命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
ベッキーと川谷、恋の行方を大胆予想?
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     芸能リポーターのようなノリのタイトルですが、結構、真面目です。なぜかと言えば、同様のことがまれに牧会事例でも起こるからです。ベッキータイプの優等生クリスチャン女性が、なぜか、既婚者男性にぞっこんになり、不倫関係にはまっていきます。最初から既婚者と分かっている場合もあれば、交際を開始してから既婚者であると告げられて、後戻りできないパターンもあります。あるいは男ベッキーと言いたくなるような優等生クリスチャン青年男子が、夫と別居中の既婚者女性と交際を始めます。中には子どもがいて、結婚して父親になりたがる場合も。

     牧師夫妻やクリスチャンである親たちは、「神様が喜ばれない」「それは罪だから祝福されない」と愛をもって注意しますが、聞く耳を持たないか、聞いている振りをするばかり。自分も神様も見失っており、別れさせようとすれば、信仰を捨てるか、教会を離脱しそうな勢いです。そんな事例を見聞きしたり、相談を受けたりすることがあります。そういうわけで、牧会事例研究のような視点で、今回のベッキーとゲス川谷の今後を予想してみました。


     二人の間には、大きな違いが三つあるように思います。三つを記してみましょう。

    (1)一つは、恋愛感情の温度さです。ベッキーにとって川谷は、「生涯で二度と会えない唯一の理想の男性」です。まあ、そのように錯覚しているのです。しかし、川谷にとってのベッキーは「好きになり結婚したいと思った一ファン」に過ぎません。つまり、ベッキーにとっての川谷は"Only One"ですが、川谷にとってのベッキーは”One of Them”なのです。

    (2)二つ目は、恋愛スタイルの違いです。どうもベッキーは恋愛を犠牲にして仕事に励んできたようです。それだけに、この恋にかける真剣さは、どんな犠牲も惜しまぬレベルです。まさに一途そのもの。報道によれば、ベッキーは周囲の説得に応じないで、結婚を願い、そのためなら、芸能界引退も考えているようです。一方の川谷は、一途とは正反対。結婚時にも元カノのことで悩んだとのこと。また、結婚した事実をメンバーにさえ告げないのは、別の女性との恋愛可能性を残すためのようです。つまり、一人の女性を愛し続けることのできない恋愛体質のように予想されます。

    (3)三つ目は、帰る場所の有無いです。ベッキーはこの恋を貫こうとしたために、戻る場所がなくなりつつあります。しかし、川谷の方はいつでも戻る所があります。文春の報道によれば、川谷の妻は、戻ってくることを願っており、謝罪をすれば受け入れるつもりとのこと。その通りであれば、川谷は離婚が成立しない限りは、いつでも戻る場所があるのです。


     そう考えますと心配なのはベッキーです。「ただ一人」と思いつめ、「すべてを捨ててでも」という覚悟を決め「戻る場所を失っている」状態です。離婚が成立し、結婚に至らなければ、どうなっていくでしょう?あるいは、二人の恋愛関係が終わったら、ベッキーは、すべてを失ってしまいかねません。多分、川谷の方は、そこまでの真剣さも覚悟もないものと想像されます。ですから、私は川谷はこの恋を貫かないで、どこかでヘタレると予想します。やがて、川谷は恋愛感情が冷めて、損得勘定に走り、自己保身を図ることでしょう。

     以上の考察から、多分、この恋の行方はこうなると予想します。

    (1)川谷の方が、先に冷めてしまい、損得勘定を考え、自己保身に向かう

    (2)川谷の方から、ベッキーに別れ話を持ちだすか、自然解消に持ち込もうとする。

    (3)その時にベッキーは危険な状態に陥る。

     牧会事例なら、この時にこそ、指導者や周囲の支援によって、自分を取り戻させ、愛をもって受け入れながら悔い改めと回復に導くのでしょう。

     ベッキーの場合は、事務所や家族や友人たちが、帰ってくるところがあることを示し、受け入れる思いを伝えることで、最悪の事態を避けることができるでしょう。孤立を防げたら、彼女は我に帰り、真実な謝罪をして、(川谷が悪人、ベッキーは被害者という筋書きにして)芸能界に復帰するか、引退後の人生をスタートできると思うのです。特に母親と暮らして、母親が「どんな選択をしても、どんな結果になっても、いつも私はあなたの味方」と言ってくれたら最高だろうと思うのです。

     失恋した女性タレントの自殺未遂疑惑は、これまでも何度か報道されてきました。ベッキーの追い詰められ方(世間や周囲より当人が自分を追い詰めてしまったように思います)は、私にとっては、そうした危険性を十分予想させるものです。二人あるいは三人の間で刃物沙汰になる可能性も考えなくてはならないでしょう。果たして川谷はそこまで考えているのでしょうか?


     帰る家をキープして命綱装着で冒険に出ている川谷、

     家を捨て、命綱を切って、冒険しているベッキー

     周囲に反対され、会うことを禁じられている間は恋の炎は燃え続けるかもしれません。

     しかし、二人の覚悟や状況の違いは、近い将来、きっと破たんや終結をもたらすことでしょう。


     その時、ベッキーを危機からどう守り、回復に向かわせるか?事務所の力量と周囲の愛情が発揮されるところは、そこになるだろうと予想します。


     以上、芸能リポーター的かつ牧会事例研究的視点から、二人の道ならぬ恋の行方を予想してみました。きっと読んでくれないでしょうが、強行突破型で、今も結婚生活というバラ色の夢を見ているベッキーには、この記事を読んで我に返ってくれたらと願います。

     万が一、皆さんの周囲や教会内で同様の事例が起きた場合は、この記事が参考になれば、感謝なことです。
    | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 20:03 | - | - | - |
    ベッキーの「積極思考」と「強行突破性」で、「両成敗」が止まらない、もう止まらない
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       「親ラブ族」シリーズの続きを書こうと思いながら、また、「週刊文春」のおかげでまた、芸能ネタを書かざるを得なくなりました。今、発売中の「文春」にあのベッキー会見前日の二人のラインでのやり取りが掲載されています。概要はこちらです。

      「ありがとう文春!」ベッキーが会見前日に川谷と交わした噴飯モノの蜜月LINE
      http://www.asagei.com/excerpt/51257

       これ以外にも「ありがとう文春」で検索すると、いろいろ出てくるようです。 これで、完全に二人の嘘がばれましたし、ベッキーの会見が世間を欺く悪質なものであったことも判明。二人が「卒論提出を待って結婚する」意志であることや、会わないのもそれを目標・期限としていることが明らかになりました。何より不倫につきものの後ろめたさも、不倫自体への反省も微塵もない文面などは、ベッキーに対する世間の評価を一転させるに十分なものです。

       この決定打をあえて隠しておき、二人と事務所を油断させ、会見後しばらくして出して、よりインパクトを与えるとは、文春恐るべし!これで、ベッキーの事務所は、絶望状態でしょう。今後は、CM打ち切りとレギュラー降板が、大量追加となることが予想されます。


       このやり取りは、まさに、先日紹介した藤掛明先生の記事が分析していた結果の通りです。藤掛先生は次の記事の中で、現代人に見られるベッキー的な生き方が「したたなか主体性」を欠くなら「強行突破型」になることの危険性を指摘しておられます。さすが、藤掛先生であります。その危惧は的中していたようです。

