命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
J+Passion Tokyo16のご案内
0
     気が付けば、今年のJ+Passion Tokyoは、もう来週の土曜日。実行委員会からの報告によれば、J+Passion Tokyo歴代最多出場講師は、何と、だそうです。密にそうではないかと思っていたのですが、やっぱりそうでした。以前は、毎年のように「恋愛・結婚・性」の分科会講師をさせていただいておりましたから・・・。強い思い入れのある集会だけに、大変、光栄であります。

     というわけで、来週土曜の同集会のご案内です。FBの情報を以下に貼りつけてお知らせします。
    会場地図やアクセスなどはこちらを、ご参照ください。
    https://www.facebook.com/events/1015301555203903/

     
    J+Passionは、教派を超えて教会・クリスチャンが協力して開催する、クリスチャンのための青年大会です

    J+Passion Tokyo 2016
    テーマ:「隠された宝」

    テーマ聖句:「マタイ13:44」
    天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
    ...
    【場所】大野キリスト教会
     小田急線「相模大野駅」から徒歩5分
    (駐車場のご用意はございません。お近くのコインパーキングをご利用ください)

    【講師】チョ・ドリュー(聖会機法
     クリスチャンアカデミーインジャパンCAJ 99年卒業 UCLA 03年卒業 ウェストミンスター神学校 07年卒業 日本宣教師である韓国の両親と共に9歳で日本に渡り横浜・川崎育ち。人生の三分の一を韓国、日本、そしてアメリカで過ごした背景を持つ牧師。4年前に日本に戻り去年から東京・品川で開拓教会を牧会している。
     特徴は、非常に若く見られること。初対面の人に35歳に見られることはない。「人生で燃え尽きる時があるなら、キリストのために燃え尽きたい」と思っている。

    吉永豊(聖会供
     1967(昭和42)年生まれ。中学1年の晩秋受洗。中高生時代はバスケ部に所属するが勉強をおろそかにしたため浪人。大学卒業後、会社員を経て2001年牧師を目指し中央聖書神学校へ入学。2004年卒業。現在、日本オープンバイブル教団町田聖書教会牧師。イエスキリストを信じ生きることの素晴らしさについて分かりやすく熱い思いを込めて語ることを目指している。

    【ワーシップチーム】浜名湖バイブルキャンプ中高生キャンプワーシップチーム
     日本同盟基督教団 浜名湖バイブルキャンプ中高生キャンプの賛美を導くワーシップチーム。心も体もすべてを尽くし爆裂した賛美を捧げようという爆裂賛美、通称「爆賛」をモットーに掲げる

    【分科会】
    1、キリスト教世界観から見るワンピース (東京キリスト教学園 広瀬薫)

    2、献身 (町田聖書教会 吉永豊)

    3、恋愛・結婚・性 (川口福音自由教会 大嶋裕香)

    4、貧困・社会貢献 (国際飢餓対策機構 田村治郎)

    5、教会を建て上げる (ニューコミュニティチャーチ チョ・ドリュー)

    6、ユースを助ける大人 (川崎キリスト教会 古波津真琴)

    【プログラム】
    9:45  受付
    10:00  開場
    10:30  聖会 淵瓮奪察璽検Д船隋Ε疋螢紂 師)
    12:00  お昼休憩
    13:30  分科会
    15:00  休憩
    15:30  聖会◆淵瓮奪察璽検У髪 豊 師)
    17:00  終了予定

    【参加費】
     大人:1000円
     学生(専門学校生、大学生):1000円
     高校生:500円
     中学生以下:無料

    【コアバリュー(J+Passionの理念)】
    ・福音的な聖書信仰に基づく超教派であること。
    ・クリスチャン青年の励ましと育成をすること。
    ・結果的に教会を力づけ時代に影響をもたらしていくこと

    【主催】
    J+Passion Tokyo 2016実行委員会
    | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 20:45 | - | - | - |
    成功するために召されたのではなく、忠実に仕えるために召されたのでは?
    0
       「何のために召されているのか?」そのことは、すべてのクリスチャンである職業人、家庭人、教会員にとって大切なこと。しかし、召しの目的を自覚して始めた使命だったのに、いつの間にか、大切なことを忘れがちなもの。とりわけ牧師など教職者はスタート時の召しが問われ、検証されるのに、その後の召しは、あまり他者から問われることなく、いつの間にかスタート時の原点を忘れてしまいがちかと思うのです。そして、召しの目的がいつのまにか別のものへと逸脱してしまう危険は少なくないように感じています。

       そのことを私自身改めて、問われたのが、こちらのデイリーブレッドの記事です。
      http://japanese-odb.org/2016/04/05/%e9%80%83%e3%81%92%e3%82%8b%e3%81%aa/

