命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
心の一新、必ずしも、バンジージャンプならず
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     レッド・ツェッペリンの名曲「天国への階段」は、「輝くもの必ずしも金ならず」ではなく「輝くものすべては金なり」と確信する女性が天国への階段を購入するという内容の歌詞です。実は、日曜夜の女性合宿で、よく似た現象に触れました。

     「心の一新必ずしもバンジージャンプならず」ではなく、「心の一新すべてはバンジージャンプなり」と確信する女性たちが、天国への階段を歩んでいるという光景に遭遇したのです。ツェッペリン風に言えば"There's a lady who is sure all the renewing of one's mind is bungee-jump and she is going up the stairway to heaven.”となるでしょうか。

     でも、これはよくあることだと思います。メッセ―ジ後の分かち合いは5人ずつ二組に別れて行ったのですが、一つの組では「心の一新必ずしもバンジージャンプならず」が最大の話題となっておりました。それは、ローマ12章2節についての理解が違っていたということです。

    「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

     健康チェックの一つとして、「体はささげ、心は一新しているか?」のチェックを実施しました。その中で、「心の一新」の「心」とは「心情」でなくむしろ「思索、考え方」を示す言葉。自分の考え方が聖書と異なっていたら、改めて新しい考え方で歩むことが「心の一新」。また、「自分を変えなさい」は一度の行為ではなく、継続・反復を命じているから、日々のデボーションや礼拝や主にある交わりなどの中で、自分の考えを聖書的に改め続けていく積み重ねによって、神様が自分を変え続けてくださるその歩みが健康なのでは?とお話ししました。

     では、「心の一新すべてはバンジージャンプなり」と確信する女性たちは、どう考えていたのでしょう?彼女らは、「心の一新」の一新とは「心情」あるいは「自己意志」「全人格」のように考えていたようです。また、「自分を変えなさい」も、一度あるいは人生の転機での数回程度のことだと理解していました。

     「人生の主導権を神様に明け渡す」、「自分の将来を神様に委ねる」、「神様側の生殺与奪の権利を認める」「自分のために生きるのをやめて神のために生きる決断をする」、「生涯にわたり握っていた偶像や罪を捨てて神様に従う決断をする」などを「心の一新」だと理解していたのです。つまり、人生に数回あるかないかの「大どんでん返し」「清水の舞台からの飛び降り」「バンジージャンプ」だと理解していたわけです。

     もちろん、これらは「心の一新」です。しかも、最も神様が願っておられる「心の一新」でしょう。でも、それは「数少ない偉大な心の一新」であって、ローマ12:2がそれだけを語っているとは私は思いません。むしろ、「日々の小さない心の一新」「日常的な心の一新の積み重ね」を願っているように読めるのです。その中には「人生に数回程度の転機的な心の一新」も含まれているだろうと私自身は理解しています。

     ですから、私は分かち合いの中、「心の一新って聞くと、清水の舞台から飛び降りるような一世一代の大決断の実行のように思えるけど、毎日、椅子から飛び降りる程度だと思うよ」と返答しました。聖書を読んだり、メッセージを聴き分かち合いをする中で、自分の考えが、聖書と違っていたら、それを改めて新しい考え方にバージョンアップする積み重ね(もちろん、み言葉の実行を含む)で、私たちは知的な部分だけでなく全人格的にも変えられてゆき、神様のみこころや事の是非を判別して、身につけられるようになるのだと思うわけです。


     「心の一新によって自分を変えなさい」は英語では”Be transformed by the renewing of your mind”と訳されています。「心」は”heart”でなく”mind”、一新は”changing”でなく”renewing”なのです。「心の一新によって」と読むと私たちの多くは、”by the changing of your heart”と受け止めやすいのではないでしょうか?「理性中心の考え方の刷新」ではなく「心情的、全人的な深い部分の転換」と理解しやすいのでは?「心の一新」の「一新」は原語のニュアンスを忠実に訳しているのでしょうが、どうしても「一発逆転」「劇的決断」との印象を与えてしまう面もなきにしもあらず。

     そこで、今回「心の一新によって自分を変えなさい」をサブカル風にポップに訳してみます。「心の一新」は今風に訳すなら「マインドのリニューアル」となるでしょう。ですから、「心の一新によって自分を変えなさい」はこうなります。

     「毎日がマインドのリニューアルオープン!それで、君は変わり続けろ!」(スーパーの新規開店訳

     「日々、マインドのリニューアルしまくりーので、神様にトランスフォームされまくりーの」(イタリア系チャラ男訳

     「ユー、マインドのリニューアルしちゃいなよー神様にトランスフォームされちゃいなよー」(ジャニーさん訳

     なんか、パウロの厳粛で真摯な懇願がめちゃめちゃ軽薄で下品になっちゃって申し訳ありません。でも、このみ言葉についてのありがちな誤解?を払拭して、日常生活における聖化の歩みを励ますための伝わる表現を試みてみました。呆れて苦笑しながらも、助けになれば幸いです。


    「心の一新」とは必ずしも、「一発逆転」「劇的決断」「大どんでん返し」「清水の舞台からの飛び降り」「バンジージャンプ」とは限りません。むしろ、その多くは「日常的なマインドのリニューアル」だと受け止めるべきでしょう。マインドのリニューアルと、新たなマインドで歩む試行錯誤、すなわち、心の一新と現実の歩みの繰り返し、その積み上げを大切にしたいと願うのです。その向こうこそ、神様のみこころが見えてくるからです。その歩みの過程の中でこそ、お互いは、神様の視点から見た事の是非をわきまえられるクリスチャンに成長していくのですから。

     
     その昔、レッド・ツェッペリンは歌いました。"There's a lady who is sure all that glitter is gold and she is buying a stairway to heaven.”と。
     
     この日曜日、女性合宿の中、私は見ました。"There's a lady who is sure all the renewing of one's mind is bungee-jump and she is going up the stairway to heaven.”という現実を。

     女性合宿後に私は知りました。"There's a lady who is sure all the renewing of one's mind is not bungee-jump and she is going up the stairway to heaven.”という神の業の実りを。
    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 10:47 | - | - | - |
    誰がイエス・キリストを殺したのか?(3)
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       マタイ27:11−26から「誰が、イエスキリストを殺したのか?」を考えるシリーズの3回目です。

       「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その三つ目は「群集の付和雷同」であります。イエス様は、群集の付和雷同によって十字架につけられていったのです。これまで、見てきたように、イエス様をメシアとして迎えたはずの群集は、祭司長・長老たちに扇動され、イエス様を十字架にかけざるを得ないようにピラトに圧力をかけました。
       

       こうした群集の愚かで危険な付和雷同はなぜ起こったのでしょうか?私は信仰者でもあった当時の群集たちには三つのものが欠けていたように思うのです。私なりに観察した三つの欠如を挙げてみましょう。

       

       三つの欠如、その一つ目は、「正しいメシア観の欠如」です。群集たちは、信仰者でありながら、聖書が示すメシア像を持たず、それとは異なる救い主を求めていました。ヨハネの福音書だけは、バラバを「強盗」と記していますが、ただの強盗ではないようです。共観福音書のマルコとルカでは、罪状として、「暴動と殺人」が挙げられています。確かに、これはただの強盗ではなさそうです。
       
       有力な説として、バラバは愛国団体「熱心党」に属する極端な民族主義者で、反乱と暴動を起こしていた人物だとも考えられています。今風に言えば、大国ローマからの独立を目指す武装派革命勢力あるいは反政府ゲリラであったわけです。ここからは、そのような前提で群集の心理を考えてみます。
       
       群集は愛と平和によって霊的、精神的な神の国を作るメシアではなく、すぐにでもローマに謀反を起こし、自分たちを独立させてくれるメシアを願っていたのです。神が願う救い主より、自分の願望を実現する救い主を願ったのです。いいえ、自分の願いを実現しないような救い主は、抹殺してもよいと判断したのです。

       
       どうでしょう?お互いのうちには、自分の願望を実現する救い主を願う心、自己実現をサポートする全知全能の神を願う心がないでしょうか?そうでない聖書が示す救い主を、拒否・拒絶・抹殺したい思いを抱いたことはないでしょうか?

