命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
牧師・役員必読書としての「リーダーシップのダークサイド」(4)
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     「闇」という言葉はどうしてもマイナスイメージがあります。特に聖書には、「光と闇」というように、闇という言葉は、真理などを意味する「光」の対義語なので、「闇」があたかも「罪の源」「悪の発生源」のように受け取られてしまいます。しかし、この「闇」は英語の「ダークサイド」であります。まあ、それは、月の裏側のようなものでしょう。月の裏側は、「地球からは見えない側」程度の意味しかありません。裏側自体は善でも悪でもありません。見えないことが、その本質なのであって、悪や罪とは直接的には無関係なのです。

     同著も、闇自体を悪だとは見なしていません。闇とは他者や時に当人からさえ見えない「ダークサイド」なのです。やはり、それ自体は善でも、悪でもないのです。ただ、それが、リーダーシップと強い関連を持ち、かなり決定的な影響力を持ち、リーダーシップ遂行上で善と悪の両者を生み出すのです。どうも、世俗的な意味での成功者の場合は、パターンが決まっているわけです。成功までは、その闇が貢献するのです。その闇が持ち主をある衝動に駆り立てて、成功者へと導くのです。しかし、成功達成後は、同じその闇が、今度は、破綻や逸脱に闇の持ち主を導いてしまいます。このことが、同著の土台となる見解です。

     ですから、尊敬してきた牧師などリーダーの中に、深い闇を発見してしまったからと言って、大きく失望すべきではありません。また、リーダーが自らの闇を発見し向き合うことには恐れもあるでしょうが、その闇はそれまでの働きや人格を否定するものではありません。むしろ、自分を働きの前進へと導いてきた無自覚な動機や要因を発見するのです。純粋な動機で仕えてきたつもりのリーダーにとっては、多少のショックかもしれませんが、その発見は深い自己理解と健全な働きの継続と完成にリーダーを導いてくれるのです。

     私自身も同著によって、自分を支えてきた強い使命感や正義感は、生育歴が形成したから、来ていることをこれまで以上に強く確認しました。同時に、この闇を認めて、向き合い克服のために努力をするなら、生涯、健全な働き人でありうると展望をしています。

     同著を読まれずに一連の記事を読まれますと、どうしても「成功」と「」という二つの言葉の定義があいまいになり、誤解を生むように思いますので、少し説明しました。そこで、営業妨害にならない?程度で、同著が示す五つの闇を紹介してみます。

    支配的リーダー
    現われ:他者と働きに対しての支配
    該当者:モーセ
    傾向:権威尊重、秩序志向、過度に倫理的、批判的
    闇の内容:怒りと憤りの抑圧
    危険:燃え尽き、信徒の離反・・・・
    対処:???→同著を読みましょう!

    自己陶酔的リーダー
    現われ:自己陶酔
    該当者:ソロモン
    傾向:賞賛を求める成功志向、肥大した自己像・・・・
    闇の内容:自己陶酔と劣等感故の不安が共存
    危険:際限のない欲望追求による・・・・・
    対処:???→同著を読みましょう!

    被害妄想的リーダー
    現われ:被害妄想
    該当者:サウル
    傾向:疑い深い、敵対的、嫉妬深い、恐れ・・・・・
    闇の内容:強い不安感と自信のなさ
    危険:牧師役員間の不信、教会内抗争・・・
    対処:???→同著を読みましょう!

    共依存的リーダー
    現われ:共依存
    該当者:サムソン
    傾向:問題直面の回避、過度の寛容・・・
    闇の内容:抑圧された欲求不満で感情表現不能
    危険:全要求に応答して、自分と家庭を破綻
    対処:???→同著を読みましょう!

    受動攻撃的リーダー
    現われ:受動攻撃性
    該当者:ヨナ
    傾向:反抗、不満、怠惰で周囲をコントロール、感情爆発で他者支配 
    闇の内容:成功後に期待されることへの恐れ・・・・・
    危険:歓迎されず短期間で転任、でも、当人はその理由が理解できず
    対処:???→同著を読みましょう!