       ジョン・パイパーの経験が紹介されます。パイパー師はその後大きな組織をリードして、成功者と見られるようになりました。しかし、そうでなかったら、どうだろう?とこの記事は問いかけます。パイパー師が召しにとどまり続け、その結果として注目される働きや大きな責任を担う有名牧師にならなければ、大きな名声と豊かな功績を後世に残すことはなく、成功者として評価されることなくその生涯を終えたことでしょう。

       しかし、聖書は、エレミヤという人の目から見れば失敗者の記録を残しています。エレミヤがそれでも、召しに歩み得た理由をデイリーブレッドはこう記しています。「成功するために召されたのではなく、忠実に仕えるために召されたと知っていたから」だと。この記事にあるように、エレミヤは民が立ち返ることを願う神の言葉を取りついだだけでなく、愛なる神の姿を体現していたのでしょう。

       この記事には、私自身が問われましたし、さらには私自身がお会いする牧師たちに抱く思いを問われました。牧する教会の規模や知名度や著書などで、態度を変えるようなところがあるのを探られました。いつも、このブログで、教会の規模や知名度や著書など、評価基準ではないと語ってきたのにです。教会を大規模にした牧師ばかりが評価され、用いられ、団体の重責を担うことに強い反発を覚えてきたにもかかわらずです。他方で、地域にあって小規模教会で忠実に仕えておられる牧師夫妻たちに、心から尊敬を抱いてきた自分であったのにです。


      成功するために召されたのではなく、忠実に仕えるために召されたと知っていたから」

       まずは、今更ながらに「何のために召されたのか?」を繰り返し確認しながら、歩みたいと願いました。成功を微塵たりとも追求せず、召しに忠実であることを追求する自分になること、それを徹底すること。また、成功者と目される牧師ではなく、忠実に仕えておらる牧師を尊敬し、それに倣う自分でありたいと願いました。


       僭越ながら、職業生活も、学校生活も、教会生活も、結婚も育児も「召し」であることを忘れがちなのでは?神様から召されて、その場に遣わされていることを覚えましょう。エペソの5章ー6章によれば、夫と妻、親子、上司と部下は、仕え合う関係です。誰かに仕えるために、家庭でも社会でも召されているのです。家庭内で、職場で、地域で、教会で与えられている権威も、神様からの委託であって、それは、人を支配するための権威ではなく、人に仕え、模範を示すための権威なのです。

       その目的は「成功」ではありません。ましてや「自己実現」や「自己満足」などのはずがありません。神様は、結果としての繁栄、勢力拡大、世間からの称賛ではなく、私たちが「忠実に神と仕えるべき人に仕えているか?」を見ておられます。そうです。「忠実に仕えているのに、願った結果が出ない」、「忠実に仕えているのに評価してもらえない」というのは、きっと、残念で不本意でしょうが、必ずしも失敗ではありません。むしろ、神様の目にはその歩み自体が、既に成功と映っているのかもしれません。

       この世がすべてではありません。すべてのクリスチャンは再びキリストの前に立ちます。タラントのたとえでは主人は「よく儲けた」と喜んだのではなく、「よい忠実な僕」と褒めました。神様は実績主義者ではありません。再臨のキリストの評価基準は「成功したか否か」ではなく「忠実に仕えたかどうか」であることを覚えたいものです。「結果」でなく「プロセス」、「業績」でなく「姿勢」が地上から永遠につながる評価基準であることを覚えて、この地上の生涯を歩みたいものです。まずは、今、置かれた場所で忠実に仕えることから、スタートです。

       今日は、デイリーブレッドから教えられたことを記事にしてみました。
      | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 10:29 | - | - | - |
      標準からほど遠い四人だからこその「キリスト教のリアル」
      0
         「キリスト教のリアル」を読みました。多くの読者は、「この人たち、各教派の代表でも標準でもないじゃん」と思うでしょう。その通り、3分の2は牧師3名、神父1名の計4名での対談なのですが、この4名は全くリアルではないのです。しかし、この4名だからこそ語ることのできるリアルが記されています。

         「まえがき」にあるようにこの四名は、カトリック、日本基督教団、ルーテル派、福音派に所属する方々ですが、各教派を代表するようなお立場ではないし、標準的ではない方ばかりです。いいえ、松谷氏の意図を想像すると、「あえて標準から遠く離れた四名」を選ばれたのでは?と推察します。

         どうでしょうか?各教派の代表的人物や教団のトップなどが、対談をされたら、どうなるでしょう。高尚で一般読者に理解困難になるかも?各方面への配慮から自由な発言ができなくなるかも?無難な発言ばかりで面白みに欠けるのでは?そもそも高齢者ばかり、男性ばかりになるのでは?残念ながら、学術的かつ予定調和的で、面白みに欠けて、キリスト教会の多様性や生き生きとした面が、伝わらないのではないかと予想します。

         そうならないところ、あえて標準からほど遠い方に、ご自分の教派の標準を語らせたところに、同著の面白さがあるのです。内部にあって標準的なあり方をしていると、自分と教派の間に距離感がなく、自分自身も教派のありようも、客観視できなくなるものです。四人ともが、かなり標準から離れたあり方をしているからこそ、自分の属する教派を客観視できて、そのリアルを的確に伝えることができるのです。その点が、同著のユニークかつ優れた点だと私は評価します。

