命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
教会が船なら、客船、漁船、カヌー、それとも、公園のボート?
0
     先日の記事「牧師は船長で、信徒は乗客か?」が、かなり拡散しているようで、多くの「いいね!」をいただいております。そんな中、昨日は牧師らが60人弱集まる集会(TEF総会・講演会)に出席。そこで、近くに座った若き伝道者からお聞きしたのが、「教会をカヌーにたとえた話をきいたことがある」との話。これは、なるほどと納得。


     そこで今回考えたのが、「教会が船なら、それは、客船か?漁船か?カヌーか?それとも公園の池のボートか?」ということ。

     客船であるとすれば、先日の記事の通り、「牧師が船長、信徒は乗客」ではなく「牧師も信徒も船員」で「未信者、求道者が乗客」だろうと思うのです。

     しかし、教会は、人をすなどるのですから、「漁船」という面があるはずです。では、教会が漁船であるとするなら、信徒は「漁師」となるはず。チームとなって、共に労して、魚を取とるわけです。牧師も漁師なのでしょうが、役割としては、リーダーで、漁師たちを教育指導するとともに、漁全体を仕切るのでしょう。

     信徒の皆様におかれましては、牧師一人に漁をさせて、自分は丼に白飯を盛り付けて、「センセー、まだー?腹減ったんだけどー」と箸を片手に海鮮丼の具を要求することのないようにと願います。こうした船上での態度でありながら、不漁を牧師一人の責任とするのは、大きな考え違いだと思うのですが、どうでしょう?自分の役割を自覚しないそうした自己充足的態度は、漁船の経営を破たんさせかねません。また、牧師の皆様におかれましては、船上の漁師たちが、ちゃんと漁をするように、励まし、教えたいものです。牧師は教師なのですから。


     さらには、教会は、一致して宣教と教会形成を前進させるのですから、奉仕という面では、カヌーにたとえることができるでしょう。言うまでもなく信徒の方々は、漕ぎ手です。牧師は最後尾で、指示を出し漕ぎ手をリードする「舵取り」でありましょう。漕ぎ手は、舵取りの指示に従い、一致して、同じタイミングで漕ぐのです。「聖徒を整え、奉仕の働きをさせる」というイメージには、このたとえが近いのでは?

     漕ぎ手の皆さんが、カヌーの船上であぐらをかき、おにぎりをほおばり、お茶を飲んでばかりというのは、どうかと思うのです。それで、舵取りに向かって、「船が進まない」と不満を伝えるのは、あんまりだと思うわけです。一旦、こうした漕ぎ手になってしまうと、意識変革は大変かと思いますが、舵取りの皆様におかれましては、カヌーを前進させるために、献身されたのですから、勇気と忍耐をもって、漕ぎ手の意識改革に努められますようお願い申し上げます。


     最後に教会は、交わりという面では、公園の池のボートかと考えるのです。目標に向かって船を進める必要はありません。同じ池の同じ船に乗って、話し合うこと自体に意義があるのです。ところが、公園のボートで漁業を試みたり、他のボートとレースを始めたりする乗組員も一部いたりします。漁船やカヌーとお間違えなのでしょう。

     たぶん、交わり自体の意義を理解も実感もできないがために、交わりを宣教や奉仕に変質させてしまっているのだと思われます。自分が何の船に乗っているかを忘れ、こうした勘違いをするのは、目的達成主義、活動主義、業績主義に陥りやすい男性乗組員に多いように観察しております。

     もちろん、女性乗組員も時に、漁船上で会話に花が咲き、不漁に終わる、カヌーの競技中に交わりが充実しすぎて、レースに負けるなど、どうかと思われる事例があるのは、周知の事実?でありましょう。



     教会という船は、場面や働きによって船が変化するようですが、私なりに、無理やりまとめるならこうなるでしょうか?

     教会をにたとえるなら、

     教会形成においては「客船

     伝道においては「漁船

     奉仕においては「カヌー

     交わりにおいては「池のボート


     多面性を持つ教会であるが故に、「今、どの船に乗船しているか?」との自覚と、教会全体の共通認識は、大切なように思うのです。この無理やり感満載のたとえが、何かのお役に立てば、うれしいです。
    | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 15:05 | - | - | - |
    三つの愛に愛されて生きる?21世紀のクリスチャン(2)
    0
       本ブログで自己愛性信仰障害をスタートし、雑誌「船の右側」でも連載をして下さり、何名かの方から、感謝の声をいただいております。その多くは、「理解困難であったクリスチャンが理解できた」というものでした。「クリスチャンなのにどうして?」が「クリスチャンでもこうだよね」に「クリスチャンにはありえない!」が「いまどきクリスチャンならありえるかもね」に変わったようです。問題が解決したわけではないのですが、問題の本質理解には多少なりとも役立ったとしたらうれしい限りです。

       そして、今回は、別の表現で、「理解困難ないまどきクリスチャン」の理解に役立てばと願って記事を書いてみました。どうしたわけか、きっと自己愛による心の歪みのせいでしょう。いまどきクリスチャンの中には、聖書が示す愛について、この三つに限定して、受け止めます。前回の繰り返しになりますが、この三つです。


      神様は自分を愛しておられる」(神→自分) 

      「神に従う教会は自分を愛してくれる共同体」(隣人→自分)

      「ならば、自分が自分を愛するのは当然で正当」(自分→自分)




       どれも、矢印は自分に向いています。この三つの「自分が愛される三つの愛」が、福音の根幹であり、その信仰理解に従って、教会生活を送るわけです。すると、どうなるかは明らかです。


       この信仰理解に立つと、神を愛するのでなく、神に愛される一方通行の愛で生きるのです。その神観は「自分を愛してくれる全知全能の神」なのです。間違っても、「自分がすべてを捨てて愛し従うべき神」ではないのです。

       ですから、神を愛するが故の犠牲や従順は、ありえません。たとえ、聖書に明記されていても、その教えはスルーです。牧師や兄弟姉妹から、戒められても、悔い改めは困難です。なぜなら、自分が信じているのは、「自分を愛してくれる神」であって、「自分が愛すべき神」ではないからです。要は「神観」という土俵が既に違っているのですから、説明や戒めをするほど、自己愛にしがみついてしまい、なかなか功を奏しません。


       また、隣人を愛するのでなく、隣人に愛される一方通行で生きています。「神が自分を愛している」という事実は、正常で健全な人間の場合には、「神を愛そう」「隣人を愛そう」という「愛の応答」と「愛の転用」に結びつきます。しかし、三つの愛で愛されて生きるクリスチャンは、そうではありません。自己愛によって、歪められこういう論理になっているようです。

      「自分は神様に愛されている」→「教会は神に従うべき共同体」→「教会は自分を愛するべき

       
       すさまじいまでの自己愛的な論理展開です。こうなれば、当然、人に自分を愛するよう要求し、愛が不十分なら、教会には愛がないとの定番フレーズで訴えます。一方の自分は隣人を愛することもせずに、平気でそうした訴えを繰り返すことできるのです。周囲は呆れますが、当人は、本気で不当性を訴えているのです。なぜなら、この論理が聖書の教えだと信じているからです。


