命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
乙武氏不倫報道〜「障がい者だから」でも「障がい者なのに」でもない平等による公義
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    今回の乙武氏不倫報道について、二つの力がメディアの内部で働いていると予想されます。それは「タブー」と「迎合」です。まず、この件では、タブーの力学が働きます。日本のメディアのタブーの代表は「菊タブー(天皇や皇室が対象)」と「同和タブー」です。強力な圧力団体や人権団体があるもその一因と思われます。この二つはよく知られていますが、意外と知られていないのが「障がい者タブー」です。

     障がい者に、犯罪加害や著しい問題行動があった場合も、その報道についてはメディアは極めて慎重です。ある事件を伝えたとしても、加害者が障がい者であることには触れなかったり、その罪を強く非難しなかったりです。これを「障がい者に対しての人権的配慮」と考えるか「ジャーナリズムとして腰が惹けている」と考えるかは、意見の分かれるところでしょう。

     もう一つは「迎合」です。メディアには「お茶の間の倫理観に合わせる」という暗黙の了解があるそうです。たとえば、ベッキーへの過剰なまでの否定的報道は、平日の昼間のテレビ視聴者である「専業主婦の倫理観」に迎合したからとの見解をネットで読んだことがあります。テレビは特に視聴率が評価基準ですから、視聴者の倫理観に合致した論調にせざるを得ないわけです。それが社会通念上適切な批判に落ち着くこともあれば、大衆のバッシング欲求に迎合してそれを煽ってしまう場合もあるわけです。

     今朝の朝のテレビワイドショーを注目して見ていると、過剰なタブーはなく、しっかりと報道していて安心しました。タブーによる自粛も自民党からの圧力もなかったようです。それでも、ベッキーや宮崎議員と比較すると、遠慮があるように見受けました。また、「障がいとは無関係で不倫はいけない」というまさに「お茶の間の倫理」に落ち着いていました。

     そういうわけで、テレビの方は、「タブーと自粛」の相乗効果で、無難な論調となっていたわけです。


     興味深かったのは、午前中の買い物途中に車中で聴いたラジオ番組「つボイノリオの聞けば聞くほど」です。番組に寄せられたリスナーからの本音が聞けたからです。

     「障がい者なんだから大目にみてやろう」という障がいに理解があるのかないのか分からないような声。

     「障がい者なのに、乙武、やるじゃん、いいなー」という軽薄な賞賛の声やうらやましがる声。

     是非はともかくこうした本音が出るのがこの番組の良さですが、やはり、最後は「お茶の間の倫理観」を落とし所としていました。番組終了前のまとめのようなコーナーではこんなお便りが読まれていました。

     「障がい者が清廉潔白とは思わないが、不倫はやっぱりよくない」という正論。

     「僕は、視覚障がい者ですがエロいです。」という障がい者の現実を伝えるカミングアウト

     「全盲の男性と10年つき合いましたが、浮気をされて別れました。やっぱり、障がい者も男」という経験談。

     同番組のリスナーには病者や障がい者も多く、普段から、その声は電波に乗せられています。今回は障がい者自身の声もいつくか紹介されていたようです。前回の記事で書いたことですが、障がい者の実際、とりわけ性の現実を知らない私たちに、「エロ面白い」振りをしながら、その基本知識を与えてくれている放送は、さすがはつボイノリオだと感心しました。

     
     日本の民法の土台となる結婚観は、キリスト教文明が持つ「相互独占契約」という理念上に成り立っています。ですから、結婚関係は法律で保護されており、それを破壊する不倫は、立派な「不法行為」なのです。そして、法の下の平等により、障がいの有無に関係なく、不倫行為は不法行為。それに変わりはありません。そして、現実問題として、結婚を破壊し、伴侶と子ども、さらに信頼をよせててきた周囲の人々を苦しめます。

     「障がい者だから」と言って大目にみれないし、「障がい者なのに」ある意味スゴイと褒めるわけにもいきません。ただただ、人の道には反しているから「不倫」なのです。障がいの有無に関係なく、民法上の不法行為だから、社会的非難も受けるのです。

     「差別をしない」ということは、「平等に扱い判断する」ということです。差別をしたくないからこそ、私は思います。「障害者だから?障害者なのに?そんなの関係ねーだよね?」と。不法行為を働いたのですから、謝罪し償うことです。既に速やかにそれをして、すべてを語り、妻までも責任の一端を認め異例の謝罪し(米米方式?)、夫婦としてやり直すそうですから、世間は温かく見守っていけばいいのかな?と思い始めています。

     でも、一つだけ心配していることがあります。乙武氏の迅速な全面的告白と謝罪も妻からの謝罪もすべて、早期事態収拾を願う自民党幹部の指示によるもので、結局、参院選に出馬して、世間がまんまと騙されたと後で知るという可能性です。乙武夫妻の謝罪や対応は危機管理の専門家からは、80点以上の高得点で「素人としてはできすぎ」らしいです。特に妻の側の謝罪文は、世間対象のものであって、本音かどうかは怪しいという声は多いです。自民党主導の危機対応?ただただ、そうでないことを願うばかり。


     「差別をしない」ということは「平等に扱い判断する」ということ。障がいの有無にかかわらず、平等なのは権利というプラス面だけではないはず。犯罪行為や不法行為に対して問われる責任や受けるべき社会的制裁などのマイナス面においても平等であってこそ、聖書が明示する「人を偏り見ない」歩みであり、神が熱望される「公義」と言えるのでは?
    | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 14:47 | - | - | - |
    乙武氏不倫報道を受けて〜「障碍者への美談押し付け」という差別
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       ショーンKの次は乙武氏であります。今回は、文春に負けじと新潮のスクープです。参院選に出馬するようですが、このタイミングでの報道は狙ったものでしょう。この記事によれば、新潮の取材に応じて、当人が結婚期間に5名もの女性との不倫があったことを証言しているようです。