      ブログ「おふぃす・ふじかけ」
      「川谷絵音的生き方と、ベッキー的生き方」


       藤掛先生は、挫折や失敗に遭遇した時の人間の対応を「強行突破型」と「ヘタレ型」に分類をされます。「ヘタレ型」は、自信を失い、立ち止まりますから、他者の遠慮を求めたり、自分を見つめたりすることにつながり、回復の希望があります。挫折や失敗が自分の罪によるものであれば、悔い改めと回復に結びつきやすいわけです。

       一方で、「強行突破型」の人物は、失敗しても、なお、将来に向けてのバラ色の夢を抱くのだそうです。罪に起因するケースですと、やはり、罪の問題と責任を軽視して、真実な悔い改めや謝罪がなされず、周囲からの信頼回復も困難となるのでしょう。そして、今回、文春がスクープした二人のやり取りを読めば、ベッキーが「強行突破型」になっており、それに川谷が同調してしまっているのは明らかです。


       文春の記事を読むと、ベッキーは、すべてのマイナスをプラス思考で受け止めて、それをプラス情報に変換して川谷に伝えています。それを受けた川谷が同調し、二人で試練を超えていく間違った勇気を奮い立たせ、悪の結束を強めています。私なりに極端なまでの「マイナスからプラスへの変換」を整理するとこうなります。

      危機としての「不倫報道」→「公然とつき合えるチャンス

      苦悩であるはずの「会えない期間」→「遠距離恋愛と思う」

      「会えない苦痛」→「長期間会えない後に会えた時の喜び

      事実としての「不倫関係」→「不倫じゃない

      事実としての「略奪性」→「略奪じゃない」

      通常の感覚としての「ばかやろう文春」→「ありがとう文春


       「ベッキー、どんだけポジティブなの?」「すべてのピンチがチャンス転換可能だと思ったら大間違いだぞ!」という内容です。まさに、タレント生命の危機と二人の関係断絶の危機という二重の危機の真っただ中で、「バラ色の未来」を本気で夢見ているのです。これは、沈みゆくタイタニック号の舳先で、素晴らしい目的地に到着する共同幻想を二人でいだいている図です。

       ベッキーは、本気で離婚届けが出れば、結婚でき、なおかつ芸能界でも活躍し続けられると思いえがいています。さらには、自分のしたことへの反省や川谷の妻への罪悪感はみじんもありません。極端な積極思考、それがベッキーの明るさであり魅力なのでしょう。それがベッキーに大成功をもたらしたのでしょう。また、それによって、これまで、数々の失敗や挫折を乗り越えてきたに違いありません。

       しかし、今回のような自らの犯罪的な行為に起因する試練にまで、積極思考を適用してしまうのは間違いです。確かに神様は、罪とその結果としての試練さえも、プラスに転じさせてくださいます。しかし、それは罪を認め、罪を悲しみ、罪を告白し、赦しを得て、為すべき謝罪と償いをしながら、悔い改めの実を結ぶ現実的プロセスによって与えられるものであって、積極思考によるのではないはずです。キリスト教会内でもロバート・シューラ―の「積極思考」が非聖書的だと批判された一因は、それが罪に目を閉ざす傾向を生み出すことにあったように記憶します。


       今後は、藤掛先生が繰り返しブログで記してこられた「強行突破型」が破滅する「お決まりコース」をたどるのだろうと予想しています。私はこう考えています。

      自分の暗部や闇に目を閉ざす明るさは、間違った自己認識や事実誤認を生み出します。

      自分と物事のマイナスをそのまま受け止めない「積極思考」は、自分と他者の罪を見失わせます。

      周囲から非難を受けながら、自分の罪さえ認めず、へたり込まない「強行突破型」は、赦しと回復の希望を自ら放棄するのだろうと。



       自分の罪に起因する試練や失敗にさえ、積極思考を適用するようなあり方は、三つのものを失わせます。

       つまり、「事実が見えない」「が見えない」「客観的に自分が見えない」の三つです。そうなれば、反省も赦しも回復もなくなってしまいます。

       これは単なる「恋の病」ではないでしょう。二人は病的な結びつきになっているのでは?事務所や周囲は、この二人に恐ろしく困惑し、呆れ、対処に苦慮することでしょう。いいえ、既にそうなっているので、無理やり二人を引き裂くことができないと判断し、妥協案を提示したのだろうと、今回の報道を知って私は考えを変えました。


       今回のスキャンダル効果で、新曲「両成敗でいいじゃない」がオリコン一位に輝いたのだとか。今回の文春の記事によって、その歌詞の通り、ベッキーの「積極思考」「強行突破性」で、「両成敗が止まらない、もう、止まらない」状況に至ってしまったようです。二人が待っている「卒論」よりも、自分たちが所属事務所やファンから提出される「卒論」の方を心配した方がよいのかもしれません。


       この事例と藤掛先生の優れた分析は、多くのことに応用可能で、なおかつ聖書に共通する真理を、私たちに伝えているのではないでしょうか?
      | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 11:26 | - | - | - |
      早期ゲス抜きを始めたベッキーとゲス爆発に向かう川谷
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         今日もまた、この話題で恐縮です。昨日のアクセスが3723と好調なこともあり、もう一つだけです。

         ベッキーは、不倫疑惑報道掲載の週刊誌発売前日に会見を開き、次には「二度と会わない」との決裂宣言を間接的に発信、さらには、CM各社に謝罪であります。さすがは、サン・ミュージックのりピー事件の経験を活かしての早期かつ最善の対処です。ベッキーのタレントイメージの下落とCM打ち切りや賠償など損失を少しでも減らし早くイメージ回復をしようと願っているのでしょう。

         テレビの現場では、信頼が厚く、好感度も高いベッキーには、テレビ関係者からは、あまり厳しい言葉ありません。むしろ、同情的だったり応援発言ばかりです。一般視聴者と現場関係者には、大きな隔たりがあるようです。一般視聴者の評価が大切なCM企業は厳しい対処をするかもしれませんが、ベッキーに同情的なテレビ番組制作側は、寛容な対処をするだろうと私は予想します。

         そして、視聴者は、いつの間にか、離婚要求をしたようなベッキーの闇は忘れ去り、「悪い男と別れて、信頼回復にがんばる健気なベッキー」というイメージを抱くことでしょう。4月以降にレギュラーは減るでしょうが、干されることはないと思われます。その後、以前ほどではないにしても信頼を回復するか、別のキャラを演出して再ブレイクを目指すのは?視聴者側は、不倫を事実と認めて反省して再出発した方が信頼回復が速いと思うでしょうが、事務所側は、不倫を事実と認めなくても、業界内の寛容と応援で、ベッキーは支えられて回復できるとの目測を持っているように予想します。

         というわけで、ベッキーは「ガス抜き」ならぬ「ゲス抜き」を既に始めています。略奪愛や失楽園のストーリーは、もうありえません。事務所であるサンミュージックの主導でしょうが、あくまで不倫を認めずに、なおかつ損失を最小限にとどめる「早期ゲス抜き」は、危機管理としては完璧に近いと評価しています。(不倫を認めてしまうと損失は増えるでしょうから)


         心配なのは川谷の方です。悪質性が高いのは彼の方ですから、ベッキーに好意的なテレビ制作側が、川谷を干す可能性は高いと予想します。現場スタッフの中には、川谷に報復したい者も多いでしょう。ゲス極の音楽活動は続くでしょうが、多分、テレビ出演は激減するでしょう。あるいは、事務所や当人が自粛する可能性もあるだろうと思います。視聴者は楽曲より、本件についてのコメントを注目してしまうのですから、テレビ出演しての音楽表現の意味自体がなくなってしまうからです。