         この四名がどれほど、各教派の標準から遠い方かを50音順に紹介しましょう。

         川上咲野牧師は、日本基督教団所属の女性牧師で、教会よりも大学での働きを中心にしておられ、ジャニオタで伴侶がノンクリスチャンという方です。

         関野和寛牧師はルーテル派の牧師で、牧師ロックバンドで活躍中。格闘技が趣味で、教会が新宿にあることから、多くの教会出は経験できないような多様な人たちとの関わりをもっておられます。

         晴佐久昌英神父は、カトリックの中ではまさに異例の存在でしょう。驚くような救霊の実を結んでおられます。学ぶところが大変多い方でしょう。ただ、不勉強な私は、神父の発言には「カトリック教会の普遍主義」と「ユニバーサリズム(万人救済主義)」の違いが分からなくなります。

         福音派の牧師として登場されるのが、牧会塾ディレクターとして活躍してこられた森直樹牧師です。少なくとも特定の教会の責任を持ち牧会をしているのではないという現在のあり方は、やはり標準的、平均的ではないわけです。


         本ブログの読者は真面目な福音派のクリスチャンが多いでしょうから、「そんなのありえんわ!」「危ないかも?」と思わる方もいらっしゃるでしょう。ですから「福音派絶対信仰」の方には、正直、あまり、お勧めできません。ただ、そのようなことも含めて「日本のキリスト教会のリアル」を記しているというのは間違いないわけです。できれば、他教派の信仰理解やありようを知って、自らが属する教派をより深く理解し、健全な信仰的アイデンティーの確立につながればと願っています。

         ですから、この書物を読んで、「各教派の標準的人物ではない!」と違和感を覚えるのは、当然でしょうが、「だから、リアルではない」というのは間違いでしょう。むしろ、「だから、自分の所属する教派を客観視してリアルを語り得る」と考えるのが正解だと私は思っています。


        「キリスト教のリアル」が記しているのは、標準からほど遠い四人だからこそ語り得る「キリスト教のリアル」。

         時間があれば、明日以降は晴佐久神父、森直樹牧師、お二人の発言から教えられたことを記します。
        | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 17:04 | - | - | - |
        全米普及率No.1の結婚心理テストを用いたカウンセラー養成講座が再び名古屋に!
        0
           全米普及率No.1の結婚心理テストを用いたカウンセラー養成講座が、4月末に名古屋にやってきます!名古屋では二度目です。欧米において、最も教会とカウンセラーに用いられているプログラムですから、間違いなく有益です。私自身もカウンセラーとしての資格をいただき、見習いのように実践中です。二組のカップルに実施中ですが、つくづく有益なプログラムだと感心します。カップルが自分たちの関係を的確に把握できて、自分と相手の長所や課題を見極めて、より豊かな関係へと進んでいけるのです。

           長時間の訓練や専門的な知識や技術がなくても、かなりのレベルでカップルの状態を正しく把握して、的確なサポートができます。ぜひとも、日本の教会に普及したらと願っています。よりよき結婚生活のために、大きな力となるのは間違いありません。経験者として自信をもってお勧めします。今回は、神戸で別の奉仕があり、私自身は、参加できず、涙、涙です。では、以下に情報をお知らせします。


          新「プリペアー・エンリッチカスタマイズ版」カウンセラー養成講座のご案内

          日 時: 2016年 4月29日(金)−30日(土) 10:00am-16;30pm 
          講 師: 西岡 まり子 氏  (結婚と家族のカウンセラー、日本ホーリネス教団 川越のぞみ教会副牧師)
          会 場: 聖書キリスト神学校  名古屋市中村区太閤1-4-10


           申し込み方法や受講料などは、こちらのサイトをご覧ください。
          http://prepare-japan.com/doc/2016.pdf

          また、「プリペアー・エンリッチ」についてはこちらのサイトをご覧ください。
          (恥ずかしながら、私もカウンセラーに名を連ねております。現状は見習いレベルですが。)
          http://prepare-japan.com/index.html
           
          | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 21:07 | - | - | - |
          新刊「キリスト教のリアル」は「一般社会が知りたいリアル」に合致しているぞ
          0
             昨日、発売と聞いていたので、本日、さっそく購入しました。今、読んでいます。キリスト新聞社の松谷さんが、本を出しました。テレビのバラエティー番組的なコンセプトなのがいいです。ヒットした「不思議なキリスト教」が、一般読者の知的好奇心に応答するものなら、この書物は、一般読者の全般的好奇心に応答していると言えそうです。「教養」や「教理」「歴史」でなく「身近にある知られざる現実」を伝えていることが、同著の意義なのです。