      「乙武洋匡」氏が不倫を認める 過去を含め5人の女性と
      http://news.yahoo.co.jp/pickup/6195447

       築き上げられてきた信用とイメージを著しく裏切る事実の発覚です。少なくとも多くの女性にとっては、ショーンKより、乙武氏の方が、赦しがたいことでしょう。いいえ、きっと真面目な男性にとってもそうでしょう。弱者と正義の味方のような存在で優れた言動が賞賛されてきた方だけに、これは国民的ショックでしょう。ネット上には乙武氏、あるいは彼の母親はクリスチャンとの不正確な情報(信憑性は低そうです)があるようですから、クリスチャン読者にとってもショックだったかもしれませんね。

       多くの健常者は、乙武氏の身体では不倫行為もままならないと思うでしょうから、ショックであるだけでなく、受け止めがたい心情や複雑な思いもあるのでは?自民党のいわゆる「身体検査」も障碍の故に、女性問題はノーチェックだったのかも。

       今後は参院選の出馬の是非が問われでしょうし、出馬をしても、彼への女性票は激減することでしょう。自民党も出馬をさせない方が益と判断しかねません。ただ、潔く認めたようなので、真摯な謝罪があれば、出馬可能となるのかもしれません。


       今回は乙武さんのことは論じません。今回考えたいことは、障害者への美談の押し付けということです。以前、レーナ・マリアが離婚した時、多くのクリスチャンたちは躓いたり、失望を覚えたようです。もっともレーナさんの母国では、クリスチャンでも事実婚をして別れるのは標準的という話も聞きますが、本当でしょうか?

       田原昭肥・米子ご夫妻も、婚前に二人の間に性的罪があったことを告白し、悔い改めをされています。その後、悔い改めの実を結び、とりわけ弱い立場にある方々に救いの証しをされました。あるキリスト教の説教例話集には、真実な悔い改めが豊かな宣教の実を結んだ実話として、このことが掲載されています。


       どうも、私たちは障碍者に美談を期待しすぎかと思います。特にメディアが障碍者を取り上げる際は、まるで健常者たちに励ましと希望を与えるための存在であるかのようです。「健常者のために貢献するのが、障害者の存在意義」と言わんばかりで、常々、腹立たしく思っています。24時間テレビなどはその典型でしょう。メディアはなかなか、頑張りやさんでも、天使のような笑顔でもない現実の障害者を報道しません。

       特に、障碍者の性はタブー扱いです。(近年では、障碍者教育では逆にかなりリアルに扱われています。)性的機能が正常なら、障碍者も健常者も性的欲求や葛藤に違いはありません。しかし、健常者の多くは、障碍者がまるで去勢された天使のように過ごし、障碍に負けないでがんばり、健常者に励ましと希望を与えることを願っているかのようです。


       今回の乙武氏の不倫報道を受けて思ったのです。私たちは無意識のうちに、とりわけメディアの操作を受けて「障碍者への美談押し付け」という差別をしているのではないかと。乙武氏についても、私たちは、過剰に美化し聖人君子であることを勝手に押し付け、清く正しく美しい障碍者を演じるよう強制してきた面もあるのではないかと思ったのです。そして、レーナ・マリアさんや田原米子さんにも美談に徹する期待をしてきただけに、過去の失敗を必要以上にタブー視しているという面もなきにしもあらずかと思うわけです。

       乙武氏については、障碍の故に同情されることも、不倫という不法行為の責任が差し引かれることもなく、適切なレベルで社会的非難を受けるべきでしょう。ある意味での逆差別がされるべきではないと考えるのです。個人的にも、正直、乙武氏には失望を覚えています。

       しかし、その一方で、自戒を込めて、思うのです。私たちは、障碍者に美談を押し付けすぎであることを。そのことを今回の件で自覚したいと願うのです。なぜなら、それも、弱者の等身大の生き方を見ようともせず、強者への貢献を強制するという「差別の一形態」のように、私には、思えてならないからです。何よりも、等身大の障碍者に日常的に触れていないことが、「障碍者の人生=美談でなくては」という「美しい誤解」ならぬ「美しく差別的な偏見」を生み出していることを、改めて確認したいと願います。


       弱者の等身大の生き方を見ようともせず、強者への貢献を強制するという「差別の一形態」

       障害者に美談を勝手に思いえがく「美しく差別的な偏見」


       うがったものの見方でしょうが、そんなことを考えてみてはどうでしょう? 
      | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 20:40 | - | - | - |
      「プチ佐村河内」としてのショーンK、その復帰計画
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         先週の木曜のこと、知り合いの20代独身クリスチャン女性が、ショーンKを理想の男性としていると聞きました。あのルックスとあの声、そして、あの知性派と仕事ぶりなら、納得でした。それから、一週間も経たぬうちに、学歴詐称疑惑と整形疑惑であります。

         熊本出身で名前はもろ日本人。最終学歴は高校。世界各地で経営する会社はペーパー企業で、整形したと予想され、ヅラ疑惑まであるのだとか。実際は多額の借金のあった両親のために、住み込みで新聞配達をして高校に通った苦労人です。どうも、厳しい家庭環境や苦労が、劣等感となり、自分を過大に誇示したのでしょう。「ホラッチョ川上」(熊本弁でほら吹きの意味)と呼ばれていたとか。

         自分について、事実とは異なる別の物語を作って、売り出そうとする「セルフプロデュース」の成功者としては、あの佐村河内守氏と共通しています。佐村河内氏が「被爆者二世、全聾の天才作曲家」との虚像で世間を欺き大成功を収めたように、ショーンKは「高学歴イケメンハーフ経営コンサルタント」との虚像で、テレビに出ていたわけです。

        以前、Y牧師が、「虚像を演ずる側」と「虚像を支える側」という視点でこんな記事を書いておられました。
        「牧師室のささやき」
        番外編:佐村河内氏の事件に思うこと

