命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
育てよう健全信徒(36)〜当世日中関係クリスチャン
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     一昨日の報道によれば、APECの機会を利用して、約二年半ぶりに、日中首脳会談が持たれました。関係回復のスタートになることが期待されていますが、他方で、領土問題、歴史認識問題などで関係悪化の一方でありながら、関係改善を願って両国の首脳会談が行われなかったこと自体が異常であったとの指摘が為されています。

     そこで、今日のテーマは「当世日中関係クリスチャン」。それは、自分と神様との関係当世の日中関係に酷似しているクリスチャンのことです。

     当世日中関係クリスチャンは、2年半ほどでなくても、二か月半や二週間半ほど、長期間にわたって、「自国と神の国の首脳会談」が行われていません。つまり、ずっと、神様と向き合って語り合わないままで、信仰生活を過ごしています。関係悪化を自覚しながら、首脳会議を持とうとしないのは、多くのクリスチャンが経験する外交上のミスでありましょう。


     首脳会談をもてない理由の主なものは二つ。それは日中関係同様で、領土問題と歴史認識問題であります。

     まずは、「領土問題」です。クリスチャンにとって、自国の主権者であるはずの、神様の支配権が、自国の領土全体に及んでいないのです。愛と義をもって、神の国の領土を、クリスチャンの全生活分野に広げようとする神様に対して、自国首脳は、抵抗するのです。お金と時間の使い方、進路、職業、夫婦、家庭、性、恋愛などのリアルな分野については、主権者である神様の支配を認めず、愚かにも、自らが自国の主権者であろうとします。

     それ故に、首脳会談ができなくなってしまいます。なぜなら、首脳会議をしようものなら、自国の主権を不当に主張し、神の愛の介入を拒み続けている自分を、悲しまれることが分かっているからです。そして、自分でも、神の愛と義の支配を拒絶することが、不当な主権の主張であることを自覚しているからです。


     もう一つの問題は、「歴史認識問題」です。自国の領土に神の国の主権者をお迎えし、その支配を受けて以来の歴史認識が両者で異なるのです。自国は心の内で、不満や反発を持っています。「祈っているのに、ずっと無視ですか?」「従ってきたのに、どうしてこんなこと!」「とても神様の最善とは思えない」。そんな不信感を神の国に対して持ちながら、両国の首脳会を持たないのです。これは、何と愚かなことでしょう!

     なぜなら、その不満や反発、不信感を、そのまま相手国首脳に正直にお伝えすればいいからです。


     昔、自国首脳がその思いを伝えたそうです。「あなたはいつも、私と共にいるとおっしゃいました。その約束の通り、いつも私の人生に足跡は二人分でした。しかし、あの一番辛い時、私の足跡は一人分でした。最も共にいて欲しかった時、あなたは、私を見捨てて、一人ぼっちにしたのは、どうしてですか?」

     相手国首脳はこう返答したそうです。「その時、私はあなたを背負って歩いていたのだ

     両者の歴史認識問題は即刻解決し、首脳会議は、あっという間に終了。両国の友好関係は、完全回復です。


     領土問題でやましさがあり、歴史認識問題で隔たりを持ちながら、長期間、神の国と自国、両国の首脳会談を持たぬままでいる「当世日中関係クリスチャン」の皆さん。

     そのままの姿で神様の前に出ればよいのです。神様の主権を全領土に認めようとしない愚かで罪深いそのままの姿で、出ればいいのです。そこからしか回復は始まりません。自分の義で神様の前にでようとするなら、二国間の関係は永遠の断絶状態となることでしょう。それは祝福の断絶をも意味します。

     歴史認識についての不満や反発や不信感は、正直にと伝えすればいいのです。神様はきっと適切な時に、その誤解を何かの形で、教えて下さり、私たちにある納得を与えて下さることでしょう。


     神様は年中無休、24時間体制で、両国首脳会議を歓迎される方です。両国間に領土問題や歴史認識問題があるのなら、一日でも早く、いいえ、一秒でも早く、両国の首脳会を持ち、悪化した関係を回復させましょう。相手国の首脳は、自らの命を捨てて両国の友好の架け橋となられたのですから。

     そうです。そのスタート時の歴史認識に立つなら、一秒たりとも、両国首脳会議を先延ばしにしてはならないでしょう。
    | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 15:00 | - | - | - |
    「育てよう健全信徒」、これまでの35回分をご紹介!
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       明日から「育てよう健全信徒」を数回アップしようと思っています。久しぶりのこのシリーズですが、近年、読者になられた方のために、これまでの記事をお読みいただければと願い、これまでの35回を紹介します。第一回目は、忘れかけられている押尾学ネタ。芸能人ネタが多いのですが、当時の社会問題や政治状況を反映したネタもあり、懐かしいですよ。メッセージなどの参考にもなるかもしれません。週報に転載して下さる教会もあるそうです。一度、面白そうなタイトルを選んで、お読みいただければうれしいです。
       
      | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 15:22 | - | - | - |
      育てよう健全信徒(35)蚊取り線香クリスチャン
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         先日、ある方からお聞きしたお話し。某テレビ番組で、サッカーの武田修宏の恋愛ついて語っていたそうです。呆れてしまうのが、その恋愛パターンです。いつも、同じパターンで恋愛が始まり、終わるのです。具体的にはこういうパターンです。

        出会う」→「きれい」→「付きあう」→「性格が悪い」→「別れる」→「また出会う」・・・・・・

         これを30年近く繰り返していると語る武田さんに、周囲が「学習能力がない!」と突っ込んだり、いじったりだったとのこと。

         予想するに、武田さんは、きっと外見だけで女性を判断して交際を始めてしまうのでしょう。そして、「性格が悪い」というのも、「自分に都合が悪い」「母親のように優しくない」など、自己中心性幼児性に由来するのでは?と心配してします。多分、恋愛はできても、「共に生きる結婚」がイメージできず、恋愛を繰り返しているのでしょう。それとも、敵からボールを奪ってゴールするようにしか女性と接することができないのでしょうか?