       
       二つ目は「一貫性の欠如」です。数日前には、しゅろの葉を振って、イエス様をお迎えした群集が、手の平を返したように、イエス様を十字架に付けろと叫び続けたのです。ここには一貫性が全くありません。
       
       しゅろの葉を振って迎えたのはどういう意味でしょう。この時から200年程前、ユダヤはシリアの支配下にありましたが、マカベヤという人物がリーダーとなり、ユダヤ独立に成功したのです。その時、人々は勝利の印としてしゅろの葉を振って彼を迎えました。
       
       ですから、しゅろの枝を手にして迎えたということは、イエス様にローマに対しての軍事革命、独立戦争を期待していたことを意味します。しかし、イエス様は軍馬ではなく、ロバにのってエルサレムに入城します。ある方これを「三輪車に乗って登場する仮面ライダー」と喩えました。群集の困惑振りが目に浮かぶようです。待てど暮せど、イエス様は武装するとも蜂起することもありません。群集たちに失望が広がります。きっと、祭司長と長老たちは、これなら、イエスを捕らえて裁判にかけても、群集からの反発はないとの見通しができたのでしょう。
       
       皮肉なことです。政治的な意図がないから、イエス様に失望したはずの群集が、イエス様を政治犯として処刑するように要求したのですから。謀反を起こしてくれないから、見捨てたはずなのに、自らを王とし謀反を起こそうとしたとの理由で十字架につけたのです。最後には無実でもかまわない、責任は自分と子孫が負うからとまで言います。何という一貫性のなさでしょう。
       
       どうしてここまで一貫性がなくなって平気なのでしょう、それは事実と真理に基づいてものごとを判断をしないからです。変ることなき事実、真理によって判断・選択すれば一貫性があるものです。しかし、その時々の自分の欲望、気分、利害関係を基準にするなら、一貫性は失われます。まさに群集はイエス様が無実であるとの事実、メシアであるとの聖書の真理より、自分の欲望、気分、利害、感情を優先し、ありえないほど一貫性の欠如を露呈しています。
       
       しかし、このことは他人事でしょうか?「先生に一生ついていきます」と牧師に宣言した信徒が数年後には「先生には失望した」と教会を去ります。「生涯、イエス様に従います」と誓いながら、教会生活を離れた、あるいは離れかけた方は少なくないでしょう。そして、事実や聖書の原則より、その時の自分の気分、好み、利害で、重大な決断をして、御心を損なった経験はないでしょうか?

       
       三つ目は、「主体性の欠如」です。20節によれば、群集は、祭司長、長老達に説きつけられ、つまり扇動をされて、イエスの十字架刑を求めるようになりました。
       
       自分で聖書を読み、自分の頭脳でイエス様の言動を検討する、主体的な信仰をもっていたら、群集たちは、扇動には乗らなかったでしょう。残念なことに群集は、権威者の聖書理解や言い伝えを鵜呑みにし、人々と同じことをよしとして、主体的に聖書を読み、自分の頭で考えてはいなかったようです。こうしたあり方は、扇動されやすい典型的なタイプです。
       
       これは現代的に言えば、群集心理です。群集の持つ最大の危険性、それは主体的に自分で考えようとしないことです。その歌返しとして、その時の気分で動き、人と同じことで安心するのです。それ故に、権威やメディアに扇動されやすいそれが群衆の危険性です。
       
       初めて大衆を学問の対象としたオルテガという哲学者は、大衆社会の危険を訴えました。その後に実際に起こったドイツでのナチス台頭やイタリヤでのファシズム台頭はその学説の正しさを証明しました。現在でも、同様の危険性が、政治だけでなく、社会の多くの分野で指摘されています。さらにはそのことは、キリスト教界も例外ではないことは皆さんご存知の通りです。
       
       お互いはどうでしょう?主体的に聖書を読み、聖書はどういっているか?を最優先し、自分の頭脳で考えて物事を判断いるでしょうか?それとも指導者の言葉を鵜呑みにし、聖書の言葉を理解し実行に務めるよりも、教会内の言い伝えをなぞるような信仰生活に終始しているでしょうか?
       

       群集は言いました。「その人の血は、私たちや子どもの上にかかってもよい」と。「誰がイエス・キリストを殺したのか?」三回目に当たる今回、指摘したのは、群集の付和雷同でした。正しいメシア観の欠如、一貫性の欠如、主体性の欠如の三つの故に群集は、付和雷同の罪に陥りました。そして、その付和雷同がイエス様を十字架につけました。

        聖書が示す救い主ではなく自分の願いを実現してくれる偶像をイエス様に期待した群集、事実や聖書真理より自分の気分・利害を優先し一貫性を失った群衆、権威や言い伝えを鵜呑みにして主体的に判断しなかった群衆、それ故に付和雷同となりイエス様を十字架につけた群集、果たして、それは、私たちとは関係ない人々でしょうか?お互いはその群集の一人であったのではないでしょうか? 
      | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 19:22 | - | - | - |
      誰がイエス・キリストを殺したのか?(2)
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         新約聖書マタイ27:11−26から「誰が、イエスキリストを殺したのか?」を考えるシリーズの二回目です。「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その二つ目は、責任者の自己保身であります。イエス様の処遇を決める責任者であった総督ピラトの自己保身によって、イエス様は、ローマへの反逆の罪を着せられて十字架刑に処せられたのです。

         ユダヤの領土は、ヘロデ王などユダヤ人自身が治めていましたが、さらにその上で、監督していたのは、ローマから送られた総督ピラトでした。祭司長や長老たちは、イエス様がローマの法律で裁かれて、死刑にされることを願って、イエス様をピラトの下に連れて、裁判が開始されます。それが11節以降に記されています。

         
         ピラトはイエス様に尋ねます。「あなたはユダヤ人の王ですか?」と。イエス様は「そのとおりです」と返答します。もちろん、これは、謀反を起こしてカイザルに取って代わる政治的な意味での王ではなく、霊的な意味です。

         ところが、12節にあるように祭司長と長老達からの訴えに対して、イエス様はなぜか沈黙を通します。13節で、イエス様が妬みによって無実の罪を着せられていると気づいていたピラトは、このままではいけないと思います。そして、「不利な証言をされているのに、聞こえないのですか?」とイエス様の反論を期待します。しかし、14節にあるように、イエス様はご自分に不利な証言に対してなぜか一言も応答をしません。ピラトはこれに非常に驚きます。
         