     販売促進でなく、営業妨害だと関係者からお叱りを受けないように、全部書かずに「・・・・」にして「対処」は書かずにおきました。また、そうしたのは、問題意識を持ち、本気で対処を求める方には、是非とも購読して欲しいからです。

     こうしてまとめてみると、実によくできていると感心します。「リーダー・牧師あるある」の世界ですし、私などは、当たりすぎていて「痛い」です。同著によれば、ジム・ベーカーは典型的な△如クリントン大統領はい覆里世箸。私自身は,里茲Δ任后どの分野でも、リーダである方は自己理解に、また、リーダーの下で仕える読者は、上司の理解に大いに役立ちますね。ある意味、実用的ですらあります。

     でも、同著はそういうレベルの目的をもって書かれたのではありません。これは、キリスト教会内のリーダーについての深刻な問題に応答して書かれています。日本ではどうでしょう?実は、日本の牧師に多いのはだと言われています。「」を重んずる日本文化、「愛」と「甘え」の取り違え、日本的事なかれ主義、日本独自の嫌われたくない病などの影響でしょか?どうしても日本の牧師はい砲覆蠅笋垢い茲Δ忙廚い泙后また、信徒もい離蝓璽澄爾好み、い任△襪反徒からは「献身的で愛のある牧師」と評価されて、教会の人間関係は円満に。

     その結果、牧師は「神様が願うリーダー」でなく、「信徒が願うリーダー」を演じます。その努力も空しく、いいえ、その間違った努力のゆえに、信徒はいつまでも自立せず、牧師依存体質で教会は建てあがりません。その一方で、自分の心身の健康結婚関係と親子関係が崩壊の危険にさらされます。そして、時に本当に崩壊します。

     ここで立ち止まり、休み、本来の召しを確認し、あるべき献身の姿を再考すればよいのですが、そうはいかない事情もあるのでしょう。崩壊を隠して働きを継続してしまっているケースも多々お聞きします。それが、正しい献身性の範囲内の場合もあるでしょうし、何のために牧師をしているのか、目的不在となっている場合もあるでしょう。

     さらには、後者でありながら、それでもなお「召し」を理由にあるいは生活の必要上、働きを続けるケースもあるようです。こうなりますと、「献身的」と見える牧師の奉仕も、その本質は、既に「聖なる目的のための自己犠牲」ではなく、「仮想目的のための自己欺瞞」あるいは「目的不在の自己消費」に変質してしまっているのでは?と心配してしまいます。そうなれば、もはや教会は「キリストの体」とは別の「歴代牧師家族を犠牲にして延命を図る人間共同体」に成り下がっているのかもしれません。こうしたことは今日の日本の教会にしばしば見られる深刻な問題でしょう。同著はこうした問題にも、一定の理解の光を与え、リーダーを守り、教会の健全性を維持する一助になる良書だと私は評価しています。

     どうか、今回の記事を読まれて、「うちの牧師は、〇〇的リーダーだ」と批判材料にしないで下さい。闇自体は批判対象ではありませんし、多分、どの世界のどのリーダーも、そして誰もが、多かれ少なかれ、こうした闇を持っているからです。そして、もし「危険」が該当するならば、それも批判材料としてではなく、牧師家族を愛し、危険から守られることを願って、ご自身の立場でできること、また、教会で連帯してできることを御検討いただければと願います。役員の方などは、「この本を読んで、先生の葛藤が分かりました。これからもよき働きをされる参考になれば・・・」などと、当て付けと思われないように配慮して、同著をプレゼントされてはどうでしょう?

     今回の記事を読まれ、問題意識を持たれたら、是非、同著を繰り返し読まれ、教会に限らず、リーダーが健全な働きをし、組織が正常に本来の働きをしていく手助けをする一人として歩んでいただければと切望しています。
    | ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 21:06 | - | - | - |
    牧師・役員必読書としての「リーダーシップのダークサイド」(3)
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       「リーダーシップのダークサイド」について、断続的に記していますが、同著が読者をひきつける一つの要素は、圧倒的な事例の多さです。アメリカ社会における教会リーダーと各界のリーダー達の事例が登場します。多くの場合、成人前の生育歴で形成される「」が、闇の持ち主を、ある衝動に駆り立てて、それが優れた働きや(世俗的な意味での)成功に人を導きます。闇が、成功に貢献するのです。前回に記したように闇さえも神様が用いて、優れた働き大きな働きをさせることを同著は多く実例と聖書人物の事例をあげて、実証を試みています。(筆者はこの「獲得=成功」との成功観にキリスト教会が支配されていることをそもそもの問題としていますが)

       もちろん、教会リーダーの場合は、召しへの応答や神と人への愛、神の義の実現などが、動機なのです。しかし、それとは異なる闇が混じっていたり、当人も無自覚のまま根底にあったりするのもまた、事実なのです。やっかいな場合は、自己実現や承認欲求や劣等感解消が主たる動機なのですが、自己欺瞞によって、抑圧している場合です。つまり、当人が自分を騙して、「自分は聖なる正当な動機によって働いている」と本気で信じてしまっている場合です。