         趣旨の通り、シェーンKも、大衆が求める虚像に合致した虚像を演じたということでしょう。経済についての優れた見識を発するコメンテーターは、ダイエットしてもなおルックスに恵まれない森永卓郎さんや、ショボいキャラの門倉貴史先生でいいのです。二人とも、専門的力量とタレント性を十分兼ね備えていますから。逆に言えば、甘いルックスと声の持ち主は、経済など語れなくていいのです。片方だけで評価され、視聴者は満足すべきでしょう。テレビ視聴者である私たちはとんでもない要求過多なのでしょう。いいえ、顧客満足のハードルが高すぎです。

         佐村河内氏に比べれば、ショーンKのしたことは、まだ、軽いように思えます。佐村河内氏はやはり、いくつもの面において、悪質性が高いと思うのです。そのことは以前こちらの記事でも記しました。

        弱者偽装、弱者利用、弱者冒涜としての佐村河内問題

         というわけで、ショーンKのしたことは、「プチ佐村河内」かと考えるのですが、どうでしょう?世間には「整形でも、学歴詐称でもいい、あの甘いルックスと声よ、もう一度」と願う女性も少なくないでしょう。彼が、本当の自分を受け止め、虚偽を謝罪し、事実の物語をもって、復帰する道はあり得ると思うのです。そこで、復帰計画まで、勝手に考えました。

         その時は当然、別のイメージです。いわば「ぶっちゃけなんちゃって経営コンサルタントイケメンタレント」です。さっそく、マイナスのほとぼりが冷めないうちに、「しくじり先生」に出演して、等身大の自分を世間に示し、正直に恵まれない家庭と苦労人の物語を話し、虚偽を謝罪し、新たなキャラで、報道番組のコメンテーターではなく、バラエティー番組のひな壇タレントになればいいのです。女医の西川先生とコンビを組めば、専門職カテゴリーでの毒舌キャラといじられキャラで売れるかも。

         決め台詞は、「等身大の自分で生きよう!本当の自分の物語を語ろう!川上伸一郎、昔の名前でもう出ません」

         教育的なのか、深いイイのか、痛いのか、笑えるのかわからないこのフレーズが、受けて、めでたくテレビ界に復帰というのはどうでしょう?あのルックスと声だけは、まだまだ女性を中心に需要があると思うのです。

         まだ、多くの女性たちは、テレビ出演を願って、心の中で叫んでいることでしょう。

        「ショーン、カムバーック!」

         あまりに、古いオチで、申し訳ありませんでした。
        | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 11:17 | - | - | - |
        バレンタインデーにこそ、向き合いたい「不都合な事実」
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           昨日とは正反対の真面目な記事です。明日はバレンタインデー。聖バレンタイン様が命をかけて示された愛と結婚を尊厳はどこへやらの商業的イベントとなっているのが現状でしょう。チョコをもらえないひがみ交じりのいちゃもんついでに、さらに、バレンタインデー気分に水を差す記事を紹介します。

          子供の奴隷を使っているチョコレートブランド7社

           この世界に奴隷などいないと思っていたら大間違いです。私たちが日本で手にする安価な食料品や衣類の背後に、貧困国での壮絶な奴隷労働があることは、よく知られていることです。チョコレート業界も例外ではありません。その裏側では、深刻な奴隷労働があります。しかも、児童の奴隷がカカオ豆の農園で働かされています。このサイトをお読みいただければ、その悲惨さが理解できるでしょう。

           様々な考えはあるでしょうが、そうした背景を持つ会社の製品を購入することは、間接的に、奴隷労働を支援することにつながるわけです。また、グローバルな視点に立てば、富める国の国民たちが、貧困国の自働奴隷の犠牲の上に、安くておいしいチョコレートを食べられるという恵みを、打ち立てていくいるわけです。

           「弱者犠牲の上に成り立つ安価で優良な商品の提供

           この産業構造から、私たちは逃れることはできません。一消費者としても「フェアトレード商品限定消費者」にでもならない限りは、間接的に貧困国の奴隷労働に間接的に協力することになるのでしょう。また、クリスチャン企業だからといって、この産業構造を離れて、経営してゆけるわけではないでしょう。しかし、紹介したサイトが示す富める国の民には不都合な事実を事実として認識し、広く啓発し、企業に努力を求めれば、神様が悲しまれるような悪や不正を軽減していくとはできるだろうと思うのです。

           
           私は、常々、若いクリスチャンが一人でも多く、海外の貧困国を訪ねて欲しいと願っています。同時に、聖書に記された弱者に目を止め、正義と公正を願う神様のみこころを受け止めて欲しいと考えています。その上で、グローバルな視点から、日本に生きるキリスト者としてどう歩むかを考えて欲しいのです。

           次世代の日本のクリスチャンたちが、「自分が天国に行けて、できれだけ多くの人が救われて、クリスチャンが増えればいい、教会が大きくなればいい」という「み言葉の中心的な一部にのみ生きるクリスチャン」を卒業して、聖書が示す本来の歩みをしてくれるようにと願っています。


           バレンタインデーにこそ、向き合いたい「不都合な事実」をお伝えしました。

           せっかくのチョコレートがすべて「ビター」になるような記事ですが、キリスト者の社会的責任という面において、考えてもらえたら幸いです。


          〈追記〉
           この記事を書き終えた金曜の夜にクリスチャン新聞電子版の2月21日号が送信されてきました。その一面はまさに、このことを扱っていました。最新号一面の全面はこの件で、タイトルは以下の通り。
          「バレンタインはフェア・トレード・チョコを購買で児童労働搾取なくそう」
          | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 09:25 | - | - | - |
          今度は、育休議員の不倫?〜週刊文春は現代日本版「コロシアム」である!
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             週刊文春がまたまたスキャンダル記事。男性議員の育休取得宣言で注目された自民党の宮崎謙介衆院議員が、妻の入院中に元グラビアアイドルを自宅に招き入れて不倫をしていたという疑惑であります。以前も、大物議員の娘と結婚も、女性関係で離婚しているという報道もあり、政治家としての信頼を損ないかねない今回の記事。甘利氏に続いて、今度は宮崎氏が失脚の危機に。この記事の紹介がこちら。