         無言であることは、訴えを認めることを意味します。このままでは、無実の人を十字架刑につけざるを得ません。しかし、ピラトにとっての大逆転のチャンスが残っていました。15節によれば、例年ピラトは、過ぎ越しの祭りには、群集のために、望みの囚人を一人だけ赦免してやっていたのです。そうした慣例はきっとユダヤ人の人気取りのためだったのでしょう。
         
         これで、イエス様の死刑執行は避けられると思ったピラトは群集に尋ねます。「赦免して欲しいのは、バラバかキリストか?」と。さらに19節によれば、ピラトの妻が人を遣わして、「正しい人イエスに関わらないよう、夢で示された」との連絡が入ります。いよいよピラトは、イエス様の赦免を願ったことでしょう。ピラトの妻はクリスチャンであったのではないかと推測もあるようです。
         
         しかし、20節以降、ピラトにとっては予想外のことが起こります。祭司長と長老に扇動された群衆は、こともあろうに、バラバの赦免を願い、イエス様については「十字架に付けろ」と要求します。そこで止むを得ずピラトが本音を告げたようです。23節です。「あの人がどんな悪いことをしたというのか?」とイエス様の無実を群集に突きつけます。

         しかし、群集にとって事実はどうでもよく、理屈などありません。激しく「十字架に付けろ」と叫び続けます。狂った群集の前では、ローマの総督も無力です。手の下しようがなかったと24節は記しています。それどころか、イエス様を赦免したら暴動になりかねないと判断したのです。
         
         実は、ローマの総督が最も恐れたのが、この暴動です。これが起これば、カイザルからの任務を果たせなかったことを意味しますから、総督は左遷か首です。いいえ、暴動が起これば、ローマ兵がいるとは言え、自分のいのちも危ないかったのでしょう。彼は自己保身から、バラバの赦免を決めます。しかし、イエス様の無実を知る彼は、自分の責任にはしたくはありません。
         
         そこで、彼は群集の前で手を洗うパフォーマンスをして、その意味を語ります。「この人の血について私には責任がない。自分たちで始末するがよい」と。群集はそれを受けて、血の責任を負うと応答し、イエス様は鞭打ちを受けた後、十字架につけるため渡されてゆきます。
         
         これは、裁判の決定権を持つ総督としての責任放棄です。さらには、無実の人を死刑に処する自らの責任を群集に負わせた責任転嫁に他なりません。自己保身から起こった不当判決です。ピラトは自己保身の思いから、無実の人に死刑判決を下し、なおかつ責任者であるのに責任放棄と責任転嫁をしたのです。しかし、皮肉なことにピラトの名前は2000年間、使徒信条を通じて、十字架につけた責任者のように伝えられてきました。
         
         「自己保身からの責任放棄と責任転嫁」。それは私たちがマスメディアを通じて、度々、見聞きしていることです。原発事故の責任はどこにあるのか?責任者たちが責任放棄や責任放棄をしているのではないか?そんな問い掛けや非難に、私たちは5年間触れ続けてきました。
         
         学校での体罰問題柔道界での体罰問題、相撲協会の不祥事続発、そこには常に責任者たちの自己保身、責任放棄、責任転嫁の疑いが報じられてきました。そのために、弱い立場の方々が、不当な苦しみを受け、自らいのちを断つ若いいのちがあることを覚えて、お互いは深い悲しみや激しい怒りを禁じえなかったのではないでしょうか。
         
         しかし、考えてみたいのです。ピラトにせよ近年の事件にせよ、自己保身から、責任放棄や責任転嫁をして、弱い立場の人々を不当に苦しめる罪は他人事でしょうか?お互いは、指導者、上司、先輩、親、兄や姉として、自分の地位や立場、あるいは世間体を守るために、部下、生徒、後輩、子ども、弟妹などに対して不当・不公平な扱いをしたことはないでしょうか?
         
         自分の地位、立場、家族の生活を守るために、自分より弱い人を犠牲にしたことがないでしょうか?文字通り、それによって人を殺したわけではないでしょう?でも、その方々の人格を否定する人格的殺人、将来や可能性を奪い社会的に抹殺する社会的殺人を犯していないとも限りません。祭司長、長老たちの妬みの罪と同様、ピラトの自己保身の罪も、私たちにとって極めて身近な罪ではないでしょうか?
         
         ピラトは言いました。「この人の血について私には責任がない。自分たちで始末するがよい」。「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その二つ目は、責任者の自己保身であります。イエス様は、責任者の自己保身によって十字架に付けられていったのです。その責任放棄、責任転嫁の犠牲者とされてゆきました。
         
         「ピラトが犯した罪は、自分には無関係と言えるだろうか?」それを心に留めながら、「誰がイエスキリストを殺したか?」を考えてみてはどうでしょう?

         
        | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 08:46 | - | - | - |
        誰がイエス・キリストを殺したのか?(1)
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           今週は少し忙しいので、本来は「父となる旅路」の関連で多くの記事をアップしたいのですが、それは来週に延期して、以前の記事を再アップします。 今週は受難週なので、真面目にそれらしい連載で、金曜日まで四回に分けてアップします。実際にいくつかの教会で受難週の礼拝で取り次いだものですが、反応は様々。ある教会では、何人もの方が涙を流して聞いておられました。また、どう受け止めたらよいかわからず葛藤している方、自分とは無関係のように聞いている方、聴きたくないと言わんばかりの拒否的表情で心を閉ざして座っておられた方、いろいろでした。

           元ビートルズのジョン・レノンが殺された後、「誰がジョン・レノンを殺したか?」という書物が出版され話題となりました。殺した人物が誰かは、分かりきったことですが、その書物によれば、彼を使ってジョン・レノンを殺させたのは、CIAであるとのこと。つまり、CIA陰謀暗殺説というわけです。

           ケネディー大統領やキング牧師を殺したのも実はCIAであり、自由と平和を訴え、アメリカ社会を動かすような人物は、CIAに暗殺されるのだという内容なのだそうです。結局は、あまり信憑性のない所謂「トンデモ本」として評価されているのがこの書物。
           
           そこで、今回のシリーズは、誰がジョン・レノンを殺したのか?」ならぬ「誰がイエス・キリストを殺したのか?」を聖書から考えて見たいのです。もちろん、直接、死刑を執行したのは、ローマ兵です。イエス様を十字架につけ、手首に釘を打ち込んだのは、ローマ兵に違いありません。しかし、言うまでもなく、本当の意味で殺したのは、ローマ兵だけではありません。イエス・キリストを十字架刑に追い詰めた主要人物死刑決定に深く関わった人物、それらをマタイ27:11−26に見てゆこうというのがこのシリーズ。
           

            今日は一つ目です。「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その一つ目は、エリート達の妬み。彼らの妬みの罪こそがキリストを十字架に追い詰めていったかのようです。イエス様を十字架につけようと計画したのは、祭司長、民の長老たち。これは当時の宗教と政治のリーダー達、具体的にはサンヘドリンと呼ばれる最高議会のメンバー
           