       罪人である人間はそんなに健全で前向きな動機で努力をできるものではないと思うのです。世のため、人のため、弱者のため、神様のため、教会のためだけで、真摯な努力を積み上げられる人物は極一部だろうと私は考えています。無意識のうちにも、一定闇がもたらす何らかの衝動が、成功や結実にいたる努力に貢献しているように思います。この見解は、私自身が同著を読むより前にも、クリスチャンカウンセラーの助けを受けて、自分と自己課題に向き合う中で、発見できた自分なりの体験的見解です。

       そういうわけで、成功者やリーダーの立場にある人は、そうでない方々より深く強く大きな闇を持っていることが多いようです。多くのリーダー達と出会い、その挫折や逸脱なども見聞きしながら、それは、教会の内外を問わない普遍的な傾向だと私は確信しております。これは成功した政治家や実業家や有名芸能人やスポーツ選手同様に、教会のリーダーの中にも見られるわけです。高潔な人格に潜む病的な自己愛、弱者への慈愛の裏での自己価値確認、一代で大規模教会に導いた牧師の原動力と思える強烈な劣等感、壮絶な努力の動機と思える親からの承認欲求・・・。多分のどの世界のどの分野でも、成功者とリーダーは、こうした闇を通常より強く深く持っているのだと思います。

       同著には、政治的リーダーの事例が出て来ます。クリントン大統領が育った家庭が典型的な機能不全家庭であったこと、ケネディー大統領の育った家庭は極めて異常であったことが記されています。さらには、あのガンディーにさえ、彼を偉大ならしめた闇というべきトラウマ体験があったことを記しています。失脚したテレビ伝道者ジム・ベーカーやその逸脱が記憶に新しいテッド・ハガードらの闇についても、その生育歴と共に指摘しています。

       さらには健全なリーダーとして信頼されてきた二人についても闇を示します。ビリー・グラハムを成功に駆り立てたものとして、若き日の失恋体験を示し、リンカーン大統領にも幼児期に母を亡くし、不幸な父子関係に育った闇を指摘しています。これらの情報だけでも、同著を購入した価値があったと思った程です。そして、グラハムとリンカーンが、大きな破綻をせずにすんだのは、二人がそれぞれ、自分の闇を自覚して、交わりや組織によって、闇の暴走を防ぐ努力をしてきたからであることを記しています。私が単純すぎるの可も知れませんが、これらの実例には、圧倒的な説得力を感じました。

       思えば、近年は児童伝道、カウンセリング、弟子訓練などの分野でリーダーとして用いられてきた主の器の闇が、明るみに出されてきたわけです。また、戦後のキリスト教会を導いてこられた偉大な先生方はどうでしょう?著名な伝道者の方々を思い起こしてみましょう。その方々は、後継者を育て、責任委譲をされ、優れた働きと結実がスムーズに継続発展されているでしょうか?どの程度の割合で、それができているでしょうか?同著によれば、人を成功に駆り立てる闇が一転して、一転、闇の持ち主を逸脱や破綻に導くのは、一定の成功を果たした後や働きの頂点においてのようです。日本のキリスト教会では、その時期は50代以降、あるいは、引退が検討されるべき晩年となるでしょう。これは近年の課題に合致するのでは?続発する牧師不祥事や引退・継承問題などは、一定、この闇による部分も大きいのでは?と思い至っております。


       そこで多様な読者の皆様への私なりのお勧めです。

       教会役員や副牧師、教会スタッフの皆様、牧師の性格上の欠点につきましては、誠に勝手ながら、ある程度までは、気になってもあまり問題としないことかと思います。周囲の皆様には数々のご迷惑をお掛けしているかと思いますが、寛容という名前の愛で受け入れていただくのが、よき交わりと教会形成につながるかと思います。

       逆に、見守っていただきたいのは、熱心、人格者、有能、実績十分、著名、大御所などの形容詞がつく牧師の持つ闇の部分です。闇があること自体が不適任なのではありません。同著によれば、その闇を当人が自覚できないこと、自己欺瞞によって別の名目にしていること、、自覚していてもその危険性と克服の必要を認めないこと、自分の闇に向き合うのを恐れていることが危険なのだそうです。それが、将来の破綻や逸脱の可能性を意味するからです。どうか、同書を読まれ、もし牧師の中にそうした闇を発見された場合は、牧師が、闇を自覚し、向き合い、克服努力できるよう支援をお願いします。牧師が自分の本音や弱音を話せるような信頼関係を構築され、その交わりの中で闇が扱われるようになることを御検討いただければ幸いです。