         また、最新アルバム「両成敗」のタイトルが既にギャグになっています。社会や時代を批判するはずだったキーワード「両成敗」は社会や世間ではなく、「おい、両成敗かよ?」と今や発案者自身につき付けられています。音楽ファンたちは、ゲス極が発信する音楽表現、特にその優れたメッセージを、今回の事件や川谷の人格と重ね合わせて聞かざるを得なくなります。

         私自身「ゲス極」は優れた音楽表現をするバンドだと評価しています。FUKASEの発言通り、優れた音楽表現に変わりはないし、純粋に音楽としては支持できるものでしょう。しかし、ファンや鑑賞者は、作詞作曲者でフロントマンである川谷の物語と無関係に、その作品を聴くわけではありません。いいえ、大衆音楽の場合はむしろ、「表現者のパブリックイメージ=その人物の物語」という前提で、作品を鑑賞するものです。

         モーツァルトが変態性欲者であろうがなかろうが、その作品の価値と評価は変わりません。過去の古典音楽は、純粋に音楽と師て評価を受けます。しかし、大衆音楽はクラッシクとは違うのです。現在進行形の音楽であり、社会的ルールのなかで表現行為がなされ、極論すれば、表現者自身が、表現でもあるのです。


         このことは以前、本ブログで論じて、わりと好評でした。「表現者と鑑賞者の人格関係」については、こちらの記事を参考になさって下さい。
        佐村河内氏事件についての優れたブログ記事の紹介

         表現者の持つ「物語」との関連で鑑賞者はその表現を受け止めるのが通常のこと。当分は、ゲス極が発する優れた社会批評は「おまえに言われたくないわ」と返され、歌詞に込められた若者の共感を得る恋愛観も「不倫しといてよう言うわ!」と突っ込まれ、バンドが歌う純愛の歌は「糟糠の妻を捨てといて、リアリティーないわー!」と反発を受けるに違いありません。


         ゲス極の事務所は何をしているのか?と思います。事務所の指示に川谷が従わないのでしょうか?より悪質性が高いにもかかわらず、早期に誠実な対処をしていない川谷は、ベッキーとは逆に「ガス充満」ならぬ「ゲス充満」に向かっているように見えます。このままで放置しておくと、「ガス爆発」ならぬ「ゲス爆発」となりかねません。

         少なくともテレビからは姿を消すでしょう。ミスチルのようにメンバーから総スカンを食って、活動停止せざるをえなくなるかも。最悪はバンド解散して、ほとぼりが冷めた頃にソロで活動再開です。支持層と言われる若い女性ファンたちは、「純粋に音楽表現を支持するか?表現者の物語との関係で支持しないか?」の選択を迫られるでしょう。

         どう考えても、優れた音楽表現故に予想されていたトップバンドとしての快進撃は終わるだろうと私は予想します。今後は、せいぜい、純粋に音楽表現を支持するコアなファンに支持されるマイナーバンドとして歩むことを強いられるでしょう。

         
         子どもの頃に、親や先生に教えられたと思います。

        人は失敗もすれば、過ちも犯す。大切なのはその後です。」と。

         今回は、本当の悔い改めと回復ではないのでしょうが、処世訓としてもその教えを実行するかどうか?が、「早期ゲス抜きを始めたベッキー」と「ゲス爆発に向かう川谷」の違いを生んでいるように思います。世間の関心を集め続けるこの事件、当事者二人の対処の違いは、子どもの頃に教えられた教訓の正しさをきっと証明することとなるでしょう。
        | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 06:52 | - | - | - |
        ゲス極、最新アルバムは「両成敗」、日本社会は「不倫両成敗」
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           昨日のアクセスは3106、激増の理由はベッキー不倫疑惑を取り上げた記事が、検索でかかったからのようです。対照的なのは、ゲスの川谷とどぶろっくの江口の男性二人ではなく、「糟糠の妻」と「糟糠の妻辞退者」という女性二人であることを訴えたかったのです。興味本位ではなく、「糟糠妻」を捨てる男性心理を知っていただき、女性読者に活かしていただきたいとの真面目な思いで記しました。

           さて、今朝のテレビワイドショーを少し見ましたが、インタビューを受ける世間一般の人たちは、誰もが、不倫を事実として受け止めており、その上で意見を述べていました。私の妻などは、「自分が川谷の妻の立場なら、ラインの画像を雑誌社に送る」と言っておりました。それを聞いて、不倫の証拠となるラインのやり取りの流出元が、川谷の妻である可能性はあるとは思いました。

           そして、今朝には、日刊ゲンダイが配信したこんな記事が。

          不倫愛で“女の敵”に…ベッキー「初スキャンダル」の代償

           その一部を引用します。

          「今回、明るみになった『LINE』の画像は川谷の携帯から送られたもの。流出元は川谷の妻だといわれています。つまり、写真や『LINE』のやりとりといった浮気の“証拠”は妻が川谷の携帯からコツコツと入手していたものでしょう。アマチュア時代から川谷を支えてきた糟糠の妻にもかかわらず、ブレークした途端、ベッキーという人気タレントにサクッと奪われて腹に据えかねたのでしょう」(マスコミ関係者)

           私もこの可能性が一番高いだろうと思っていました。もし、この通りだとしたらどうでしょう?不倫男性にとってみれば、これは妻による「自爆テロ」に思えるかもしれません。しかし、それはまさに男の身勝手であります。不倫行為自体が結婚にとっての自爆装置なのです。これは、自分が仕掛けた自爆装置のボタンを妻が押しただけの話です。夫が自爆装置を仕掛けて、取り除こうとしないのですから、妻にとってみれば結婚を継続するための最終手段はこの自爆装置のボタンを押すしかないのです。不倫関係を爆破して、結婚継続の可能性を高めるしかないのです。


           何でも、来週発売される『ゲス極』のアルバムのタイトルは『両成敗』なのだとか。アルバムタイトルにもなっている「両成敗でいいじゃない」はこんな歌詞です。

          「両成敗でいいじゃない」
          http://www.uta-net.com/song/199891/


           何事も白黒つけずに「僕も君も悪いことにしておこう」と「両成敗」にしてしまう嘘臭い良識や平等主義に誰もが抱いている違和感を表現しているのでしょうか?でも、日本の社会は、法律的にも社会通念としても「不倫両成敗」なのです。当事者二人は、片方がだけが制裁を受けることはまず、ありません。日本の法律の根幹にあるのは、「婚姻は保護されるべき契約関係」という結婚観であり、その保護に反する結婚は回行為は、法的・社会的制裁の対象となるのです。

           川谷がいくら「両成敗」が横行する世相を批判してもは「不倫両成敗」は1ミリも動きませんし、ゲス極の女性ファンたちも、音楽は支持したとしても、同時に一女性として「不倫両成敗」も支持するでしょう。既婚者であることを隠して、ベッキーと交際を始めた川谷は当然、制裁を受けるべきです。「悪いことだ分かっていても、好きになったらやめられないよね」と同情や共感の声もあるようですが、既婚者と知った後も交際を続け、妻との離婚を願い、結婚に向かおうとしていたベッキーも、制裁を受けるのは理に適ったことでしょう。


           こうした日本の法律の根底にあるのは、聖書です。明治以降、日本の法律は、西洋文明と出会いとその根底にあるキリスト教文明の強い影響の下で作られてきました。その反映は特に結婚についての法律に強く見られます。聖書は結婚を「相互独占契約」「体の相互独占所有」と位置づけています。神様はそのような秩序をもって、結婚を制定されました。まさに日本の民法における結婚観もこのようなものです。