           宗教的リーダーたちの偽善性や形式主義をあからさまに指摘し、神様を父と呼び、自らを神の子と発言するイエス様に、彼らは怒りや憎しみを抱き、次第に殺意へとエスカレート。しかし、18節によれば、ピラトは、祭司長や長老たちの強引な態度やイエス様の言動などから既に気がついていたのです。彼らがイエス様を自分に引き渡した動機が、妬みであったことを。祭司長、長老達は、ユダヤをローマから解放するニューリーダーとして民衆の人気と支持を得ていたイエス様を妬んでいたのです。
           
           おめでたい私は、若い頃は、社会のリーダーやどんな分野でもトップレベルの人たちは、人格的にも立派で人を妬んだりはしないと思っていました。そうした人々は、ライバルの存在を大きな心で受け止めて切磋琢磨するものと信じていました。
           
           しかし、年齢を重ねれば、人間の罪深さが分かっていくものです。政治的リーダー達の壮絶な権力闘争、テレビドラマが「白い虚塔」などが描くエリート医師たちの妬み、芸能人やスポーツ選手たちの足の引っ張り合いなど。人格者と言われる方さえ、時には、成熟したクリスチャンや教会の教職者さえ、醜い妬みに支配されかねないことを思います。

           聖書が描く信仰者家族の姿もそのことを示しています。カインがアベル殺したのは、妬みからです。人類最初の殺人罪は、信仰者家庭の中で妬みの罪から起きました。
           
           アブラハム、イサク、ヤコブの家庭は三代続けて妬みによる家庭問題を経験しています。イシュマエルは正妻の子、約束の子であるイサクを妬みの故にいじめました。そのためにアブラハムの一家から、ハガルとイシュマエルは離脱。イサク家では、父からの愛情を受け、長子の権利を持つエサウに対してリベカとヤコブが妬んだようです。「元祖オレオレ詐欺」で、長子の権利を強奪。そのためにヤコブは家庭を離脱。さらに、三代目であるヤコブから溺愛されたヨセフは、兄たちから妬まれて、殺されかけ、家族から切り離されます。
           
           アブラハム・イサク・ヤコブは三代に渡って、妬みから家族が離れ離れになっているのです。しかも、妬みが生み出した行為は、いじめ→欺き→殺人未遂と悪化していったわけです。しかし、今日の聖書箇所に私たちが見るのは、妬みがもたらした人類最悪の結果です。それは「殺人」ならぬ「殺神」でした。人となられた神であるキリストはまさに、宗教的政治的エリートからの妬みによって、殺されていったのです。
           
           妬みは誰の心にも起こる小さな思いかもしれません。しかし、その小さな罪の思いをどこかの時点で、悔改めて捨てなければ、妬みの罪は人どころか神さえも殺しかねないのです。そして、カインもイシュマエルもエサウもヨセフの兄たちも祭司長、長老たちが、まがりなりにも真の神を信じる信仰者であったことを忘れてはなりません。
           
           そのことを思いますときに、クリスチャンとなった自分は、妬みの罪とは関係ないと言えるでしょうか?妬みから、イエスキリストを十字架送りにした祭司長や長老達と自分は違うと言えるでしょうか?マタイ27章18節は言います。「ピラトは彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである」。
           
           「誰がイエス・キリストを殺したのか?」その一つ目は、エリート達の妬みであります。お互いは、祭司長や長老達と何が違うのでしょうか?彼らの立場なら、同じことをしなかったと言い切れるでしょうか?それを心に留めて、誰がイエスキリストを殺したか?を考えたいと願うのです。
          | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 16:53 | - | - | - |
          オレオレ詐欺を防ぐのは、オレだ。悪魔の欺きを防ぐのは、誰だ?
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             いわゆる「オレオレ詐欺」の被害は年々増加する一方。これまでも防止のためのテレビでの政府広報はあったのでしょうが、最新のものは、心に届く最高傑作かも。従来にない発想で防止が呼びかけられています。監督や音楽も優れているのでしょうが、カンニング竹山の名演は感動的ですらあります。ご存知ない方は、以下のyoutubeで、ご覧ください。

            主演・カンニング竹山×監督・犬童一心×楽曲・吉田山田 詐欺被害に遭った母親との電話でハッと気付く… 「オレオレ詐欺を防ぐのは、オレだ。」  
            https://www.youtube.com/watch?v=fLOIQzCPTBI


             母親に電話をかける竹山が、オレオレ詐欺の被害にあった母親を責めます。「あんたが助かればって思ったんだよ」と寂しそうな母の言葉に、電話口でハッと気が付く竹山。「毎日話せば詐欺は防げる」と気づいたのです。母と自分の回想を経て、自らの責任を痛感する竹山、多忙の中でも空き時間に母に電話をかけるようになった竹山。最後の政府広報のコピーは、「オレオレ詐欺を防ぐのは、オレだ。

             
             そこでこんな「教会公報」を考えました。

             悪魔からの欺きの被害にあったクリスチャン竹山が、祈りの中で「なぜ、あなたを信じているのにこんな目にあうのですか?」と神様を責めます。「あんたが欺かれないようにいつも語りかけてきたんだよ」と寂しそうに語る父なる神様。祈りの座で、ハッと気が付く竹山。「毎日話せば悪魔の欺きは防げる」と気づいたのです。天の父と自分との回想を経て、自らの責任を痛感するクリスチャン竹山、多忙の中でも空き時間に天の父との交わりを持つようになった竹山。最後の教会広報のコピーはこれです。

             「オレオレ詐欺を防ぐのは、オレだ。悪魔の欺きを防ぐのは、誰だ?


             こんな教会公報どうでしょう?誰か映像化してyoutubeにアップしませんか?
            | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 21:04 | - | - | - |
            ゲス不倫、宮崎に勝る ダビデかな
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               先日は、文春に不倫をスクープされた宮崎謙介議員が会見を開きました。きっと上層部の意向に沿ったのでしょう。不倫を認め、議員辞職となりました。そして、一連の報道に触れながら思ったのです。

               「ゲス不倫とか言われてるけど、ダビデの方がもっとゲス不倫だよなー」と。

               「ダビデこそ、不倫界のゲスの極みだよなー」と。

               そこで浮かんだのが、この一句。

              「ゲス不倫、宮崎に勝る ダビデかな」

               
               嘘だと思ったら、サムエル記第二の11章と12章を読んでみましょう。部下たちを、戦闘に送り出しながら、王であるダビデは、エルサレムに残り、お昼寝でもしていたのでしょう。夕暮れ時に起床して、呑気に宮殿の屋上を散歩です。王としての責任感も、信仰リーダーとしての使命感はどこへやらです。
               
               民主党の某議員は、宮崎議員の会見に対してのコメントを求められ、与党閣僚たちの失言等も含めて「自民党の奢りに由来するゆるみ」と批判をしておりましたが、連戦連勝、王国拡大の奢りからでしょうか。今や、ダビデは「ゆるゆる」です。かつての信仰的緊張感はどこへやらです。

               そして、散歩中に美女の沐浴を見て、欲情。調査の結果、その美女、バテシェバがウリヤの妻と判明したのに、召し入れるとは、これは宮崎議員よりゲスいです。神の目の前に生きてきたはずのダビデが、貪りの罪を犯し、姦淫の罪に向かったのです。