             同著の詳細情報はこちらを。

            松谷信司著「キリスト教のリアル」(ポプラ社・定価780円+税)


            映画批評家の服部弘一郎氏が、さっそくブログで感想など記した記事をアップ。これは、参考になるでしょう。

            新佃島・映画ジャーナル「キリスト教のリアル」

             
             福音そのものではなく、それを生きて、それを伝えている聖職者、教職者たちのリアルを伝えています。でも、結果的には、福音を証しているのでしょう。登場する方々は、カトリック、ルター派、日本基督教団、福音派の四名。この4名がどなたなのかは、明日以降の記事で。

             求道心は全くないけど関心はあるという未信者には、読んでもらえるいい書物だと思います。

             そして、実は、クリスチャンの方々に読んでいただきたいと思ったのです。信徒にはあまり伝えないリアルが、赤裸々な実情が書かれているからです。「えーそうだったんだ」「知らなかった」「知っていたら、自分は違っていたはず」など、クリスチャン読者ならではの意外な発見や悔い改めがあるでしょう。また、教派による違いに注目するのも、よい学びとなるでしょう。

             ジャーナリスティックな視点と手法で、堅苦しくなく、教会と一般社会を橋渡しする良書として紹介します。


            〈追記〉
            何と、4月1日には、出版記念感謝礼拝があるそうです。

            ■日時 2016年4月1日(金)19:00スタート
            ■会場 日本福音ルーテル東京教会
            http://jelctokyo.org/
            ■メッセージ 晴佐久昌英神父(カトリック多摩教会司祭
            ■内容 礼拝30分の後、参加者と牧師・神父との懇親会を予定しております。
            ■参加費無料・申込不要

            フェイスブックにはさらなる情報が
            https://www.facebook.com/events/654796047992683/
            | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 17:32 | - | - | - |
            君は映画「スポットライト 世紀のスクープ」を知っているか?
            0
               映画には、ほぼ興味のない私ですが、これはスルーできません。先日、発表されたアカデミー賞の作品賞は、「スポットライト 世紀のスクープ」でした。最もすぐれた作品と評価されたこの映画は、新聞社「ボストングローブ」がカトリック聖職者による児童性虐待を報道した実話を描いたものです。

               wikipediaの以下の記事にも、この報道が、世界的な問題発覚となるきっかけになったことが記されています。

              wikipediaカトリック教会の性的虐待事件

               この記事にあるように2002年にボストングローブ社は、一司祭が30年で延べ130人もの児童に対する性的虐待を行って訴訟を起こされたこと、さらにカトリック教会が正しい対処を怠り、該当司祭を異動させただけで、事態悪化させたことを報道しました。これがきっかけとなり、世界規模で訴訟が起こり、また、同様の隠ぺい体質が明らかになっていきます。

              ローマ法王がこの件で謝罪したことも記憶に新しいです。
              「ローマ法王、児童の性的虐待問題で謝罪」
              http://www.cnn.co.jp/world/35046485.html

              また、法王が被害者とも面会し、教会の共犯を謝罪しています。
              「法王が性的虐待被害者と初面会、教会の「共犯行為」を謝罪」
              http://www.afpbb.com/articles/-/3019922

               最近は多額の賠償金の支払いのために、教会が不動産を売却するなどしているとの報道を読んだ記憶もあります。


              スポットライト 世紀のスクープ」の公式サイトはこちらです。
              http://spotlight-scoop.com/


               私はこのサイトを視聴して胸が張り裂けんばかりでした。とりわけ三つの言葉について記します。

              (1)「記事にしたら、誰が責任を取るのか?」との問い掛けに答えるジャーナリスト「では、記事にしなかった場合の責任は?」
               編集長が葛藤し、ジャーナリストが葛藤するのはなぜか?本来、取るべき責任を教会がとらないからです。パウロがコリント教会に性的罪を内部でさばくことができないことを非難したのと同様です。それどころか、同労者同士の隠ぺい体質があるからです。

              (2)「世に知らしめるために」との言葉が辛すぎます。「世に知らしめるべき」は、救い主キリストでも神の愛でもありません。教会の闇であったのです。それを知らしめることが、子どもたちを性犯罪被害から救うのです。救いの知らせが、聖書の福音ではなく、教職者の性犯罪事実なのです。

              (3)「暗闇を照らす一際まばゆい希望の光」。これが、「スポットライト」というタイトルの由来です。こんなに悲しいことがあるでしょうか!これは、「教会の暗闇を照らす、ジャーナリズムがもたらす希望の光」なのです。「世の暗闇を照らす教会がもたらす希望の光」ではないのです。まさに本末転倒です。

               
               これは、カトリック教会だけの問題、欧米のキリスト教会だけの問題ではないでしょう。極一部とは言え、日本のプロテスタント教会も例外ではありません。日本の聖公会では、同様の事件が起こり、やはり不誠実な対処で問題が深刻化しました。