           その結婚が土台となって、家庭があり、地域があり、国家があります。が芽生え、育てられ、次世代につないでいきます。もちろん、すべての人が結婚し、子どもを育てるわけではありませんし、片親の家庭もあります。多様性は聖書も認めているはずです。また、これは保守的な政治思想にも共通要素があるのでしょう。しかし、天皇を根拠とした家族観・国家間と結婚制定者を根拠とする聖書的家族観・国家間は外面上の類似性はあっても、根本においては全く異なると私は考えています。

           結婚が神によって定められた聖なるものであるからこそ、保護されるべきとの理念は、聖書が示す神様のみこころに基づくことでありましょう。だからこそ、不倫は「姦淫の罪」とされ、旧約では厳しい制裁対象とされていますし、パウロも第一テサロニケ4章などでは、現代風に言えば、「救われたのは、そいうことをしない歩みのためだろーが!」「罪だと認めないなら、信仰捨てたも同然でしょーが!」と厳しく戒めています。

           
           当分、世間の関心となり続け、マスコミを賑わせるこの話題ですが、「なぜ、不倫はいけないのか?」「法的・社会的制裁対象となるのはなぜか?」などの根本理由を考えると、逆に「結婚の本質」「結婚についての神様のみこころ」が見えてくるのではないでしょうか?
          | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 10:57 | - | - | - |
          比較検討〜本当にゲスだった?ゲス川谷と意外とゲスでなかった?ドブ江口
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             芸能関係では、好感度タレントのベッキーゲスの極み乙女。の川谷絵音(リーダーでボーカル)の不倫疑惑で大騒ぎであります。週刊文春がかなり信憑性の高いスクープ記事の掲載を受けてのこと。川谷の奥さんが、探偵を雇ったのか?ベッキーの関係者が買収され内通者となったのか?二人のラインのやり取り画面ベッキーが自撮りした映像(ホテル同伯を示す)など、強力な証拠が掲載されています。これは当人たちには大変なショックでしょう。

             週刊文春WEBでの速報はこちら。
            http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5756

             ベッキーは10本のレギュラー出演と10本のCMを持つタレントです。訴えられたら巨額の賠償となりますから、文春も、裏を取って事実確定しない記事は出せません。こうした報道内容と経緯や背景からして、今後、世間には「ほぼ事実確定」との認識が定着するでしょう。

             レギュラー降板とCMスポンサーからの違約金発生が予想されるので、たとえベッキーが認めたくても、事務所や関係者がそれを許すはずがありません。それで、週刊誌発売前に、火消しのため、一方的な会見をしたのでしょう。証拠写真の説明や釈明は不可能で、かえって墓穴を掘りかねませんから、質問を受けない異例の関係スタイルとせざるを得なかったのだと想像します。

             
             「糟糠の妻」という言葉があります。「糟糠」とは米ぬかや米かすのことで、粗末な食事を意味し、長年、夫と貧しさを共にして、夫を支えてきた妻のことです。川谷が結婚して間もない「糟糠の妻」を裏切っての不倫だとすれば、まさに「ゲスの極み男」であります。文春の報道では、川谷は半年前に結婚したばかりの妻に「大切な女性ができたので離婚して欲しい」と伝えているそうですが、それが事実だとすれば、ある意味、お決まりのパターンです。

             糟糠の妻を裏切ったり、捨てたりは、ゲスの極みですが、残念ながら、男性心理からすれば、ある意味、必然なのです。一昔前には、ミスチルの桜井が、糟糠の妻を捨てて、女性タレントと結婚。他のメンバーが抗議したらしく、一時は活動停止になったと記憶します。今回の川谷の件も、事実であるなら、「ミスチル桜井パターン」の再現であります。


             「なぜ、糟糠の妻は捨てられるか?

             「なぜ、男は成功後にそんなゲスいことをするのか?」


             この疑問に答えるべく、私なりに三つの理由をあげてみます。

            (1)義務感、責任感からの結婚になりやすい。

             長年、苦労を共にしてきた女性を、成功後に捨てるわけにはいきませんし、大抵は「成功したら結婚」の約束をしています。そうした結婚が常に「二人の夢を実現しての喜びの結婚」になるとは限りません。そう思っているのは女性側だけであって、男性にとっては往々にして「なりゆき婚」「義務感婚」「責任上結婚」「不本意婚」になってしまいます。そういうわけで、糟糠の妻との結婚は、男性はあまり乗り気、本気でないことも多く、そもそもが破たんしやすい結婚としてスタートとするわけです。


            (2)糟糠の妻がウザい妻になりやすい。

             いざ結婚生活が始まれば、糟糠の妻としては、当然、これまでの献身に対しての評価や報酬を願います。夫にしてみれば、結婚前は、「自分を献身的に支えるかわいい妻」ですが、成功後や結婚後は「自分の貢献をアピールするうざい妻」に思えます。まさに、ここが男のゲスなのです。

             献身的に支えてきた妻に恩返しをするのは当然です。むしろ「評価や報酬を求めるかわいい妻」と思うべきでしょう。器の大きな男にはそれができます。しかし、器の小さな男は、男のプライドによって結婚を破壊します。「サポーター、ファンとしての妻」はいとおしく思えても、「対等なパートナー」としての妻はウザい存在なのです。そうです。糟糠の妻が変質したのではありません。夫の意識が変質し、二人の関係が破たんに向かうのです。


            (3)成功者は妻より魅力的な女性からアプローチを受けやすい。

             芸能界で成功すれば、多くの美人女性との交際チャンスもあれば、性的誘惑も受けます。特にミュージシャンで作詞・作曲をするボーカルは、美人女性タレントにもてまくります。賢い美人は、意外なまでにスポーツ選手、お笑い、ミュージシャンなど、道を究める男性に魅力を感じるものです。才色兼備の女子アナやベッキーと同類の関根麻里を見れば、明らかでしょう。

             「糟糠の妻がウザい妻に変質した」と事実誤認をして、勝手に結婚生活に不満を募らせている既婚男性に、未経験の美人女性からのアプローチがあれば、どうなるかは、自明の理でしょう。事実かどうかは分かりませんが、文春の報道からは、事実性の高さが伝わるだけに、個人的には「糟糠の妻と成功者男性のよくあるパターンだろうなー、きっと」と勝手に類型化しています。


             「名前の通り、本当のゲスだったの〜!」と世間を騒がせているゲスの極み乙女。の川谷と対照的に見えるのが、どぶろっくの江口です。あの右側で歌う男性ホルモン過剰分泌と思える「自称・がっつりスケベ」であります。妄想エロソングのお下劣路線の芸人も、元旦に結婚を発表し、それまでの経緯が伝えられるとその美談に「意外とゲスじゃないじゃん!」と世間の評価が一転しています。

             江口の結婚相手は、謂わば「糟糠の妻・辞退女性」です。二人は交際後、出産までしたのですが、「あなたは芸人だから、芸を極めて、この子は私が育てるから」と5年間、シングルマザーとして生きてきたのです。報道によれば、江口には、5歳のお子さんがいるだとか。そして、今や人気芸人として安定期に入った江口の方から求婚したらしいのです。ゲスな芸風のお笑い芸人のピュアな美談に、世間の評価は一転しております。


             はてさて、ここまで読むと、同じ成功者でも、「ゲス川谷」と「どぶ江口」が対照的なように見えます。そうです。「対照的なように見える」のです。あくまで「見える」のであって「事実として対照的」ではないのです。川合と江口の違いは、二人の男性の違いに起因するのではなく、女性の側のあり方の違いに起因するのだと私は考えています。つまり、本当に対照的なのは二人の男性ではなく、二人の妻たちの方なのです。