       牧師夫人の皆様には、ぜひ、お読みいただいて、夫の闇を特定し、理解し、危険を覚えられたら、愛をもって、プライドを傷つけぬ配慮をもって、賢く検討的に、夫に伝えてみてはどうでしょう?そして、必要なら闇に向き合う勇気を持つよう励ましてみては?それは健全な働きの持続だけでなく、正常な夫婦関係や成熟した父親となるためにも、有益かと思うのです。

       現在、神学生の皆様には、是非とも、現場に出る前に同書を読まれ、自分の課題に向き合っていただければと願います。自分独自の闇を自覚され、成熟に向い、生涯健全なリーダーとして歩んでいただきたいもの。

       また、神学校の指導者の皆様には、同著を参考にされ、将来ある学生の闇にまでかかわっていただけないでしょうか?くれぐれも、巨大な闇とその暴走可能性を持った神学生を、そのままで現場に出すことのないように、ご指導をお願い致します。近年はそうした卒業生のもたらす危害を、多く御聞きしているように感じておりますので。

       30代のリーダーは、同著の内容を素直に受け入れやすい世代なので、ご一読をお勧めします。年齢を重ねる毎に、自分の闇に向き合うのが怖くなり逃げるようになるものですから。

       40代のリーダーは、読んでおかないとそろそろ危ないので、読まれますように。ここで読まないと、一生読まずに終わるかも。

       50代のリーダーは闇が暴走しやい時期に入っていますので、勇気をもって読みましょう。同著は、あなたの働きを否定するのではなく、それを健全に終わらせるために役立つことでしょう。

       60歳のリーダーは、引退が問われることによって、闇が反応して暴走する可能性がありますので、読んでやって下さい。老害によって周囲を苦しめ、教会を弱体化させて晩節を汚すことなく、伝道者生涯を終えるためです。

       70代以降のリーダーは、最後のチャンスですから、是非ともご一読を。たとえ、既に闇を暴走させ、周囲と教会にダメージを与えていたとしても、決して遅くはありません。まだ、悔改めてご自分と教会とを回復に向わせる可能性は残っているのですから。

       今回はとりとめのない記事になってしまいました。こうした深刻かつ重大な課題を克服する手がかりとなりうる「リーダーシップのダークサイド」の有効利用を!

      | ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 17:46 | - | - | - |
      牧師・役員必読書としての「リーダーシップのダークサイド」(2)
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          私自身、同著を読んで、それまでえの考えが大逆転しました。それまでは、「神様は悪い動機が混じっている者を用いることができない」「(罪とは異なる)は神様の働きを留める」と信じてきました。

         その一方で「神様は、その人の劣等感や承認欲求、自己顕示性、性格的歪みさえ用いて下さる」と先輩牧師から、時々お聞きしました。私はこれに全く同意できなかったのです。「聖書のどこにそんなこと書いてあるの?」と反発を覚えていたのです。逆に「聖くなければ、謙遜でなければ、神様に用いられないとの記述ばかりではないか!」と思っていたのです。

         ところが、キリスト教会で用いられ、目に見える形で実を結んでおられるリーダーたちにお会いしたり、お交わりを頂く中で、ある現実に気がつくようになります。意外と多くのリーダーの中に尊敬できない、あるいは失望するような闇を見たり感じたりしたのです。単に個性的なリーダー、突出したキャラクターなのではなく、そこに「(欠点ではなく)闇」を垣間見てしまうことがありました。失礼ながら、「この先生を突き動かしているのは劣等感ではないか?」「働きのモチベーションに自己顕示がかなりあるのでは?」「ここまでの努力をされているのは、親や周囲に承認されたいからではなのか?」と思えるケースが少なくありませんでした。

         言葉の端々や他者への態度、生育歴や家族関係の中に、そうしたものが見え隠れするリーダーの多さを、私は受け入れがたく思いました。その最大の理由は、自分には「があっては用いられない」と信じて、そうした闇の克服のためにかなりの努力をしてきた自負があったからです。特に伝道者となったからは、「働きの動機に自己実現を混入させない」、「働きの場に劣等感解消を持ち込まない」「生育歴に由来する歪みを働きと家庭に持ち込まない」を常に自問して、課題に向き合ってきたからです。

         ですから、そうした闇が用いられて実を結んでいるリーダーの存在に、拒絶感を覚えたのです。いいえ、実は、深い摂理の故に、そうした闇さえ用いて、リーダーを働かさせる神様の恵み深さに怒りを覚えていたのだと思います。「神様、不公平です。不当です」と。また、「自分はこんなに努力してきたのに」という霊的高慢が自分にあったこを同著によって気がつかされました。