              聖公会の該当教区からの正式な見解はこちら
              http://www.nskk.org/kyoto/houkoku/index.html

               また、最新号のMinistryの8ページには、辞職した牧師による「教授による少年への性加害を隠ぺいした神学校」という発言が登場します。これなどは「現代日本版ボストングローブ」でしょう。過去のこととはいえ、疑惑の神学校では、大変なことになってはいないかと心配です。


               被害者を児童に限らなければ、キリスト教教職者の性犯罪が、一般メディアでも取り上げられ、ネット上でも(誤報や不正確なものもありますが)明らかにされるようになってきました。

               「伝道の邪魔になるから、報道すべきでない」との声を未だにお聞きします。私はこの映画のジャーナリストのように「では、記事にしなかった場合の責任は?」と問いたいです。それは裏を返せば「伝道の前進のためなら、さらなる犠牲者と加害者を出してもよい」という意味になりはしないでしょうか?「伝道前進のための性犯罪被害者増加」。それは神様が望んでおられることでしょうか?

               私はすべて報道すべき、すべては公益通報だとは思いません。しかし、悪質で連続性のあるもの、また、加害者が正しく戒められておらず、被害拡大が予想される場合は、報道しなければ、事態悪化を招き、さらに主の御名が汚されるのではないかと考えています。むしろ、こうした不都合な事実を認め、向き合い、聖書的に対処することが、神様のみこころのように思います。そして、加害者や対処を誤った教会や団体を責めるだけではなく、共に痛み、執りなすお互いでありたいと願います。

               この映画は日本では4月15日から、全国ロードショーだそうです。


               キリスト教ジャーナリズムが、教職者の性犯罪などを報道することの是非、「どこまで、どう伝えるべきか?」については以前、シリーズで論じたので、その時の記事を参考になさってください。
                     
              | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 17:15 | - | - | - |
              牧師の12ステップ、次回のご案内。
              0
                 先週は、教会立てこもり事件とMinistry特集の記事に、連日、多くのアクセスをいただきました。それと関連して、必要とされるのは牧師が癒される交わりや回復のプログラムでしょう。

                 2月からスタートの「牧師の12ステップ」は、予定通り順調に行われたようです。そこで、来月のご案内です。

                牧師の12ステップ、2回目の日時と会場などは下記のとおりです。
                日時: 3月28日(月) 午前10時〜正午
                会場: 日暮里ひろば館 302洋室
                /hirobakan/nipporihiroba.html
                参加費:無料
                問合せ:永岡啓さん
                nagaoka.satoru(アット・マーク)gmail.com
                アット・マークと書かれているところは@に変換してください。
                | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 15:39 | - | - | - |
                「舟の右側」の「焚き火を囲んで・・・」は、スリルとサスペンスが満載
                0
                   昨日、25日に「舟の右側」3月号を購入。2月号が「神学のひろば」なら、3月号は前半が「牧会ジャーナル」状態であります。特集が「霊的形成」で、牧師の燃えつき体験などもレポートされており、いよいよ「牧会ジャーナル」的な印象を受けました。この特集については、Ministry誌の「牧師たちの失敗」に共通する要素もあり、後日、取り上げます。

                   さて、とにかく「焚火を囲んで・・・」であります。何でも、焚火仲間では「先生」と呼んではならず、「先輩」と呼ばなくてはならないのだとか。前回「焚火を囲んで・・・」を絶賛したために、頼んでもいないのに、「焚火仲間」にされてしまったようなので、焚火仲間の慣習に従うこととします。

                   筆者の大頭先輩は、「キリスト教界のピース又吉ではないか?」というのが私の評価です。又吉が文学者としてもお笑いとしても一流のように、先端の神学とお笑いセンスを兼ね備えており、どちらも第一線で活躍可能という意味で、大頭先輩は又吉にたとえられると思うのです。私が先輩に追いつくためには、国内外の神学校を二つ卒業して、吉本の養成学校で学び、何年か芸人生活を送らねばならないでしょう。ようやく先輩に追いついたとしても、その頃には引退すべき年齢を超えてしまいます。どうがんばっても、先輩にはかないません。

                   相変わらずの深く先端的な神学的考察しょーもないお笑いネタの奇跡的統一には、脱帽です。今回は、前半が神学的な考察で、後半が聖書を舞台にした物語です。「聖書を物語として読む」と言っても、記述の歴史的事実性を否定することを意味するのではありません。「物語」は「神話」ではありません。英語では「ナラティブ」であって「フィクション」ではないのです。この点を誤解すると、「物語神学=聖書的信仰からの逸脱」となってしまいますから。

                   前半は、実在の焚火仲間との交わりの中で、神学的考察が深められてきたことを物語っておられるのですが、これが面白いやら、教えられるやらです。私は教育機関や書物だけでなく、信仰の友との対話の中で神学を育んでこられたことに尊敬を覚えます。残念ながら、神学校で教えられたことを絶対視して、それを守ることが真理であるかのようにして、信仰理解の異なる方々と対話不能となっている方に時々出会います。自説の正しさばかりを主張し、異なる他者を批判するだけで、対話にならないこともあれば、中には、対話や交わり自体を拒否したり、禁じたりすることもあるとかないとか。

