命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「聖☆おにいさん」クリスチャン愛読者・容認派の言い分
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     この件では異例のコメントの多さに驚いています。私としては一方的に「焚書坑儒」「禁書リスト」的対処をしてはならないと思っていますので、愛読者側の見解や許容派側の意見も検証したいと願います。対話の中で見解の違いはあっても、一定、学び合えるのはないかと思います。

     同意できない箇所については、私なりに反論もさせていただきます。また、本ブログの愛読者には、教職者やマスメディア関係者も数百人はおられる様子。宣教学的な視点からの薄学さや不見識さは大目に見てやってください。

     まずは愛読者側の意見を転載(一部省略)。

     私はクリスチャンの愛読者の一人ですが、立川でバカンス以前に「二人」が天界でという設定がそもそもありえない話ですし、設定のつつめが甘いのも恐らく多くのクリスチャン読者は承知しているでしょうし、そして、この漫画に出てくる「イエス」をまさか聖書にでてくるイエス様と同じ人物とは思っていないでしょう。

     だから単純に別人のフィクションとして楽しんでいますよ。だってイエス様じゃないんですから。

     日本のクリスマスが大衆化しすぎて、漫画に出てくる「イエス」がイエス様の誕生をお祝いする日の事だと気がつかないのには爆笑でしたよ。悲しい日本のクリスマス事情をよくわかってらっしゃると。

     しかし、この漫画を読んで、元ネタの聖書を読みはじめる人々が増えているということは、驚くばかりの恵みですね。ノンクリスチャンの方にこの漫画をもとに聖書の内容を聞かれてもすぐに答えられるよう(違っている意味や意図)みなさんにも一度読んでおく事をお勧めします。」

     次に容認的な立場からの見解をご紹介
     批判的な意見が多いようですが、これが一般的なクリスチャンの意見でしょうね。ただ、注目すべきは、この漫画がたしかに伝道に用いられているという事です。
     このブログよりはるかに多い人数が参加しているネットの掲示板上の事ですが、引用されているネタ(聖書)を読みはじめるノンクリスチャン、それをサポート(箇所を教えたり、間違いを教える)するクリスチャン、そしてリアルに会って教えるという流れになっているのです。

     ただ冒涜だと否定したり、悲しんでいるのでは、そこから何もはじまりません。まわりに愛読者のノンクリスチャンがいるのなら、そこで聖書や教会に対して心を閉ざしてしまうでしょうね。

     ブラックゴスペルを歌うノンクリスチャンを「意味もわからずみだりに唱えている」と批判したり、カルチャー系のゴスペルクワイアを批判するクリスチャン達の図と重なるものを感じます。

     作者の意図は知りませんが、聖書を学ぶきっかけになってる事を神様が喜ばないはずがありません。
     クリスチャンのみなさん、どうかただ批判するのではなく、よくこの漫画を読んで、ノンクリスチャンの愛読者と内容についてコミュニケーションをとってみてはいかがですか?

     相手が嫌な思い(否定される)をせずに、真の意味を伝える訓練になるかもしれませんよ。

     以上、二つの意見を転載しました。

     そこで、私なりの検証や一部反論を以下に記します。

     まずは、「フィクションなのだから、本物のイエス様とは別人として楽しめる」という読み方の検証から。これはフィクションの読み方として間違っていると思います。つまり、物語はそのジャンルや形式にふさわしい読み方をしないと間違いです。どう読むかは読者の自由ではありません。

     それはちょうど聖書の「ヨナ書」をフィクションやファンタジーとして読むことや黙示文学形式であるヨハネの黙示録を文字通りに現実世界で起こる現象と解釈するのが間違いであるのと同様です。

     もし、「フィクションだから別人」という見解が正しいのなら、実在の人物についてフィクションとして事実と異なることを書いたとしても、名誉毀損や侮辱罪などの犯罪が成立しなくなります。むしろ、フィクションは当人を一定レベルで正しく反映しなければならないのでは?

