2009.06.26 Friday
脱!「みこころの人」伝説(2)
昨日の記事に対する細木氏のコメントはすごいものがあります。脱!「御心の人」伝説というより「御心の人」伝説崩壊!という感じです。強烈なインパクトですね。以下が、そのコメント。
主にあって、共に成長する準備ができている異性は、誰であっても「みこころの人」のカテゴリーに入るということをはっきりさせることが大事だと思います。
あるクリスチャンはこれで、御心の人伝説崩壊が開始したことでしょう。心から申し上げたいです。「おめでとうございます。結婚にまた一歩近づいたようですね」と。また、ある方は聖書的な根拠をもって、疑問視、反論をしたくなっているでしょう。また、聖書的根拠とは別に反発や不快感を覚えた方もおられるのでは?
私自身も結婚前、いいえ、結婚5年後までは、とても細木氏の主張は受け入れられなかったでしょう。少なくとも実感を伴って同意はできなかったと思います。私自身もやはり「御心の人」伝説の信奉者だったのです。
自分自身を振り返っても思います。「御心の人」という観念は独り歩きして、その根拠である聖書から離脱しやすいのです。そして、信仰者の妄想の世界で自己肥大や増殖を開始してしまい、ありもしない理想像を形成したりするもの。
その一方で「御心の人」という発想や教理を聖書的に個人的に検証することもあまりないようです。ルツと ボアズ、イサクとリベカなどの摂理的な出会いを、自動的、機械的に自らに当てはめて、あたかも「神様が定めた特定の誰かがいる」という教理を確立してしまうようです。聖書が示す範囲での「御心の人」という教理は見失っていたり、不明確なままなのです。
かくして結婚を願うクリスチャンたちの一部は「御心の人劇場」を展開。神様が脚本家で、自分が素敵な異性と出会うドラマを想像するのです。伴侶について自分の願いやこだわりを持って祈るのが悪いわけではありません。むしろ、具体的な条件を挙げて祈ることは好ましいことだとさえ思います。
しかし、自分が脚本家になってはなりません。脚本家から、「役者であるおまえが勝手に脚本書くなよ」とお叱りを受けてしまいます。祈りとは一方的に神様に注文を突きつけることではありません。祈りは人格的対話、神様からの軌道修正や撤退命令に耳を閉ざしてはなりません。こちらの願いを素直に伝えることと、御心にかなった祈りをすることは、本来、相反することではないはず。
考えて見ましょう。そもそも「脚本:神様」「主人公A:自分」「相手役B:素敵な誰か」なのでしょうか?聖書はそうした固定的、運命論的、決定論的な「恋愛・結婚劇場」を私たちに示しているでしょうか?
ともすれば、私たちは自分が脚本:神様であるドラマの主人公になったかのように恋愛しやすいのも。何かロールプレイングゲームをしているような感覚のクリスチャンもいるのでは?
私たちの人生はバーチャルでもフィクションでもない、現実です。神様は私たちを導くし、一人一人にご計画をお持ちの摂理の神。ただ、それは、固定的な脚本を既に書き終えておられることを意味するわけではないでしょう。また、私たちも神様の書き終えた脚本を演ずるだけの役者ではないはず。また、神様がプログラムしたロールプレイングゲームの中をフローチャートのように生きるゲーマーではないはず。
聖書が描く神様の導きや摂理(特に対個人のもの)はもっと、ダイナミックな神と人間との人格関係の中にあるように私は考えています。(もっともこのことは大変深遠な神学的問題でしょうが)。お互いが思い描く、結婚への導きや出会いが、聖書から来ているのか?それともそこから派生しつつも人々の心の中で、世のドラマなどと混合され伝説化され、言い伝えとなった物語、ファンタジーなのか?そのことを今回の記事から自己検証していただければと願います。
主にあって、共に成長する準備ができている異性は、誰であっても「みこころの人」のカテゴリーに入るということをはっきりさせることが大事だと思います。
あるクリスチャンはこれで、御心の人伝説崩壊が開始したことでしょう。心から申し上げたいです。「おめでとうございます。結婚にまた一歩近づいたようですね」と。また、ある方は聖書的な根拠をもって、疑問視、反論をしたくなっているでしょう。また、聖書的根拠とは別に反発や不快感を覚えた方もおられるのでは?
私自身も結婚前、いいえ、結婚5年後までは、とても細木氏の主張は受け入れられなかったでしょう。少なくとも実感を伴って同意はできなかったと思います。私自身もやはり「御心の人」伝説の信奉者だったのです。
自分自身を振り返っても思います。「御心の人」という観念は独り歩きして、その根拠である聖書から離脱しやすいのです。そして、信仰者の妄想の世界で自己肥大や増殖を開始してしまい、ありもしない理想像を形成したりするもの。
その一方で「御心の人」という発想や教理を聖書的に個人的に検証することもあまりないようです。ルツと ボアズ、イサクとリベカなどの摂理的な出会いを、自動的、機械的に自らに当てはめて、あたかも「神様が定めた特定の誰かがいる」という教理を確立してしまうようです。聖書が示す範囲での「御心の人」という教理は見失っていたり、不明確なままなのです。
かくして結婚を願うクリスチャンたちの一部は「御心の人劇場」を展開。神様が脚本家で、自分が素敵な異性と出会うドラマを想像するのです。伴侶について自分の願いやこだわりを持って祈るのが悪いわけではありません。むしろ、具体的な条件を挙げて祈ることは好ましいことだとさえ思います。
しかし、自分が脚本家になってはなりません。脚本家から、「役者であるおまえが勝手に脚本書くなよ」とお叱りを受けてしまいます。祈りとは一方的に神様に注文を突きつけることではありません。祈りは人格的対話、神様からの軌道修正や撤退命令に耳を閉ざしてはなりません。こちらの願いを素直に伝えることと、御心にかなった祈りをすることは、本来、相反することではないはず。
考えて見ましょう。そもそも「脚本:神様」「主人公A:自分」「相手役B:素敵な誰か」なのでしょうか?聖書はそうした固定的、運命論的、決定論的な「恋愛・結婚劇場」を私たちに示しているでしょうか?
ともすれば、私たちは自分が脚本:神様であるドラマの主人公になったかのように恋愛しやすいのも。何かロールプレイングゲームをしているような感覚のクリスチャンもいるのでは?
私たちの人生はバーチャルでもフィクションでもない、現実です。神様は私たちを導くし、一人一人にご計画をお持ちの摂理の神。ただ、それは、固定的な脚本を既に書き終えておられることを意味するわけではないでしょう。また、私たちも神様の書き終えた脚本を演ずるだけの役者ではないはず。また、神様がプログラムしたロールプレイングゲームの中をフローチャートのように生きるゲーマーではないはず。
聖書が描く神様の導きや摂理(特に対個人のもの)はもっと、ダイナミックな神と人間との人格関係の中にあるように私は考えています。(もっともこのことは大変深遠な神学的問題でしょうが)。お互いが思い描く、結婚への導きや出会いが、聖書から来ているのか?それともそこから派生しつつも人々の心の中で、世のドラマなどと混合され伝説化され、言い伝えとなった物語、ファンタジーなのか?そのことを今回の記事から自己検証していただければと願います。