2009.06.25 Thursday
脱!「みこころの人」伝説(1)
三回ほど、困った?伝説に縛られているクリスチャン女性の解放を願ってのシリーズ。何も、「みこころの人」という考え自体が間違っていて、捨て去るべきと言っているのではありません。むしろ、捨て去ってはならない、死守すべき理念ですらあるでしょう。
しかし、この「みこころの人」という理念が、聖書を離れて、多様な言い伝えとなり、それが時には聖書以上に信奉されているケースもなきにしもあらず。
そこで日本のキリスト教会に伝わる、いいえ、クリスチャン個人が勝手に思い込んでいる様々な「みこころの人」伝説による束縛から解放を願うわけです。思うにそうした伝説が結婚を願うクリスチャン女性たちを現実から目を背けさせ、聖書が示すものとは異なる信仰姿勢に向けさせているように感じているからです。
今回は一つの事例を取り上げてみましょう。以前、ある団体の学生・青年集会で奉仕。スタッフ紹介がされたのですが、リーダーである女子大生(本ブログの愛読者)の理想の男性は、聖書の登場人物で言えば、「ボアズ」。この女子大生、時折「私のボアズはどこ?」と口癖のように発言するとのこと。
さすがだと思います。昨日の記事の通り、聖書には信仰面で優れており、なおかつ女性に対して誠実な男性はめったにいないと思われる中、例外的とも言える「ボアズ」を理想像としたことは実に賞賛すべきこと。そして、ボアズのような男性を願い、そうした男性との結婚を願うことも、まさに模範的と言えるでしょう。
講演後の質疑応答の時間には、彼女から質問。「ボアズが理想なのですが、どこにいるのでしょう?いつか会えるのでしょうか?」というような質問だったように思います。
質問は正確に記憶していないのですが、返答の方はかなり正確に覚えています。「あなたのボアズは多分、世界の中のどこにもいません。いたとしてもボアズの卵か将来のボアズでしょう。あなたが結婚後に夫をボアズに育てるのです。」
集会後、「よく言って下さいました」と、集会に集っていた牧師の一人からお礼をいただきました。将来あるクリスチャン女性の美しい夢をぶち壊すような残酷なことは一教会の牧師にはできないもの。そういうむごい仕打ちは、外部の者がすること、それで教会の徳を高める?のも超教派の意義の一つ。(ほんとかよ?)
もし、今付け加えるなら、「ボアズ候補やボアズの卵を識別して、結婚後はボアズを育てられる女性に、まず、あなたが自身が成長してください。ボアズを願うなら、まず、あなたがボアズの心をとらえるようなルツ的女性になることです。」とウザくて、説教がましい言葉を追加するでしょうか。
「神様が導くたった一人の男性がいて、神様の導きによって、その人と出会いいつか結ばれる」それは伝説です!神話です!幻想です!「ありえねー」お話しです。私は、それは聖書が支持する考え方とは思いません。
確かに結婚相手との出会いには神様の導きもあれば、主の摂理の中で起こることでしょう。ルツとボアズの出会いもそうだったのでしょう。しかし、それは「神様が定めた一人の男性がいる」という教理を成立させるわけではありません。
「神様は自分のために、たった一人の男性を備えておられる」
「お互いは(神の摂理によって)出会って結ばれるために生まれてきた」
「二人は神様の赤い糸で結ばれている」
そうした言い伝え、異教的伝説、世のロマンス、それに基づく妄想、それを支持する先輩の証し、あるいはその混合物が、一番の基本である聖書が示す教理より先行していないでしょうか?
しかし、この「みこころの人」という理念が、聖書を離れて、多様な言い伝えとなり、それが時には聖書以上に信奉されているケースもなきにしもあらず。
そこで日本のキリスト教会に伝わる、いいえ、クリスチャン個人が勝手に思い込んでいる様々な「みこころの人」伝説による束縛から解放を願うわけです。思うにそうした伝説が結婚を願うクリスチャン女性たちを現実から目を背けさせ、聖書が示すものとは異なる信仰姿勢に向けさせているように感じているからです。
今回は一つの事例を取り上げてみましょう。以前、ある団体の学生・青年集会で奉仕。スタッフ紹介がされたのですが、リーダーである女子大生(本ブログの愛読者)の理想の男性は、聖書の登場人物で言えば、「ボアズ」。この女子大生、時折「私のボアズはどこ?」と口癖のように発言するとのこと。
さすがだと思います。昨日の記事の通り、聖書には信仰面で優れており、なおかつ女性に対して誠実な男性はめったにいないと思われる中、例外的とも言える「ボアズ」を理想像としたことは実に賞賛すべきこと。そして、ボアズのような男性を願い、そうした男性との結婚を願うことも、まさに模範的と言えるでしょう。
講演後の質疑応答の時間には、彼女から質問。「ボアズが理想なのですが、どこにいるのでしょう?いつか会えるのでしょうか?」というような質問だったように思います。
質問は正確に記憶していないのですが、返答の方はかなり正確に覚えています。「あなたのボアズは多分、世界の中のどこにもいません。いたとしてもボアズの卵か将来のボアズでしょう。あなたが結婚後に夫をボアズに育てるのです。」
集会後、「よく言って下さいました」と、集会に集っていた牧師の一人からお礼をいただきました。将来あるクリスチャン女性の美しい夢をぶち壊すような残酷なことは一教会の牧師にはできないもの。そういうむごい仕打ちは、外部の者がすること、それで教会の徳を高める?のも超教派の意義の一つ。(ほんとかよ?)
もし、今付け加えるなら、「ボアズ候補やボアズの卵を識別して、結婚後はボアズを育てられる女性に、まず、あなたが自身が成長してください。ボアズを願うなら、まず、あなたがボアズの心をとらえるようなルツ的女性になることです。」とウザくて、説教がましい言葉を追加するでしょうか。
「神様が導くたった一人の男性がいて、神様の導きによって、その人と出会いいつか結ばれる」それは伝説です!神話です!幻想です!「ありえねー」お話しです。私は、それは聖書が支持する考え方とは思いません。
確かに結婚相手との出会いには神様の導きもあれば、主の摂理の中で起こることでしょう。ルツとボアズの出会いもそうだったのでしょう。しかし、それは「神様が定めた一人の男性がいる」という教理を成立させるわけではありません。
「神様は自分のために、たった一人の男性を備えておられる」
「お互いは(神の摂理によって)出会って結ばれるために生まれてきた」
「二人は神様の赤い糸で結ばれている」
そうした言い伝え、異教的伝説、世のロマンス、それに基づく妄想、それを支持する先輩の証し、あるいはその混合物が、一番の基本である聖書が示す教理より先行していないでしょうか?