「日本を愛するキリスト者の会」については、「
過去に繰り返されてきた逸脱や失敗の再現」との評価がネット上で多く見られます。確かに過去において
類似かな?と思われる事例は多いようなので、私なりに、
日本において代表的なものを三つほどあげてみます。
一つ目は、
中田重治師の残念な晩年です。以下のWikipdiaの「分裂」と「晩年」の項目には、そのことが記されています。
wikipedia「
中田重治」
「
日ユ同祖論→神道的信仰理解→国家主義→戦争協力」という流れが見て取れます。分裂後に中田師を創始者とした「きよめ教会」は、
国家主義に賛同し、
戦争に積極的協力をしてしまいました。国家による宗教団体の統制にも賛同を示し、神道の教義であり、当時の軍国主義国家の理想であった「
八紘一宇」(道義的に国家を一家族のようにすること)の実現を目的としていたことがわかります。「きよめ教会」の流れにある現在の教団や団体は、真摯な悔い改めに立ち、歩んでおられることは付け加えておきます。
二つ目は、
キリストの幕屋です。
Wikipedia 「
キリストの幕屋」
無教会から分裂し、
異端視されている団体です。創始者の
手島郁郎は、やはり「日ユ同祖論者」代表の一人です。機関誌は「生命の光」で、手にしたことのある方も多いのでは?
靖国神社を参拝し、「
新しい教科書をつくる会」をリードするなど、宗教的には聖書からの逸脱で、政治的には右派です。 日本人の精神に合致するキリスト教を目指し、
伝統的な聖書の教理を破棄したことが、異端と判断される決定的根拠なのでしょう。
三つ目は、「
みくに運動」です。実は、
朝岡勝先生がFBで、以下の論文を紹介しておられて、私も初めて「みくに運動」を知りました。
小室尚子師の論文〜「みくに運動」におけるキリスト教土着化の問題
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000188488
これは小室先生の東神大大学院の修士論文。小室先生は現在、
金城学院大学の宗教主事で、以前、同大学の非常勤講師であった頃は、個人的にも随分お世話になりました。この論文によれば、1930年代スタートし、やはり
神道的な信仰理解をして、
皇国において神の国の実現を目指していたようです。
この論文は、「みくに運動」を通じて
福音の土着化を困難とする日本人の精神構造を明らかにすることを目的としています。結語の中で、みくに運動の逸脱と失敗の原因に言及したこの言葉は、特に、
本質を示しているのでは?
「絶対者なる神を
相対なる位置に引きおろし、彼らの
潜在意識の中に見出したものをそれに代えた」
では、その潜在意識の中に見出したものは何かと言えば、小室先生は、「日本人の潜在意識の中には
古代神道から育まれた意識がある」と指摘しています。何らかの状況などがきっかけとなり、それは、無自覚に現れるようですが、みくに運動の場合は
ファシズムの波であったようです。
もしかすると、「
内なる救霊の熱心」と「
外なる右傾化状況」のセットは、日本人の潜在意識下に潜む
古代神道的意識を浮上させるのかもしれません。
三つの過去の事例に
共通することを五つにまとめてみます。
まずは、「
日ユ同祖→皇国史観、国家主義→伝統的教理からの逸脱」というある意味、
必然的な流れです。私が日ユ同祖論有害論者なのは、日ユ同祖論自体が、既にこうした
可能性を内包しているからです。
二つ目には
聖書観の問題です。日ユ同祖論者は、聖書から「
暗号」や「
隠された奥義」を読み取ります。そうした聖書の読み方自体が問題視されます。さらに、そこから得られた真理や奥義には、
誤りの可能性もあれば、
客観的検証も困難です。ですから、聖書に明記されている
普遍的な教理と同列に、いいえ、それに優先するものとして、
確実性の低い真理や奥義が位置づけられることは、正統的な聖書観ではないと思います。
三つ目には、創始者が、
熱烈な宣教の思いと
優れた知性を併せ持っていることです。一見、
理想的な信仰リーダーのように思えます。しかし、反面、こうしたリーダーこそ、
カリスマ性を有し、
交わりに生きる必要を覚えずに、他者の声に耳を傾けず、
教会論的なあり方を失い、逸脱しやすい傾向があるのではないでしょうか?
四つ目には、
外的状況です。三つの事例は、いずれも戦前・戦中のことです。宣教面では
困難であったり閉塞感が強い状況でした。社会的には、民族主義、軍国主義で、
極端に右傾化していく状況でした。その中で
宣教の突破口を、「日本人の精神に合ったキリスト教」、とりわけ「
日ユ同祖論」に求めていったのかもしれません。
五つ目には、その
結果です。その結果や現在における評価はどうでしょう。晩年の中田重治師は、
分裂とリバイバルの停滞を招いたとして、一般的には
失敗・逸脱と評価されているようです。キリストの幕屋は
異端視され、みくに運動は最終的には
消滅したようです。三者共通の
聖書から逸脱した教理に立つ宣教は、健全な実を結ぶことはできませんでした。
私なりに乱暴なまとめ方をするとこうなるでしょうか?
「内なる
救霊の熱い思いと優れた知性」+「外なる
宣教停滞と右傾化」→「
日ユ同祖を根拠とする国家主義的な宣教」→「宣教の
失敗、
分裂または
異端化」
はてさて、過去の
三つの事例、そして、
五つの共通項を見る時、今回、設立された「日本を愛するキリスト者の会」は、「
どこが同じ」で「何が違う」のでしょう?今回私が提示した事例や共通項自体が
誤りなのでしょうか?「自虐史観」が定着した
この時代にあっては、類似事例であっても、従来の事例とは本質において違うのでしょうか?
その検証が、この会に対しての
正しい理解や評価につながると思うのです。多くの方が指摘するように同会が「
過去に繰り返されてきた逸脱や失敗の再現」をされぬよう願っています。