            週刊文春WEB〜育休国会議員の“ゲス不倫”お相手は女性タレント
            http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5859


             清原、ASKA,SMAP,ベッキー、甘利氏に続いての宮崎氏・・・。文春のスクープが止まりません。「なぜ、文春ばかりスキャンダル記事が多いのか?」その理由は、「本当のゲスの極みは文春の記者」と言われるほどのトラップまがいのえげつない取材にあるだけではありません。そもそも、文春は、スキャンダル記事を外部権力によって、つぶされにくいのです。

             他の多くの週刊誌は、同じ出版社に、女性誌や芸能誌やスポーツ誌などを持ちます。ですから、スキャンダル記事を売り物にする週刊誌が、ある芸能人や著名人の不祥事を暴いた記事を掲載すると、報復があるのです。たとえば、同じ、出版社の別の雑誌企画でのインタビューがドタキャンされるのです。ある事務所のタレントやある種目のスポーツ界が取材に協力しなくなります。

             ですから、多くの週刊誌はスキャンダル記事が潰されたり、書けなかったりするのです。芸能人で文春以外で叩かれるのは、大抵、大手事務所に所属しないタレントたちです。その点、文春は、同会社に、女性誌や芸能誌やスポーツ誌などがないので、外部の圧力に強く、記事にできるのだそうです。

             また、誰かを告発したい人物や有名人に復讐を目論む人々、スキャンダルネタを売りたい輩は、「文春さんなら、潰されずに記事にしてくれる」と考えます。そこで、いよいよ文春には、スキャンダルネタが集中しているのだろうと想像します。


             清原、ASKA,SMAP,ベッキー、甘利氏、さらに宮崎氏・・・。もう、楽しすぎます。某国のミサイルも、マイナス金利も、TPPも、安保関連も、次の選挙も忘れてしまうくらいです。今や文春のスキャンダル記事は、国民的課題をも忘れさせるほど刺激的な国民的娯楽を提供しています。

             しかも、文春が賢いのは「自分を正義の味方」のようには位置づけないことです。自分ではなく、読者という一般大衆を「正義の味方」に位置づけていると思うのです。読者の側にあるのは、決して正義感だけではないはずです。むしろ、大衆にあるのは、下世話な興味関心であり、バッシングによるストレス解消欲求でしょう。

             文春は、それを利用しながら、「一般市民の良識が正義です。大衆の倫理感が正義です。皆さんの願う正義に貢献するため、情報提供しています」とばかりに、腰の低い姿勢で書いているように感じます。つまり、一般大衆に下世話さやバッシング欲求という自らのやましさを感じさせることなく、正義の味方としての自己効力感を与えているのだと思うのです。文春は大衆に正義の味方気分を味わせておいて、いい気分になった大衆を自分の味方につけているのだと思います。


             ベッキーの休業やSMAPの謝罪会見などは、文春がリードして大衆の声を作り、その声が一定、芸能界において反映され現実化されるわけです。この自己効力感は大きな快感です。困ったことは、その自己効力感の快感が、民主政治で味わうものより、わかりやすく大きいことです。実際に、世論は政治を動かしますし、選挙を通じて大衆の声は一定、政局に反映されているはずです。そうではなく、国民の声を無視した政治がなされているとしたら、より一層、スキャンダルの快感から、政局に目を移すべきでしょう。

             清原、ASKA,SMAP,ベッキー、甘利氏、宮崎氏のスキャンダルや疑惑は、薬物、結婚尊厳、労働契約、政治倫理の問題でもあり、その本質は決して軽いものではないでしょう。下世話なスキャンダルではなく、真面目に考えるべき課題を含んでいるでと私は考えます。でも、それらが、某国のミサイル、TPP、マイナス金利、安保関連、次期選挙に優先する重要課題とは言えないでしょう。

             ところが、なぜか、「芸能・スポーツ・政治スキャンダル>政治問題・国民的課題」が実感なのです。これは、意識の低い国民が悪いのか?政治不信を招いてきた政治家が悪いのか?それとも視聴率狙いで正しい優先順位で放送しないマスコミが悪いのか?

             
             そこで思いついたのが、今回のタイトルです。今や、日本国家において文春が果たしている機能は、古代ローマ帝国における「コロシアム」に相当するのではないでしょうか?ローマ帝国の皇帝たちは、国民に熱狂的な娯楽を与えることが、国家統治に必須と考えていました。いわば、統治方法としての「飴と鞭」の「飴」です。

             コロシアムが提供する娯楽で最高人気であったのは、剣闘士の戦いでした。その多くは、奴隷や罪人でした。彼らは、どちらかが死に至るまで、戦わされ、勝者は生き残り可能となります。そして、勝ち続けると自由人になれたそうです。まさに、「人命軽視、人権侵害系スポーツ・エンターテイメント」です。

             大衆は男女とも、ひいきの剣闘士を応援し、熱狂したようです。強い剣闘士は、現代の人気アスリート、イケメン剣闘士は、現代のアイドルのようだったと想像されます。映画やテレビゲームではなく、現実の殺し合いですから、どんなに刺激的で大衆を熱狂させたことでしょう。

             こうなれば、大衆の関心は、国政より、コロシアムでのイベントに移ります。国政への不満やストレスも、コロシアムで観戦すれば、一定、解消されます。かくして、ローマ皇帝は、国民の不満を軽減できて、地位安泰となるわけです。文春のスキャンダル報道も、現代日本において、同様の機能を果たしているのでは?もっとも、与党議員のスキャンダルを暴露するのですから、為政者に益しているとは言い切れませんが、国民の関心を政治からそらし、不満とストレスを解消する機能は、果たしていると言えるのでは?