       さらに驚くべきことには、自己愛だけは例外で、何の躊躇もなく、自分で自分を愛します。神や隣人を二の次にして自分の欲望や快適さを満たし、自尊心充足と自己実現にまい進します。「三つの愛に愛されて生きる」という福音が自己欲求の正当化として利用されているのです。

       自己愛が信仰の中心にあるので「クリスチャンなのにどうして?」と言われても、理解不能です。話が噛み合いません。ましてや自らの強い自己愛傾向を罪や過ちと認めることはできません。(神ではなく自分の願望実現としての)「自己実現は、クリスチャンとして間違いです」などと言おうものなら、「何が悪いのですか?!」と逆切れするクリスチャンも。実際に、ここ数年、そうした事例をいくつかお聞きしています。


       牧師は、神と人を愛するようにと「二つの愛に生きる道」を説いていても、いまどきクリスチャンたちは、それを「自分は神様に愛されている」を土台にして受け止め、「三つの愛に愛されて生きる道」に、即時変換しているのかもしれません。

       カウンセリングブームの1990年代に大量発生した「三つの愛に生きるクリスチャン」たち。そして、2010年代に大量増殖しつつある「三つの愛に愛されて生きるクリスチャン」たち・・・・。


       「大量発生」とか「大量増殖」とか言っても、害虫ではないのですから、駆除などしてはなりません。このタイプのクリスチャンたちも21世紀の日本の教会を支えていくメンバーなのですから。

       根底において、福音とは異質の「三つの愛に愛され教」を信仰しているクリスチャンたちを、どう、健全な信仰者に育てていけばいいのでしょうか?根本的な神観や信仰理解を矯正するにはどうすればいいのでしょうか?根底にある心の歪みの矯正には、カウンセリングなどの医療的アプローチも必要なのでしょうか?たとえ、そのアプローチが正しく有効であったとしても、当人に拒否されてしまうという現実を前に苦慮している方々も少なくないように思います。実に困難な課題が、起こっているようです。
      | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 20:11 | - | - | - |
      三つの愛に愛されて生きる?21世紀のクリスチャン(1)
      0
         この記事から、フェイスブックと連動して同時投稿されると思いますので、よろしくお願いします。

         自己愛については繰り返し論じてきたので、補足的に思いついた記事を追加します。イエス様は最も大切な戒めを問われ、「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」の二つを一つのこととして、律法の本質として示されました。

         1990年代くらいからでしょうか。これに「二つ」でなく「三つ目」が追加される解釈が浸透してきました。それは、「聖書には『自分を愛するように』とあるのだから、隣人を愛するためには、自分を愛する必要がある」というもの。たとえば、ある方は「三つの愛に生きる」と題して、「神、隣人、自分」の三者を愛することを勧めます。90年代には時々「神に愛されて、自分を愛せるようになり、そして隣人を愛するのです」のような愛の教えを、頻繁に見聞きしたように記憶します。

         そのような見解は、「自己愛が充足されて、他者愛に移行する」との心理学上の原理で、福音を再構築したものではないか?との疑問は常に投げかけられてきました。私自身も90年代のカウンセリングブームの中で、信仰を育んできたので、ある程度、それを真に受けてきた面は否めません。

         改めて聖書から考えてみると、こうした福音理解は「自己愛充足神話」ではないかと思えたので、そのことを「自己愛充足神話崩壊」と題して記事にしました。

        続・自己愛性信仰障害(1)「自己愛充足神話」崩壊?
        http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3894

         そこで、今日のテーマです。どうも、一般社会における近年の自己愛肯定傾向を受けて、この「三つの愛に生きる」「神と隣人と自分を愛して生きる」は、さらに、バージョンアップしているように観察しています。これはこう表現できるでしょう。


        「三つの愛に、愛されて生きる」

        神と、隣人と、自分に愛されて生きる」


        となるでしょうか?

        この三つの愛の方向性はこうなります。

        神→自分 

        隣人→自分

        自分→自分


         どれも、矢印は自分に向いています。愛のすべては「自分が愛される愛」なのです。この世のすべての愛の対象は自分なのです。つまり、神、隣人、自分の「総動員自己愛」なのです。

         20世紀までは、この日本において、クリスチャンは、「神と隣人を愛する人」と誤解も含めて見られてました。しかし、21世紀は、クリスチャンは「思ったほど、神と人を愛していない人」と世間から見られ、やがては、「もしかすると自己愛のかたまりかも」という残念な評価に転じてしまうのかも。

         そうなれば、高尚な伝統的宗教と評価されてきたキリスト教もやがては、「結局、ご利益宗教で、新興宗教と大差なし」との評価を受けることになりかねません。

         1990年代には、「三つの愛に生きるクリスチャン」が大量発生しましたが、この2010年代は、「三つの愛に愛されて生きるクリスチャン」が、大量増殖しているように思えてなりません。


         もし、「神と隣人を愛せよ」があくまで、「二つの愛する愛」に生きることを意味する福音の根幹だとしたら、これはエライこっちゃであります。ここ30年ほどで、「二つの愛する愛」は、自己愛を加えた「三つの愛する愛」に変質し、さらに近年は「三つの愛される愛」にまで、歪められてしまっているように思えるのですが、どうでしょう?

         この「愛についての根本的誤解、非聖書的教理」が、近年のキリスト教会の宣教停滞と信仰継承の衰退の根底にあるのではないかとも思うのです。時期的にも、この30年間に重なっているのは、決して偶然ではないでしょう。

         そこで、私なりにこの問題をこう命名しました。


        三つの愛愛されて生きる21世紀クリスチャン問題」


        この問題、一度、検討してみるべきではないでしょうか?
         
        | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 20:49 | - | - | - |
        続・自己愛性信仰障害の時代(5)〜自己愛の最終目的化と成熟拒否
        0

           今日で最終回としましょう。先日、移動中にラジオから聞こえてきたのは、平原綾香さんが歌う「スマイル・スマイル」という曲。作詞も平原さんだそうです。歌詞が心に沁みるとラジオ・パーソナリティーが絶賛しておりました。

          「平原綾香 スマイル・スマイル」歌詞
          http://j-lyric.net/artist/a00002a/l0293cf.html

           ラジオパーソナリティーがとりわけ絶賛していたのが、この歌詞。

          がむしゃらでいい、一生懸命がいい、あなたのままでいい


           なるほど!これは心に沁みる歌詞です。誰もがこんなことを言って欲しいのです。多分、日本の若者は世界一自己肯定感が低いはず。こういう言葉を必要としているのです。

           では、「この歌詞が正しいか?」となると急に怪しくなるわけです。こんなことを言って、無責任でないのは、せいぜい相手が、中高生ぐらいまででしょう。少なくとも、社会に出た人間に私はこんな無責任な励ましはできません。