                   私は、見解の差異よりも、むしろ、対話可能かどうか?で相手への信頼と親しさが無意識に決まってしまいます。同じ見解で対話ができない人より、違っていても対話可能な人と親しくなる傾向があります。それは、信仰理解でも政治的見解でも同様です。


                   さて、今日はここからが本題です。実は、今回の前半部、スリルとサスペンスが満載なのです。先輩自身も「ついに書いてしまった。これでもうぼくもおしまいかもしれない」と文中に記しておられます。これが、スリルとサスペンスなのです。20年前にこのことを記していたら、きっと、焚火は炎上して、先輩は火だるまとなってことでしょう。

                   いいえ、石打の刑で、血だるまになっていたかもしれません。お名前の通り「大頭」なら、きっと、頭脳明晰な先輩は脳の容量が大きそうなので、頭部は通常より大きめなのでしょう。そうであれば、投石が頭部に命中する確率は高く、先輩は「おしまいになった」かもしれません。かく言う、私も20年前なら、先輩に石を投げる大先生の着物を預かっていたことでしょう。そうです。昔なら、先輩はステパノで、私はサウロでした。しかし、時代は変わりました。今はなぜか、焚火仲間になってしまいました。

                   何が、スリルとサスペンスかと言えば、「資料仮説」の採用と「悔やむ神」という神観であります。この二つの指摘と表現が正しいかどうかは自信がありませんが、先輩ご自身も、炎上の原因となることは自覚をしておられます。先輩は資料仮説に立ちませんが、矛盾と思える記述を考察するためには、その学術的成果を取り入れるようです。

                   「資料仮説」との言葉だけで、「聖書信仰でない」と自動思考してしまう読者は、炎上欲求が燃え上るかもしれません。私自身も藤本満先生の「聖書信仰」を読んでいなければ、今頃、先輩に投石する大先生の横で、石を手渡していたかもしれません。しかし、私は逆に、「これは、聖書信仰の立場批評学の成果を適切に採用する一例かな?」と受け止めました。個人的には、「どういう基準で取り入れるか?」が「開かれた聖書信仰」に対しての疑問点なので、ここは謙虚に学びたいと願っています。

                   大頭先輩は「人によって愛が裏切られることを悔やみつつも、愛したことは悔やまない神」という神観を、今回提示しておられます。これも、伝統的かつ正統的な神観に立つ読者にとっては、炎上の対象となりかねないでしょう。しかし、これについても、私は、「多数の命題的な定義によって規定されたスタティックな神観」から「聖書物語が示すダイナミックな神観」へのパラダイムシフトとして読みました。「教条主義的な教理によって再構築され明確に定義された標本のような神観」に対して「聖書物語に啓示された曖昧にしか規定しえない、むしろ、曖昧に規定すべき生きて働く神観」を提示しているように思えたのです。

                   今回の記事を読みながら、神観についても、藤本先生が山崎ランサム先生のブログに記された「曖昧になることへの恐れ」とのお言葉、南野先生が以前にFBで記しておられた「確実さへの逃避」という言葉を思い出しながら、チャレンジを受けました。でも、先輩によれば、これが最大の炎上ポイントとのこと。


                   どうか、よい子の皆さんは、先輩に石を投げたり、炎上させたりしませんように。まずは、連載を続けさせてあげてください。どうも、先輩の見解は、欧米では、聖書信仰の枠内として一定、認められているようですから。反対者も、言論の自由は保障して、先輩の言い分には耳を傾けましょう。投石、炎上より、まずは、焚火の外から傍観ということでしょうか。

                   今回は、ある意味、スリルとサスペンスに満ちています。それは裏を返せば、聖書の読み方や信仰理解についてのパラダイムシフトのチャレンジとも言えるでしょう。めちゃめちゃ面白くて、神学的刺激に満ちた連載です。また、この斬新なコンセプトは神学の大衆化に極めて有効だと思うのです。賛否にかかわらず、神学とお笑いに関心のある方には、絶対のおすすめです。


                  「舟の右側」3月号はこちら。「焚火を囲んで・・」は1月号から連載が開始しています。
                  年間購読予約をされるとお得のようです。
                  http://www.revival.co.jp/2016/funeno-migigawa-01.php
                   
                  | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 15:25 | - | - | - |
                  教会たてこもり事件の記事に寄せられた言葉
                  0
                     フェイスブックのコメント欄には、昨日の記事への応答がいくつか寄せられました。あまりに有意義なコメントが続いたので、今回は例外的にコメントに即時応答させていただきました。いくつか紹介し、それに教えられたことを記してみます。