     もし、「イエスキリストの生まれ変わりと自称する青年男性」との設定なら、別人として受け止めることは正解です。しかし、「イエス自身」というい設定なのですから、「別人として楽しむ」という読み方が間違っていると思うのです。あくまで当人として受け取り、その上でフィクションが適切かどうかの評価するのが正解かと考えます。

     つまり、失礼ながら、まずは、信仰とは関係なく、そもそも読み方が違うのでは?さらに申しますなら、どう読むかは読者の自由ではなく、正しい読み方をしなければ、正しい評価や意見は出てきません。


     もう一つ検討すべきは「伝道に用いられているから」という考え方です。これは注意をしなくてはなりません。少なくとも「伝道に用いられるのなら何でもいい」というのは間違いでしょう。やはり許容範囲はあると思うのです。

     結果として、この漫画を通じて、聖書を読み方々が起こっているのは感謝なこと。しかし、この「原因→結果」の構図を「結果→原因」と逆転をしてはならいでしょう。「結果が原因を正当化する」「効果は手段を正当化する」という発想は明らかな間違いです。

     たとえば、放蕩息子が放蕩したから父の愛と恵みがわかったのですが、だからといって、「放蕩はよいこと」「クリスチャンホームの子弟は放蕩しましょう」にはならないでしょう。

     反キリストを明確に意図したデスメタルやオカルト映画などをきっかけに求道し救われるクリスチャンたちもいるのは事実です。しかし、そこで歌われている歌詞の内容や映画が表現する内容をクリスチャンたちが楽しめたり、肯定的に評価できるとは思えません。

     つまり、それがもたらす伝道効果とそれ自体の表現内容は別の評価をすべきではないかと思うのです。特に伝道効果があるからといって、安易にそれを許容する、あるいは肯定的に評価するというのは、危険でしょう。

     ブラックゴスペルへ批判との関連も指摘されていますが、私自身ブラックゴスペルに関わるものとしては、異論を唱えます。ブラックゴスペルはそれ自体が聖書的な文化です。ノンクリスチャンが歌うことや伝道手段化されることには、様々な見解はあるでしょう。しかし、その文化や表現されている内容は聖書的なはず。「聖☆おにいさん」は伝道効果はあっても、そこで表現されている内容自体が、問題視されてしまうと思うのです。その意味でブラックゴスペルと今回の問題は大きく本質が異なるのでは?

     伝道効果とそれ自体の評価を混同するなら、やはり正しい評価を失い、正しい対処もできないと思うのです。行き過ぎれば「何でもあり」となり、結果として神様を悲しませるものを読んだり聴いたりすることにもなりかねません。

     以上が私なりの検証と反論です。

     しかし、今回教えられたことがあります。それは現実としてこの漫画を読み、聖書やキリストに関心を持ち始める人たちがいるなら、それを正しい方向に導くことです。

     確かに批評家に留まっているべきではありません。積極的に伝道手段とすることはどうかと思いますが、身近にノンクリスチャンの愛読者がいるなら、そこから始まる宣教もあるでしょう。本ブログのご愛読は感謝ですが、ここで論じているだけに留まらず、出て行ってネットの世界でノンクリスチャンの方々に発信することも大切でしょう。「相手が嫌な思い(否定される)をせずに、真の意味を伝える訓練になるかもしれませんよ。」とは多くのクリスチャンが耳を傾ける価値のある言葉かと思っています。

     私としては二つの提案をしたいと思います。
     
     この件について論ずるなら、あるいは関心や重荷があるなら、やはり、「聖☆おにいさん」を読んで下さい。(読まずに評価するのは無責任だと自分自身の体験からも思います。また、売り上げに貢献したくない方は借りてみては?)

     そして、この作品の評価とは別に、現実にノンクリスチャンの愛読者がいるなら、正しく導くという宣教も一つの選択肢として検討してみては?(もちろん、これがすべてではなく、複数の正しい選択肢があるとは思っています。)
    | | キリスト教界(論説シリーズ) | 11:35 | comments(5) | trackbacks(0) | - |
    >物語はそのジャンルや形式にふさわしい読み方をしないと間違いです。