         私は、聖め派の中で、信仰を育てられたので、「聖くなくては用いられない」「不純物が主の恵みを阻害する」との思いが強かったのです。そうした背景で信仰が育まれたこと自体は、ともて感謝すべきことだと今も思っています。ただ、同著を読んで、その反作用が強すぎたかな?との評価が加わったのです。その反作用とは、「神様の恵みの広さを狭めるような霊的潔癖症」、「恵みの深さを浅くするような道徳主義的信仰理解」と表現できるかもしれません。

         それは、自分に対しての非聖書的な厳しさ肉的完璧主義へと変質したり、、それ故に精神衛生上のマイナスに作用していた面もあったように今は自己評価をしています。さらには、そうした自分への厳しさが、他のクリスチャン、特に教職者に対しての不寛容につながっていたのだろうと反省もしています。

         この書物を読んで、「聖書のどこにそんなこと書いてあるの?」との反発は、「聖書に書いてあったじゃん、なんで気がつかなかったんだろう」との後悔と反省に変りました。そして、「闇の部分さえ神様は用いて下さる」とアドバイス下った先輩牧師たちに、お詫びしたい気持ちになっています。同著は、モーセ、ソロモン、サウル、サムソン、ヨナの5名が、それぞれ特有の闇を持ち、その闇さえ用いられてリーダーシップが発揮され、同時にその闇の力によって失敗や破綻をしたことを記しています。これはまさに、目からうろこ。自分の信じてきた聖化論の浅さや単純さ、おめでたさを痛感させられました。

         このことの発見は、私にとっては、ちょっとした転機でした。「深い摂理の中でリーダーを立て、その闇さえも用いる神様」と「闇を自覚し、克服すべきリーダーの責任」の両者が、矛盾することなく、なおかつ聖書的に私の中で腑に落ちたからです。程度問題はあると思いますが、リーダーの動機に劣等感克服、自己実現や自己顕示、承認欲求などが混じっていたとしても、一定寛容であるべきだと考えるようになりました。

         また、リーダーがその成育歴や親子関係やその家族の中に、を持ちなおかつ、その闇が働きを不健全にしているなら、リーダーが闇を自覚し、向き合い、克服できるように支援すべきとの思いをより強いものにしました。こうして、同著を推薦し、リーダーの方々にその意義を紹介することも、支援の一つになればと願っています。

         私にとっては、優れたリーダーの学びである以上に、「神観」と「人間理解」が聖書的に大きく広げられ、深められたように感じています。私と同じような葛藤や閉塞感を覚えておられるリーダーにはとりわけ、有意義な書物かと思います。
        | ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 11:07 | - | - | - |
        牧師・役員必読書としての「リーダーシップのダークサイド」(1)
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           この書物については、約半年前から、記事にしたいと思っていましたが、扱っているテーマが深刻なので、慎重にしていました。現代のキリスト教会に必要でありながら出版されてこなかったタイプのものとして、私個人は非常に高く評価をしています。その反面、聖書的にどうか?心理学など専門的視点からどうか?を評価する力が自分にはなかったことも記事化に慎重であった理由のひとつです。

           この約半年の間、同著を賞賛する声を牧師や超教派の働き人から、御聞きしてきました。興味深いことに、その全員が30代の男性リーダーでありました。逆に、40代以降からはこの声を聞かなかったのです。ある団体の働き人は「これまで出会ってきた牧師全員に読んで欲しい」とその必要性を訴えておりました。多分、彼は働きの中で、多くの牧師に向き合うべき闇があるのを見ぬいており、なおかつその闇を自覚できず、それ故に克服に向かわず、課題放置状態となっている牧師も少なくないことを見抜いているのだと思います。

           きっと30代ですと先輩を客観視できる他者感覚もあり、自分にも他者にも批判的になれるのでしょう。リーダー経験の長くなるほど、ある意味での成熟と差し替えにそうした視点や能力を奪われるのかもしれません。私自身も、他者の闇を指摘するような批評的なブログを記していますが、自分の闇を放置し続けたいという誘惑は常にありました。これはリーダーならではの強い誘惑で、今でもそれは残っています。私の場合は、いつくもの幸いな出会いや機会があったので、放置せずに向き合えたし、一定、闇の力を軽減できただけなのだと思っています。

           リーダーの中でも教会の牧師は特に、そうした闇を自覚できなくなり、向き合う必要さえ感じないで、最終的には、逸脱に及びかねない歩みをしやすいと思うのです。特に成功者と評価される牧師は、誰からも叱られない対等に対話をしない、教会の交わりの外に自分を置きやすく、指導的立場ゆえに悔改めの機会がなくなるなどの傾向があり、闇を深めてしまいやすいように観察しています。