          社会参加してからのいい大人の場合はまったく正しくないと思うのです。


          「がむしゃらでは、困る。周囲と調和をしろよ。

           一生懸命はいいけど、独りよがりは、周囲が迷惑だぞ

          あなたのままでは、周囲の信頼は得られないぞ」


           社会性があり、周囲と調和し、一致を乱さず、自己客観視ができて適切な努力ができるという「前提」がなければ、「がむしゃらでいい、一生懸命がいい、あなたのままでいい」は無責任きわまりない言葉であります。

           いい大人の男性が、こんなのを聞くのは、妻か彼女、あるいは飲み屋の女将か愛人さんからだけでありましょう。つまり、愛情関係や打算関係においてだけです。職場など、当人と共に生活をかけている人々にはちょっと言ってもらえそうにありません。せいぜい「失敗を恐れずに、思い切ってやれ」まででしょう。

           自己肯定感が持てずに大人になりがちな日本社会にあって、こうした無責任なメッセージは実に有効です。人々が必要としているからです。歌や書物なら売れて儲かります。そして、教会なら、人が来てくれます。


          がむしゃらでいい、一生懸命がいい、あなたのままでいい、神様に愛されているのだから


            ここ数十年はこの手のメッセージが、当世の心情にアピールして、有効な伝道フレーズになってきたのでしょう。もちろん、これは「神様に愛される」という面では正しいでしょうし、聖書的なメッセージだと思います。しかし、既に救われたクリスチャンにまで、いつまでもこのメッセージのみを発信し続けるなら、先に示したように、大人に向かわせるには、無責任すぎるのでは?


          「がむしゃらでは、困る。キリストの体として調和と一致をもって行動しろよ。」

          「一生懸命はいいけど、御礼言葉で自己正当化して、独りよがりなのは証しにならんでしょ。」

          「今のあなたのままでは、神様からも兄弟姉妹からも信頼は得られないぞ」


           そうです。神様に愛されているからって、いつまでも、子どもじみたがむしゃら独りよがりの一生懸命や「幼稚なあなたのまま」が許容されると思ったら大間違いであります。聖書は明確に成熟を命じています。キリストの体としての自覚をもって、周囲と調和し、教会の一致の中で、行動する成熟を聖書は命じています。神様に対しての個人的「がむしゃらさ」はよくても「教会内でのがむしゃら行動」は困るのです。一生懸命も神様の御心、すなわち聖書の原則に従った正しい目標に向かっていなければ、空しいだけです。

           未成熟なクリスチャンの「がむしゃら」と「一生懸命」が教会の調和を壊し、周囲を傷つけ、神様に苦笑いをさせるのはよくあることです。私も身に覚えがありすぎです。それでも、周囲の寛容さに支えられ、たくさん赦され、時に戒められて、その未熟さを卒業していくものです。そして、御言葉に従い、キリストの体として歩みうる成熟に向かっていくわけです。


           ところが、自己愛が強すぎますと、神様に愛されることが最終目的となってしまいます。母親にいつまでも、可愛がってもらいたかったら、大人にならないことです。未熟なまま、依存的で甘えていればいいのです。下手に成熟などしてしまうと、母親から甘やかしてもらえません。人格的成熟もせず、社会参加もせず、ニートでいれば、母親はずっと自分に子どものように面倒をみて、愛情を注ぎ続けれてくれます。

           ちょうどそのように、神様に愛され続けることが最終目的となってしまえば、成熟に向かうモチベーションなどありません。未熟なままでも、最終目的である神の愛は注がれ続けるからです。子どもじみた「がむしゃら」で、キリストの体として生きなくても、独りよがりの一生懸命で、御言葉から逸脱していても、「未熟なあなたのまま」でも、最終目的である神様の愛は変らないからです。

           神様の愛に応答して神様に喜ばれる歩みを願うというモチベーションがなければ、聖書の言葉に従い、キリストの体として生きる成熟を願うわけがありません。


          がむしゃらでいい、一生懸命がいい、あなたのままでいい、神様に愛されているのだから

          「がむしゃらに一生懸命、礼拝・聖書・お祈り・奉仕・献金しているあなたのままでいい、神様に愛されているのだから」


           このメッセージだけで教会形成がされたり、このメッセージ以外は拒否しながら信徒が信仰生活を続けてしまっているとしたら、その教会は「永遠の初心者コース」となってしまうでしょう。成熟拒否が標準化されたなら、どんなに大きな教会あっても実態は「卒園者のいない幼稚園」となりかねません。それでは、教会に集うクリスチャンたちは、サザエさんのタラちゃんと同じでしょうが!当人たちが、それで自分を大人だと思っていたら、それは滑稽を通り越して、かなり痛い悲劇ではないでしょうか?


          「がむしゃらを卒業して、キリストの体として調和と一致をもって行動できる大人を目指そう!」

          「独りよがりの一生懸命は捨てて、御礼言葉に従う歩みに一生懸命になって、証しをしよう!」

          「『あるがままのあなた』から『みこころのままのあなた』に変えられて、神から人も信頼をいただき共に働きましょう!」

          「神様に愛されているのは、当たり前。それはもういいでしょう。神様の喜びと神様の栄光を第一とする歩みをしてゆきましょう!」

           たとえ、拒否されても、スルーされても、逆切れされても、教会は、そして成熟したクリスチャンたちは、そうした初心者卒業への招きを絶えず発信していくべきだと私は考えています。もちろん、成熟拒否をする方々への深い理解や愛の配慮、そして、忍耐をもってです。

           「そうした招きがあれば、私だってちゃんと成長したのに」という信徒が一人たりともいないことを願います。神様から「あなたがその招きをしなかったから、あの方は初心者止まりになったのです」とお叱りを受けてはならないと思います。少数ではあっても、応答する方はいるはずです。そうした「潜在的自立クリスチャン」が「潜在」のまま終わっていくのは、教会の未来を暗くする恐ろしい損失でありましょう。

           自己愛が最終目的化されたら、成熟拒否が起こるのは当然の帰結でしょう。それは、残念すぎる現実ですが、その声の力に負けることなく、成熟への招き、自己愛を克服しての初心者卒業への招きが発信し続けられることを願ってやみません。


            平原さんの歌は、多く人々が求めているメッセージを提供する優れた歌詞でしょうが、キリスト教会がいつまでも同様のメッセージのみを発信し続けることは問題であろうと思い、こんなことを書いてみました。5回にわたる「続・自己愛性信仰障害の時代」にお付き合いをいただき、ありがとうございました。

          | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 19:05 | - | - | - |
          続・自己愛性信仰障害の時代(4)〜自己愛助長要因としての再臨不在の福音提示
          0
             最近は説教でテサロニケをテキストに選んだり、コリント書から聖餐論をを扱っているせいか、結構、礼拝説教で再臨について語ることが多いです。再臨とは、被造物世界全体の贖いの完成を示すものでしょう。また、キリスト者の歴史観でもあるのでしょう。それ故に再臨は観念的になりやすく「それが今の自分とどんな関係があるの?」となりやすいもの。