               次に、バテシェバ妊娠となれば、アリバイ工作のため、夫ウリヤを帰宅させようと計画。ところが、ウリヤは王と戦友への忠誠心の故に、それを辞退。この忠誠心こそ、兵士の鑑、ゆるゆるのダビデ王とは正反対です。このごまかし方、文春の記者の直撃に白を切った宮崎議員より、ゲスいです。

               アリバイ作りが失敗すれば、今度は、暗殺計画です。ウリヤを戦場の最前線に送り、戦死させようとしました。ゲス不倫に加えての証拠隠滅のために、権力を悪用しての暗殺です。これはさまにゲスの極みであります。宮崎議員のゲスぶりも霞んでしまうほどのゲス振りです。

               暗殺計画は見事に成功。これは、ゲス不倫に加えてのゲス暗殺の罪であります。これらの罪は、ダビデ王朝の中で隠ぺいされ、見過ごされていくはずでした。しかし、この世には、一人だけ王の罪を見過ごせない方、王を罰する権威者がおられました。その方は、代弁者として預言者ナタンをダビデのもとに遣わします。

               ナタンは、一つのたとえ話をもって、ダビデの自らの罪を自己客観視させようとします。しかし、ナタンの話の最後まで、第三者気分でいたダビデは、「そんなことをした男は死刑だ」と断罪します。次の瞬間、ナタンの口から”You are the Man”と聞いたダビデは自分が自分自身に死刑宣告をしたことを悟ります。王が王自らに死刑宣告をしたのです。

               しかし、ダビデの即座のそして、真摯な悔い改めをご覧になった神様は、超律法的恩赦によってダビデの死刑を減軽します。ナタンの「あなたは死なない」との言葉は、本来は天からの死刑執行がなされるべきであったことを意味するのでしょう。しかし、神様は義なる方ですから、罪の罰は免れません。バテシェバとの間に生まれてきた子どものいのちが、罪の代償として奪われます。ダビデは子どもを失った悲しみだけではなく、子どもの命を犠牲にして、自らがおめおめと生きていく罪悪感や惨めさにさいなまれ続けたかもしれません。


               ダビデの悔い改めは、真実であり、悔い改めの実を結び、回復に向かったことでしょう。でも、家庭という分野だけでは、その例外であったようです。ダビデの悔い改めは子どもの教育においては、実を結ばなかったようです。バテシェバ事件は、後に、ダビデの子どもたちに決定的な悪影響を与えることになります。わが子の命と差し替えに生き延びたダビデは、次は、長男アムノンとアブシャロムの命を犠牲にします。

               13章に移るとダビデの長男アムノンが、異母姉妹にあたるタマルを騙して、性暴力の犠牲とします。しかし、21節によれば、一部始終を知ったダビデは激しく怒るだけでした。父としてまた、王として、アムノンを戒め、適切な対処をすべきでした。それをしていれば、アブシャロムによるアムノン殺害も、その後のアブシャロムの謀反と彼の死も防ぐことができたでしょう。

               ダビデが恐れたのは、父から性的罪を戒められたアムノンの口から発せらる”You are the Man”だったのでは?ダビデは父として、かつての性的罪人としてて、正直に息子の前に出て、自らの罪の痛みの故に、アムノンを愛し、戒めるべきだったのでしょう。それができなかった故に、タマル事件は、アブシャロムに復讐心を起こさせ、アムノンを亡き者にし、やがて、アブシャロムの謀反を生み出し、アブシャロムを自滅させたのです。

               家庭内で罪の悔い改めの実を結ぶことができなかったダビデは、結局、三人の子どもを死に至らしめ、自らがその苦しみを味わいます。息子たちの死は、自分が死ぬ以上の苦しみであったようです。


               宮崎議員は、会見の最後で、自分の一番の苦しみを吐露しました。それは、生まれてきたばかりの息子が、父のしたことを知る日がいつかやってくるということです。

               ダビデの息子たちは、成長過程のどこかの時点で、父のゲス不倫を知ったたことでしょう。ダビデは王としてではなく、父としてそのことを正直に息子に伝え罪を悲しみ同じ過ちを犯さぬよう、神の前に正しく歩むように語ったのでしょうか?それとも、「もう、知ってるよな」「言わなくても分かってよな」「そもそも言いたくないし」と心でつぶやきながら、一人の悔い改めて赦された罪人して息子たちの前に立つことがなかったのでしょうか?これは、息子たちが性的にどう歩むか父に対してどのような思いを抱いて生きていくか?の分岐点になります。

               
               宮崎議員は最後の最後に「子どもは親を選べない。だから、親は子どものために変わらなくてはならない」と正論を語りました。

               これは、一般論でしょうか?それとも、自らのことを指しての発言なのでしょうか?

               極度の浮気症は、性欲の問題ではなく、心の深いところにある傾向性の問題ですから、自分の意志だけで変わることは困難です。でも、正しい対処や周囲の支援があれば、宮崎議員は、生まれたばかりの子どものために、父として今後、変わることは可能です。いつか、息子さんが今回の件を知ったとしても、ダビデができなかったこと?をするなら、葛藤はあるでしょうが、息子さんは乗り越えていけるでしょう。

               宮崎議員の息子さんには、いつの日か聖書を読んでいただき、知ってほしいと願います。父上にはるか勝るゲス不倫をしたダビデの家系から、キリスト様がお生まれになったことを。そのことを知って、自暴自棄にならずに、ご自分を大切にして欲しいと。あなたの苦しみを体験者として分かって下さる方が、救い主であることを。


               今回の宮崎議員の不倫と会見内容、そして今後の彼の歩みは、多くの点において、ダビデのバテシェバ事件とその後の不幸な家庭生活に共通しているように思うのです。


               ダビデの悔い改めは真実なものでした。でも、私は思うのです。

               果たして、息子たちに対して悔い改めの実を結んできたのか?

              親は子どものために変わらなくてはならない」との思いを息子に向き合い実行に移してきたのか?

               聖書を読む限りそうした疑問をぬぐい切れません。そして、この問題は今も、クリスチャンの父親と息子との関係に引き継がれているように思えてならないのです。


              「ゲス不倫、宮崎に勝る ダビデかな」

                
               偉大なる信仰の勇者が、ゲスの極み不倫者であったことを聖書は包み隠さず、記しています。

               神の超律法的恩赦に値する真摯な悔い改めをした王も、父としては悔い改めの実を結べなかったことを聖書は描いているかのようです。


               そう考えながら、宮崎議員を批判するにしても、まるで、イエス様の先祖である信仰の勇者がゲスの極み不倫をしなかったかのように、憐みのかけらもない断罪をすべきではないだろうと、自らを省みているところです。

               自分は父として、罪ゆるされた者として正直に子どもの前に立ってきたか?「親は子どものために変わらなくてはならない」との思いをわが子に向き合い実行に移してきたのか?そのことも、み言葉の前に問われる思いがしています。

               
              | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 22:08 | - | - | - |
              仮想裁判「あなたも野々村元県議?」
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                 また、やってくれました、野々村元県議。厳粛なる裁判の法廷を「ののちゃんワールド」と化し、裁判をエンターテイメントに変質させ、マスコミに格好のネタを提供してくれました。裁判所の信頼を失っているという理由もあるのでしょう。結局、二か月の拘留となってしまいました。