             一旦、「糟糠の妻」になってしまうと、男性の成功後や結婚後には、上に記してきたような危機が訪れやすいものです。器の小さな男性の方は嫌気がさすのです。しかし、江口の結婚相手のように、「糟糠の妻」にならなければ、男性にはいとおしく思えて、共に生きることを願うようです。女性のあり方の違いは、男性の不誠実も生み出せば、男性の誠実さを引き出しもするのです。きっと「糟糠の妻」は男の身勝手を生み出し、「糟糠の妻辞退」は男気を引き出すのでしょう。


             女性読者の皆さん!残念ながら、これが男性の現実、ゲスの極みです。不当にも、糟糠の妻は往々にして成功後、結婚後は夫にとっての「ウザい妻」になりやすいものです。「二人の夢を実現しての喜びの結婚」を夢見ているのは女性だけで、成功後の男性にとっては「なりゆき婚」「義務感婚」「責任上結婚」「不本意婚」に過ぎないことも多いのです。

             この男女の行き違い、男性の身勝手な心理を知りませんと、痛い目にあいかねません。「希望の会社に就職したら結婚」、「資格を取ったら結婚」、「経済的に安定したら結婚」と約束する彼氏を信じて、長年、献身的に支えた末に、その状況を実現した男性から、別れを切り出されるクリスチャン女性を多く見てきました。なかには、「結婚を約束しているのだから」と性的関係を結んでしまい、その結果、「神様を悲しませ、彼も失い、自分が赦せない」と苦しむクリスチャン女性もいます。

             男性理解不足から、結婚に至らない交際を長年続けてしまい、結婚をチャンスを逃し、後悔することがないようにと願うのです。どうしても、若いクリスチャン女性は、「愛」「信仰」「希望」などの名目で、現実的展望を見失いやすいですから。

             私自身は「将来〜したら結婚しよう」と期限不明の約束、実現が確実でない約束をする男性との交際は、よく考えた方がよいとアドバイスします。何年も献身的に支え、待ち続けても結婚に至るとは限らない現実をお伝えしています。「待っても3年までかな?」とアドバイスします。もちろん、男性が約束を誠実に果たし、糟糠の妻と誠実な夫が、末永く幸福な結婚生活を送ることもあります。しかし、相手男性が誠実であっても、なお不誠実な結果になりかねない男性独自の心理は知っておくべきかと思っています。


             ベッキーとゲス川谷の不倫疑惑報道とどぶろっく江口の結婚発表を比較検討しながら、そんなことを考えました。女性の皆様には、これらの報道の背後に予想される男性心理を知っていただき、恋愛や結婚生活に活かしていただければと願います。 
            | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 14:17 | - | - | - |
            「ボヘミアン・ラプソディー」はセクシャリティー葛藤の歌か?
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               本ブログでは、ロックバンドとしての「クイーン」についても、その代表曲である「ボヘミアンラプソディー」についても、かつて記事として扱ったことがあります。

               こちらの記事はかなり強引な決めつけ音楽評論ですが、バンド名やファッションに、男性同性愛者的美学が反映されていることを記しています。

              ロック食品館(2)〜クイーンとは・・・ロック界のコラーゲン鍋や〜


               「ボヘミアンラプソディー」が何を歌っているかは不明であることを記しました。でも、フレディーの自己内の狂気や混乱だろうとの予想もしていました。

              文化遺産としてのロック

               
               なぜ、今さらこんなことを書いているかと言えば、クイーンのボヘミアンラプソディーについてのこんな記事を一友人牧師が知らせてくれたからです。おお、もう40年にもなるのですね。

              ボヘミアン・ラプソディ発売40年 歌詞に隠されていたメッセージとは?

               フレディーの近くにいた理解者たちの言葉だけに、信憑性はかなり高いと思われます。私はセクシャリティーという言葉を、単に性的アイデンティティーを示すだけでなく、その人物全体のアイデンティティーとほぼ同語のように考えています。社会が求めるのとは異なるセクシャリティーに生きるということは、異なる人物を生きることとほぼ同義です。

               きっとフレデイーにとっては、古いセクシャリティーの自分を自らの手で死に至らせることなく、新たなセクシャリティーに生きることは不可能だったのでしょう。死に至るまで、カミングアウトすることのなかった事実は、殺し続けなくてはならなかったフレディーの苦悩を想像させます。

               この名曲は、フレディー自身の内的葛藤や自己分裂を描いているのだろうと言われてきましたが、それは間違いではなかったようです。ただ、セクシャリティー、性的アイデンティティーの葛藤と特定するだけの根拠はなかったわけですが、この記事はかなり強力な根拠を与えたと言えそうです。

               同性愛傾向を持ち苦悩するクリスチャンたちに出会う中で、同性愛行為を罪と考える方でも、その半数は異性愛者に転じたいとは願いません。理由を聞くと、これまで生きてきた自分のすべてが否定されるような気がするのだと答えます。自分を苦しめてきたセクシャリティーであっても、それを否定することは、その人自身のアイデンティティーの否定になってしまうのでしょう。当初、私はその心情や深い思いが理解できませんでした。一定の理解をもってその思いに寄り添えるようになるまで、かなりの年数を要してしまったように感じています。

               今後、同性愛傾向を牧師や同信の親友にカミングアウトするクリスチャンは、日本でも増えてくるでしょう。聖書的にどう判断するかは、大切なことです。私もそのことについては妥協せず自分なりの聖書的な指針を記してきたつもりです。しかし、現実の隣人に接する際には、愛をもってその方の事情と心情と深い葛藤を受け止め、心に寄り添うことを先行すべきだろうと考えています。

               きっと、イエス様も「取税人=盗みの罪」「遊女=姦淫の罪」との聖書的判断を保留し、罪を罪と知りながら、それに苦しむ人々の心情を理解し、心に寄り添い、受け入れ愛しておられたのでしょう。お互いが問われるのは、イエス様のようであるかどうかです。カミングアウトをした隣人が、教会につながり続け、葛藤しながらも、主と共に歩んでいけるかどうかは、カミングアウトを受けた側の意識や姿勢によってかなり決定されます。

               その意味で、いつカミングアウトを受けても、イエス様のような応答ができる準備をしておきたいと願うのです。特に牧師夫妻にはそれが今後の標準装備となるだろうと予想します。いいえ、違い将来には、教職者の必須アイテムとなることでしょう。


               一度、セクシャリティー葛藤の歌との解釈をもって、紹介した記事にあるボヘミアンラプソディーのPVを視聴してみてはどうでしょう。死に至るまで自らのセクシャリティーに苦しみ続けた一人のロックスターの深い思いを読み取り、理解し、受け止めるは、きっとお互いが明日にも身近な誰かから受けるかもしれないカミングアウトに対して、イエス様のような応答をする備えとなることでしょう。


               こちらの記事には、同曲の歌詞の和訳があります。

              [QUEEN クイーン 歌詞 日本語]ボヘミアン・ラプソディ


               記事の最後には、歌詞のどこにも「ボヘミアン」が出てこないことが指摘されています。それはフレディー自身が異性愛社会に背を向けたボヘミアンとの実感をもっていたことを意味するのでしょう。同性愛傾向を持つ多くの方々が、ボヘミアンであるかのような疎外感に苦しめられ、自死を考えます。私が出会ってきたクリスチャンの半数以上もそうでした。

               カミングアウトをしたクリスチャンが、自らをボヘミアンと感じるか?それとも神の家族の一員と感じるか?