           私自身も含めて思うのですが、多くのリーダーたちは、自分の欠点は自覚できていても、「自らの内なる闇」には気づかぬまま、働きを継続し、その闇を深めてしまい、逸脱行為に及ぶ危険性を持っているようです。書評で川崎廣師が指摘しておられるようにここ20年はそうしたリーダー達の逸脱が多く伝えられてきました。日本では、まさに戦後活躍され、外面的にも成功者と思われる教会とミニストリーのリーダーたちの晩年における逸脱行為や不祥事が続発しています。罪やスキャンダルではなくても、リーダーとして実を結んだ人物の晩年の言動に、周囲や次世代が困惑し、教会や働きが重大なダメージを受ける事例は、悲しいほど多くお聞きします。

           教会やミニストリーのリーダーたちの逸脱した言動や不健全な人格に苦しめられている方には、同著が理解の助けになるかもしれません。私は、そのリーダーの成育歴や言動から、があると判断できる場合は、同著を推薦しています。「どうして、こうなるのか?」が理解できるからです。また、牧師や働き人や教会の役員など、リーダー当人には、献身的な歩みによって結んでこられた尊い結実を晩年に、自ら台無しにしないためにも、同著は必読書かな?と判断しています。

           今日はこの書物に言及しているネット上の情報をご紹介します。
          まずは、川崎廣師による書評です。同著の概要を実に的確に紹介し、その意義を示して下さっています。どんな本か知りたい方には最適でしょう。

          「いのちのことば」
          http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0003137

           藤掛先生は専門家の立場から、評価をしておられます。
          「おふぃすふじかけ」
          http://fujikake.jugem.jp/?eid=3447

          久保木先生も、読まれた感想や評価を記しておられます。
          「久保木先生のブログ記事」
          http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/64188931.html


           極めつけはこちらです。同著の出版は、松本雅弘先生の意向によるものです。訳者は先生の伴侶でもある松本徳子先生。その松本雅弘先生が、同著出版の意図や経緯、同著の意義を語っておられるインタビューがあります。中澤信幸先生がご自身のブログでそのような企画をされています。ぜひ、お聴きください。

          「BKSトークライブショー 松本雅弘牧師(高座教会)」
          http://nobu.bokushi.jp/2013/08/172003.php

          では、明日以降、何回かこの書物とそれが扱う課題について何回か記してみます。
          | ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 11:50 | - | - | - |
          自己弁護すれども、自己保身せず、使命貫徹すれども、地位に執着せず
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             牧師辞任や引退問題について、私なりの聖書的な基準と考えているのが、今日のタイトルであります。

            自己弁護すれども、自己保身せず、使命貫徹すれども、地位に執着せず」

             「すべてを神様に委ねて」というのが時に信仰者の美学とされるようですが、誤解や事実誤認に基づいて牧師が辞任に追いやられるというのは、明らかに御心ではないでしょう。ですから、牧師は自己保身からでない自己弁護をするのは、必要不可欠だと考えます。

             神よりの権威を委託されている牧師の進退を決める側、人事権を持つ側が、正しい判断材料を持つことが、御心でありましょう。その意味で、自己利益のためでなく、公の義が為されるために、自己弁護は必要不可欠と思うのです。

             残念ながら、キリスト教会では、時に「不都合な事実はなかったこととする」「片方の言い分だけしか聞かない」「先に決め付けて、事実を再解釈再構築する」「結局、で動く、利害で動く」などの現象が起こります。正しく事実に基づく自己弁護をしても、それで通用しないなら、相手側の責任です。
            (決して、泣き寝入りを勧めているのではありません。教会内に自浄作用がない時、事と場合によっては、司法の場に出してでも事実を確定し正しい対処をもとめることも聖書的な選択肢だとは思います。)

             後は自己保身をしないことかと思います。生活権が侵害され、不当な理由での辞任は、不条理極まりないのでしょうが、自己保身をしても仕方ありません。やましさなき堂々たる自己弁護は信仰者の証しです。しかし、自分かわいさの自己保身は証しに反するものを残すことでしょう。「神様は生きて働いておられる」との信仰があるなら、それは「自己弁護すれども、自己保身せず」との姿勢に現われるのでは?