                 質問によって有利な材料を引き出すはずの弁護側の質問には、「記憶にない」「覚えていません」あるいは「記憶を確認しますので」と言い、しばらくの黙考検察の質問にも、同様の応答の繰り返し。しびれを切らせた裁判官からは「そんなに難しいこと聞かれているわけではないでしょう。」とお叱り。それに対しても野々村元県議は「難しい」と即答したのだとか。


                 今朝のワイドショーでは、「弁護側を呆れさせ、検察側を困らせ、裁判官を苛立たせ」とそのトホホ振りを巧みなフレーズで報道しておりました。


                 その時、ひらめいたのです。

                 「弁護側を呆れさせ、検察側を困らせ、裁判官を苛立たせ

                 これって、他人事じゃないよなーと。



                 裁き主である神様に対して、私たちの「弁護人」となってくださる「イエス様」

                 みことばと共に働き、私たちに罪を罪として悟らせ悔い改めと回復に導く「検察」ならぬ「ご聖霊」

                 そして、唯一絶対の裁き主である「裁判官」ならぬ「父なる神」


                 示されている罪を罪を認めようとせず、このお三方著しいご迷惑をおかけしてしまうことってないでしょうか?

                 「御子を呆れさせ、御霊を困らせ、御父を苛立たせ

                 そんなことってないでしょうか?


                 そこで思いついたが「仮想裁判」です。サブタイトルは「あなたも野々村元議員?」その裁判の様子をいかにレポートします。

                仮想裁判あなたも野々村元議員?」

                御父(裁判官)「まずは、弁護側の被告人質問から行います。弁護人は質問を。」
                御子(弁護) 「被告は訴えられている罪の事実を認めて、悔い改めていますね?」
                被告(自分) 「訴えられているような罪については覚えていません

                御子(弁護) 「罪を言い表すなら、裁判官は真実な方ですから、その罪をゆるしてくださるのですよ」(汽茱魯唯院В后
                被告(自分)  「そう言われても、記憶にございません

                御子(弁護)  「私はあなたの弁護人として、十字架に架かりました。その時、流された血によってすべての罪からきよめられるのですよ!」(汽茱魯唯院В后
                被告(自分) 「記憶を確認しますので・・・(15秒後)やはり、赦していただくような罪の事実については、その記憶はございません」

                御父(裁判官)「続いて、検察側の被告人質問を行います。」

                御霊(検察) 「さっきから、罪を認めないようですが、み言葉の光を受けてみてどうですか?」
                被告(自分) 「受けたような受けないような・・・よく覚えておりません。」

                御霊(検察) 「あなた、訴えらえているような行為をしたでしょう?私たちがみ言葉を通じて示したはずです」
                被告(自分) 「そうした記憶はございません。」

                御霊(検察) 「もし、罪がないと言うなら、自分を欺いており、真理はあなたの内にないのですよ!」(汽茱魯唯院В検
                被告(自分) 「記憶を確認しますので・・・(15秒後)やはり、赦していただくような罪の事実については、その記憶はございません」

                御父(裁判官)「そんなに難しいこと聞かれているわけではないでしょう!自分の罪を言い表すだけ、自分のした通りのことを告白するだけです。そうすれば、罪は赦され、すべての悪からきよめられるのです!それって、難しいですか?」
                被告(自分) 「(即答して)はい、難しいです。」

                御父(裁判官)「もし、罪を犯していないというなら、神を偽り者とするのです。神の言葉はあなたの内にはありません」(汽茱魯唯院В隠亜
                被告(自分) 「そう言われましても、記憶がございません。」
                御父(裁判官)「今日は結審しません。協議の結果、次回の裁判まで被告人を罪の鎖をもって、最大二か月間拘留することとします。」


                 ヨハネの手紙第一の1章ってこういうことなのかもしれません。罪が赦される神の側の恵みと罪を認めぬ人の側の頑なさが、対称的に描かれ、罪を罪を認めぬ残念な姿とその報いが記されています。

                 クリスチャンにとっては、今回の裁判、「野々村の振り見て、我が振り直せ」なのかもしれませんね。
                | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 15:21 | - | - | - |
                愛こそが決め手〜All We Need Is Love.(4)
                0
                   今日で最終回となります。最後は、3節と結論です。

                   最後に3節です。愛が決め手、三つは、「愛はすべての自己犠牲の決め手」ということです。「すべての自己犠牲の決め手」です。パウロはこのところで、究極の自己犠牲であっても、そこに動機としての愛がなければ役に立たないと教えます。3節をご一緒にお読みしましょう。(→3節朗読)

                   
                    全財産を貧しい人に与えるというここには、究極の自己犠牲があります。全所有の放棄です。さらに自己犠牲はレベルアップして、所有どころから、所有者自身を放棄するのです。つまり、自分の体を焼かれるために渡すという行為です。全所有と自分自身を捨てるのですから、ここに記されている内容は、まさに、究極の自己犠牲です。一見、最高の愛の行為に見えます。しかし、それさえも愛がないなら「何の役にも立たない」とパウロは言います。
                   
                    逆に言えば、私たちは、このような自己犠牲でさえ、愛以外の動機で実行する可能性があるということです。愛以外の動機、すなわち自己顕示や見返りのために全財産を放棄する事もすれば、昔の武士のように自分の面子やプライドのために命を捨てることもできるのです。そのように私たち罪人は、愛なくして、究極の愛の行為と見える自己犠牲をすらできてしまうのです。
                   

                    「持っているもの全部を貧しい人々に分け与える」とあります。このような施しも、必ずしも愛が動機だとは言い切れません。ペテロはその代表です。彼は、イエス様に言います。「私はすべてを捨ててあなたに従いました。」と。究極の自己放棄をそう証した後、ペテロは何と言いますか?「つきましては何をいただけるでしょうか」。もう、「おい、おい」ですよね?ペテロがすべてを捨てたその動機は、だったのでしょうか?それとも、イエス様がイスラエル国を再興しら、高い地位に就こうというだったのでしょうか?
                   
                    3節にはもう一つ「自分の体を焼かれるために渡す」あります。皆さんは、ニュース番組などで焼身自殺を見たことがあるでしょうか?
                  近年は、焼身自殺の連鎖を防止する趣旨もあり、報道自体が自粛されているようですが、私は昔、民族の独立を訴え、自分たちを抑圧する国家に抗議して焼身自殺をする様をテレビで見たことがあります。
                   
                   名もない無力な一市民が、全世界に民族独立のメッセージを送る唯一の手段が、焼身自殺であると考えたのでしょう。そこにはきっと同胞を思う愛があるのでしょう。しかし、この究極の愛の行為には、愛以外の動機が潜んでいたのかもしれません。たとえば、自分たちを抑圧する国家権力対する激しい怒りや憎しみが、その方を焼身自殺に至らせた可能性もあるでしょう。
                   

                    そうです。私たちに罪人は、時と場合によっては、愛以外の動機で全財産を与えることも、自分自身を捨てることさえできてしまうのです。そのことを覚えてながら、この朝、私たちは、同じようなことを自らに問いたいのです。
                   
                   私たちは今、こうして礼拝のために時間をささげ、礼拝の中では、献金という形でをささげます。その動機は何でしょう。また、クリスチャンたちが、時に、何かを捨てキリストに従おうとする動機は何でしょう。それら自己犠牲の動機はなにでしょう?
                   