             再臨について、大切なことは、「いつくるか?」とか「何が起こるか?」ではなく、「再臨があるなら、今どう生きるか?」であるはず。聖書が再臨を示す理由の一つは地上で敬虔な歩みをさせるためなのですから。そのことを示す代表的な聖句は次のものでしょう。
             

             「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。(競撻謄蹌魁В隠院

             ここでは終末というゴールが、地上生活というプロセスを決定付けるものとして、提示されています。あのパウロも、「上に召してくださる方」「冠を得るために」と再臨の主との出会いをゴールとして見つめながら、地上の壮絶な戦いを戦い抜いてゆきました。ゴールの明確化がプロセスを明確化するのです。天上での報いが明確になれば、地上での犠牲は喜びにさえ転じます。そうです。再臨という厳粛な事実がしっかり語られることは、クリスチャンの地上での自己愛的歩みを、再検討させ、克服させる大きなファクターになるかと思うのです。

             どこかの組織神学の書物で読んだように思うのですが、福音書において、二番目に多く扱われている教理は「再臨」だそうです。あのシュバイツァーは、福音書を研究し、それが非常に終末的であることに目が開かれます。その真理発見は彼の人生を激変させました。彼は医師、学者、オルガニストとしての名声を捨てて、アフリカに向かったのです。ゴール明示されたので、プロセス変更したのです。終末から逆算して、地上生涯の歩みを決めたのです。

             実はかく言う私も、献身の決め手は再臨でした。フルタイム献身の召しから逃げられないかと思案する私に最終的に示されたのは、救い主なるキリストではなく、「再臨のさばき主なるキリスト」でした。このまま、召しを聞かなかったことにして一生をごまかし続けて、キリストに前にとても立てないと思ったとき、主の召しに応答する決断をさせていただきました。

             興味深いことに、再臨が含まれている説教をしたり、再臨をテーマとする賛美を選曲すると、「再臨の説教は何年ぶり」「前に再臨の賛美を歌ったのはいつだろう?」などの声をお聞きします。全く触れられていないわけではないでしょうが、会衆の側の意識としては、再臨を覚えて地上を歩むというところまでは達していない方が多いのではないかと予想します。

             クリスチャンたちが、再臨をただの教理、観念的な歴史観とだけ受け止めているとしたらどうでしょう?まるで再臨がないかのような地上の歩みになりやすいでしょう。それは、具体的には、自己充足的な生き方、自分の快適さや平安、目の前の快楽、損得などを、神に従うことより優先しての現実生活となって現されるのでしょう。

             ある方がおっしゃいました。「最電で帰宅する酔っ払いを見たことありますか?ついさっきまで楽しそうに盛り上がっていたのが嘘のように空しい顔で、憔悴した表情でシートに座っているでしょう?そういう人生と決別するようにクリスチャンは召されているのですよ。」

             「永遠や終末」が繰り返し示されなければ、クリスチャンも、自己愛が活性化し、この世が全てのせつな的な生き方になりかねません。被造物全体の贖いの完成という壮大なスケールで福音が提示されなければ、クリスチャンの自己愛は、福音を自分とその半径3メートル以内セコイ慰めにまで、縮小しかねないでしょう。そして、そのような現世と個人中心の福音理解がもたらすのは、さらなる自己愛の増長と、自己愛的な信仰生活となるわけです。

             このことを図示するとこうなるでしょうか。

            「永遠と被造物全体を示す再臨不在の福音提示」→「地上生涯と自分でほぼ全てとする福音理解(福音の個人現世化)」→「現世での自己実現と個人的幸福を目指す信仰生活」→「自己愛傾向の増長永遠と世界への無関心

             たびたび本ブログで使ってきた喩えですが、「人類の滅亡まであと3分、果たしてオレの作りかけのカップラーメンはどうなるか?」のような福音理解と信仰生活へと自己愛は私たちを導くのでしょう。

             私自身もそうだったのですが、神に従わずに歩もうとする自己愛傾向を克服するものの一つは再臨、終末だろうと思うのです。それが、聖書のバランスで講壇から語られなくなってきたこと、あるいはそれをストレートに厳粛な事実として語ることに躊躇を覚えてるようになってきたことが、もしかすると、教会全体の自己愛傾向を助長しているのかもしれません。「再臨」が語られることと「自己愛」の関係を一度考えてみはどうでしょう?

            | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 16:30 | - | - | - |
            続・自己愛性信仰障害の時代(3)〜みことばの自己充足・他者操作目的利用
            0

               今日、多くの成熟したクリスチャン、健全な信仰者は、強い自己愛傾向がクリスチャンに見られるようになってきたとの認識と危機感をもっておられます。先日も、そのことを実感しました。クリスチャンが自己愛的になっているのは、問題ですが、その問題を認識し、危機感をもっているクリスチャンもまた、多くいることは、闇の中に光を見る思いがします。

               先日、ある教会で「慰めと励ましの人となる」と題して、使徒の働きの三箇所から、バルナバの慰めと励ましについて説教。畑を売った多額の献金で失望の中にあったエルサレム教会を励まし慰めたバルナバ。迫害者の前歴の故に孤立し、孤独の中にあったパウロを周囲の反対を覚悟で、異邦人伝道のリーダーにスカウトしたバルナバ。前回の伝道旅行で挫折したマルコを、パウロと決裂してまで、慰め励まし、後にパウロも認める伝道者に育てたバルナバ。

                そのように、お互いの周囲にいる失望、孤独、挫折の中にいる方々に対してのバルナバでありましょう。それらの方々を慰めと励ます教会の交わりを、作る発信源になりましょうとの趣旨のメッセージでした。


              そのメッセージの最後に、私は一つの「注意事項」をお伝えしました。

               

              「今日のメッセージを受けとって、自分にはバルナバがいないと嘆くこともできるでしょう。教会の交わりの中には慰め励ましがないと教会批判をすることもできるでしょう。人に慰め励ましを与えるなど冗談ではない、この私こそがそれを必要としている野々田と反発することできるでしょう。しかし、この朝、そのように受け止めるだけなら、お互いは今日取り次がれた聖書の言葉を取り違えているのです。

               

                この朝、聖書の御言葉を通して私たちに語り掛けておられること。それは『あなたがバルナバとなりなさい、慰めと励ましの人となりなさい』ということです。自らがバルナバになることなしに誰かにバルナバを求めるなら、そこからは何も始まりません。それでは、お互いは励ましと慰めのない世界に生きざるを得ないのです。自らがバルナバになる事なしに慰めと励ましの交わりは始まらないのです。」