             「神様が『せよ』とおっしゃる限りは」というのは聖書的正論でしょう。しかし、「神様が『そこまで』とおっしゃるまで」にならないのは、非聖書的だと私は思います。使命を委ねられている間は放棄せず、貫徹を目指します。しかし、「そこまで」と「任務終了」のお声がかかったら、もう、地位や身分にしがみついてはなりません。しかし、現実には使命感が肥大してしまうと、有効期限まで無視しかねません。それは、期限切れの商品を店頭に並べるようなことが教会で起こることを意味します。

             本物の献身とは、神様の召しに応答し、声に聞き従い続けることでしょう。だとしたら、「そこまで」の声を聞かず、聞いても従わずというのは、献身者にあるまじき姿勢だと思う私は薄情者なのでしょうか?使命委託終了を悟り、それ以降は地位と身分にしがみつかないのが、本物の献身者であり、人生の最期に、それができてこそ、初めて「献身生涯であった」と評価すべきかと思うのです。

             「自己弁護」と「自己保身
             
             「使命貫徹」と「地位への執着

             私は思います。
            前者は「公義」に、後者は「私欲」に基づくと。
            前者は「」で、後者は「」だと。
            そして、「前者は牧師が、教会の徳を建てること」で後者は「牧師が教会を苦しめ、弱め、歪めること」だと。

             その生涯、「転任」だけでなく「辞任」を経験する牧師は少なくありません。明確な定年制度がなければ、引退は、大きな葛藤やチャレンジでしょう。その時、それぞれの立場で、今日のタイトルの言葉が一助になればと願います。
            | ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:32 | - | - | - |
            宮本慎也選手に学ぶ「超二流牧師のススメ」
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             先日は、ヤクルトの宮本選手が2000本安打を達成。ここまでの活躍ができたのは、野村監督の指導あってのことと、当人も周囲も認めているようです。特に宮本選手の野球人生を変えたのは、この言葉だそうです。

             「超一流でなく、超二流になれ

             宮本選手は守備が評価されて入団された選手、決して、ドラフトの目玉と言われるような選手ではありませんでした。しかし、入団後のノムさんのアドバイスに従っての意識変化と努力によって、今回の偉業を達成したようです。

             「超二流選手」の名球会入り。私は日ハムの稲葉選手や中日の山本昌投手も「超二流の名球会選手」だと思います。彼らを上回る能力を持つ四番打者やエースら一流選手の多くは、名球会選手になることなく、現役を引退しています。競争に生き残り長く球界で活躍し、数字を重ねていけるのは「普通の一流」より、「超二流」なのでしょう。

             そこで、考えたこと、それは、

            牧師は一流でなく、超二流がいいのでは?」ということ。

             もちろんここでの「一流」「二流」という言葉は、神様の目からの評価ではありません。世俗的な業績主義や産業的発想からの評価として使っている言葉です。

             今どきの選手はいくら優れていても、かつての偉大な選手のようにはなれません。打者なら、王、長島、張本、野村、投手なら金田や稲尾のようにはなれないのです。そうした偉大な選手は、ある時代の産物だからです。現代は、イチローやダルビッシュになれば、超一流なのです。

             同じように、戦後のキリスト教会をリードされてきた大御所のようになることを、神様は今日の牧師に期待をされているでしょうか?野球のルールや本質は変りませんが、野球が大きく変化しているように、牧師の使命や本質は変らないでしょうが、あり方は大きく変化を強いられています。

             モーセの後継者であるヨシュアも、エリヤの後継者エリシャも、師と比較するなら、「超二流」と言えるのでは?ヨシュアとエリシャを超二流リーダーと評したら、聖書的反論も続出でしょうか?いずれにせよ、21世紀の牧師が、戦後のリーダーをモデルとして、機械的に超一流を目指すのはどうかと思います。
             
             また、すべての牧師がイチローやダルビッシュのような活躍をすることを、神様から期待されているとは私は思えません。しかし、多くの牧師に対して神様は、「宮本選手のように長く忠実に仕えて欲しい」と願っておられるのでは?と私は聖書的根拠もなく勝手に考えています。

             一世代で数百人規模の教会にした、優れた説教者として著名、神学面での優れた実績などが、世俗的な評価基準で言えば、一流と評価されるのでしょう。野球で言えば、イチロー、ダルビシュであります。しかし、ほとんどの牧師は神様からそうした期待をされていないし、そのような賜物も付与されていないのでは?と考えているのです。スタメン二番のつなぎ役、先発四番手や試合を作る中継ぎ投手を期待されていることも多いのでは?それは残念なことでしょうか?いいえ、そうした選手こそ、神様にとっては、なくてはならない戦力なのです。

             たとえば、都市部で50人程度、地方で数十人規模の教会で、自立した信徒を育て、着実で健全な教会形成と地域宣教を長年忠実に継続できたなら、どうでしょう?