         私はこういう恋愛パターンを、「蚊取り線香恋愛」と呼んでいます。学習能力あるいは学習意欲を持つ多くの人は、一つの失敗を次のチャンスに活かします。もちろん、恋愛者は愚かになりやすいですから、同じ失敗を繰り返すこともあります。しかし、それでも、前回の失敗を活かしながら、レベルアップします。英語で、表現するなら「スパイラルアップ」、水平方向には螺旋運動をしながらも、垂直方向においては、次第に上昇するのです。クリスマスツリーの飾りに使う金銀のモールをイメージすればいいでしょう。

         ところが武田さんの場合は、同じ失敗を繰り返しながら30年間、恋愛の質が向上していません。これは、「蚊取り線香」なのです。水平方向に螺旋運動をしながら、垂直方向においては、同じ高さのままなのです。学習力も向上心がないことも悲しいですが、もっと、悲しいことは、外から中へと燃えてゆき、最後には燃え尽きることです。いくら、イケメンスポーツマンで口がうまくても、今のようにモテ続けることは不可能です。やがて、恋愛界においては、異性としての賞味期限は切れ、恋愛チャンス自体がなくなることでしょう。

         身に覚えのある独身の読者は、蚊取り線香を脱して、スパイラルアップを目指しましょう。長くなりましたが、さて、本題の「蚊取り線香クリスチャン」です。もう、細かな説明は不要でしょう。同じ失敗を繰り返しながら、その失敗を活かすことなく、一向に成長しないクリスチャンのことです。典型的なパターンは次のようでしょうか?

        教会に集う」→「励む」→「人に躓く」→「教会をかわる」→「また別の教会で励む」→「人に躓く」→「教会をかわる」・・・・・・

         これは、他者への期待が過多で、自分が見えていない方に多いパターンですね。

        試練にあう」→「神に立ち返る」→「忠実に仕える」→「神以外に心が向く」→「教会生活を離れる」→「また、試練にあう」→「神に立ち返る」・・・・。

         これは、士師記のパターンですね。


         これ以外のパターンもあるでしょうが、一つの失敗や試練から、何も学ぶことなく、次に活かすことができないのです。だから、同じ失敗パターンを繰り返しても、成長しません。そして、成長しないのですから、同じ失敗を繰り返すのが必然となります。まさに、これは悪循環

         それなのに、自分が悲劇の主人公になって、自己憐憫に陥ったり、教会や指導者が悪いと批判したり、神様が意地悪と嘆いているのは、「おい、おい」でしょう。しかし、蚊取り線香クリスチャンは独りよがり状態に陥って、なかなか抜け出せないものです。第三者から見ると、同じ失敗パターンを繰り返しながら、学習も成長もせず、自分をあわれみ、他者を責めながら、それ故に悔い改めも課題の自覚もないままというクリスチャンは、少なくないように思います。

         こうした「蚊取り線香クリスチャン」が心得なくてはならないことは、「いつか、蚊取り線香は燃え尽きる」ということです。「今のパターンを繰り返して一生を終えるのですか?」「そのままの成熟度や使命達成度再臨のキリストの前に立つのですか?」「生涯初心者コースで終わるつもりですか?」が問われます。「いつになったら、真実に私に従ってくれるのか?」「一生このまま、私の栄光を現すことなく、私が贖った命を終えてしまうのか?」ときっと、いのちを差し出して下った神様も心を痛めておられることでしょう。

         蚊取り線香のように限りのあるお互いの命です。たとえ、同じ過ちを繰り返す愚かな者であったとしても、主の前に、その度ごとに、たとえ一ミリでも向上する歩みをさせていただきたいものですね。
        | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 08:53 | - | - | - |
        育てよう健全信徒(34)「超高速!入信撤退」クリスチャン
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          超高速!参勤交代」というタイトルの映画が上映となり、話題となっているようです。たった五日間で現在の福島から、江戸城まで来るよう命じられ、それが果たせなければ藩がおとりつぶしになるという窮地に追い込まれた弱小藩のお話しらしいです。こちらがそのサイトですが、試写会に際して本当に、福島から東京までの200kmを五日間で移動し、主演の佐々木蔵之助さんに献上品を持ってきたようです。
          http://www.cho-sankin.jp/

           10代や20代で信仰を持てば、(かつ平均寿命近く生きれば)教会生活というのは、本来50年以上継続するはずです。しかし残念ながら、そうはいかない現実も認めざるを得ません。

           たとえば、「高速!入信後退クリスチャン」がいます。イエス様を信じて、洗礼を受けます。数年間は喜びに満ちて、熱心に教会生活を送ります。しかし、2,3年経過すると、「後退」してしまいます。熱が冷めたように、消極的姿勢となり、礼拝出席なども以前のようではなくなります。