                   それは愛であるはずです。神様の愛の招きに応答して、神の民は時間を犠牲にして、礼拝をささげます。豊かに与えて下さる愛に感謝し、また、神様の愛への応答である献身の証しとして献金をささげるのです。時間と財だけではありません。「神様の愛に報いたい」、「少しでもお役に立ちたい」「こんな私だけど、できる事があればさせていただきたい」。そこからスタートしたはずです。しかし、愚かな私たちは初めの愛からはずれてしまいがちなものです。
                   
                    心に愛がなければ、犠牲は負担です。奉仕などは、できるだけ早く終らせたい苦痛となります。どうしてこんな事、他の人がすればいいのにと、不満、呟きも生まれます。しかし、その時、奉仕を退く事を考えるよりも先に考えるべき事があります。それは、どういう動機で自分は犠牲を払っているのか?神様はどのような動機で犠牲を払うことを願っておられるか?です。
                   

                   どのような犠牲であれ、神様は、私たちが愛という動機をもってそれを実行することを願っておられます。ですから、動機が愛でなくなったからと言って、これまでしてきたことを簡単に止めてしまうのはどうかと思います。むしろ、これまでしたてきたことを、最初の愛に立ち返って行うこといつもしていることを、さらに愛を込めてしてゆくこと。それこそ神様が、私たちに願っておられることではないでしょうか?

                    聖書は言います「全財産を、さらには自らの体をささげても、そこに愛がなければ、何の役にも立ちません」と。愛こそが決め手、その三つ目は、「愛はすべての自己犠牲の決め手」ということです。時間、財産、労力と何であれ、犠牲を払うとき、常に心の真ん中に愛という動機を持つお互いでありたいと願います。

                   
                    今日は「愛こそが決め手」と題して、第一コリントの13章1節から3節をお取り次ぎいたしました。最後に一つ確認をしてメッセージを終えたいと思います。パウロは何のために聖霊の賜物について記している12章と14章の13章を挿入したのでしょう。それは、コリント教会の信徒たちの愛の乏しさを責めるためではありません。そうではなく、愛が決め手であることを知って、愛に生きて、愛という動機をもって、聖霊の賜物を用いるためでした。
                   
                   そのことは今の私たちも同じです。愛の乏しい自らを責めて、落ち込むために13章があるのではないのです。今日の聖書箇所は、私たちも愛が決め手であることを悟り、愛に生き、愛という動機をもって一切を行う者へと変えられていくためです。愛がなければ、音声はやかましくうるさいだけで、賜物は何の値打もなく、究極の自己犠牲すら何の役にも立たないとのパウロの言葉は、私たちにその裏返しのことを期待する言葉なのです。

                   
                   私たちの発する音声は、そこに愛があるなら、人の心に届き、人を活かすのです。お互いの賜物は、愛という動機によって用いられる時、豊かに実を結び、神様の御業を進め、教会を建て上げるのです。クリスチャンたちの自己犠牲は、愛から為される時にこそ、神様の愛を証し、主の御名が豊かに崇められるのです。
                   
                   自らの愛の乏しさばかりに、いつまでも目を向けているのではなく、そんな自分にさえ、賜物を与え、用いようと期待しておられる神様の方に向き直って、すべてのことを、愛をもって行う者へと成長させていただきましょう。お祈りします。
                  | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 16:39 | - | - | - |
                  愛こそが決め手〜All We Need Is Love.(3)
                  0
                     三回目となる本日は、賜物と愛の関係です。

                     続いて2節です。愛が決め手、その第二は、「愛はすべての賜物の決め手」ということです。賜物を活かすも殺すも、それを用いる動機としての愛だということです。では、2節をご一緒にお読みしましょう。(2節朗読)
                     
                      ここに書かれているものは、すべて御霊の賜物です。特定の人に与えられた天来の特別な能力です。まず、預言の賜物とありますが、これは説教の賜物ではなく、いわゆる直接啓示、直接的に神の語り掛けを受けて取り次ぐ賜物です。また、奥義や知識も聖書を読んで誰もが分かるようなものではなく、特定の人だけが知りえる内容です。また山を動かすほどの完全な信仰とあります。これも、また特別奇跡的な信仰、不治の病が瞬時に癒されるような超自然的な信仰のことを意味します。
                     
                      しかも、これらはコリント人への手紙を読むなら、異言に勝る賜物だと言う事が分かります。ですから、1節に増して、いよいよ愛の至上性が語られているのです。預言、奥義と知識、完全な信仰、これら、信仰生活上、異言以上に高く評価されるべきものでさえ、愛という動機によらなければ、聖書は「何の値打ちもない」と評価しています。
                     

                      愛という動機がすべての賜物の決め手であるとするこの原則は、そのまま、今の私たちの信仰生活に当てはまります。結局、神様に用いられて実を結ぶのは、他者も自分も活かして教会を建て上げるのは、賜物豊かな人ではなく、賜物を正しく用いる愛の人なのです。
                     
                      愛において未熟な人は自己愛に生きるものです。神と人を愛するが故に自分を先送り、後回しにできないのです。自分がどこまでも大事です。ですから、評価されないと奉仕しないのです。自分が好きな奉仕はするが、嫌な奉仕はしないのです。神様が中心でなく、自分中心なのです。自分の好みや都合で取捨選択をするのです
                     
                     言い換えますなら、賜物の与え主に忠実なのではなく、賜物の持ち主となった自分に忠実なのです。自分の好み、都合、損得、気分に忠実なのです。その結果賜物が活かされません。一方、愛の豊かな信仰者は、違います。「神様、私はこれ嫌いです、苦手です、これには苦労が伴います、でも、せよとおっしゃるなら致します。私はあなたを愛するが故にさせていただきます」そう決心して、与えられた賜物を用いていただいて実を結ぶのです。
                     

                      そのことはあのタラントのたとえにも明らかです。主人は「よい忠実な僕だ」賞賛しています。神様の私たちに対する評価はどれだけ儲けたかではなく、賜物に対する私たちの忠実さなのです。 では、その忠実さはどこから来るのでしょう。よい僕たちは、多く(1タラントは6000日分の賃金、今で言えば6000万円相当)を任せて下さった主人の愛に報いようと忠実にタラントを用いました。主人の愛に報いようとする愛の思いがタラントに対する忠実さとなって現れました。
                     
                      一方の悪い僕は言いました。「ご主人様あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました。そこで私は恐くなったのです」。つまり、1タラントもの大金を任せた主人の愛を知らず、ひどい方と誤解していたのです。そして、臆病になり、主人の愛に愛をもって答えようとしなかったのです。 そうです。愛こそが決め手なのです。愛が賜物に対する忠実さを生み出し、愛こそが賜物を活かすのです。

                     
                     聖書は言います「預言も、奥義も知識も、山を動かす完全な信仰でさえ、愛がないなら、何の値打もありません」と。愛こそが決め手、その二つ目は、「愛はすべての賜物の決め手である」ということです。お互いは賜物のあるなし、賜物の豊かさ乏しさに一喜一憂している場合ではありません。人と比較している場合でもありません。愛を学び、愛を追求し、愛に生きて愛によって賜物を用いる者でありたいと願います。
                    | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 23:17 | - | - | - |
                    愛こそが決め手〜All We Need Is Love.(2)
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                       今日は第二回目です。「愛なき異言」から愛の至上性を考えます。


