊治療 | 10:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - |









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