2016.03.24 Thursday
乙武氏不倫報道〜「障がい者だから」でも「障がい者なのに」でもない平等による公義
今回の乙武氏不倫報道について、二つの力がメディアの内部で働いていると予想されます。それは「タブー」と「迎合」です。まず、この件では、タブーの力学が働きます。日本のメディアのタブーの代表は「菊タブー(天皇や皇室が対象)」と「同和タブー」です。強力な圧力団体や人権団体があるもその一因と思われます。この二つはよく知られていますが、意外と知られていないのが「障がい者タブー」です。
障がい者に、犯罪加害や著しい問題行動があった場合も、その報道についてはメディアは極めて慎重です。ある事件を伝えたとしても、加害者が障がい者であることには触れなかったり、その罪を強く非難しなかったりです。これを「障がい者に対しての人権的配慮」と考えるか「ジャーナリズムとして腰が惹けている」と考えるかは、意見の分かれるところでしょう。
もう一つは「迎合」です。メディアには「お茶の間の倫理観に合わせる」という暗黙の了解があるそうです。たとえば、ベッキーへの過剰なまでの否定的報道は、平日の昼間のテレビ視聴者である「専業主婦の倫理観」に迎合したからとの見解をネットで読んだことがあります。テレビは特に視聴率が評価基準ですから、視聴者の倫理観に合致した論調にせざるを得ないわけです。それが社会通念上適切な批判に落ち着くこともあれば、大衆のバッシング欲求に迎合してそれを煽ってしまう場合もあるわけです。
今朝の朝のテレビワイドショーを注目して見ていると、過剰なタブーはなく、しっかりと報道していて安心しました。タブーによる自粛も自民党からの圧力もなかったようです。それでも、ベッキーや宮崎議員と比較すると、遠慮があるように見受けました。また、「障がいとは無関係で不倫はいけない」というまさに「お茶の間の倫理」に落ち着いていました。
そういうわけで、テレビの方は、「タブーと自粛」の相乗効果で、無難な論調となっていたわけです。
興味深かったのは、午前中の買い物途中に車中で聴いたラジオ番組「つボイノリオの聞けば聞くほど」です。番組に寄せられたリスナーからの本音が聞けたからです。
「障がい者なんだから大目にみてやろう」という障がいに理解があるのかないのか分からないような声。
「障がい者なのに、乙武、やるじゃん、いいなー」という軽薄な賞賛の声やうらやましがる声。
是非はともかくこうした本音が出るのがこの番組の良さですが、やはり、最後は「お茶の間の倫理観」を落とし所としていました。番組終了前のまとめのようなコーナーではこんなお便りが読まれていました。
「障がい者が清廉潔白とは思わないが、不倫はやっぱりよくない」という正論。
「僕は、視覚障がい者ですがエロいです。」という障がい者の現実を伝えるカミングアウト
「全盲の男性と10年つき合いましたが、浮気をされて別れました。やっぱり、障がい者も男」という経験談。
同番組のリスナーには病者や障がい者も多く、普段から、その声は電波に乗せられています。今回は障がい者自身の声もいつくか紹介されていたようです。前回の記事で書いたことですが、障がい者の実際、とりわけ性の現実を知らない私たちに、「エロ面白い」振りをしながら、その基本知識を与えてくれている放送は、さすがはつボイノリオだと感心しました。
日本の民法の土台となる結婚観は、キリスト教文明が持つ「相互独占契約」という理念上に成り立っています。ですから、結婚関係は法律で保護されており、それを破壊する不倫は、立派な「不法行為」なのです。そして、法の下の平等により、障がいの有無に関係なく、不倫行為は不法行為。それに変わりはありません。そして、現実問題として、結婚を破壊し、伴侶と子ども、さらに信頼をよせててきた周囲の人々を苦しめます。
「障がい者だから」と言って大目にみれないし、「障がい者なのに」ある意味スゴイと褒めるわけにもいきません。ただただ、人の道には反しているから「不倫」なのです。障がいの有無に関係なく、民法上の不法行為だから、社会的非難も受けるのです。
「差別をしない」ということは、「平等に扱い判断する」ということです。差別をしたくないからこそ、私は思います。「障害者だから?障害者なのに?そんなの関係ねーだよね?」と。不法行為を働いたのですから、謝罪し償うことです。既に速やかにそれをして、すべてを語り、妻までも責任の一端を認め異例の謝罪し(米米方式?)、夫婦としてやり直すそうですから、世間は温かく見守っていけばいいのかな?と思い始めています。
でも、一つだけ心配していることがあります。乙武氏の迅速な全面的告白と謝罪も妻からの謝罪もすべて、早期事態収拾を願う自民党幹部の指示によるもので、結局、参院選に出馬して、世間がまんまと騙されたと後で知るという可能性です。乙武夫妻の謝罪や対応は危機管理の専門家からは、80点以上の高得点で「素人としてはできすぎ」らしいです。特に妻の側の謝罪文は、世間対象のものであって、本音かどうかは怪しいという声は多いです。自民党主導の危機対応?ただただ、そうでないことを願うばかり。
「差別をしない」ということは「平等に扱い判断する」ということ。障がいの有無にかかわらず、平等なのは権利というプラス面だけではないはず。犯罪行為や不法行為に対して問われる責任や受けるべき社会的制裁などのマイナス面においても平等であってこそ、聖書が明示する「人を偏り見ない」歩みであり、神が熱望される「公義」と言えるのでは?