               それを決めるのは、カミングアウトを受けたクリスチャンの側の応答に他ならないでしょう。フレディーの苦悩と死を覚えながら、この名曲に託されていたであろう切実なメッセージを、日本に生きるクリスチャンはどう受け止めるのでしょう。
              | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 14:40 | - | - | - |
              酒飲まず、デート中スマホの草食系、セクシャリティーは、震えるチワワ?
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                 先週は山形に向かう道中で、週刊文春を購読。注目の図書を紹介するページには、島本理生という作家の「Red」という書物の書評が大きく掲載されていました。私はこの作家については全く知りません。芥川賞にノミネートされた女性作家だそうで、この作品で初めて「」をテーマに書いたのだそうです。

                 評者の枡野浩一氏によれば、この作品が描くのは、性についての「」ではなく、「徹底した現実」なのだそうです。誌面では、小説のヒロインの女友だちが、いまどき独身男子を評したセリフが引用されているのですが、それが、恐ろしいほどリアルなのです。こういう言葉です。


                 「最近の同世代の独身男子って、お酒は飲まないわ、デート中もスマホ見てるわ、自分から性欲出さないわ、けど、性欲出して一度でも拒否られるともう心折れるわで、もう常に震えているチワワみたいじゃん」(268ページ)

                 
                 これはめちゃめちゃ怖いです。多分、いまどき独身男子のメンタリティーとセクシャリティーと、それに対しての女性たちの不満や失望感を的確に表現しているのでしょう。


                 酒を飲まないのは、きっと酒の力を借りての本音での人格交流が、苦痛なのでしょう。深い心情や本音の思いを聴かさせるのが、重くて高ストレスなのでしょう。さらには、深い心情的絆を持とうとする過程で、自分が傷つくことが予想されるのでそれを避けているようにも推察します。

                 デート中のスマホというのは、最も象徴的だと思います。これは、彼女との人格的交流を避けている姿だと言えるでしょう。多くの男性にとって自分とは異質の存在で理解不能な女性と向き合うのはある意味、苦痛やストレスを伴います。また、心情的な交流の中で、自分が傷つけられること、また、相手を傷つけてしまったことによって、自分が傷つくリスクも伴います。

                 それゆえに、隣や正面にいる生身の彼女との心情交流を避けて、スマホという自分の世界、自分と他者との情報交流に逃げているのでしょう。これは、「傷つきやすい状況」を自分で作っておきながら、「傷つかない世界」に逃避して自分を守っているということなのでは?たとえるなら「戦場に出ていきながら、敵前逃亡している」という構図でしょう。


                 こうしたメンタリティーは、性の世界に反映することを、この刺激的なセリフは見事に示していると思います。「職場と恋愛の人間関係におけるメンタリティー」→「セクシャリティー」という展開です。

                「自分から性欲出さないわ、けど、性欲出して一度でも拒否られるともう心折れるわで、もう常に震えているチワワみたいじゃん」

                 この痛すぎる言葉は、草食系男子のメンタリティー反映したセクシャリティーを見事に表現しているのではないでしょうか?「性欲を伝えること、応答を求めること」と「拒否される可能性とそれによって、傷つく可能性」。それを天秤にかけるなら、通常は後者が勝るから、自分か性欲を伝えないのでしょう。つまり、傷つくのが怖いから正直な思いを伝えられないということです。そして、前者が勝って、伝えたとしても、拒否されるなら心が折れてしまいます。これは、草食系のメンタリティーとセクシャリティーの両者を反映しているように思えてなりません。

                 夫が妻に性的要求を伝えることへの葛藤や躊躇、また、それを拒否され傷つくことは、多くの結婚生活にあっては、大なり小なりあるものでしょう。正直に伝えられないことや一度の拒否で心が折れてしまっては、充実した性生活へと発展することは困難です。また、そのことは、夫婦の愛情の絆を弱め、心理的距離も広げかねません。


                そこで一句。

                酒飲まず、デート中スマホの草食系、セクシャリティーは、震えるチワワ
                 
                 草食系が一概に悪いとは思いません。草食系男子には、彼らなりの恋愛や結婚生活のあり方が、きっとあるのでしょう。ただ、こうしたメンタリティーとセクシャリティーが「結婚不適応傾向」につながってしまうのではないかと危惧をしてしまうのです。人格と向き合い、深い感情交流ができないメンタリティー、心と体を一つにする欲求が、傷つことへの恐れを上回れないセクシャリティーが、夫婦の絆を深めることができるのだろうとか?と心配するのです。


                 「最近の同世代の独身男子って、お酒は飲まないわ、デート中もスマホ見てるわ、自分から性欲出さないわ、けど、性欲出して一度でも拒否られるともう心折れるわで、もう常に震えているチワワみたいじゃん」

                 このことば、めちゃめちゃ痛いです。きついです。辛いです。草食系男子たちはどう、受け止めるのでしょう?その応答には結構、興味があります。彼らが「震えるチワワ」呼ばわりされて、反発を覚えてくれるなら、きっと私の心配も無用なのでしょう。
                | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 21:08 | - | - | - |
                SMバーは、「口にするのも汚らわしい」のか?
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                   宮沢洋一経産相の資金管理団体の支出さきにSMバーがあった件で、民主党の菊田真紀子衆院議員がSMバーのことを「口にするのも汚らわしい」とした発言がネット上では問題となっているようです。ネット上では「職業差別」「マイノリティー差別」「ヘイトスピーチ」などと批判を受けているのだとか。

                   詳細は、こちらのyahoo!ニュースで。

                  「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」


                   多分、菊田議員は、SMバーの実態を知らないのでしょう。実は、偉そうに言っている私も知らないのです。多分、SMショーを見せるようなバーなのでしょう。テレビでは、来客が参加するとの報道もありました。もしかすると、菊田議員は、性風俗の一つで、お金を払ってSM行為をする「SMクラブ」と誤解しているのかもしれません。ゲイバーやストリップバーなら、どうなのだろうとも考えてしまいました。

                   20ほど前なら、女性議員が、こうした店舗を汚らわしいと発言しても、大方の国民は同意したり、聞き流したりで、批判対象とはならなかったでしょう。今は、こうした発言がマイノリティーに対する人権問題となる時代になったのだなーと、時代の変遷を実感しています。

                   昭和の頃は、社会通念上、SMは「性的倒錯」とされていました。平成に入り、その社会的評価は「特殊な性癖」となったようです。最近は「多様な性的指向の一類型」になってきました。つまり、「おかしい→それもありかもね→それもあり」との変遷を遂げてきたわけです。


                   まあ、性的な行為を見せてお金をとるのですから、「性の商品化」という意味で、「汚らわしい」と評価するのは、個人レベルでは、正当だろうとは思います。ポルノを汚らわしいと考えるのと同様でしょう。

                   私自身は、性を見世物にする商業行為は、性の尊厳の冒涜だと思いますので、否定的な評価は当然だと思います。また、言動での攻撃と被攻撃に性的満たしを求めるSMは、「性の邪道」だというのが私の評価です。また、親子関係や成育過程において、不幸にも生まれた心の歪みが、性行為に現れたのがSMだと思うので、健全な性的傾向とも言えません。

                   誰にでも心の傾向としてSやMはあるのでしょうが、それが、性行為において中心的位置をしめるのは、やはり本道を外していると考えます。ですから、差別と言われるかもしれませんが、SM行為を「性的マイノリティーにおける正当な性のあり方の一つ」とは、位置づけません。