               説教後の分かち合いや食事の交わりの中で、三名の方から、この注意事項がよかったとのご評価をいただきました。不正確ながら、再現するとこんな言葉でした。


              「自分が慰められたい、励まされたいと思ってしまうのですが、そうじゃないって、よく分かりました」

              「慰め、励ましも受けるより与えるですね。自分の慰め励ましだけを願う人がいますからね。」


              「最後がよかったです。聖書の言葉を自分が受け止めず、他者が従うことだけを考えるクリスチャンが最近は多いですからね。」


               「バルナバになりましょう」「慰めと励ましの人となりましょう」と説教中に何度もアピールしているのです。それでも、やはり最後の「注意事項」が必要だと私は判断しましたし、成熟した会衆は、同様の判断をしておられました。気がついており、危機感を持ち、問題視している方々はちゃんとおられるのです。

               「バルナバになりましょう」と聞けばなぜか「私にはバルナバはいない」と応答し、「慰めと励ましの人になりましょう」とアピールしているのに、湧き上がるのは、「慰められたい、励ましが欲しい」との思いです。普遍化すれば、聖書から「あなたは〇〇しましょう」と語られたら、「自分は〇〇しているか」は無意識にスルーして「あの人は〇〇していない」と他者批判。逆に「自分は〇〇して欲しい、教会は私に〇〇すべきだ」と自己充足を願います。

               つまり、明白に聖書の言葉から、当人に語りかけても、呆れるまでにその言葉を自己変革の言葉としては受け止めず、他者がその言葉に従うようにと御言葉による他者操作を願い、その他者が、その御言葉に従い自分によくしてくれるという自己充足のための言葉として聞くのです。さらに言い換えるなら「御言葉の自己充足・他者操作目的利用」であります。

               自己愛性信仰障害の特徴は、「自己充足目的」とそれを果たすための「他者操作」です。すべてをその目的にあわせて、受け止めるので、何とも残念なことですが、普通に正しく明確なメッセージが為されたとしても、なかなか、御言葉が、当人の心に届いていないのです。まるで心臓めがけて射た御言葉の矢が、透明人間を通り抜けて、別の人に当たるようです。
               


               私が説教の最後に伝えた「注意事項」は、説教者としては、「会衆を信頼していない」「御言葉とともに働かれるご聖霊を軽視している」とお叱りを受けるべき行為なのかもしれません。正しく取り次がれた聖書の言葉は人間的説得力を遥かに超えたご聖霊の働きによって、人の心の奥底に届き、人を造り変えると私は本気で信じています。しかし、同時に、自己愛の強さは、それさえも無力化するほどの罪の力を持っているのだとも私は、本気で考えています。

               会衆と聖霊を信頼するだけで、会衆の側の罪の力を想定しないのは、一種の「会衆性善説」ではないかと思うのです。それは、おめでた過ぎなのかもしれません。十戒を授かったモーセが下山して見たのは、偶像礼拝と性的乱交に興ずる神の民でした。人間の罪を甘く見るなら、御言葉の取次ぎの失敗原因を一つ増やすことになりかねないと説教現場主義の私は考えています。決して、会衆を見下しているのではありません。自らの内にもある「御言葉さえ捻じ曲げる自己愛」という罪を、説教者として、甘く見てはならないと考えているのです。

               御言葉を正しく適切に取り次いでも、なお正常に受け止められぬ現実。そうした徒労感や無力感を与える現実に向き合うのも、説教者の使命でありましょう。また、説教の分かち合い御言葉の学びや御言葉を中心とした交わりによって、その問題の克服に一歩でも近づけばよいのだろうと現時点では、考えています。特に成熟したクリスチャンの中には、近年の自己愛傾向を認識し、危機意識を持ち、問題視している方もおられるのですから、孤軍奮闘せず、団体戦でこの問題には対処するのがよいだろうと先日は思わされました。

              | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 20:11 | - | - | - |
              続・自己愛性信仰障害の時代(2)〜罪の神話化、自己愛の絶対化?
              0

                 今週火曜は、CBMC神戸の定例会にお邪魔しました。ブログの告知をご覧になり出席した方もあり、読書会はたぶん、通常とは異質の盛り上がりを見せたようです。さっそく、CBMC神戸のサイトに報告がされております。

                「CBMC神戸3月例会の報告」
                http://cbmcjp.org/blog/archives/date/2014/03

                 その例会の中、現代の教会の課題の一つとして「自己愛」を語り合う中でのこと。私は「『こんな罪深く愛される価値などない私たちを、神様は愛しておられる』と説教で語ると、『神様の愛はスゴイ』ではなく『罪深く愛される価値がないと言われて傷ついた』という応答をするクリスチャンたちが増えてきた」というお話しをしました。すると、参加者の一人が、「自分は愛されなくてはいないと思っているのです」という趣旨での発言をされました。

                 私は思いました。「そーか、そもそもの発想の出発点が違うのか!『罪深く、滅ぼされて当然の私』でなくて、『愛されるはずなのに、愛されない私』なのかー!『罪人の私』でなく『自己愛者の私』だったのかー!」と。

                 「罪深く、滅ぼされて当然の私」でなく「愛されるはずが、何かの間違いで愛されていない自分」なのです。「愛される権利などない自分」でなく「愛される権利が不当にも侵害されている自分」なのです。つまり、自分が不当なのでなく、誰かさんや環境が不当なのです。その不当性によって、注がれるべき愛が注がれなかったのです。まるで自分の側に愛を阻んできた原因がないようです。

                 これは、出るはずのシャワーが出ないのは、自分が悪いのではないのにと修理を願えば、業者が来て、本来の注がれるべきお湯が注がれるかのようです。言うまでのシャワーが出ないのは、住人の責任ではありませんが、神の愛のシャワーが注がれないのは、自分が罪という傘をさしているからです。

                 通常、人が神の愛を知って、救われていくのは以下のようなプロセスでしょう。

                「神は愛、♪君は愛されるために生まれてきた♪」→「それなのに君は神を離れて生きている」→「そんな罪深く滅ぶはずの君が、♪今もその愛受けている♪」→「その愛を受け止めて、罪を認め、悔改めよう」→「罪赦され、救われた者としてこの愛に応えて生きよう」

                 ところが前提が違うとこうなります。

                「自分は愛されるはずなのに愛されていない」→「この不当な状況を打開する方法はないのものか?」→「神様の愛は無条件で一方通行らしいぞ」→「この愛を受け止めたら、自分は正当に愛されることになる」→「では、この愛を信じて、受け止めよう」→「わーい、愛されてうれしいなー、これからはもっと愛されていこう」

                 自分についての出発が違うと不当なのは「罪人である自分」でなく「愛されない環境」になります。そして、自分が愛されることが最終目標になります。信仰生活の目標は自分がさらに愛され続けることであります。かくして、神様の愛は応答されず、永遠に一方通行となります。

                 自己愛性信仰障害の一因はこの「前提としての自己理解」にあるのでしょう。「神を離れた人類は滅びに至るべき存在」との罪の教理は、ゲームかファンタジーのストーリー扱いで、「まあ、そういうストーリーに乗っておこう」と思っているように感じます。つまり、罪は実話ではなく、神話化されます。その結果、全てが自己愛によって歪められ、自己愛充足が、最終目的となり、絶対化されてゆくのでしょう。