             さらに興味深いことがあります。剣闘士が戦いの中、負傷をして、戦闘不能となった場合、敗者の生死を決めるのは、事実上、観衆でした。決定権は主催者にあるのですが、観衆の意見に逆らうのは困難だったようです。親指を立てて手を握り、親指を上に向ければ「生」で、下に向ければ「死」の支持を意味しました。きっと、コロシアムの観衆の意志が、競技に実現することを通じて、大衆は自己効力感を得て、国政への不満と日々の生活のストレスを解消していたものと想像するのです。この点においても、上に記した通り、文春は現代日本において「コロシアム的機能」を果たしているのではないでしょうか?

             
             このブログでは何度も紹介していることですが、学問史上、はじめて大衆を研究対象としたオルテガという哲学者は、大衆を「自分ではものを考えず、皆と同じこと感じることによって、安心を感じる人間類型」と解説し、、大衆を「宙ぶらりんの虚構の中で、とりとめもなく関心を浮遊させ、ふざけあいながら生活している」と分析しているそうです。

             オルテガの解説と分析を思うと、文春はまさに「大衆の本質的ニーズ」を満たしながら、「大衆らしい歩み」へとリードしているように思うのです。「大衆の半歩前を歩んで、健全な世論形成に寄与」などとは思ってもいないであろう、文春のこの編集方針でいえば、雑誌が売れに売れて、儲かるのは当然です。


             ただ、知っておかなくてはならないでしょう。オルテガの大衆研究が、絶大な評価を受けたのは、彼の警告どおり、大衆の支持によって、ドイツでナチズムが、イタリアでファシズムが台頭したことによるのだということを。それによってオルテガの正しさが歴史的に実証されたのです。現代日本社会に生きる私たちは、文春が連発するスキャンダルに熱中しすぎるあまり、この歴史的教訓を忘れてはならないでしょう。私たちを虜にする現代版コロシアムが、より重大な課題を見失わせる危険を伴っていることだけは自覚したいものです。
            | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 14:08 | - | - | - |
            川崎中一殺人事件を覚えて、過去記事のご紹介
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               今日は過去記事紹介が多くて恐縮です。先週のクリスチャン新聞を読んでいて、ある記事に大きな感銘を受けました。それは「断食祈祷聖会2016」で為された西岡義行先生(日本ホーリネス教団・川越のぞみ教会牧師)の講演要約の記事でした。先生は「効率性の追求、計算可能性、予測可能性、制御性という特色を持つマクドナリゼーションが教会の中にも入り込んでいる」と指摘。その上で、ご自身と牧する教会が、教会に助けを求めてきた外国籍の親を持つ子どもたちと関わった体験を分かち合わせれたそうです。

               そうした「ひとりひとりに教会のみんなが関わり時間と空間、痛みや祈りを共有した」とのこと。そして、「計算を度外視し関わる中で、彼らは悔い改め、主を信じ変えられ、その存在が福音の恵みを物語っていった」とお話になったそうです。牧師夫妻も偉いが、信徒の方々も偉いです。これは脱帽!私はそのことの現場である西岡先生にとってお前任教会でご奉仕をさせていただいた経験があるのですが、ここまでのことがあったとは存じ上げませんでした。

               効率性を優先するなら、子どもや中高生、青年の伝道には、お金と労を投じないことでしょう。すぐに奉仕と献金で教会を支えてくれることはありませんから。でも、改めてこの記事に触れて思うのです。「効率性の優先は、教会がキリストの体でなくなる選択を意味する」のだと。


               この記事を読んで思い巡らす中、耳にしたのは、川崎の中一殺人事件の初公判が行われたとのニュース。被害者少年の背後にあったのは、貧しく子だくさんの母子家庭、主犯とされる少年の背後には、外国籍の親の存在。西岡先生の講演内容を考えるといたたまれない思いがします。

               日本の教会が、せめて、こうした子どもたちが助けを求めてきてくれたら受け止める愛と力量のある教会でありたい。牧師家族だけに負担をさせることなく、全員で時間と空間、痛みや祈りを共有できるレベルの信徒でありたいと願うのです。


               そんなことを思いながら、事件当時に記した記事を紹介します。このことに痛みを覚える方の助けになることを願っています。
               
              中一殺害事件から考える母子家庭と教会(1)〜責任放棄する父と犠牲となる母子

              中一殺害事件から考える母子家庭と教会(2)〜上村家があなたの教会に来たら?

              中一殺害事件から考える母子家庭と教会(3)〜伝えたい!貧困母子家庭に育った救い主を
              | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 20:21 | - | - | - |
              後藤健二さんを覚えて、もう一つ過去記事の紹介
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                 忘れておりました。もう、一つ過去記事を紹介しなくては!昨年の6月8日(日)午後に持たれた春日井9条の会でのスピーチとその関連での記事です。私は、スピーチにあるような理想は、聖書が示す神の国の具現化だと考えています。同時に、どうしようもない人の罪や破壊的暴力の存在がある現実の中で、段階的に前進する歩みについては、現実主義から理想主義までかなりの多様性があるという見解です。

                 「聖書的な理想を目指さない現実主義」は、み言葉に歩んでいない間違った妥協であり、他方、「聖書的な理想を掲げて現実性のない主張をする理想主義」は、神の国の具現化に対しての無責任な姿勢ではないかと感じます。つまり、目指すべき方向は聖書的理想であり、そこに向けての具体的歩みは教会に委ねられた現実性のあるものだと考えています。その意味で、9条の会では目指すべき理想や方向性を語りました。同時に政治の現実性を重んじることは、政治的見解の多様を認めることだと思うので、安易な政権批判は控えました。

                 では、以下に後藤健二さんを覚えつつ語った「春日井9条の会」での5分間スピーチを再度掲載します。


                 キリスト教の中心的な真理は「愛」です。聖書は、人間が神の愛に立ち返り、神と人を愛し、人と人の間に平和を作る歩みを命じています。イエス・キリストご自身も「平和をつくる者は幸いです。」と教えられました。しかし、歴史を顧みるなら、教会が国家権力と結びつく時、多くの戦争が神の名によって正当化されてきました。私自身も、そのことを我が事として悔い改め、平和を作る歩みを願っているクリスチャンの一人です。
                 