    「聖☆おにいさん」はフィクションである以前にギャグ漫画です。
    ギャグ漫画として楽しめば良いのではありませんか。

    私は新聞の政治漫画で極端に顔や行動をデフォルメされている自分をみた政治家がいちいち小心に嘆いているとは思いませんし、イエス様が彼等以上に狭量だとも思いません。
    ちなみに先生は新聞の1コマ漫画に描かれた政治家達の顔をみて「こんなに極端にデフォルメされて気の毒だ」と毎日胸を痛めていましたか。

    自分が行為やシンパシーを感じる相手への批判だけには敏感であって、許せないと言うのであればイスラム系テロリストの考え方に通じるものがあるのではありませんか。
    イエスは信仰の対象だからと言うのであれば、他者の信仰の対象である麻原彰晃(その悪行は別として)の容貌をかなり醜くデフォルメされた似顔絵が新聞を飾っていた時にも同じ主張をすべきでした。

    皇室はともかくイギリスにもかって王室をブラックユーモアで描いた人気の人形劇がありました。
    日本でも「海外の人気番組」を紹介する番組で一部放映された事があります。
    何であれ批判や揶揄、ユーモアの対象とならない「権威」は健全ではありません。
    キリスト教も「魔女狩り」の時代に戻ってはいけないと思います。

    下記は私の大好きなHPです。
    http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/joke/index.htm
    | 桂 | 2008/12/27 1:05 PM |
    ご指摘の意図はよく分かります。しかし、一連の記事の意図が伝わっていないように思います。「神性」と「聖性」をギャグにすることを問題視しているのです。政治家の権威とは異なります。

     記事に明記したとおり、仏教信者に対しても失礼だろうという視点で書いています。他宗教ならよいとは思っていません。
     
     批判やユーモアの一切を否定しているのではありません。その正当性を問題としているのです。特に教会やクリスチャンではなく、キリストやブッダ自身に対する批判については、一定の根拠が必要であり、安易な動機は正しくないと思います。また、魔女狩りにならないために対話的にしています。
     
     今後はこちら側の意図も一定ご理解の上、コメントをいただければと願います。同時にこれ以上の議論は控えさせていただきます。
    | ヤンキー牧師 | 2008/12/27 2:20 PM |
    この漫画に対しての一般的な考えは水谷師のものを支持する立場にありますが、「読み方」の反論は少し無理があると思います。
    クリスチャンは、聖書をノンフィクションとして、つまり神の言葉として、読むのが正しい読み方ですが、漫画は…?
    漫画は、作り物としてただ楽しむために読むわけです。
    おかしな内容を真理として読むなら問題だという議論であり、神の聖性が…という議論と別次元になるかと思います。
    聖書は一定の読み方があるといえますが、漫画や小説など創作物なら読み方自由なものもあると思います。
    ちなみに水谷師への読書からの反論は、ノンクリが読む場合とクリスチャンが読む場合との話がごっちゃになっていると思います。
    ノンクリが読むは全くの勝手ですが、クリスチャンが読む場合一定の慎重さが必要だという点を勘違いしているのかもしれませんね。
    | とある学生 | 2008/12/27 2:39 PM |
    よい交通整理をしていただけてうれしいです。クリスチャンかどうかで、どう読むべきかは異なりますね。
     何より、私がフィクションの正しい読み方とギャグ漫画の自由な読み方の違いをを十分整理できていないのでしょう。荒唐無稽な漫画なら、自由に読めばいいのでしょうが、キリストとブッダ当人という設定ですから真面目なクリスチャンや仏教徒の立場からは、現実の姿と無関係に読む自由は不当かと思うのです。
     そのこととは別に前の記事にあるとおり、「笑いの材料にしてはならないものがある」という根拠を挙げたいと思います。
    | ヤンキー牧師 | 2008/12/27 3:23 PM |
    こういう考え方の人もいるのか…
    やっぱり翻訳、アニメ化は止めた方が良いみたいだなぁ
    嫌な思いをしてるってのを愛読者が知れば嫌な思いをするし、そんな事態になってるって作者が知ったらまた嫌な思いをするだろうし、嫌な連鎖を生み兼ねない
    こればっかりは「なら読まなきゃ良い」じゃ通用しないだろうしなぁ…

    やっぱ宗教だけは漫画でもタブーにしといた方が安全か…残念
    | 774cc | 2011/09/13 12:39 AM |









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