2009.04.15 Wednesday
「委ねる=努力をしない」?受験時と結婚時
一昨日のJ+Passionの打ち合わせでは、クリスチャン女性たちの結婚について「委ねるとは自分で努力しないことだと思ってますからねー」との発言が。これは「結婚を願うなら具体的現実的な努力すべき」との流れでの発言。それを受けての私の発言内容は以下の通り。
委ねて祈っていると、素敵な男性との出会が与えられて結婚できると信じて、自分から具体的な努力をしない女性が多いですよね。でも、一方で受験の時はクリスチャンはなぜあんなに努力をするのでしょうね?受験の時は、委ねないで自力で努力をしているのでしょうか?あるいは為すべき努力をして、結果は委ねるのが信仰的と考えているのでしょうか?もし、そうなら、どうして結婚については為すべき努力をして、結果を委ねないのでしょう?
以上が発言の概要です。時に指導者も不思議な指導をしている場合があるのでは?と思います。受験の時は、「一生懸命勉強して、結果は委ねて」と指導する方が、結婚に際しては「一生懸命、努力をしよう」とはすすめないことも。
受験時には祈ってばかりで勉強しないなら、怠慢とされます。「もっと勉強せーよ。神様はあなたが勉強してその結果、合格する事を願っているのです。勉強せず合格することは御心ではありません」と説教されたりです。しかし、結婚の場合は、お見合い、紹介のお願い、出会いの場への参加などの努力をせずに、ひたすら祈ることが容認されてしまいます。あまり怠惰との評価を受けませんね。「神様はあなたが具体的に努力して、試行錯誤の中で、成長し、整えられ、結婚する事を願っておられるのでは?」とのお説教はあまりされないようです。
もちろん、進路と結婚には異なる要素があります。受験は能力が問われる合否の世界、結婚はダイナミックな出会いの世界です。でも、「具体的な努力と委ねること」の関係は同様ではないかと思うのです。
受験では具体的努力が当然のこととされ、結婚ではそうではないのはなんとも不思議に思えてしまう私です。少なくとも受験時には適用されない「委ねる=努力しない」が結婚時には適用されてしまうのはどうしたことでしょう?
本ブログでは「結婚したけりゃ努力せーよ」シリーズなど、クリスチャン女性の地雷を踏みかねないような記事を通じて、結婚に際しての祈りを含めた具体的努力の必要性を時に訴えてきました。
受験時にはありえない「委ねる=努力しない」、一方、結婚時には結構お見かけする「委ねる=努力しない」。なぜ、そうなるのか?間違っているのは信仰理解か?結婚観か?それとも教会や指導者の指導なのか?少し考えてみると見えてくるものもあるのでは?
委ねて祈っていると、素敵な男性との出会が与えられて結婚できると信じて、自分から具体的な努力をしない女性が多いですよね。でも、一方で受験の時はクリスチャンはなぜあんなに努力をするのでしょうね?受験の時は、委ねないで自力で努力をしているのでしょうか?あるいは為すべき努力をして、結果は委ねるのが信仰的と考えているのでしょうか?もし、そうなら、どうして結婚については為すべき努力をして、結果を委ねないのでしょう?
以上が発言の概要です。時に指導者も不思議な指導をしている場合があるのでは?と思います。受験の時は、「一生懸命勉強して、結果は委ねて」と指導する方が、結婚に際しては「一生懸命、努力をしよう」とはすすめないことも。
受験時には祈ってばかりで勉強しないなら、怠慢とされます。「もっと勉強せーよ。神様はあなたが勉強してその結果、合格する事を願っているのです。勉強せず合格することは御心ではありません」と説教されたりです。しかし、結婚の場合は、お見合い、紹介のお願い、出会いの場への参加などの努力をせずに、ひたすら祈ることが容認されてしまいます。あまり怠惰との評価を受けませんね。「神様はあなたが具体的に努力して、試行錯誤の中で、成長し、整えられ、結婚する事を願っておられるのでは?」とのお説教はあまりされないようです。
もちろん、進路と結婚には異なる要素があります。受験は能力が問われる合否の世界、結婚はダイナミックな出会いの世界です。でも、「具体的な努力と委ねること」の関係は同様ではないかと思うのです。
受験では具体的努力が当然のこととされ、結婚ではそうではないのはなんとも不思議に思えてしまう私です。少なくとも受験時には適用されない「委ねる=努力しない」が結婚時には適用されてしまうのはどうしたことでしょう?
本ブログでは「結婚したけりゃ努力せーよ」シリーズなど、クリスチャン女性の地雷を踏みかねないような記事を通じて、結婚に際しての祈りを含めた具体的努力の必要性を時に訴えてきました。
受験時にはありえない「委ねる=努力しない」、一方、結婚時には結構お見かけする「委ねる=努力しない」。なぜ、そうなるのか?間違っているのは信仰理解か?結婚観か?それとも教会や指導者の指導なのか?少し考えてみると見えてくるものもあるのでは?