                 昨日は、自己愛充足の神話化を記しました。しかし、自己愛性信仰障害者は、「罪人の自分」という現実を、神話化するのです。滅ぼされて当然という自分の立場も、神話に過ぎません。罪も滅びについて、リアリティーも実感もないのですから、真摯な悔改めや赦された喜びもなく、恵みの大きさが分からないので、注がれた愛への応答も起こりません。
                 

                自らの罪深さを実話として受け止め、自己愛充足を神話化して、神に応答し、隣人を愛する歩みへ前進するのが健全クリスチャン。

                自らの罪深さを神話として受け止め、自己愛充足を絶対化して、神への応答と隣人愛に移行せず、さらなる自己愛充足を追求するのが自己愛性信仰障害者。

                 「罪の神話化」と「自己愛の絶対化」のセットが、福音理解を根底からひっくり返しているという構図です。そんな風に仮説を立ててみましたがどうでしょう?そもそも「自分は愛されなくてはならない」という昨今の「王様発想」や「俺様前提」が、不健全なクリスチャンを生み出している大きな一因であるように思えてきた私です。

                | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 13:43 | - | - | - |
                続・自己愛性信仰障害の時代(1)〜自己愛充足神話崩壊?
                0
                   本ブログで、最近のヒットシリーズは「自己愛性信仰障害」でした。それをまとめた「舟の右側」の連載も、好評のようで、真摯で喜ばしい応答をいくつかお聞きしております。そこで、補足的な記事として、続編を数回ほど記してみます。

                   今回の記事の趣旨は、愛について広く信頼されている見解の再検討であります。イエス様は「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」の二つを一つのこととして、福音の本質とされました。

                   その愛の教理について、この20年くらいで浸透してきたのが、「隣人を愛するためには、自分を愛する必要がある」というもの。たとえば、ある方は「三つの愛に生きる」として、「神、隣人、自分」の三者を愛することを勧めます。イエス様はここで、「神への愛」と「隣人への愛」の二つの愛を示しているのですが、「隣人を愛するための自己愛」ということで、自己愛を二つの愛と同列に並べて「三つの愛」とするのです。そして、「自分を愛しましょう」となるのです。

                  神様からの自分への愛を受け止める」→「自己愛が正しく満たされる」→「神の愛に応答して神を愛し、神の愛で満たされた自己愛転じて隣人愛となる」

                   私自身はこう考えております。「神様の愛を受け止めるなら、自己愛が健全に満たされる」とは考えています。これは、結果としての自己愛の満たしです。しかし、「隣人を愛するために自己愛が満たされるべき」と聖書が言っているとは思えません。つまり、目的としての自己愛の満たしは違うだろうと思うのです。あくまで私見ですが、聖書は「結果としての自己愛の満たし」を想定している可能性はあるかもしれませんが、「目的としての自己愛」は命じていないと思います。特に、既にクリスチャンになった者に「よりよく隣人を愛するために自分を愛しましょう」と聖書が命じているとは読めません。むしろ、聖書は「クリスチャンになっても自分を愛しすぎるその自己愛を、隣人愛に転じなさい」と命じているように読めるのです。

                   私自身もいわゆるクリスチャンカウンセリングブームの中で育ってきました。「自分を正しく愛しましょう」「隣人を愛するためには自分を愛する必要があります」などのメッセージに触れながら、聖書の愛を理解してきたように思います。「聖書自身がどう言っているか?」よりも「人気のカウンセリング系牧師がどう言っているか?」に影響されて、愛を学んできたように感じているのです。そのために、どうも「自己愛充足神話」をある程度、信奉してきた面があるのでは?と思い至っています。「自己愛性信仰障害」シリーズを書き、その応答などに触れながらそう自己分析しています。

                   心理学の世界では、自尊心が満たされることが土台となり、その土台の上で人は他者を愛するようになるというのが定説のようです。これを聖書の隣人愛に適用すると、「隣人を愛するクリスチャンになるためには、自分を愛する必要があります」となります。つまり、これは心理学による福音の再解釈、あるいは再構築であります。福音理解のために心理学を援用しているのではなく、心理学の理論構築の中に、福音を取り込んでいるのです。福音が心理学に優先しているのでなく、心理学が福音に優先しているのです。福音が保持されたまま、よりよい理解のため心理学が利用されているのではなく、心理学の理論構築に取り込まれたために福音が変質しているのです。

                   どうも聖書本来の「自己愛放棄系隣人愛」が「自己愛充足前提系隣人愛」に置き換えられてしまっているように思うのです。さらに、そのような愛の理解のために、「自己愛充足は、クリスチャンの当然の権利」と考え違いをするクリスチャンが激増してきたのでは?と心配しています。

                   カウンセリングブームの中で歩んできた私自身が、「自己愛充足神話」の信奉者になってきた面は否定できません。「結果としての自己愛充足」と「目的としての自己愛充足」が、混同していたのが、最近はかなり分離できてきました。その上で、聖書自身が示す愛を考えながら、「聖書的愛とは」を再検討しているところです。本ブログの記事も舟の右側での連載も、両者の分離が不十分のまま、書いてしまったなーと少し反省しております。
                   
                   読者の皆さんに考えていただくのにどうすればいいのか?この課題を、分かりやすく解説し、再検討を迫る資料はないだろうか?と思案したのですが、やはりこれがいいでしょう。私もこの書物には、大いに自らの愛の理解を問われました。それは、愛読している一ブログで翻訳版が提供されているチャックスミス師の「愛:さらにまさる道」であります。今回の記事もこの書物に触発されている面は大きいです。まずは、211ページ以降をお読みいただけば、「聖書的自己愛充足」が神話ではないかとの問いかけが生まれるかと思っています。

                  以下で同著のPDFファイルがダウンロード可能ですが、300ページを超えるので、時間を要することもあります。
                  チャックスミス著「愛:さらにまさる道」(PDF版)
                  http://calvarychapel.com/home/assets/Uploads/jaLOVE.pdf

                   今回は、「自己愛充足神話崩壊?」と題しましたが、どうでしょう?キリスト教界内で触れる「聖書的自己愛充足」は聖書的な実話なのでしょうか?それは「ポスト・カウンセリングブーム」のキリスト教界にあっては、崩壊させるべき神話なのでしょうか?再検討されるべきとの声は以前からありましたが、改めて、再検討必要の声を発信してみました。
                   
                  | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 14:22 | - | - | - |
                  自己愛性信仰障害の時代(11)〜理解すれども、妥協せず!
                  0
                     このシリーズ、長々とお付き合いをいただきましたが、今回で最終回とさせていただきます。今日の午前は、某教会で奉仕。集会の中で、新聖歌の227番「キリストの愛、我に迫れり」を歌い、主を賛美しました。改めて折り返しの歌詞に感動して、歌ったのです。