           また、「高速!入信撤退クリスチャン」も、あちらこちらで見聞きします。洗礼後、数年間はそこそこ礼拝出席をしますが、やがて、教会に交わりを離れ、未信者同様のライフスタイルとなり、教会生活から「撤退」してしまいます。

           さらに残念なのが、「超高速!入信撤退クリスチャン」です。洗礼を受けて、1,2回礼拝出席するのですが、その後は、姿を見せなくなります。心配した牧師や親しい信徒が連絡するのですが、電話やメールなどにも返答がありません


           家庭や地域から厳しい迫害を受けているのでしょうか?感情の高まり一発で決心したもののキリストと共に歩む決断はできていなかったのでしょうか?そもそも、救いについての理解もないまま、インスタントな決心をさせてしまっていたのでしょうか?あるいは、受洗前の学びや準備受洗後のフォローが不十分だったのでしょうか?それとも、決心者を支える周囲の祈りと愛の交わりがなかったからでしょうか?はたまた、早くも教会内の誰かの言動に躓いてしまったからでしょうか?


           「超高速!入信撤退」の原因は場合によって異なるでしょうし、また、複数の原因があるのでしょう。いずれにせよ、指導者側の問題や伝道や教育体制の問題とするだけでなく、神の家族なのですから、自分の立場での防止策を考えたいですね。


           「超高速!参勤交代」痛快な喜劇のようですが、「超高速!入信撤退」は痛恨の悲劇ですから。
          | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 18:03 | - | - | - |
          育てよう健全信徒(33)号泣議員クリスチャン
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             兵庫県民、西宮市民の皆様、ごめんなさい。不謹慎にも笑ってしまいました。税金からの政務調査費の不正使用疑惑なのですから、真面目に考えなくてはならないのですが、3時間弱の会見のあの場面だけ報道されますと、あまりのすごさに笑うしかありませんでした。でも、あの場面以外の三時間も笑えないだけで、恐ろしく意味のない会見だったようです。

             上島竜平には、激怒した直後に我に返って急に冷静になり「どうも、取り乱してすみませんでした」と謝罪するギャグがありますが、それをでやったようで、よく考えると笑っている場合でなく怖いです。だって、47歳でしょう?あの幼児性は、異常でしょう。

             名門高校を経て有名大学を卒業しての公務員、なぜか、政治家を目指しながら、秘書をするでなし、既成政党に入ることもなく、市長選などに連敗。ようやく「西宮維新の会」という「維新の会」とは無関係なのに、誤解を招くような政党名を名乗って、僅差で県議に当選。性格は極めて真面目で熱心感情の起伏はかなり激しく、周囲からは、議員になってから人が変わったとの声も。今朝のテレビ報道では、仲間の議員に送った「恨みますメール」も、紹介され、その幼児性が暴露されています。

             やはり、一連の行動を見ていると、極端な幼児性を感じてしまいます。主観性の強さ、他者交流の欠如、感情制御不能、号泣時の幼稚な発言と態度は、この議員が何らかの原因で、強い幼児性を温存してきたように見えます。大人になり切れておらず、柔軟で狡猾な応答をする自信がないので、恐れに支配され、極端な自己防衛に走ったように観察します。人格的な面については子どものまま、大人になり、社会に出てしまい、それでもなお、子どもじみた夢に生きてしまったように予想します。

             言うなら、真面目で熱意ある中学生男子が、学校を変えたいと願い、生徒会に立候補するようなノリで、地方政治の現場に出てしまったのでは?と心配です。もしかしたら、大学進学に際して、友人たち負けたとの劣等感は、公務員になることでは、晴らすことができず、政治家になることで一発逆転を狙っていたのかもしれません。社会に出てからも、学校時の劣等感を持ち続け、等身大の自分で折り合いをつけられないのは、子どもじみています。

             自分から会見を申し出ておきながらの極端な自己防衛的態度、尋ねられたことに応えず、自分の心情ばかり訴えて、釈明も謝罪もしない姿勢などは、著しい人格未発達を感じさせます。独身であること自体は何ら問題ありませんが、彼の場合は、子どもが大好きで、結婚願望を持ちながら、47まで独身ということで、やはり心配材料でしょう。こうした人物を「維新の会」の関係者と誤解した西宮市民が、投票してしまったとしたら、それは不幸としか言いようがありません。


             でも、このタイプのクリスチャンは希にお見かけするように思うのですがどうでしょう?

            まず、年齢が30代後半から、40代以降、つまり、社会的に年齢相応の成熟が当然とされる年齢。

            その年齢にもかかわらず極めて主観的な発言を一方的に続けるばかりで、対話が成立しない

            尋ねられたことには返答せず、自己心情、苦労、業績ばかりを感情的に話し続ける。

            感情を制御できず、号泣や激怒をしてしまい、それによって、信頼を失う

            逆に、号泣や激怒によって、周囲を威圧し、コントロールしてしまう。

            号泣や激怒などによって、説明責任、謝罪、悔い改めを回避する。

            そうした対応によって、多大な時間を浪費させても、相手に悪いとは思わない。

            幼児性のため、自己客観視能力に欠け、自らの幼稚な言動を周囲がどう評価するかを気にしない。

            命がけ」との言葉を連発し、それによって、具体的な問題を不問しようとするし、当人は不問にすべきと本気で思っている。

            独りよがりの主観的な熱意は、問題視される客観的事実や社会的規範違反さえ、チャラにできるとする「超主観的規範意識」を持つ。

            「献金?配慮?社会規範?大事ですよ。大事ですが、救霊、神の業という大きな括りのなかでは、極々小さなこと」などの「トンデモ相対性理論」で、大切なことさえ、壮大な事がらとの比較によって小さなことに錯覚させようとする。