                 今日は、そんな私の平和への思いを新たにしてくれた一人のクリスチャン男性についてお話しします。その方は、戦場ジャーナリストとして、戦争に苦しむ人々、とりわけ弱者の姿を伝えていました。幾度となく命の危険にさらされる中、思うところがあったのでしょう。彼はキリスト教会を訪ね、1997年、洗礼を受け、クリスチャンとなります。

                 昨年には、テロリスト組織に拘束された友人を助けようと、妻と幼い娘さん二人を残して、危険な地域へと旅立ちました。しかし、不幸にも彼自身も拘束され、人質となります。そして、今年の1月31日、斬首という方法によってその生涯を終えました。
                 
                 もう、お分かりかと思います。彼の名は、後藤健二。日本基督教団・田園調布教会に所属するクリスチャンです。後藤さんは、クリスチャンとしての使命感をもって、一貫して「武力によらない平和」を訴え続けてきました。

                 ISから発信された映像の中で、人質となった後藤さんは目の瞬きによってモールス信号を送っていたと言われています。その言葉は「助けるな」「見捨てろ」だったそうです。彼は、憎しみと報復の連鎖を、自らの命をかけて、防ごうとしたのかもしれません。

                 「平和」を考える時、私は、生涯、後藤さんと彼が残したメッセージを忘れることはないでしょう。後藤さんの生き様、そして、死に様を胸に、武力によらない平和の実現を祈り願い労するクリスチャンの一人でありたいと願っています。
                 
                 「武力によらない平和」、日本が国際社会において、それを実現していくのに必要不可欠なものは、憲法9条に他ならないでしょう。聖書によれば、私たち人間は誰もが罪人です。利害が対立すれば憎しみが生まれます。お互いの違いを尊重できずに争います。そして、正義、平和、神様の思し召しなど、もっともらしい大義名分をもって、国家と国家が戦争を始めます。

                 憲法第9条が示す国際紛争の解決手段としての武力の放棄は、大義名分によって戦争を正当化する道を阻み、憎しみと報復の連鎖を断ち切り、その文言通り、「正義と秩序を基調とする国際平和」を実現すると私は期待をしています。

                 キリスト教的な表現に置き換えますなら、私たち人類の愚かさと罪深さが生み出しかねない悲惨な逸脱に歯止めをかけ、人類が目指すべき平和へと私たちを導くガイドライン、それが憲法第9条だと思うのです。そして、そうした平和こそ、神が願っておられる平和であり、その平和を希求する崇高な理念は、聖書の教えにも通ずるものだろうと考えています。

                 その意味で、日本に生きる一クリスチャンとして、9条の会の皆様のこれまでのお働きを感謝し、また、今後のご活躍を心から期待しております。

                 
                | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 14:35 | - | - | - |
                キリノ大統領についての追加記事
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                   先日のキリノ大統領の恩赦についてお知らせした記事に対して、フィリピンをご専門としておられる一読者よりFBを通じて、有益なコメントをいただきました。ぜひ、ブログの方でも紹介したく願い、転載します。恩赦に現された信仰を強調しましたが、学問的な視点から、それ以外の要素について客観的かつ総合的に伝えています。

                   とりわけ、紹介されている著書は、日本人が知らない、同時に知るべきフィリピンの側の思いを記しているようです。リンクをしている書評は、関心のある方は、ぜひ、お読みいただきたいです。では、以下にいただいたコメントを転載します。(太字は水谷による編集です)


                   フィリピンの戦後政治において、キリノ大統領は必ずしも評価が高くなかったのですが、この件については正当な評価がなされるべきだと考えます。この件に関して専門家の見地から簡潔かつ明瞭に書かれているすぐれた著作として、以下のものをお勧めしたいと思います。

                  フィリピンBC級戦犯裁判』永井均(講談社選書メチエ)
                  http://booklog.kinokuniya.co.jp/・・・/2013/05/post_294.html

                   この書物において書かれているのは、「赦し」の前に、まず「復讐ではなく公正な裁きをするよう努めること」「刑務所においては人間的な対応をすること」そして、当時抑えようのないほどの憤怒が社会に溢れている中で、その原因となった出来事の悲惨さを踏まえつつ、現場や決定権限のある人物がそのようにしようとした人たちであったということでもあります。無罪放免ではなく、有罪判決の上での身を切るような恩赦、但しそれなりに政治的な大局の中での一定の政治的計算(とくに冷戦状況)を踏まえたうえでの決断であったのです。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 10:41 | - | - | - |
                  君はキリノ大統領を知っているか?〜赦しが絶ち切る憎悪の連鎖
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                     君はキリノ大統領を知っているか?ボクも知らないから心配するな。つい最近、ラジオで知っただけ。お互いに無知を認めて謙虚に学ぼう。(本ブログ愛読者には、フィリピンの専門家がいらっしゃるようなので、必要な訂正やフォローはしてくださるでしょう)

                     というわけで、キリノ大統領です。今日の記事は、後藤健二さんの命日前日にアップするにふさわしいと判断しました。先日、天皇皇后両陛下のフィリピン訪問が、報じられておりました。先日、運転中のラジオでは、その関連で、マニラ市街戦とキリノ大統領のことが、語られておりました。

                     そもそもフィリピンの歴史から、学び直さなくてはと思い、このサイトを読みました。
                     
                     wikipedia「フィリピンの歴史」

                     マルコス大統領より前のことについて、あまりに無知だったことを恥じました。武力を盾にしたキリスト教への改宗要求植民地化日本によるマニラ統治などは、日本に生きるキリスト者として、心を痛めつつ、考えさせられました。マッカーサーの名言”I shall return”も、当時フィリピン総督時に日本軍に負けて、逃げた時の言葉だったと始めて知りました。(恥ずかしいわ!)