                    「キリストの愛、我に迫れば、我がいのち、君に献げて、ひたすらに主のために生く」

                    これは、まさに「神に愛される自己執着からの解放→神への献身主のための人生」との「信仰勝利の方程式」であります。

                     同じ趣旨の賛美で、個人的な感性にピッタリ来るのは、「今こそ、キリストの愛に応えて」です。これを礼拝やキャンプ歌うと、恥ずかしながら、80%の確率で涙が出ます。「単純」と笑われることなどお構いなく、素直に泣けてしまうのです。一番の歌詞は以下の通り。

                    「私が神の子とされた 罪人の私が 無限の愛の大きさに ただ感謝をしよう
                    こんな私のためにさえ 命まで与えた 十字架の愛の大きさに ただ感謝をしよう
                     <おり返し>
                    今こそキリストの愛に応えて 命をすべてを 献げよう」

                     これまた、「信仰勝利の方程式」であります。神の愛への応答として、いのちをすべてを献げるのは、理に適っているのです。あるいは、正常な人格的応答なのであります。

                     ところが、自己愛性信仰障害の場合は歌詞が変更となります。

                    変更前「キリストの愛、我に迫れば、我がいのち、君に献げて、ひたすらに主のために生く」
                    →変更後「キリストの愛、我に迫れば、我がいのち、君に献げず、ひたすらに我がために生く

                    変更前「今こそキリストの愛に応えて 命をすべてを 献げよう」
                    →変更後「今なお、キリストの愛に応えず、命も何も献げない

                     これでは「キリスト無駄死にソング」であります。

                     渇くことなき水をいただいたサマリヤの女は、人目をはばかる日陰の女であったわが身も忘れ、人々に堂々とキリストを伝え、サマリヤのリバイバルの発火点として用いられました。しかし、いまどきの自己愛性サマリヤの女は、渇くことなき水をいただいた後も、人目を避けて男性と同棲生活を続けるのでしょうか?昔のサマリヤの女は、渇かぬ水を得て、満たされ、やがて溢れ出したようです。水がめを置いて町へ出て行きました。いまどきの自己愛性サマリヤの女は、渇かぬ水を得ながらも、水は溢れ出さず、自分の水がめにしがみついているのでしょうか?

                     一粒の麦は死んで多くの実を結びます。土葬のように地面に埋められ、自らが隠されてこそ、種は発芽をして、やがて多くの結実を得ます。しかし、いまどきの自己愛性麦は、自己表現と自己実現志向で、自らを地に埋めることを嫌い、神の眼からは、何の実も結んでいないことにも気がつかず、自己満足の実を結び続けるのでしょうか?

                     パウロが手紙の読者に、土下座をするようにして懇願していることがあります。それは礼拝についてです。クリスチャンが自らを神に受け入れられる聖い生きた供え物としてささげるようパウロは懇願をしています。そして、それがこそ霊的な礼拝であり、神の愛に対しての理にかなった応答なのです。これが「真実の礼拝者」です。ならば、いまどきの自己愛性礼拝者は、神の愛への応答として自らをささげることもせず、教会が決めたプログラムをこなすだけの「不真実な礼拝者」ということになるのでしょうか?

                     そう考えますと、自己愛性信仰障害の伝染がもたらすのは、キリスト無駄死にソングを歌い、イエス様と出会っても水がめを抱えて男性と同棲するサマリヤの女たち、自己満足の実だけを結ぶ、発芽しない麦、自らをささげない不真実な礼拝者の増加であります。このような状況を思い描くだけで、悲しくてたまりません。ひとり子をも惜しまず与えられた神様の愛が、ここまで、無視され、踏みにじられていいものでしょうか?こうなると、教会はもはや神の家族ではなく、神の機能不全家庭でありましょう。そこで育つの霊の子どもが健全で自立した成人に育つことは極めて困難となるでしょう。そして、この神の家族の家庭病理世代を超えて続くのでしょう。

                     私は思うのです。今、この世代で、この神の家庭の家族病理を、福音によって、断ち切らねばと。自己愛性によって、病みかけている神の家族の歪みを次の世代に負の遺産として残してはならないと。

                     そこで、私なりに思い至った結論は、「理解すれども、妥協せず」「人間理解は変えても、福音は変えず」であります。

                     現代人が自己愛的で、神の愛に応答できず、献身の歩みに迎えない現実は、理解すべきでしょう。だからと言って、自己に執着し、自分のために生きる信仰姿勢を容認するような妥協はしないのです。不評でも、反発があっても、神の愛に応えて、自らをささげる歩みを呼びかけていくのです。あるいは、信徒教職に関係なく、自らがその歩みをして、模範を示しながら、共に歩みように励ますのです。

                     変化の激しい現代社会においては、ほんの十年足らずで、人間理解を変えなくてはいけないのかもしれません。一昔のようには神の愛に応答できない人々が増えてきたなら、人間理解は変更が必要でしょう。だからと言って、「神の愛に応答できないバージョンの福音」に変更する必要はないはずです。なぜなら、聖書は、明らかに神の愛への応答を求めているからです。神の愛に応答できないバージョンの福音は、もはや福音たりえないのです。

                     恐れるべきは、信徒が正しい福音に逆切れし、教会を離れていくことではありません。恐れるべきは、福音から、愛への応答や自己執着の放棄や献身への招きが削除され、福音が福音でなくなることです。追求すべきは、自己愛的な風潮に応じた福音理解ではなく、変ることなき福音理解のままで、福音が、自己愛的な魂に届くような愛、祈り、交わり、熱意、労、聖霊の働き・・・・・。何でしょう?残念ながら、私にはまだ、見えてきていません。

                     「時がよくても悪くても」というのは、教会外部の未信者に福音を語る際だけではないでしょう。教会内部のクリスチャンたちに、福音を語るときも同様のはず。たとえ、時が悪くても、自己愛の時代であったとしても、変ることのない福音を伝え続けたいものです。「キリストの愛に応えて自らをささげること」「水がめを置く歩み」「死んで実を結ぶ麦」「自らを供え物とする礼拝」を含む本物の福音を、語り続けてゆきたいものです。

                     その結果として起こるクリスチャンの数の増減は、再臨のキリストの前では、それほど重要評価対象ではないように予想します。神様は「よい忠実なしもべだ」とご評価くださる方、実績より姿勢、数より忠実さをご評価下さる方だからです。ですから、お互いが再臨のキリストの前で問われることは、「本物の福音を語ってきたか?」「本物の福音に生きようとしてきたか?」であって、「いかにうまいこと福音を説いて、何人導いたか?」「時代に応じた福音理解によって、どれだけ教会を大きくできたか?」ではないだろうと思うのですが、どうでしょう?