                       まずは一節です。「愛が決め手」その第一は、「愛がすべての音声の決め手」ということです。言い換えますなら、愛が、私たちの言葉と賛美を決定するということです。1節をご一緒にお読みしましょう。→(1節朗読)
                       
                        この13章は12章と14章の間に位置します。この13章は本来独立した部分ではありません。御霊の賜物の用い方という文脈の中で、語られています。賜物を用いる際の動機として、愛が語られているのです。そして、この1節で取り上げられているのは、異言の賜物です。
                       
                       コリント教会が混乱していた理由のひとつは異言でした。では、異言が悪いものかといえば、そうではありません。少なくとも、初代教会においては、教会が建て上げられるために神様が下さっていた賜物です。別の箇所でパウロは、自分自身も異言を話すと記していますし、できるだけ多くの者が異言を話せたらよいとまで記しています。
                       
                        ですから、パウロは異言自体を問題視しているのではありません。では、何が問題であったのでしょう。問題は、異言ではなく、それを話す人の側にありました。異言を話す人の心に愛がなかったことが問題だったのです。御霊の賜物である異言を愛以外の動機で用いたために礼拝に無秩序か起こり、交わりに亀裂が生じていたのです。
                       
                       
                       ここで少し異言について説明しておきましょう。異言とは当人も知らない言語で教会のために執り成しをする超自然的な賜物のことです。1節には「人の異言」と「御使いの異言」の二種類があることが書かれています。様々な解釈がありますが、「人の異言」とは、いつかの時代のどこかの民族が話していた言語だろうと考えられます。
                       
                       たとえば、古代アラビア語や現代のタガログ語など、実際に実在した言葉を話せないはずの人が話すのです。使徒の働きの2章で聖霊に満たされた者たちが、話したのはこの「人の異言」に相当するのでしょう。それに対して「御使いの異言」とういうのは、人類の歴史には存在しない、天使のみが理解できる言葉だろうと考えられます。
                       
                        異言とはこのような性質のものですから、語る人の心に愛がなければ、異言がどのような問題を生ずるかは容易に想像がつきます。まず、異言を語る人が語る事ができない人を見下げます。一方、語る事の出来ない人は、語る人を妬みます。そして、同じ異言を語る人々の間でも、比較や競争がおこります。かくしてチームメイトであるはずの兄弟姉妹は、ライバルとなってしまいます。他者を執り成すための異言は、他者を打ち負かすためのものになってしまいます。
                       
                       
                        聖書によれば、異言を語ることと霊的制熟度とは関係がありません。実際にコリントの信徒たちの多くは異言を語りながら、キリストより指導者につながり、分裂をし、性的な罪を犯し、弱い人、貧しい人を顧みず、聖餐の恵みを台無しにしていました。ですから、ここでパウロは、霊的な成熟の基準が愛であることを示しているのです。賜物の種類や数よりも、何によって行動しているか動機は愛なのか?それによってクリスチャンの成熟度は測られるのです。
                       
                        パウロは、愛なき異言を語るなら、それは「ドラやシンバルと同じ、やかましい、うるさいだけ」と厳しい評価を下しています。さらに、このドラやシンバルというたとえには、「やかましい」「うるさい」以外の深い意味も込められています。実は当時、ドラやシンバルは異教の礼拝時に用いられていました。日本の仏教でも真言宗などは、ドラやシンバルに相当するものを鳴らしますから、多少イメージできるでしょうか?コリントの信徒のほとんどは、以前はそのような礼拝に出席していたので、パウロの言葉が実によく理解できたのです。
                       
                        愛のない異言を語り、自分を自慢し、賞賛してもらうための礼拝、神でなく、人が崇められるための礼拝、それは、あなたがたが以前、していた偶像礼拝と同じだという意味がここには込められていると思われます。そうです、神への愛によらない礼拝、人間が誇り、自分を誇示するための礼拝は偶像礼拝に他なりません。
                       

                        さて、私たちはこの愛なき異言の問題から、何を学ぶべきでしょう。御教会が属しているおられる団体は、異言など聖霊の賜物が今日も続いており、用いられるべきとの教理は採用しない立場をとっていると理解しております。だとしたら、1節の言葉は、御教会にとっては、関係のないことでしょうか?いいえ、むしろ、この愛なき異言は、その本質においては、まさに、今の私たちが問われるべき事柄なのです。
                       
                       それは、いわば言葉と音声の問題です。私たちが発する言葉と音声です。具体的には、祈りの言葉、証しの言葉、説教の言葉に相当します。そして、音声とは、賛美です。歌であり、楽器の音です。どんなに聖書的で説得力のある説教だとしても、そこに、愛がなければ、神様にとっては、やかましいだけではないか?どんなに巧みな賛美でも、愛がなければ、神様の耳にはうるさいだけではないか?そんな礼拝を神様はお喜びにならないではないか?それが、今日、13章1節が私たちに問いかけることでしょう。
                       
                        説教とは神様の言葉である聖書を仲介することです。証しは神様が自分に注いで下さった恵みを証言することです。当然、語る者は神と人を愛する思いをもって語らなくてはなりません。間違っても自分が誉められたい、自分の力を誇示したいとの動機があってはならないでしょう。
                       
                        祈りも同様です。聖書でイエス様も戒められたように、人から立派なお祈りと思われたいという動機で祈ってはなりません。公の場での祈りは、代表の祈りですから、整っている事もその場の目的にふさわしいこと大切でしょうが、一番大切なことは、神様への愛の思いで祈りをささげることでしょう。
                       
                        賛美もしかり。賛美奉仕者にとって音楽的な技術はとても大切ですが、神様は、技術よりも先に動機を見ておられます。最悪の賛美とはどのような賛美でしょう。それは音のはずれた歌でも、弾き間違えばかりの奏楽でもありません。最悪の賛美、それは、自分はこんなに歌が、楽器がうまいのだと自分を誇示する賛美です。人がたたえられるなら、それは、賛美ではありません。神様以外の誰か賛美されるのなら、それは偶像礼拝です。
                       
                        では、どうしたら、愛なき言葉や音声を退けることができるでしょうか。たとえば、奉仕に際して、神様の前に自らに動機を問うことでしょう?そこで問うべきことは、「愛か?欲か?」です。こう祈って奉仕に臨んでみてはどうでしょう?「あなたを愛します。自らの欲を退けます。あなたへの愛の思い100%で用いてください。すべての御栄光はあなたにありますように」。私の個人的な経験からの提案に過ぎませんが、参考になれば感謝なことです。

                       
                       聖書は言います「人の異言も御使いの異言も、愛がなければ、やかましいどらやうるさいシンバルと同じです。偶像礼拝と変わりません」と。「愛こそが決め手」、その第一は、「愛はすべての音声の決め手である」ということです。
                       
                       私たちが語る聖書の言葉や証し、私たちがささげる祈りと賛美の音声は、すべて愛があってこそ、人の心に届き、人を活かし、神様に喜ばれるのです。常に動機の中心に愛にをおいて、言葉と音声を発する者でありたいと願います。
                      | ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 20:11 | - | - | - |
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