                     ラジオを通じて、初めて詳細を知ったのが、「マニラ大虐殺」「マニラ市街戦」のこと。これによって10万人ものフィリピン人市民の命が奪われたと言われています。米軍の無差別攻撃による死者も多かったようですが、日本軍が、女性や子どもなどの一般市民を殺害したことは、当然のことながら、戦後のフィリピンに強い反日感情を生み出しました。

                     しかし、戦後しばらくして、大統領に就任したキリノ氏は、日本にいる戦犯家族からの恩赦の求めに、応答します(他にも政治的、経済的要因が指摘されるようですが)。そして、1953年には、大統領の恩赦によって100名を超える戦犯が日本に帰国します。


                     それは、国民と親族からの反対を押し切っての決断でした。しかも、キリノ大統領自身その8年前のマニラ市街戦において、日本軍兵士に妻と二人の子どもを殺されていたのです。キリノ氏の妻は日本軍狙撃兵に撃たれ即死、しかも、その妻の手から地面に転げ落ちた2歳の娘は、日本兵の手によって刺殺されました。

                     赦すことによって、憎悪の連鎖は絶ち切られました。その後、日本とフィリピンは友好関係を築き上げてゆきます。これは、キリノ大統領がカトリック信徒であったからこその決断だと言われています。


                     フィリピンは今や、親日国家です。今も、心の奥底には、かつて日本が与えた深い傷がないわけではないでしょう。しかし、フィリピンの方々が日本を好きになってくれたのは、日本からの様々の援助の故だけではないでしょう。その出発点は、キリノ大統領の決断にあったに違いありません。

                     蒋介石にも、これと共通した決断があります。日本では、昔から「北枕」などと言いますが、本当に禁じるべきは、「東枕」かもしれません。日本人は、フィリピンと台湾のある西に脚を向けて寝られない程の大きな赦しの恵みをいただいているのですから。ましてやフィリピン人を差別したり、フィリピン系ハーフの子どもたちをいじめるなどは、恩を仇で返す行為に他なりません。


                     「赦しが絶ち切る憎悪の連鎖

                     このフレーズを言うのは簡単、書くのも簡単。でも、実行は至難の業。

                    自分がキリノ大統領の立場であったら、どうだろう?」

                    「家族を殺された憎悪を捨てて、国民の支持を失ってでも、この決断ができるだろうか?」

                     とんでもない至難の業です。

                     しかし、この至難の業が、キリストにあって実行可能となったという歴史的事実があったのです。


                     私は政治は理想論ではなく、現実論だと考える方です。そして、「赦し」など、聖書の教理類別することなく、単純にそのまま国家間の関係に適用することには疑問に感じています。しかし、そんな私でも、憎悪の次世代継承と暴力の連鎖によって、莫大な数のいのちが犠牲となり、多くの国で平和と安全が脅かされているこの時代と世界にあって、「キリストにあってこそ実行可能なこと」はあるはずだと考え、思い悩みます。

                     後藤健二さんの命日を前に、知ったばかりのキリノ大統領のことをお伝えしたく願って今日の記事をアップしました。



                     キリノ大統領の決断については、川端光生先生のコラム記事を紹介しておきます。

                    キリノ大統領の決断「憎しみと赦し」(上)
                    http://www.glorychrist.com/?p=10656

                    キリノ大統領の決断「憎しみと赦し」(下)
                    http://www.glorychrist.com/?p=10679


                    まにら新聞WEB」のこの記事は、戦犯の側からの内容ですが、客観的でとても詳しいです。全体像が把握できます。

                    シリーズ 「日本人戦犯帰国60周年」

                    第1回 ・ 「強いきずなで結ばれた戦犯仲間を持てたことが何より良かった」と元死刑囚の宮本さん
                     http://www.manila-shimbun.com/award/sp011/award208729.html

                    第2回 ・ 助命嘆願から児童憲章へ 洋画家・加納莞蕾の軌跡
                    http://www.manila-shimbun.com/award/sp011/award208749.html

                    第3回 ・ 戦時下の受難、「赦し」の背景。キリノ大統領の恩赦令
                    http://www.manila-shimbun.com/award/sp011/award208838.html

                    第4回 ・ 偉大なヒューマニスト ブニエ元モンテンルパ刑務所長
                    http://www.manila-shimbun.com/award/sp011/award208941.html

                    〈追記〉
                     28日の夜には、両陛下はキリノ大統領の孫娘であるコリーさんとルビーさんとも懇談をされたようです。以下の記事によれば、コリーさんはこう語っています。

                    「許すということは非常に難しいことですが、祖父は大統領として、人間として、癒やしが始まるためにはまず許しが必要だと考えたのでしょう」

                    癒やしには許し必要」=キリノ元大統領の孫ら語る−日本人戦犯全員を恩赦・比
                    http://www.jiji.com/jc/zc?k=201601/2016012900341&g=soc
                    | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 16:45 | - | - | - |
                    後藤健二さんの命日を前に、この記事を再掲載
                    0
                       1月31日は(諸説あるようですが)ジャーナリストでクリスチャンであった後藤健二さんの命日にあたります。それに先立ち、後藤さんの訃報を受けて記した約一年前の記事を再度、掲載します。個人的には、4000を超える本ブログの記事の中でも最高の意義を持つものと思っています。後藤さんが文字通り命をかけて、伝えようとしたこと、体現されたことを、忘れぬためにもこの記事が用いられたらと願っています。それでは、以下にその記事を掲載します。



                      「二つのブログ記事に教えられた後藤健二さんが体現した神の愛の愚かさ

                       ここ数日間、後藤健二さんのことをいろいろな面からあれこれ考えてきました。そして、ある時、こんなことを考えたのです。「もし自分が、後藤さんが所属する教会の牧師で、シリア渡航の是非を相談されたら、どう応えるだろうか?」と。