                     明確な解答も出せずに、課題の指摘だけに終わったようなこのシリーズでしたが、読者の皆さんが、今日の教会に起こっている深刻な一課題を自覚され、それに向き合っていく助けや参考になればと願っています。11回にわたる連載をお読みいただき、感謝します。
                    | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 16:38 | - | - | - |
                    自己愛性信仰障害の時代(10)〜不健全自己愛を助長する外的要因
                    0

                       昨日は不健全自己愛を生み出す内的要因を記しました。今日は、それを助長するような外的要因について記します。

                       まずは、この日本社会に浸透している文化自体が、自己愛を助長するものであることを思います。「満たされない自己愛」の中で、大渕先生は、社会学者C・ラッシュの「現代は自己愛の文化」であるとの見解を紹介しています。ラッシュはアメリカ社会を指して、「自己愛文化」と呼んでおり、それは、自由主義と個人主義の浸透した社会の仕組みと価値観を表す言葉とのこと。アメリカ社会のように個人の成功と達成が至上の価値と見なされ、それが推奨され、他者へのいたわりや配慮は無用とする社会では、この社会に適用する自己愛者が増加し、そうした自己愛者が社会的成功者となる確率が高くなるというのです。

                       この文化の強い影響下に日本があることは間違いないでしょう。終身雇用が終わり、自由競争はより厳しくなり、勝ち組と負け組みが明確にされてきました。当然、競争激化がすすめば、自分が勝者になるために、他者へのおもいやりは配慮は、切り捨てざるを得なくなります。近年、日本社会に不健全自己愛者が、増加したことと、日本社会の自由主義化と個人主義化は、無関係ではないでしょう。

                       さらに、この文化は福音理解にまで影響を与えているのかもしれません。競争社会で個人が、成功し、自己実現を果たすことに貢献する「自由主義的個人主義的福音」は、どうも、アメリカ社会で誕生し、日本にも到来しているようです。ただでさえ、自己愛傾向を強めがちなクリスチャンにとっては、それは自己愛を正当化しかねません。神の栄光や他者の幸福のためでなく、神の御名による個人的自己実現によって、自尊心を満たすような信仰のあり方が、こうした福音理解によって、正当化されてしまってはいないかと危惧しております。

                       そうなれば、自分個人が、キリストに似た者と変えられていくこと、そして、キリストの体の一部として、御言葉に生きること、それによって証しすること、宣教と教会形成に励むこと、弱者への愛を注ぐこと、社会正義を実現することなど、聖書が御心として明示する歩みは、個人的自己実現によって、つぎつぎと奪われていきます。これでは、何のために尊い救いに召されているのか分かりません。

                       最近の日本文化で、個人的にどうかと思っているのが、「顧客満足度」という言葉です。これは、あくまで商品やサービスを提供する側の論理です「お客様にご満足いただくことが私たちの喜びです。」ということでしょう。この言葉を受けて、自分の側の論理と勘違いして、自己愛を助長している人々は多いのではないでしょうか?「自分は顧客なので、満足を得られるのが当然の権利。お金出してるんだから、なおさらのこと。それができない企業側は失格」との思いが標準化していないでしょうか?ここには「対価にふさわしいサービスや商品を」という契約上の正当な権利意識とは別次元の「自己愛的な高慢さ」や「お客様という特権意識」があるのでは?と心配します。現代人はもしかすると、「消費行為によって自尊心を満たす」という愚行に生きているのかもしれません。

                        教会の中では、「自己愛どまりの愛」という閉塞状態が起こっているようも感じます。「君は愛されるために生まれてきた」は大変な名曲だと思います。今の時代に必要なメッセージが込められた賛美であり、愛されて歌われるのは当然のことでしょう。実は、この曲には、続編というか、アンサーソングがあるそうです。その趣旨は、「愛するために生きよう」というものです。つまり、「私たちは、愛されるために生まれ、神と人を愛するために生きるのだ」ということでしょう。でも、その曲が歌われるのを日本の教会で聴いたことがありません。というか、私自身もその曲のタイトルを知らないというトホホ振りです。

                       この現象が、「愛されるために生まれてきたが、愛するためには生きてない」クリスチャンの多さを意味しなければよいのだがと、心配しています。名曲「君は愛されるために生まれてきた」を自己愛正当化ソングで終わらせてはならないでしょう。神様の願いは、間違いなく、愛されるために生まれてきた者が、神と人を愛して生きることでしょうから。

                       日本の教会には、日本人の精神性に由来する自己愛の助長要素もあるでしょう。日本文化では、「愛」と「甘え」がいとも簡単に混同されます。「愛という名の甘え」を根拠に、一般社会では出せないような自己愛が教会で表出されたり、要求されたりします。これが、応答され続けると、教会は愛の交わりでなく、共依存の交わりとなり、クリスチャンが信仰的自立に向かうことがなくなるでしょう。そして、教会は「相手をあるがままで愛する大人の共同体」ではなく、「ずっとこのままで愛してもらえる幼児の共同体」に変質していくのでは?

                       こうなると、講壇からは、自己中心の悔改めに導くメッセージ、自分を捨てて神に従う勧めなどは、減少してゆきます。会衆に不評だからです。会衆が望むのは、自己愛を満たし、成長を求めず現状維持を肯定するメッセージだからです。教会に、自尊心を肥大化させるような福音提示のアンバランスさがないかは常に検証されるべきだと思っています。

                       現代文化は、自己愛を正当化し、助長するような声で満ちています。教会の交わりや福音理解にさえ、その波は押し寄せているのかもしれません。そうした声を、非聖書的なもの、福音に反するものとして、判断し、排除していく努力をしなければ、自らが染まってしまうほど、自己愛文化の浸透力は強力なように思えてなりません。

                       先日「自己愛 聖書」という語句で、検索をしたら、次の記事がヒットしました。以前にも紹介したことのある某牧師のブログ記事です。秋葉原のこの事件は、「満たされない自己愛」でも、自己愛による惨劇として、大渕先生が取り上げています。何より、自己愛についての聖書的考察がなされています。賛否両論あるでしょうが、一読の価値があると判断しています。特に福音が心理学化され、自己愛容認を助長してきたことについては、本ブログより遥かに有意義な考察がなされているように思います。

                       この記事を、教会内に押し寄せる自己愛文化に対抗するメッセージとして、お読みいただければと願います。「時流に抗する愚直一筋」との紹介文通りの内容です。日本の教会が取り返しのつかないような自己愛傾向に陥ってしまう前に、こうした愚直なまでの発信が、愛と配慮を持ちながらもなされることの必要を覚えます。

                       

                      秋葉原無差別殺傷事件−自己愛の果てに 「聖書は何と言っているのか?」 【1】〜【6】

                      http://geocities.yahoo.co.jp/gl/mgfchurch/view/20080612

                      | ヤンキー牧師 | 自己愛シリーズ | 17:13 | - | - | - |
                          123
                      45678910
                      11121314151617
                      18192021222324
                      252627282930 
                      << November 2018 >>
                      + SELECTED ENTRIES
                      + RECENT COMMENTS
                      + RECENT TRACKBACK
                      + CATEGORIES
                      + ARCHIVES
                      + MOBILE
                      qrcode
                      + LINKS
                      + PROFILE