                   なぜなら、結婚関係の中で、責任もって共に生きる互いを人格として愛し、大切にして体を一つにするのが、「性の本道」だと考えるからです。そして、その本道の中にこそ、結果として、心と体とさらに霊において最も深い喜びを神様は備えておられると信じているからです。


                    そういうわけで、個人的評価としての「汚らわしい」は、クリスチャンの立場からすれば、正当だろうとは思います。しかし、「汚らわしい」との文言は、そこで働く人々やお客さんの人格を否定する表現とも受け止められるので、まずかったかも?と感じています。また、SMの場合は、それを性風俗ではなく、高尚な「芸術」「美学」とする一部の愛好家がいることもあり、十把一絡げにはできない現状もあるようです。さらに、問題の本質は、「不適切な支出先」であって、「SMバーの評価」ではないのですから、無駄な発言であったとも言えるでしょう。

                   結局、批判はブーメランとなって、菊田議員に返ってきたようです。紹介したyahoo!ニュースによれば、お祭りで男性器を模した巨大なご神体にまたがっておられたことを指摘されてしまいました。「これは、神事だから聖なる行為」という理屈は通用しないでしょう。クリスチャンとしては、これは「現代日本版バアル礼拝」と評価せざるを得ません。霊的姦淫である偶像礼拝と性的姦淫の「最悪セット」であります。これは、クリスチャンにとっては、SMバー以上の汚らわしさと言えるかもしれません。

                   さらに、ニュースによれば、震災関係の批判もブーメランを受けています。「人の批判できるのか?」との疑問はぬぐえません。どうも、「汚らわしい」はその発言の是非以上に、政治家として自ら墓穴を掘る余分な発言であったということでしょう。

                   
                   昭和から、平成に移る頃から、SMに限らず社会通念上「性的倒錯」とされていたものが、「多様な性のあり方の一形態」として、社会的認知を獲得しつつあります。それを、聖書からどう評価するか?そうした性のライフスタイルに生きる人々の人権をどう考えるか?は、既に日本の教会が問われていることであり、今後、さらに厳しく問われることとなるでしょう。今回の「汚らわしい」発言に対してのネット上の批判には、その責任を突きつけられた思いがしています。

                  | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 09:28 | - | - | - |
                  「ディズニーと同性愛」の関係から学ぶべきもの
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                     先週、妻と娘が近所の映画館で「アナ雪」を観賞。帰宅後は、感動を伝えてくれました。「よかったね」と言いながら、少しだけ迷いもありました。それは、少し前から、キリスト教会で、「アナ雪は同性愛推奨メッセージが込められている」などの見解があったからです。

                     そこで、今回は、ディズニーと同性愛の関係を少し記してみます。1996年には、アメリカでディズニーボイコットが起こります。ボイコットを決めたのは、保守的なキリスト教会の諸団体で、理由は、ディズニー社の同性愛者社員やゲイのゲストに対しての待遇などでした。

                     「ディズニーボイコット」で検索してトップにヒットしたのが、こちらの論文。これは、慶応大学の学生によるものでしょうが、第三者の視点から客観的にこの運動を記しながら、本質を示していると思うので、信頼できると判断し、紹介します。

                    「ディズニー・ボイコット」_宗教右派の活動を中心に_
                    http://fs1.law.keio.ac.jp/~kubo/seminar/kenkyu/sotsuron/sotsu11/aoya.html

                     
                     1996年にはアメリカ最大教派の南部バプテストが年次総会でディズニーボイコットを決議しました。続いてアッセンブリーも同様の決議をしたようです。創始者ウォールト・ディズニーは、この論文にあるように、保守的な信仰を持ち、キリスト教的な倫理を大切にしてきたので、ディズニーの作品は、クリスチャンが楽しめる健全なものと評価されていました。

                     しかし、同性愛者の権利運動は大変強いものであり、異性愛者と同等の権利を与えざるを得なかったようです。最近は、アメリカのワールド・ヴィジョンが、同性婚者社員を、通常の結婚と同様の待遇をしたことで、キリスト教会では議論が起こっているようです。

                     (1)「同性愛者に異性愛者同様の権利を認めること」=「同性愛を倫理的に認めること」なのか?

                     (2)「同性愛者に異性愛者同様の権利を認めること」≠「同性愛を倫理的に認めること」なのか?

                     
                     この判断は、画一的にはできないでしょう。少なくとも、アメリカでは、雇用や待遇に関して、同性愛者であることを理由に、不利な待遇をすることは、「差別」だというのが、社会通念のようです。ですから、同性愛を倫理的に認めない保守的なキリスト教団体や企業も、同性愛者と異性愛者に異なる待遇をするなら、差別的と社会的評価を受けてしまうのでしょう。

                     教会によるボイコット運動は、多分(1)の発想で、ボイコットを受ける企業の方は(2)の発想ではないかと私は考えています。もちろん、それ以外の要因も複雑にからんでいるので、単純ではないでしょう。私自身も、同性愛者差別には反対です。原則としては、性的指向に関係なく、人間の尊厳は尊重され、平等であることは神様の御心だと信じています。しかし、同時に聖書を基準に、同性愛行為については、正当な性のあり方として認められないと考えています。(これは、同性愛だけでなく、婚前の性行為も不倫も同様です)

                     仮に、私が同性愛者社員や同性婚社員がいる会社の社長に就任したとしたら、原則として、同性愛者の社員個人を異性愛者と平等に扱いたいと願いますし、それは聖書的に正しいと考えます。しかし、その一方で、同性婚者を異性婚者同様に、配偶者手当を出すか?と問われたら、正直、大きな抵抗感を持ちます。なぜなら、前者は(2)で、後者は(1)だと考えるからです。クリスチャンとして、差別せず、労働者の権利を認める正義より、結婚の秩序を守ることの方がより根本的で、優先すべきだと判断するからです。とはいえ、そこに論理的で強く明確な基準がそれほどあるわけでもなく、自分なりに葛藤や迷いを覚えてしまいます。ましてやアメリカ社会にある会社であれば、大変な葛藤だろうと想像します。

                     様々な意見はあるでしょうが、アメリカ社会のこうした背景を無視して、日本のクリスチャンが簡単に是非を論ずるのは、少し無謀だろうと思うのです。逆に、日本のキリスト教会にも押し寄せているこうした同性愛容認傾向自体をどう考えるかは、大きな課題でありましょう。「聖書から、どう考えるべきか?」また、「自分がアメリカ企業の社長なら、どう判断するか?」を自問すると、評論家ではない、責任ある考察ができるのではないでしょうか?

                     こうした同性愛容認傾向は、日本にも強く及んでいます。日本でも「ディズニーと同性愛」の関係を考えさせられる事例がありました。昨年は、東京ディズニーリゾートで、女性同士の同性婚結婚式が行われ話題となっています。

                    元タカラジェンヌが東京ディズニーリゾートで史上初の同性婚
                    http://matome.naver.jp/odai/2136219568681617401

                     当初は、二人の内、どちらか片方は、タキシードで男装するよう求められたそうですが、最終的には写真のように二人ともウエディングドレス姿での挙式となりました。司式した牧師あるいは神父は本物?だったのでしょうか?同性婚を支持するキリスト教教職だったのかどうかも気になるところです。

                     こうした経緯があるからでしょう。常にディズニーの作品に、同性愛的暗示や刷り込みが隠されているのでは?と思い、探すクリスチャンたちがアメリカには多くおられるようです。今回の「アナ雪・同性愛映画疑惑」もそんな経緯で起こったのかもしれません。


                    最近あるクリスチャンの方からこんなサイトを紹介されました。
                    アナと雪の女王を同性愛映画だと見られる8つの理由
                    http://japanese412.blogspot.jp/2014/02/8.html

                     客観的に見て、この見解は、「同性愛映画」と判断するには、あまりに根拠が乏しいように思います。これは「マツコ・デラックスが登場するミスドーのCMには同性愛コードが隠されている」という主張と同じくらい無理がある強引な論理では?

