2008.12.27 Saturday
「聖☆おにいさん」クリスチャン愛読者・容認派の言い分
この件では異例のコメントの多さに驚いています。私としては一方的に「焚書坑儒」「禁書リスト」的対処をしてはならないと思っていますので、愛読者側の見解や許容派側の意見も検証したいと願います。対話の中で見解の違いはあっても、一定、学び合えるのはないかと思います。
同意できない箇所については、私なりに反論もさせていただきます。また、本ブログの愛読者には、教職者やマスメディア関係者も数百人はおられる様子。宣教学的な視点からの薄学さや不見識さは大目に見てやってください。
まずは愛読者側の意見を転載(一部省略)。
私はクリスチャンの愛読者の一人ですが、立川でバカンス以前に「二人」が天界でという設定がそもそもありえない話ですし、設定のつつめが甘いのも恐らく多くのクリスチャン読者は承知しているでしょうし、そして、この漫画に出てくる「イエス」をまさか聖書にでてくるイエス様と同じ人物とは思っていないでしょう。
だから単純に別人のフィクションとして楽しんでいますよ。だってイエス様じゃないんですから。
日本のクリスマスが大衆化しすぎて、漫画に出てくる「イエス」がイエス様の誕生をお祝いする日の事だと気がつかないのには爆笑でしたよ。悲しい日本のクリスマス事情をよくわかってらっしゃると。
しかし、この漫画を読んで、元ネタの聖書を読みはじめる人々が増えているということは、驚くばかりの恵みですね。ノンクリスチャンの方にこの漫画をもとに聖書の内容を聞かれてもすぐに答えられるよう(違っている意味や意図)みなさんにも一度読んでおく事をお勧めします。」
次に容認的な立場からの見解をご紹介
批判的な意見が多いようですが、これが一般的なクリスチャンの意見でしょうね。ただ、注目すべきは、この漫画がたしかに伝道に用いられているという事です。
このブログよりはるかに多い人数が参加しているネットの掲示板上の事ですが、引用されているネタ(聖書)を読みはじめるノンクリスチャン、それをサポート(箇所を教えたり、間違いを教える)するクリスチャン、そしてリアルに会って教えるという流れになっているのです。
ただ冒涜だと否定したり、悲しんでいるのでは、そこから何もはじまりません。まわりに愛読者のノンクリスチャンがいるのなら、そこで聖書や教会に対して心を閉ざしてしまうでしょうね。
ブラックゴスペルを歌うノンクリスチャンを「意味もわからずみだりに唱えている」と批判したり、カルチャー系のゴスペルクワイアを批判するクリスチャン達の図と重なるものを感じます。
作者の意図は知りませんが、聖書を学ぶきっかけになってる事を神様が喜ばないはずがありません。
クリスチャンのみなさん、どうかただ批判するのではなく、よくこの漫画を読んで、ノンクリスチャンの愛読者と内容についてコミュニケーションをとってみてはいかがですか?
相手が嫌な思い(否定される)をせずに、真の意味を伝える訓練になるかもしれませんよ。
以上、二つの意見を転載しました。
そこで、私なりの検証や一部反論を以下に記します。
まずは、「フィクションなのだから、本物のイエス様とは別人として楽しめる」という読み方の検証から。これはフィクションの読み方として間違っていると思います。つまり、物語はそのジャンルや形式にふさわしい読み方をしないと間違いです。どう読むかは読者の自由ではありません。
それはちょうど聖書の「ヨナ書」をフィクションやファンタジーとして読むことや黙示文学形式であるヨハネの黙示録を文字通りに現実世界で起こる現象と解釈するのが間違いであるのと同様です。
もし、「フィクションだから別人」という見解が正しいのなら、実在の人物についてフィクションとして事実と異なることを書いたとしても、名誉毀損や侮辱罪などの犯罪が成立しなくなります。むしろ、フィクションは当人を一定レベルで正しく反映しなければならないのでは?