                     記事をアップするとすぐに、日本長老教会の知人牧師から、御礼をいただきました。それには、「長老教会教職者からのコメントとして深く受け止めました。一クリスチャン家庭、一教会、一団体の問題ではないと思います。痛みを共有しつつ、祈らせていただきます。」と返答。

                     これに応答されたのでしょう。某神学校の校長先生からは、他人事ではないとの意味も込めて、「今日の牧会の日常にある現実ですね。」とのコメントを頂戴しました。


                     「牧会の日常にある現実」という言葉、これは、重く受け止めました。そして、読者の皆さんには、多くの教職が、こうした事件が起こってもおかしくない牧会現場を担っていることを、広く認識していただきたいとも願いました。牧会現場で身体や生命の危機を覚える経験をした牧師は少なくないでしょう。私の知人牧師には、実際に身体的暴力を受けたり、刃物を向けられたりした方が、何名もいらっしゃいます。その意味で牧師の働きの過酷さを理解し、牧師を祈り支えてほしいと願います。

                     何よりこうしたことは「牧会の日常」なのです。信仰者の家庭には事件化しておかしくない問題があるのは、日常なのです。それは、何千年の昔から、いいえ、人類の開始からそうなのです。人類初の殺人事件は元祖信仰者家庭のアダム家において兄弟間で起こりました。アブラハムが、血のつながった長男とその母を、家庭から負いだしたのは、事件です。イサク家では、次男が詐欺事件を起こしました。ヤコブ家では、兄弟間で殺人未遂と遺棄事件が起こります。祭司エリの息子たちの事件は今なら、フライデーか文春のネタです。ダビデ家においては兄弟間で、性犯罪事件と殺人事件が起こっています。

                     旧約聖書はこうした前例を示しています。ですから、今日においても、クリスチャン家庭で犯罪や事件は起こり得るでしょうし、ましてや、そこにまでに至らない深刻な家庭内の問題はまさに「牧会の日常」なのです。「クリスチャンホームなのにどうして?」ではないのです。むしろ、旧約聖書における信仰者家庭の記述を読むなら「クリスチャンホームでもあるよねー」さらに言えば、「クリスチャンホームには時々あるよねー」が正しい認識ではないでしょうか?

                     「クリスチャンホーム幸せ幻想」などはまさに「幻想」であって、聖書の記述にも現実にも合致しません。神様からの祝福を無残なまでに破壊する罪人の現実からスタートとしなければ、理想は、幻想で終わってしまうでしょう。むしろ、その問題を認め、向き合い、神様の介入をいただくことによって、祝福に向かって希望の道が開かれていることこそ、クリスチャンホームの幸いと考えるべきでしょう。


                     また、ある牧師からは、こんなコメントが。

                     「事件を起こしそうな人」を排除するような動きが教会に起こらないことを望みます。助けを必要とする人にとって、教会がキリストの業が生起する場であり続けるよう、祈ります

                     「排除でなくキリストの業の生起」とは、教会にとって、最高の戒め、そして希望の言葉ではないでしょうか?クリスチャンホーム子弟や、家庭に問題を抱えて求道をされる方々の中には、傍から見れば「事件を起こしそうな人」が含まれているかもしれません。

                     この牧師が危惧するように今回の事件を受けて、教会に集う方に、危険人物のレッテルを貼り、排除しようとする信徒さんが、出てくるかもしれません。もちろん、教会員の安全を確保する責任もあるでしょうから、単純に誰でも受け入れるべきとは申しません。しかし、排除してしまえば、教会は、キリストの業が生起する場ではなくなりるのですから、安易に排除するべきではないだろうとは思うのです。キリストの体が自己防衛に走る余り、神の栄光を現す本来のありようを失ってはならないように感じています。

                     特に今回の事件は、数年前からお子さんの暴力で苦しむ一家を教会が受け入れ、助けていたようですから、まさにキリストの体としてふさわしく歩んでこられたわけです。それだけに今回の事件で、この教会はもちろんのこと、他の教会までもが、排除傾向に向かうことがあってはならないでしょう。やはり、「排除でなくキリストの業の生起」が神様のみこころだと思うのです。


                     また、ある大学の先生が、昨日の記事をシェアして、「問題に向き合い、取り組んでいればこそ、起こりうること」との趣旨を記してくださいました。

                     家庭問題については、親が問題を認めず、向き合おうとせず、お子さんが犠牲にされていくケースも少なくありません。むしろ、カウンセリングを受けるということは、痛みを覚悟で、問題に向き合い、回復を願っているわけです。止まっているのでなく、前進するからこそ、転ぶし、倒れるし、骨折もするのです。

                     今回の事件は重大な悲劇でしょうが、それでも、この親子にとっては、途中経過なのです。大切なのは結果でなく、プロセスです。これまで、前進してきたプロセスがあるから、今後も前進して行く希望があります。これまで前進してきた歩みがあるからこそ、今回の事件が結末になることなく、事件後の向こうに回復に向かうプロセスが期待できるのです。事件は失望という結論でなく、希望に向かう通過点にすらなるのです。