障がい者に、犯罪加害や著しい問題行動があった場合も、その報道についてはメディアは極めて慎重です。ある事件を伝えたとしても、加害者が障がい者であることには触れなかったり、その罪を強く非難しなかったりです。これを「障がい者に対しての人権的配慮」と考えるか「ジャーナリズムとして腰が惹けている」と考えるかは、意見の分かれるところでしょう。
もう一つは「迎合」です。メディアには「お茶の間の倫理観に合わせる」という暗黙の了解があるそうです。たとえば、ベッキーへの過剰なまでの否定的報道は、平日の昼間のテレビ視聴者である「専業主婦の倫理観」に迎合したからとの見解をネットで読んだことがあります。テレビは特に視聴率が評価基準ですから、視聴者の倫理観に合致した論調にせざるを得ないわけです。それが社会通念上適切な批判に落ち着くこともあれば、大衆のバッシング欲求に迎合してそれを煽ってしまう場合もあるわけです。
今朝の朝のテレビワイドショーを注目して見ていると、過剰なタブーはなく、しっかりと報道していて安心しました。タブーによる自粛も自民党からの圧力もなかったようです。それでも、ベッキーや宮崎議員と比較すると、遠慮があるように見受けました。また、「障がいとは無関係で不倫はいけない」というまさに「お茶の間の倫理」に落ち着いていました。
そういうわけで、テレビの方は、「タブーと自粛」の相乗効果で、無難な論調となっていたわけです。
興味深かったのは、午前中の買い物途中に車中で聴いたラジオ番組「つボイノリオの聞けば聞くほど」です。番組に寄せられたリスナーからの本音が聞けたからです。
「障がい者なんだから大目にみてやろう」という障がいに理解があるのかないのか分からないような声。
「障がい者なのに、乙武、やるじゃん、いいなー」という軽薄な賞賛の声やうらやましがる声。
是非はともかくこうした本音が出るのがこの番組の良さですが、やはり、最後は「お茶の間の倫理観」を落とし所としていました。番組終了前のまとめのようなコーナーではこんなお便りが読まれていました。
「障がい者が清廉潔白とは思わないが、不倫はやっぱりよくない」という正論。
「僕は、視覚障がい者ですがエロいです。」という障がい者の現実を伝えるカミングアウト
「全盲の男性と10年つき合いましたが、浮気をされて別れました。やっぱり、障がい者も男」という経験談。
同番組のリスナーには病者や障がい者も多く、普段から、その声は電波に乗せられています。今回は障がい者自身の声もいつくか紹介されていたようです。前回の記事で書いたことですが、障がい者の実際、とりわけ性の現実を知らない私たちに、「エロ面白い」振りをしながら、その基本知識を与えてくれている放送は、さすがはつボイノリオだと感心しました。
日本の民法の土台となる結婚観は、キリスト教文明が持つ「相互独占契約」という理念上に成り立っています。ですから、結婚関係は法律で保護されており、それを破壊する不倫は、立派な「不法行為」なのです。そして、法の下の平等により、障がいの有無に関係なく、不倫行為は不法行為。それに変わりはありません。そして、現実問題として、結婚を破壊し、伴侶と子ども、さらに信頼をよせててきた周囲の人々を苦しめます。
「障がい者だから」と言って大目にみれないし、「障がい者なのに」ある意味スゴイと褒めるわけにもいきません。ただただ、人の道には反しているから「不倫」なのです。障がいの有無に関係なく、民法上の不法行為だから、社会的非難も受けるのです。
「差別をしない」ということは、「平等に扱い判断する」ということです。差別をしたくないからこそ、私は思います。「障害者だから?障害者なのに?そんなの関係ねーだよね?」と。不法行為を働いたのですから、謝罪し償うことです。既に速やかにそれをして、すべてを語り、妻までも責任の一端を認め異例の謝罪し(米米方式?)、夫婦としてやり直すそうですから、世間は温かく見守っていけばいいのかな?と思い始めています。
でも、一つだけ心配していることがあります。乙武氏の迅速な全面的告白と謝罪も妻からの謝罪もすべて、早期事態収拾を願う自民党幹部の指示によるもので、結局、参院選に出馬して、世間がまんまと騙されたと後で知るという可能性です。乙武夫妻の謝罪や対応は危機管理の専門家からは、80点以上の高得点で「素人としてはできすぎ」らしいです。特に妻の側の謝罪文は、世間対象のものであって、本音かどうかは怪しいという声は多いです。自民党主導の危機対応?ただただ、そうでないことを願うばかり。
「差別をしない」ということは「平等に扱い判断する」ということ。障がいの有無にかかわらず、平等なのは権利というプラス面だけではないはず。犯罪行為や不法行為に対して問われる責任や受けるべき社会的制裁などのマイナス面においても平等であってこそ、聖書が明示する「人を偏り見ない」歩みであり、神が熱望される「公義」と言えるのでは?