もし、「イエスキリストの生まれ変わりと自称する青年男性」との設定なら、別人として受け止めることは正解です。しかし、「イエス自身」というい設定なのですから、「別人として楽しむ」という読み方が間違っていると思うのです。あくまで当人として受け取り、その上でフィクションが適切かどうかの評価するのが正解かと考えます。
つまり、失礼ながら、まずは、信仰とは関係なく、そもそも読み方が違うのでは?さらに申しますなら、どう読むかは読者の自由ではなく、正しい読み方をしなければ、正しい評価や意見は出てきません。
もう一つ検討すべきは「伝道に用いられているから」という考え方です。これは注意をしなくてはなりません。少なくとも「伝道に用いられるのなら何でもいい」というのは間違いでしょう。やはり許容範囲はあると思うのです。
結果として、この漫画を通じて、聖書を読み方々が起こっているのは感謝なこと。しかし、この「原因→結果」の構図を「結果→原因」と逆転をしてはならいでしょう。「結果が原因を正当化する」「効果は手段を正当化する」という発想は明らかな間違いです。
たとえば、放蕩息子が放蕩したから父の愛と恵みがわかったのですが、だからといって、「放蕩はよいこと」「クリスチャンホームの子弟は放蕩しましょう」にはならないでしょう。
反キリストを明確に意図したデスメタルやオカルト映画などをきっかけに求道し救われるクリスチャンたちもいるのは事実です。しかし、そこで歌われている歌詞の内容や映画が表現する内容をクリスチャンたちが楽しめたり、肯定的に評価できるとは思えません。
つまり、それがもたらす伝道効果とそれ自体の表現内容は別の評価をすべきではないかと思うのです。特に伝道効果があるからといって、安易にそれを許容する、あるいは肯定的に評価するというのは、危険でしょう。
ブラックゴスペルへ批判との関連も指摘されていますが、私自身ブラックゴスペルに関わるものとしては、異論を唱えます。ブラックゴスペルはそれ自体が聖書的な文化です。ノンクリスチャンが歌うことや伝道手段化されることには、様々な見解はあるでしょう。しかし、その文化や表現されている内容は聖書的なはず。「聖☆おにいさん」は伝道効果はあっても、そこで表現されている内容自体が、問題視されてしまうと思うのです。その意味でブラックゴスペルと今回の問題は大きく本質が異なるのでは?
伝道効果とそれ自体の評価を混同するなら、やはり正しい評価を失い、正しい対処もできないと思うのです。行き過ぎれば「何でもあり」となり、結果として神様を悲しませるものを読んだり聴いたりすることにもなりかねません。
以上が私なりの検証と反論です。
しかし、今回教えられたことがあります。それは現実としてこの漫画を読み、聖書やキリストに関心を持ち始める人たちがいるなら、それを正しい方向に導くことです。
確かに批評家に留まっているべきではありません。積極的に伝道手段とすることはどうかと思いますが、身近にノンクリスチャンの愛読者がいるなら、そこから始まる宣教もあるでしょう。本ブログのご愛読は感謝ですが、ここで論じているだけに留まらず、出て行ってネットの世界でノンクリスチャンの方々に発信することも大切でしょう。「相手が嫌な思い(否定される)をせずに、真の意味を伝える訓練になるかもしれませんよ。」とは多くのクリスチャンが耳を傾ける価値のある言葉かと思っています。
私としては二つの提案をしたいと思います。
この件について論ずるなら、あるいは関心や重荷があるなら、やはり、「聖☆おにいさん」を読んで下さい。(読まずに評価するのは無責任だと自分自身の体験からも思います。また、売り上げに貢献したくない方は借りてみては?)
そして、この作品の評価とは別に、現実にノンクリスチャンの愛読者がいるなら、正しく導くという宣教も一つの選択肢として検討してみては?(もちろん、これがすべてではなく、複数の正しい選択肢があるとは思っています。)
同意できない箇所については、私なりに反論もさせていただきます。また、本ブログの愛読者には、教職者やマスメディア関係者も数百人はおられる様子。宣教学的な視点からの薄学さや不見識さは大目に見てやってください。
まずは愛読者側の意見を転載(一部省略)。
私はクリスチャンの愛読者の一人ですが、立川でバカンス以前に「二人」が天界でという設定がそもそもありえない話ですし、設定のつつめが甘いのも恐らく多くのクリスチャン読者は承知しているでしょうし、そして、この漫画に出てくる「イエス」をまさか聖書にでてくるイエス様と同じ人物とは思っていないでしょう。
だから単純に別人のフィクションとして楽しんでいますよ。だってイエス様じゃないんですから。
日本のクリスマスが大衆化しすぎて、漫画に出てくる「イエス」がイエス様の誕生をお祝いする日の事だと気がつかないのには爆笑でしたよ。悲しい日本のクリスマス事情をよくわかってらっしゃると。
しかし、この漫画を読んで、元ネタの聖書を読みはじめる人々が増えているということは、驚くばかりの恵みですね。ノンクリスチャンの方にこの漫画をもとに聖書の内容を聞かれてもすぐに答えられるよう(違っている意味や意図)みなさんにも一度読んでおく事をお勧めします。」
次に容認的な立場からの見解をご紹介
批判的な意見が多いようですが、これが一般的なクリスチャンの意見でしょうね。ただ、注目すべきは、この漫画がたしかに伝道に用いられているという事です。
このブログよりはるかに多い人数が参加しているネットの掲示板上の事ですが、引用されているネタ(聖書)を読みはじめるノンクリスチャン、それをサポート(箇所を教えたり、間違いを教える)するクリスチャン、そしてリアルに会って教えるという流れになっているのです。
ただ冒涜だと否定したり、悲しんでいるのでは、そこから何もはじまりません。まわりに愛読者のノンクリスチャンがいるのなら、そこで聖書や教会に対して心を閉ざしてしまうでしょうね。
ブラックゴスペルを歌うノンクリスチャンを「意味もわからずみだりに唱えている」と批判したり、カルチャー系のゴスペルクワイアを批判するクリスチャン達の図と重なるものを感じます。
作者の意図は知りませんが、聖書を学ぶきっかけになってる事を神様が喜ばないはずがありません。
クリスチャンのみなさん、どうかただ批判するのではなく、よくこの漫画を読んで、ノンクリスチャンの愛読者と内容についてコミュニケーションをとってみてはいかがですか?