                     また、同じ「ありのまま」でも、レディーガガの"Born this way"は、歌詞で明白に同性愛を肯定していますが、ビートルズの”Let it be”はマリヤ様?の知恵の言葉で、ビリージョエルの「素顔のままで」では、友情ソングでしょう。どの歌も同性愛者が自らに適用して歌うことはできますし、こじつければ、世界中の「ありのままソング」はすべて同性愛コードを含むことになります。

                     とにかく、制作側の中心に同性愛者がいるとかの理由がなければ、やはり根拠としては弱いと思うのです。また、このサイト自身が「イルミナティー陰謀説」を唱えていたり、かなり、極端な言論(トンデモ言論?)を発信しているサイトであることからも、どうかと思っています。こうした読み込みや隠されたコードを専門に扱っており、信憑性は低いと判断すべきでしょう。


                     知人の牧師からいただいた情報によれば、米国のあるクリスチャンのラジオ放送で、同性愛のイデオロギーを広げるために作られた映画であったと言うが流されたそうです。しかし、結局その番組の制作者二人とも、映画を見ていなかったことを後で認めたため、彼らのコメントはあまり信頼されなくなったとのこと。一方で、米国フォーカス・オン・ザ・ファミリー映画書評サイトは非常に肯定的に評価し、ファミリーで見に行くことを勧めているとのことです。

                    〈付記〉
                     この記事は数日前に書いたのですが、その後、同じ牧師より情報をいただきました。それによれば、この「アナと雪の女王を同性愛映画だと見られる8つの理由」の元サイトとなるアメリカのサイト主催者は、クリスチャンでもなく、また、真面目な批評でもないそうです。単に注目を集めたいだけなのだとか。真面目に論じて損した気分です。(付記はここまで)


                     かなり保守的と言われるフォーカス・オン・ザ・ファミリーの判断もあり、個人的には、この映画を「潜在的同性愛推奨目的映画」と判断し、警告をするのは行き過ぎではないかと考えています。直接的な情報の乏しさもあり、日本のキリスト教会はどうしても、アメリカの公平性と信頼性に欠けるサイトの情報を真に受けてしまい、どうかと思われる誤解や議論が起こることも珍しくないようです。今回の疑惑も、もしかするとそうしたものの一つだったのかもしれません。


                     今回はディズニーと同性愛の関係から、いろいろと記してきました。「アナ雪」についての判断はともあれ、今後、日本社会全体は言うに及ばず、キリスト教会にも、同性愛容認の波は大きく押し寄せるでしょう。同性愛者の現状や日本の文化を考えると、アメリカのような強い権利運動にはすぐにはならず、ましてや企業への圧力団体として機能するには至らないでしょう。

                     しかし、そろそろ、日本でもクリスチャンが本気で考えるべき時期は来ているように思います。未信者に尋ねられたら、聖書的でありながら愛のある返答ができるかどうかが、今後、問われる場面は増えるでしょう。

                     保守的な信仰に立つクリスチャンにとっては、同性愛に対して、「聖書を基準に反対しながらも、同性愛者を人格として尊ぶ」、「同性愛を正しい性のあり方とは認めないが、同性愛者の人権を尊重する」という言動が求められていくことでしょう。私はそれが聖書的であり、「神の愛と義の両立」だと信じています。

                     そして、この指針が、実際の同性愛者や同性婚カップルに対して、具体的にどのような判断や姿勢として現されるべきなのか?これは、難問だと思うのです。クリスチャン読者の皆様は、一度、「自分が、アメリカ企業のトップであったら、どう判断するか?」「同性愛者社員を平等に扱うか?同性婚者に異性婚者と同様の福利厚生を認めるのか?」をお考えになることをお勧めします。

                     その葛藤や苦悩から、「聖書的だけれども、冷たい正論でも机上の空論でもない、しかも正解とは言い切れない」。そんな真実な見解は生まれてくるように思うのです。


                    〈後記〉
                     アメリカ在住のクリスチャン読者より、多くの有益な情報をいただきました。そのうちの一つをお知らせします。アメリカでは、同性愛者への扶養手当なども含めて、異性愛者と平等の待遇をすることが、今年になり、法律で決められたそうです。ですから、上の記事で記したように、同性愛者への配偶者手当を給付しないことは、違法行為となり、ありえない選択となっているようです。
                    | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 11:23 | - | - | - |
                    性経験数=恋愛経験値、数と深さは反比例の法則?
                    0
                       南国のブログ王子、久保木牧師が、大変興味深く有意義な記事を書いて下さいました。とにかくこれはお読みいただきたいです。

                      「性体験の人数が多いからと言って、恋愛経験が豊富なわけではない」
                      http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp

                       これは、社会学者宮台真司氏が、2000年に大学生に行ったアンケート結果が報告されています。宮台氏と言えば、10年前には、私の仮想敵国でした。性に関しては「不道徳?過激派社会学者」として、よくも悪しくも評判でした。それがクリスチャンと結婚され、今では、洗礼を受けてはおられないそうですが、その発言はほとんど敬虔なカトリック教徒のようだとお聞きします。

                       その宮台氏が、私がまだ同氏を敵視していた2000年頃に実施したアンケートを、久保木先生は紹介して下っています。それによれば・・・。

                      「両親が愛し合っている」と思っている大学生は、恋人がいる確率が高く性経験人数が少ない
                      「両親が愛し合っていない」と思っている大学生は、恋人がいる確率が低く、、性経験人数が多い

                       これは、実に意義のある統計であります!愛し合う両親の姿が、子どもにとっては深い人格的性教育になることを示しているのでは?と思うのです。愛し合う両親を見て育った子どもは、自然に、性を人格的絆との関係で考え、そうでない性行動を避けたり、嫌悪する傾向があるように推測します。実際に多くの異性と性関係を持ち、人格的絆を作れない方々に多く出会ってきましたが、やはり両親の夫婦関係が悲惨な方が多かったです。

                       「性体験数の多さが、恋愛の質的低下につながっている」というのは実に聖書的帰結だと思うのです。きっと数が多いほど、関係性は浅く数が少ないほど、関係性は深くなるのでしょう。性のハードルが低くなるほど、相手との人格的交わり相手を理解する前に、性関係を結ぶことになります。すると、性関係が成立してから、相手の人格が分かってきて、嫌になり、心の絆を結ぶ前に、別れてしまうのかな?とも予想します。

                       いずれにせよ、聖書が示す「性の人格性」を指し示す統計結果のように思うのです。願わくは、宮台氏が早く洗礼を受けられて、聖書が示す性のライフスタイルが、最も安全で深い性の喜びを与えることを社会学的裏づけをもって、日本の社会に発信していただければと願います。あの迫害者パウロが、キリストの使徒となったように、反キリスト的であった宮台氏が、キリストに栄光を帰する日がやってくることを願ってやみません。

                       重ねて、久保木牧師の記事を読まれますように。そして、既婚者の方は、子どもの将来のためによき夫婦関係を築かれますように願います。独身者の方は、性体験の多さが恋愛の質を低下させる現実を心に留めていただき、幸せな恋愛と性の結婚に向かわれますように切望します。
                      | ヤンキー牧師 | 今どきの恋愛と性を考える | 21:31 | - | - | - |
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