             私はこうしたことは、人格的未成熟や幼児性だと思うのですが、専門科なら、何らかの障害や病理を指摘するのかもしれません。どこの世界にも、30代以降どころか、40を過ぎても、こうした方は、おられるものです。キリスト教会も決して例外ではありません。いわば、「号泣議員クリスチャン」はいるでしょうし、周囲はその言動に困惑させられることでしょう。もちろん、そうしたクリスチャンを交わりから排除してはならず、「どう受け止めるか?」「どう課題に向き合ってもらうか?」が問われます。

             真面目、熱心、子どものように夢に生きるそれなりの年齢のクリスチャンの中には、時に「号泣議員クリスチャン」がいるのでは?今回の号泣議員の件が、そうしたクリスチャンたちへの理解やよりよい導きの助けになればと願っています。
            | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 14:43 | - | - | - |
            育てよう健全信徒(32)〜期待過剰・攻撃過激派クリスチャン
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                「過剰な期待とそれが裏切られた際の攻撃の過激さ」という「セットメニュー」は、今日、社会の多くの分野で見聞きしているように思います。まずは、オリンピックであります。今回のソチにおいては、圧倒的な実績を誇る金メダル最有力候補が、何人も、メダルを逃しています。それ程、メダル獲得は困難なのでしょう。それなのに、メダルへの過剰な期待を持つ人々がいます。その過剰な期待への反動は、それが裏切られた際の攻撃の過激さです。「まず、謝れ」とか「税金返せ」どころか韓国では「死ね」まで登場する過激さです。

               熱狂的なファンのいるスポーツも同様です。本田選手が移籍したサッカークラブやマー君の移籍先となった球団のファン達も同様なのだとか。活躍すれば絶賛ですが、期待を裏切れば容赦のないバッシングが待っています。

               このメンタリティーは、どうも人類に共通の罪に由来するのでしょう。それがまだ、スポーツの世界だけならよいのですが、政治の世界にまで、及んでしまうと国家の将来と国民の生活に直結してしまいます。日本の有権者の中には、「従来の規制や現状を打破して、日本社会を短期間で変えてくれるリーダー」と言うありえない期待を本気でいだく方も少なく内容です。特定の支持政党がないなら、投票行動は、「よりよい方」や「まだ、ましな方」を選ぶのが、現実的でしょう。しかし、「ありえない期待を持って」投票する有権者も少なくないようにお見受けします。
               
               しかし、過剰な期待は、それが裏切られるなら、攻撃の過激さとなって帰ってきます。あれほどまで支持された小泉政権の評価はどうでしょう?そこから、格差社会が始まったと攻撃され、他の要素もあって、自民党への不信感は急速に深まっての民主党政権誕生となりました。規制政治家とは異なる期待を抱かせた橋下氏は、しばらくは絶大な支持を集めましたが、期待に反しての言動があれば、手の平を返したようなバッシングであります。また、政権奪取時の民主党への過大な期待は言うまでもありません。政権担当能力不足は明らかなのにありえない期待度だったと記憶します。その期待は、想定外の裏切り方をされると、攻撃へと姿を変え、民主党を崩壊状態にまで至らせました。

               もちろん、国民が政治家に期待をしたり、言動によっては批判をするのは当然です。また、マスコミが客観的視点から、政治家を評価したり批判したりするのも当然でしょう。期待と批判自体は正常で健全なのです。しかし、近年は、その期待の「過剰さ」と、それが裏切られた際の攻撃の「過激さ」が異常だと思うのです。ギャップありすぎです。いいえ、幼稚すぎると思うのです。理性を働かせ判断した上での期待と批判でなく、理性を失ったかのような直感的な期待と直情的な攻撃に触れるたびに「みんなもっと大人になろうよ」と言いたくなります。

               この政治状況は、長い歴史と文化と社会構造から生まれてきたもので、様々なしがらみに縛られているのですから、一人のリーダーがヒーローのように状況を打破したり、劇的な展開をもたらすことなど、ありえないのです。間違った過剰な期待は裏切られるに決まっているのですから、手の平を返したような過激な攻撃も、最初から決まっているようなものです。そう、「期待過剰」と「攻撃過激性」は表裏一体なのです。同じコインの裏と表のようなもの。

               スポーツや政治の世界に見られるこの大衆のメンタリティーを、聖書的価値転換を経ずに、そのまま信仰生活に持ち込んでしまったのが、「期待過剰・攻撃過激派クリスチャン」であります。このクリスチャンたちは、伴侶であれ、牧師であれ、役員や先輩クリスチャンたちに、ありえないような過剰な期待をします。正確には、「量的に過剰」と言うよりは、「質的に非聖書的」と表現した方が、正しいでしょう。

               常に自分の感情を満足させてくれるような伴侶、自分の願う教会を実現してくれるような牧師などを、期待します。その一方で、自分の期待が自己中心で肉的であることの自覚はありません。ましてや自分が神様の喜ばれる結婚者、キリスト者であるかは真剣には自問しません。その結果、自分に対しての謙遜さも、他者に対しての寛容さも持ち得ないのです。