相手が嫌な思い(否定される)をせずに、真の意味を伝える訓練になるかもしれませんよ。
以上、二つの意見を転載しました。
そこで、私なりの検証や一部反論を以下に記します。
まずは、「フィクションなのだから、本物のイエス様とは別人として楽しめる」という読み方の検証から。これはフィクションの読み方として間違っていると思います。つまり、物語はそのジャンルや形式にふさわしい読み方をしないと間違いです。どう読むかは読者の自由ではありません。
それはちょうど聖書の「ヨナ書」をフィクションやファンタジーとして読むことや黙示文学形式であるヨハネの黙示録を文字通りに現実世界で起こる現象と解釈するのが間違いであるのと同様です。
もし、「フィクションだから別人」という見解が正しいのなら、実在の人物についてフィクションとして事実と異なることを書いたとしても、名誉毀損や侮辱罪などの犯罪が成立しなくなります。むしろ、フィクションは当人を一定レベルで正しく反映しなければならないのでは?
もし、「イエスキリストの生まれ変わりと自称する青年男性」との設定なら、別人として受け止めることは正解です。しかし、「イエス自身」というい設定なのですから、「別人として楽しむ」という読み方が間違っていると思うのです。あくまで当人として受け取り、その上でフィクションが適切かどうかの評価するのが正解かと考えます。
つまり、失礼ながら、まずは、信仰とは関係なく、そもそも読み方が違うのでは?さらに申しますなら、どう読むかは読者の自由ではなく、正しい読み方をしなければ、正しい評価や意見は出てきません。
もう一つ検討すべきは「伝道に用いられているから」という考え方です。これは注意をしなくてはなりません。少なくとも「伝道に用いられるのなら何でもいい」というのは間違いでしょう。やはり許容範囲はあると思うのです。
結果として、この漫画を通じて、聖書を読み方々が起こっているのは感謝なこと。しかし、この「原因→結果」の構図を「結果→原因」と逆転をしてはならいでしょう。「結果が原因を正当化する」「効果は手段を正当化する」という発想は明らかな間違いです。
たとえば、放蕩息子が放蕩したから父の愛と恵みがわかったのですが、だからといって、「放蕩はよいこと」「クリスチャンホームの子弟は放蕩しましょう」にはならないでしょう。
反キリストを明確に意図したデスメタルやオカルト映画などをきっかけに求道し救われるクリスチャンたちもいるのは事実です。しかし、そこで歌われている歌詞の内容や映画が表現する内容をクリスチャンたちが楽しめたり、肯定的に評価できるとは思えません。
つまり、それがもたらす伝道効果とそれ自体の表現内容は別の評価をすべきではないかと思うのです。特に伝道効果があるからといって、安易にそれを許容する、あるいは肯定的に評価するというのは、危険でしょう。
ブラックゴスペルへ批判との関連も指摘されていますが、私自身ブラックゴスペルに関わるものとしては、異論を唱えます。ブラックゴスペルはそれ自体が聖書的な文化です。ノンクリスチャンが歌うことや伝道手段化されることには、様々な見解はあるでしょう。しかし、その文化や表現されている内容は聖書的なはず。「聖☆おにいさん」は伝道効果はあっても、そこで表現されている内容自体が、問題視されてしまうと思うのです。その意味でブラックゴスペルと今回の問題は大きく本質が異なるのでは?
伝道効果とそれ自体の評価を混同するなら、やはり正しい評価を失い、正しい対処もできないと思うのです。行き過ぎれば「何でもあり」となり、結果として神様を悲しませるものを読んだり聴いたりすることにもなりかねません。
以上が私なりの検証と反論です。
しかし、今回教えられたことがあります。それは現実としてこの漫画を読み、聖書やキリストに関心を持ち始める人たちがいるなら、それを正しい方向に導くことです。
確かに批評家に留まっているべきではありません。積極的に伝道手段とすることはどうかと思いますが、身近にノンクリスチャンの愛読者がいるなら、そこから始まる宣教もあるでしょう。本ブログのご愛読は感謝ですが、ここで論じているだけに留まらず、出て行ってネットの世界でノンクリスチャンの方々に発信することも大切でしょう。「相手が嫌な思い(否定される)をせずに、真の意味を伝える訓練になるかもしれませんよ。」とは多くのクリスチャンが耳を傾ける価値のある言葉かと思っています。
私としては二つの提案をしたいと思います。
この件について論ずるなら、あるいは関心や重荷があるなら、やはり、「聖☆おにいさん」を読んで下さい。(読まずに評価するのは無責任だと自分自身の体験からも思います。また、売り上げに貢献したくない方は借りてみては?)
そして、この作品の評価とは別に、現実にノンクリスチャンの愛読者がいるなら、正しく導くという宣教も一つの選択肢として検討してみては?(もちろん、これがすべてではなく、複数の正しい選択肢があるとは思っています。)