                       きっと私は後藤さんの相談に応えるのでなく、こんな言葉で、行かないように説得したことでしょう。

                      「神様から与えられた妻と娘さんに対しての責任が最優先なのでは?」

                      最も身近な隣人を離れて、別の誰かの隣人になるという選択は聖書的か?」

                      「これまでのように大切なことを次世代に伝える使命のため、生き続けて欲しい。」

                      国家権力も神の立てた権威、国民の生命を守るための渡航自粛要請には原則、従うべきでは?」

                      「万一、拘束されたら、テロリストに利用され、テロにすることとなる。」

                      「そうなれば、国家や国際社会に大きな負担をかけ、テロリストの宣伝になってしまう。

                      「それは、クリスチャンとして証しにならないのでは?」

                      「聖書が命じるように、知性を尽くして愛しましょう。予想される結果を考察して総合的な視点から最善を選択すべきでしょう。」

                      「何よりも、私自身があなたに死んで欲しくない。」

                      「あなたを失って、悲しみ痛む人々を生み出さないで欲しい。」

                       私が牧会者なら、あらゆる聖書的正論を駆使して、情にも訴えて、何が何でも思いとどまらせるでしょう。いいえ、もし、私が牧師なら「きっと反対されるから」という理由で、相談さえしてもらえないかもしれません。


                       そんな想像をしている中、二つのブログ記事に出会いました。一つは、知人である牧師夫人のブログ記事です。

                      ブログ☆牧師の妻です☆より
                      キリスト教の「非常識」

                       この記事には大変、教えられました。ある意味、後藤さんが非難をうけるのは、社会通念に著しく反した非常識な行動だからでしょう。それだけでは、ありません。私が上に想像したある意味の「聖書的正論」にも、必ずしも合致しないように思えます。「湯川さんのために死ぬのでなく、妻と娘のために生きて、平和と人権のためにいのちを使って欲しい」というのが、クリスチャンとしても常識的な思いではないでしょうか?

                       特に父上が、遺書を残して靖国訴訟にかかわったことは、この件が持つ「聖なる非常識性」のようなものを体感させていたのでしょう。実は、数年前に、その父上が牧しておられた教会で礼拝奉仕などをさせていただきました。父上である牧師先生とは、実に楽しいお交わりをいただきました。「文字通りに福音のために命をかけたことはないが、靖国のことでは命をかけた」とユーモラスに語りながら、(反対者に刺殺される覚悟で)遺書を書いて訴訟に臨んだお話しをして下さいました。

                       福音派陣営の社会的働きの先頭に立ちながら、地方都市で優れた教会形成をされ、家庭も豊かに祝福されており、お会いした時には、世代交代も終えておられ、頭の下がる思いがしました。その父上のことを思い返しながら、ブログ記事を読んでいると、自分が聖書的正論の中に留まって考察しているだけで、そこから飛び出しして「聖なる非常識性」に歩む愛の衝動性を除外していたのではないかと思えてきたのです。


                       さらにそのことを明白に教えて下さったのが、水草先生のブログでした。この牧師夫人のブログ記事を読まれてこのような記事を書いておられます。

                      ブログ「小海キリスト教会牧師所感」より
                      キリストの愛の愚かさにしたがって

                       私の考え方は、「キリスト教倫理」の枠を出ていなかったのだと気が付かされました。聖書の原則を個別の事例に適切に当てはめてその是非を判断しているのですから、それは聖書的正論なのでしょう。しかし、それは、キルケゴールの言う「倫理的段階」であって「宗教的段階」には至っていないわけです。

                       もしかすると、冒頭の仮想牧会事例は、「宗教的段階」の相談者に「倫理的段階」で是非を示し、説得しているのかもしれません。きっと、後藤さんの行動は、世間から理解されないだけではなく、私のようなキリスト教倫理発想で正論を重視するタイプのクリスチャンにまで、疑問視されかねないのでしょう。

                       水草先生は後藤さんが罪悪感を抱いておられたのではないかと推察しておられます。なるほどと思いました。後藤さん自身が、聖書的正論に合致しないこと、聖なる非常識性を自覚され、それ故にある罪悪感をいだいておられた可能性はあるように思えます。


                       しかし、この二つのブログ記事に出会ってこう考えました。

                       湯川さんの救助のため命を犠牲にした後藤さんの行動が「蛮勇」であるならば、神を離れ勝手に滅びに向かう私たちのために一人子を与えられた父なる神の行動は、「究極の蛮勇」だろうと。

                       家族や多くの愛する人々を離れてまで、迷い出たたった一人を探しにいくことが「非常識な愚行」であるならば、99匹の羊を置き去りにして危険にさらしてまで、迷い出たたった一匹を探して歩く神の愛は、「非常識で愚かな愛」と言わざるを得ないと。


                       そして、自らを省みてこう思ったのです。

                       私に欠けていたのは、聖書から物事の倫理的是非を考える「賢さ」ではなく、神の愛の「愚かさ」だったのだと。

                       「聖書的常識という尺度」を絶対視してしまい、その尺度を超越した「神の愛の非常識さ」に思いが至らなかったのだと。

                       私は「スタティックな聖書からの考察」に埋没していただけで、その聖書が明示する「愛なる神のダイナミックな蛮勇さ」を見落としていたのだと。

                       結局、冒頭の仮想牧会事例は、「聖書的で正しいけど、キリストに似ていない歩み」へと信徒を導いているだけなのかもしれないと。


                       恥ずかしながら、倫理的段階に留まっていた私は、クリスチャンとして、後藤さんの行動を安易に美化してはならないと感じていました。しかし、今は別の理由で美化しないことに決めましました。もし、後藤さんの行動が、神の愛の愚かさを体現するものであるなら、もはや美化する必要がないからです。


                       大切なことを教えて下さったブログ記事を書かれたお二人には感謝するばかりです。また、私と同様の発想を持ち、同様の葛藤を覚えておられる方には、この二つのブログ記事がきっと役立つことでしょう。


                       以上が、一年前の記事でした。後藤さんの歩みを覚えながら、大切なものを継承してゆきたいものです。その姿を思い描きながら、お互いもそれぞれの立場や導きにおいて、同様の歩みができたらと願います。
                      | ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 17:21 | - | - | - |
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