               「期待過剰・攻撃過激派クリスチャン」は結婚すれば、不一致調性や自己成長の努力をしなくても、自動的に相手が自分を満足させてくれると考え違いをしています。教会生活のおいては、自分は、それなりに真面目な教会生活を送ればOKで、牧師には短期間で教勢を向上させることや自分に感情的な満足を与えることを期待します。言うまでもなく、結婚生活は相互の努力で向上し、教会はキリストの体の各器官の働きで建てあがります。これらの期待は過剰であり、同時に自己中心で非聖書的な期待なのです。

               やがて、結婚生活においても、教会生活においても、過剰な期待に反する言動や現象が起こります。それが度重なれば、「期待過剰・攻撃過激派クリスチャン」過激な攻撃に転じます。「この結婚はみこころでなかった」との短絡的宣言をしたり、伴侶が人格否定言動を受け傷ついたりします。牧師が過剰な期待に沿えなければ、様々なかたちで攻撃をしかけます。それは指導への不従順、牧師批判の言いふらし、牧師夫人への陰湿ないじめだったりします。

               私は思うのです。これは、暴力的な過激派ですから、公安の出番であると。もし、天使界に「公安」があれば、この手のクリスチャンは、「監視対象」となるのでしょう。夫婦の一致と教会の一致を願う神様は、こうしたクリスチャンが、「結婚破壊防止法」や「教会破壊防止法」に抵触するのではないかと心配し、公安担当天使に監視を命じるのではないかと想像したりします。

               しかし、現実には、そうした公安機関は天使界にはないようです。当人が、聖書や祈りを通じて、自らの罪と過ちを認めて悔改めること、聖書が示すように指導者からの戒めや信徒相互の戒めによって、問題が解決されることを神様が願っているからなのでしょう。天からの公安ではなく、地上の夫婦間や教会内での解決努力が基本であります。きっとそうした努力を、神様から委ねられているという自己責任も自覚せず、他者に期待と要求ばかりをしている子どもじみた姿勢自体が問題なのでしょう。

               よく考えてみれば、メシアに対して、祖国復興という過剰な期待を抱き、それが裏切られたら死刑にしたのは、何を隠そう信仰者たちでありました。聖書とは異なる期待を救い主に勝手に負わせ、負いきれないと判断すれば手の平を返したように死に渡したのは、まさに信仰者共同体だったのです。群集と化した信仰者の行動は、今も昔も変らないようです。いつの時代も、神を離れた信仰者は、自らの努力や課題には目を背け、過剰で自己中心な期待を他者に抱き、やがて、期待に沿えないと判断すれば、傷つけ、人格的に刺殺し、社会的に抹殺するのです。今日のクリスチャンたちも、結婚生活や教会で自らの責任を忘れる時に、同じ事をしてしまうことを、肝に銘じたいものです。

               スポーツ、政治から教会に至るまで、「過剰な期待とそれが裏切られた際の攻撃の過激さ」という「セットメニュー」が普及し深く浸透している時代と社会です。実際に、自分のことは棚にあげて、呆れるような過剰な期待を結婚相手に求めるクリスチャン、自分のありようを問うことなく牧師にだけありえない期待を一方的に抱いているクリスチャンに、出会うことは近年珍しくなくなってきたように感じています。それが夫婦や教会の一致を破壊していくケースも増加しているように観察しています。

               その中にあって、期待過剰・攻撃過激派クリスチャンを生み出さないこと、該当者を罪の自覚と悔改めに導くことは、今日の教会において、非常に困難なチャレンジであるとともに、もはや逃げてはならないチャレンジになっているように思えてなりません。
               

              | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 18:10 | - | - | - |
              育てよう健全信徒(31)〜サムラークリスチャン
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                このシリーズも31回目を迎えました。30回までを読み返したい方はこちらのカテゴリーをお読みください。

                「健全信徒・教会・コリント化シリーズ」
                http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3846

                 さて、31回目に取り上げあるのが、「サムラークリスチャン」であります。かつて安室奈美恵さんに心酔し、そのファッションを真似る女性たちは、「アムラー」と呼ばれました。そのように、最近、別人が作曲していたことが判明した「元現代のベートーベン」の音楽を愛するファンは「サムラー」と呼ばれるそうです。

                 そして、教会の中にもその生息が報告されているのが、「サムラークリスチャン」であります。サムラークリスチャンとは、別人作曲が判明した某作曲家の如き信仰姿勢で歩んでいるクリスチャンのことであります。まず、その信仰歴は、18年前後、あるいは、それ以上であります。ベテランとも言える信仰歴なのですが、実は、そのスタートから、この方の信仰姿勢はある特徴を持っています。

                 それは、ずばり「セルフプロデュース」であります。言うまでもなく、そのセルフプロデュースが事実に反する虚偽を多く含んでいるから問題なのです。サムラークリスチャンは、信仰のスタート時から、人ばかりか、神様の前にも、セルフプロデュースをして歩んできているのです。あるがままの自分を隠して、自分が願う「理想のクリスチャン像」や「他者から認められるクリスチャン像」に自らをプロデュースするのです。そして、虚偽の自分を演じて、教会内でも神様の前にも生きていくわけです。