                     今回いただいたコメントを読みながら、私は、ヨハネの9章を思い起こしました。この箇所で、
                    生まれつきの盲人を見た弟子たちは、イエス様に「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と問います。それに対してイエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」と答えて、盲人を癒されます。

                     罪深く愚かな私たちは、ともすれば、クリスチャンであっても、弟子と同様の問い掛けを心の中でしてしまいます。「こんな事件が教会でおこるのは、誰が悪いのですか?」と。原因追及をしたがり、犯人捜しを始め、特定できたら責めるのです。しかも、自分を安全地帯に置いてです。

                     だからこそ、私たちは、イエス様の返答をよく聴きなさった業をしっかりと見たいのです。

                    「誰が罪を犯したからですか?」と過去における原因を問う弟子に、イエス様は「神の業が現れるため」と未来における希望を示されました。

                    「この人?それとも、その両親?」と犯人を特定して責めようとする思いを、「神の業の現われ」へと方向転換させました。

                     苦しみ助けを必要とする者の前で、冷たい神学的議論をする愛なき弟子の前で、イエス様は、愛の手をのばし、泥をこね、彼の顔に塗り、神の業を現されました。

                     今回の事件についても、あるいは集っている教会にある同様の家庭問題に対しても、キリストの体の一部である者は、弟子たちのようであってはなりません。ヨハネ9章が示すキリストの愛と思いをもって、キリストの手となり、神の業の現われの希望に歩んでいきたいと願います。
                    | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 11:12 | - | - | - |
                    教会立てこもり、人質女性保護、これからのために祈りたい
                    0
                       昨夜、ニュースを知り、祈りました。日本長老教会と知り、関係者に知人がいる可能性もあり、いよいよ心配に。今朝のテレビ報道を見て、まずは、男性は逮捕され、人質が保護されたのことで、一安心しています。

                      男を逮捕、人質女性保護=説得応じず、突入―教会立てこもり・千葉県警

                       人質は女性カウンセラーだったとのこと。どんなに恐ろしかったかと察するばかりです。カウンセリングにはこうした危険も伴うことを改めて認識させられました。女性カウンセラー自身の心身の癒しを願っています。

                       逮捕された男性は、両親と共にカウンセリングを受けていたようです。多分、クリスチャンホームの息子さんなのでしょう。ご家庭や教会にとっての痛みであったことを想像します。その問題に向き合おうとしていた中での出来事だけに残念でなりません。

                       事件化してしまい、名前も報道されたので、息子さんは当然のこと、ご両親と牧師、信徒たちのこれからを案じます。とりわけ、ご両親と牧師には、様々な非難や誤解に基づく誹謗中傷が予想されます。しかし、それにまさる周囲の愛の支援ととりなし祈りがあることを覚えます。いいえ、そうであるよう祈ります。

                       明後日は、同団体である日本長老教会での礼拝奉仕です。しかも、午後は家庭問題の講演で、信仰継承についてお話しします。昨年も今年も三回のシリーズで、家庭講演会をしています。それだけに、この事件には、通常以上に心を痛めています。その裏返しとして、教会内での子育てや結婚にについての教育がどれほど大切であるかを痛感します。言葉には出さずとも、この事件の痛みを胸に、特別な思い入れをもって、聖書から真理を語ってゆくつもりです。

                       事件化に至らないだけで、同様の課題や痛みが多くの教会に集う家庭にあることを思います。まずは、同じ教会に集う家庭の痛みや破れ口を知ったなら、とりなし祈るお互いでありたいと願うのです。キリストの体の一部が苦しんでいるなら、全体も苦しむような、「体らしさ」に歩む教会でありたいと願います。もし、私たちの内に、それを阻む愛の乏しさ、非聖書的な個人主義があるなら、それを認め、悔い改め、克服してゆくことが神様のみこころに違いありません。

                       詳しいことは分かりませんが、事件後こそ息子さんとご両親がよい関係に向かうように、牧師をはじめ教会が共に痛みつつも、祈り執り成し、支え、労していくことができるよう願ってやみません。報道に触れて、想像も含めて、そんなことを思いました。

                      〈追記〉
                       10:30の時点で、既にFBの方では、多くの方より、意義深いコメントをいただきました。教えられた多くのことを反映して記事を記し、明日にはアップしたく願っています。間もなく出かけて15時頃に帰宅します。FBでのコメントはどうぞ、ご自由に。多すぎて返答できない場合は、失礼をお赦し下さい。
                       
                      | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 09:23 | - | - | - |
                        12345
                      6789101112
                      13141516171819
                      20212223242526
                      2728293031  
                      << May 2018 >>
                      + SELECTED ENTRIES
                      + RECENT COMMENTS
                      + RECENT TRACKBACK
                      + CATEGORIES
                      + ARCHIVES
                      + MOBILE
                      qrcode
                      + LINKS
                      + PROFILE