                 サムラークリスチャンは、決して、幼子のように神様の前にできることはありません。神様の前にありのままで出られないのです。セルフプロデュースして相手の承認と称賛を得なければ、ならないのです。別の表現を用いるなら、他者からの承認と称賛に依存しての信仰生活なのです。御言葉に従えない惨めな自分、悔改めても同じ過ちを続ける自分、兄弟姉妹を愛し得ない自分・・・。そうした残念な自分の実態を、まず自分自身が受け止められません。正直な自己受容ができないのですから、他者と神様に対しても正直な自分ではありえず、セルフプロデュースをせざるを得ません。そのように、文字通り、あるがままで愛し受け入れてくださる神様の愛を信頼できず、18年以上も、自らを偽り、 別人格のクリスチャンを演じ続けてきたのです。

                 周囲が、そうした問題点を、指摘すると「聖書を通じての神様からの語りかけに耳が閉ざされてきた」などと言い訳します。「そんなはずないだろ、聞こえてたはずだ」と証拠を上げて、反論すれば、「三年前から、聞こえるようになっていた」と、新たな言い訳が登場します。さらには、「嘘に嘘を重ねることはもうしないと決めました」という更なる嘘を重ねます。虚偽が明らかになっても、なおセルフプロデュースを捨て去ることも、正直な自分で人と神様の前に生きることができません。

                 なぜなら、サムラークリスチャンは、他者からの承認と称賛に依存する体質だからです。あるがままの愛と受容を信頼できずに、承認と称賛に依存してしまうからです。この依存体質は、嘘がばれた程度では、なかなか改善されず、さらに、その危機を超えて継続してしまうこともあるようです。

                 お互いは、基本中の基本を忘れてはなりません。クリスチャンにセルフプロデュース不要です。いいえ、それどころか、セルフプロデュースは神様の「聖なるプロデュース」を邪魔してしまうだけです。神と人からの承認と称賛を得ようとして、実態と異なる自らを演ずることは、キリスト者の実態そのものを変えようとする聖なるプロデュースを台無しにしかねません。神様が愛して受容して下さっている残念な自分を認めず受け止められず、自らの願う理想のクリスチャン像に向けて、セルフプロデュースをするなら、キリストの似姿に向けての聖なるプロデュースを破綻させてしまうのです。

                 神様の願っておられることは、残念な自分の実態を認めて、それを受け入れて、正直に神様の前に出ることでしょう。神様はご自身の愛を信頼して、そのままで飛び込んで欲しいのです。そう考えますと、セルフプロデュースが、どんなに神様を悲しませるかが分かるでしょう。該当者の読者は、どうか、これ以上、神様に片想いをさせて、悲しませないで下さい。

                 某作曲家の担当弁護士は、辞任をしました。きっと、嘘に嘘を重ねる依頼者とは信頼関係が築けないと判断したからでしょう。しかし、キリスト者の弁護を担当してくださるイエス・キリストは決して辞任しません。嘘に嘘を重ねて、神の前に出続ける者を、愛し続け、忍耐をもって、正直な自分で出てくれることを待っておられるのです。そして、何とかキリストの似姿にプロデュースしようと願っておられるのです。
                クリスチャンが、これほどまでに真実な神様の愛に応えないでどうすんの?と申し上げたいです。


                 今回の記事は、「育てよう健全信徒」として記しましたが、実は、教会の中で、最もセルフ・プロデュースに陥りやすいのは、牧師なのかもしれません。信徒からの承認と称賛を受けるようにセルフプロデュースし続けて、神の前に正直に生きることなく、別人格に生きながら、行き詰まりや破綻を経験する危険は、どんなに大きいかと思います。牧師のようなリーダーに委譲されている権威は、模範を示すためです。ですから、リーダーこそが、信徒が求める偽りの自分を演ずるのではなく、正直な自分で神様の前に出て、キリストの似姿にプロデュースしてもらい信徒に模範を示したいものです。信徒から好まれるのは、前者かもしれませんが、信徒からの本物の信頼と称賛を得て、教会が建て上げられていくのは、後者の歩みの方ではないでしょうか?

                 今回の事件を受けて、願うのです。キリスト者たるもの、セルフプロデュースは不要なのだと。神様の前に嘘に嘘を重ねる歩み18年も続けてはならないのだと。今からでも遅くありません。正直な自分で神様の前に出ましょう。そこから、キリストに似姿に向けての神様のプロデュースがスタートするのです。

                 ローマ8章29節は語ります。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」と。

                 忘れてはなりません。すべてのクリスチャンは「御子のかたちと同じ姿」への聖なるプロデュースのためにこそ、召されていることを。
                | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 15:59 | - | - | - |
                育てよう健全信徒(30)遠野なぎこクリスチャン
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                   近年、女優の遠野なぎこがよくテレビのバラエティーに出演しているのを見かけませす。彼女は10代から、その美貌と演技力と才能が高く評価されてきた優れた女優であったはずです。ところが、最近は悲惨な生育歴破綻した私生活を、カミングアウトして切り売りしているようです。その遠野さんの成育歴と芸歴は、以下の記事をご参照下さい。

                   wikipedia「遠野なぎこ」
                  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E9%87%8E%E3%81%AA%E3%81%8E%E3%81%93

                   母から虐待を受けて育った子ども時代、でも、そんな母が大好きで、認めてもらいたくて励んだ芸能生活。それでも娘に無関心で不倫相手と同居する母。愛を実感することなく育った彼女は、当然のように結婚が破綻、同時に複数男性と交際するのが当然という恋愛スタイル、そしてアルコール依存症・・・。

                   彼女が、以前、発表して話題になった自伝小説のタイトルはそのことを象徴しています。そのタイトルとは 『一度も愛してくれなかった母へ、一度も愛せなかった男たちへ』。そうです。人間が最初に信頼関係を築き、愛情を実感するのは、親との関係です。その経験やプロセスが著しく欠落するなら、やがては、本当の意味で「誰をも愛することのできない大人」になりかねません。

                   上のwikipediaの記事で最も悲しかったのは、遠野さんが「愛せない」ではなく、「愛がわからない」と語っていることです。これにはとても考えさせられました。聖書は「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(汽茱4:8)と記しています。「愛のない者に神が分からない」なら「愛の分からない者に神は分かるのだろうか?神は愛だからなー」と心配になってしまうわけです。

                   親からの愛を実感せず育った方々や親から虐待を受けて生きてきた方々がクリスチャンとなります。ある方々は、信じてすぐに愛に目覚めて劇的に変えられていきます。また、試行錯誤しながらも、神の愛を受けながら、一歩ずつ変えられていく方々も。

                   しかし、時に遠野さんのように、心配な結婚をして破綻したり、何かの依存症になってしまう方、あるいは、そうした明確な問題ではなくても、破滅的、不健康な人生を歩んでしまう方も。根本には、神様とも兄弟姉妹とも愛の関係を築くことができない問題があるようです。「クリスチャンなのにどうして?」と思うかもしれませんが、「クリスチャンなのにそうなる」までに罪の犠牲者とされているというのが事実でしょう。

                   親の罪が、子どもの心に神様の恵みも及ばぬ歪み福音の光も届かないような闇を作り出してしまうのでしょうか?責任者ない弱い者に、生涯に及ぶようなダメージを与えることを思うと、罪の根深さ、恐ろしさにやりきれない思いがします。

                   通常の牧会や導きではこうした問題はなかなかよい方向に向かわないように観察します。背景や過去の問題を理解して愛をもって受け止められることは大前提でしょう。同時に、深刻な問題の場合は、専門家の協力も必要だろうと個人的には考えています。

                   周囲のクリスチャンも、遠野なぎこタイプの言動には、困惑したり理解困難になりやすいもの。そして、距離を置き、孤立感を与えかねないものです。でも、できることはあると思うのです。wikipediaによれば、 『一度も愛してくれなかった母へ、一度も愛せなかった男たちへ』の出版を機によい方向へ向かっているとご本人は自己評価しているようです。辛い過去や思いを真実に受け止めてくれるクリスチャンの友や、その悲痛な物語にひたすら傾聴してもらえる交わりがあるだけでも、大きな助けになるように思います。

                   願わくは、牧師夫妻だけに全部負担を負わせずに、多くのクリスチャン達が、浅くて軽くてもよいので、真実な愛をもってかかわっていくことかな?と思うのです。正直、ある程度、成熟した交わりではないと厳しい提案かもしれません。

                   遠野さんの成育歴は、同様の経験を経てクリスチャンになった方々を理解するよい助けになるかもしれません。そうしたクリスチャンを支え助けたいと願う方々に、この記事が参考になればうれしいです。
                   
                  | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 09:16 | - | - | - |
                  育てよう健全信徒(29)「新党・今はひとりだけ」クリスチャン
                  0
                     昨日は「新党・今はひとりだけ」党首である山本太郎氏が当選。それにしても、この党名はユニークであります。さすが芸能人です。「劇団ひとり」に匹敵するネーミングです。芸能界のタブーを破り孤立し怖かった胸のうちを吐露したこともあったようです。きっとこの命名には、孤独な戦いであると共に、一人から始める覚悟、そして「今は一人だが・・・」との希望が込められているのでしょうか?昨日は、当選を受けて、支援者と共に「もう、ひとりじゃない!」と叫んでいました。

                     一方、教会には、家庭や職場、学校や地域などで「少数野党状態」のクリスチャンは少なくありません。家庭内、職場やクラスで「新党・今はクリスチャンひとりだけ」の党首となっている方々を覚えましょう。つまり、自分ひとりがクリスチャンであり、孤独な戦いをしている兄弟姉妹にことをいつも心に留めたいのです。

                     孤立感や疎外感に悩み、迫害にストレスをため、神に背を向けた周囲の生き方を憂いて、山本太郎氏のごとく、円形脱毛症になりそうです。孤軍奮闘気分になり、心折れてしまいそうにもなる時もあるでしょう。

                     そんな時、「新党・今はクリスチャンひとりだけ党首に、言葉をかけて差し上げましょう。「もう、ひとりじゃない」と。そうです。教会には、共に家族や周囲の救いを祈ってくれる仲間がいるのです。文字通り「もう、ひとりじゃない」のです。

                     立派な組織と潤沢な資金はなくても、「新党今はひとりだけ」は勝利しました。同じように、「新党・クリスチャン今はひとりだけ」も、組織はなくても祈りの支援者はいます。資金はなくても無から有を生み出す信仰があります。勝利に向かう原動力は決して乏しいものではありません。

                     ですから、「新党・今はクリスチャンひとりだけ」の党首のみなさんには、教会の方々に呼びかけ、祈りの支援者となっていただき、信仰をもって厳しい戦いを、戦い抜いていただければと願うのです。いつの日か、隠していた円形脱毛症さえ、神様からの勲章と思える日が来ることを信じて。
                    | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 14:20 | - | - | - |
                    育てよう健全信徒(28)あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン
                    0
                       「自分は、あるがままで神様から愛されている」あるいは「神様は罪人の自分をそのまま愛してくださった」さらに言い換えるなら「対象に依存しない神の無条件一方通の愛」は、福音が持つ大切な要素だと思います。10代で「自分に価値がない」と思っているのが、世界で一番多い日本社会においては、「あるがままの自分のためにいのちを捨ててくださった神の愛」は正しい自己価値確認のニーズを満たす福音の一要素でしょう。

                       しかし、これはあくまで福音の一要素に過ぎません。これが福音のすべてではないのです。あるがままで愛されたら、もはやあるがままではいられないのが普通でしょう。愛とは交わりであり、応答の世界です。あるがままで愛された者は、あるがままで愛してくださった方に喜ばれるような自分になりたいと願うのが、当然かと思うのですが、どうでしょう?

                       言い換えるなら、あるがままで愛された者はその愛に応答して、「今のままの自分」から、「神様が願う自分」へ、「わがままな自分」から「みこころのままの自分」に変えられたいと願うのが聖書の教えだと思うのです。

                       ところがどういうわけか、この「あるがままの愛」が福音の全てになってしまうクリスチャンがいます。それが「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」であります。その福音理解は、「神様は自分をあるがままで愛しておられる。だからずっと今のままよい」という内容です。これは、「現状肯定と成熟拒否の神様の無条件の愛による正当化」であります。あるがままで愛されていることを、「自分が変らず、悔改めず、ずっとそのままでよい」とのお墨付きにしてしまうわけです。

                       当人にとっては「あるがまま、今のまま、ずっとわがままでよい」と絶対者から保証してもらっているのですから、行くところ敵なし状態です。自分にとって不都合な変化、成長、悔い改めを命ずる聖書のことばも、そのみことばに従って愛をもって導く人々も、ありのまま愛してくださる神様がご一緒なら、大丈夫?というわけです。

                       「聖書は、心の一新によって自分を変えなさいと命じていますね」と問われても、「変えなくても愛されているから自分は満足です」と顧客満足度発想で返答。

                       「栄光から栄光への主の似姿へと変えられましょうね」と勧めれば、「変えられなくても愛されているのだから、必要ない」と頑なに現状肯定であります。

                       「聖書は『愛されなさい』でなく『愛しなさい』と命じていますね。あるがまま愛されたその愛で、人を愛する者に成長しましょう」と招けば「今のまま、ずっと愛される側でいたい」とがわままな拒否。

                       「それは神様が悲しまれますね。悔改めましょう」と牧師が愛をもって罪を示し悔改めに導こうとすれば、「先生は自分を、罪のまま、あるがままで愛していない、先生には愛がない!」と逆切れしかねません。

                       どうもこのタイプのクリスチャンにとって大切なのは、「あるがまま愛されている自分」であって「あるがまま愛してくださっている様」ではないようです。重要なのは、「あるがまま愛されて自己価値確認できる安心感」であって「その愛への応答責任」ではなさそうです。発想としては、「あるがままで愛される顧客満足度」が大切なのであって「あるがまま愛してくださっている神様の側のご満足」はどうでもいいのでしょう。どこまで行っても「自分のための神様」止まりで「神様のための自分」には至りません。いいえ、程遠いままです。

                       そこで、思いついたのが、「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」の信仰告白です。名づけて「あるがまま信仰告白」。


                       「あるがまま信仰告白

                       我は天地の造り主、我をあるがままで愛する全能の父なる神を信ず。
                       
                       我はその独り子、我をあるがままで愛する我らの主、イエスキリストを信ず。

                       主は、我をあるがままで愛するため、聖霊によりてやどり、・・・・・・

                       ・・・・・三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、我をあるがままで愛さんと全能の父なる神の右に座したまえり。

                       かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを、あるがままで愛したまわん

                       我は、人々をして我をあるがままで愛さしむる聖霊を信ず。

                       我をあるがままで愛する公同の教会、

                       あるがままで愛し合う聖徒の交わり、

                       あるがままで愛するが故に、悔改め不要の罪の赦し

                       今のままでも与えられる体のよみがえり、

                       ずっとわがままでも保証されるとこしえの命を信ず。

                       
                       以上です。これは、すごいですね。「父、御子、御霊」から、「教会、永遠」に至るまで総動員で、「あるがままの自分」を正当化しているのですから。この「あるがまま信仰告白」が、聖書そのものより権威があるのですから、聖書が記す自己変革、成長、悔改めの言葉などは、すべてスルー、あるいは排除となるのです。

                       「あるがまま」は福音の重要要素。でも、それがすべてとなれば、それは、もはや「福音」と呼ぶべきではないでしょう。「甘口の福音」でさえないと私は思います。

                       「育てよう健全信徒」と題したものの、これまた、どうしたらいいんでしょうね?何といっても、「あるがままの愛」以外のみ言葉は拒否ですから、大変です。個人的には、洗礼前後の書記の段階で、「神、罪、救い、教会生活」と共に「みことばへの従順成長、自己変革、悔改め」などをしっかり教育することかなと考えています。

                       読者の皆様にはこの拙い記事が「あるがまま信仰告白」に生きるクリスチャンたちの「傾向と対策」に少しでも役立てば感謝でございます。また、「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」当人の皆様におかれましては、この拙い記事が、ご自身を神様の視点より客観視し、聖書を基準に過ちをお認めになり、やがては悔い改めの実を結ばれる一助になればと切に願います。
                      | ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 21:25 | - | - | - |
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