             それは「人の目には超二流、神の目には超一流」ではないかと私は思うのです。

             「人に一流と評価され、成功者と見られることを願わず、神様が願うように仕えていく」

             それが伝道者として歩み出した献身であったはず。だとしたら、この世を後にして、再臨の主の前で、宮本選手や稲葉選手のように、表彰していただければ、それが本望のはず。

             世俗的な業績主義、産業的思考、成功者志向などが、教職者を本来の献身から逸脱させ、教会形成を不健全なものとしているとの指摘、見解をよく耳にします。教団や団体の中でも、そうした基準で教職者の力関係や心理的優劣が決まっているとの批判も多々お聞きします。

             決して縮み志向敗者の論理、安易な現状肯定、同業者内の慰労目的などで、この記事を書いているのではありません。献身者たる牧師が、長年の働きの中で、忘れてしまいがちなものを、私自身、宮本選手に対しての野村監督の言葉から、再確認させていただきました。余計なお世話でしょうが、お分かちさせていただきました。

            超一流でなく、超二流になれ

             これは今日の宮本選手を作り上げた決定的な言葉。

             そして、多くの牧師にとっては、本来の献身を想起させる言葉でもあるのでは?

             (信徒の方もご自分の使命や職業に当てはめてお読みいただければ感謝.また、所属教会の牧師に画一的に一流を要求されませんよう願います)
            | | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 13:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
            「万人祭司」ならぬ「万人リーダー」?の効用
            0
               またまた、愛読するブログからというか、そのブログが紹介するブログ記事から教えられました。
              それは謂わば、「万人祭司」ならぬ「万人リーダー」?の効用であります。

              ブログ「のらくら者の日記」より「リーダーシップを求める理由
              http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/

              なるほど、イテロのモーセに対する助言は単なる分業による効率化ではなかったのかも。

               ここで紹介されているブログ記事は以下のもの。
              chikirinの日記」より
              http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110927

               「全員がリーダーになるわけではない。全員の中から何名かのリーダーを育てれば成功」「教会の役割は次世代のリーダーを育てること」などと言われるのが日本の社会。でも、欧米社会では全員にリーダーシップを要求するのですね。「全員がリーダーになるわけではない現実は同様でも、どうしてそうなのか?」はブログ記事の通り。

               忠実なよいが成長して、後によきリーダーになるのは聖書的でしょう。同時に、特定分野や特定時期にリーダーを経験してこそ、リーダーを活かし、尊重し、全体に益するよき僕となるのでしょう。聖書的リーダーが「サーバントリーダー」であり、支配するためでなく仕えるための権威であることを考えるなら、リーダーと僕は、正反対のようで表裏一体。これも聖書的なのでしょう。

               教会でのリーダー研修や信徒訓練に活かせる内容ですね。

               本ブログも過去記事にはリーダーシップ論があります。以下の三つなどは、手前味噌ですが、参考になれば感謝。信徒教育や教会教育に少しは役立つでしょうし、リーダーシップで悩む牧師先生方にも、一助になるかも。

              日本的リーダー像>聖書的リーダー像(1)
              http://blog.chiisana.org/?eid=1263877

              日本的リーダー像>聖書的リーダー像(2)
              http://blog.chiisana.org/?eid=1263984

              日本的リーダー像>聖書的リーダー像(3)
               http://blog.chiisana.org/?eid=1263998


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              | | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
              KARA事務所契約解除事件から考える?牧師と信徒の関係
              0
                 この件はあまり詳しくないのですが、東方神起などの件を見ても、「奴隷労働」と批判されるほど、韓国におけるタレントの扱いや不当な契約は時に著しく人権感覚に欠けるもののようであります。KARAの契約解除も、金銭問題よりは「一方的」「人格否定」が理由らしいです。

                 あるテレビ番組ではこの件について 一人の女性タレントがこんな意見を訴えていました。

                 「事務所とタレントの関係はパートナーシップのはず、事務所がタレントを支配しようとするから問題になる」

                 なるほどと思います。しかし、同時にこれはタレント側からの正論や理想論に過ぎないのかもしれません。事務所側からすれば、タレントを芸能というビジネスにおける商品扱いするのか?一人の人格としてビジネスパートナーと考えるのかは大きな違いでありましょう。

                 事務所側としては莫大な金と人をかけて資本投資したのですから、売れたら、資本回収するのは当たり前でしょう。そういう発想一辺倒ですとタレントはまさに商品でしょうし、行き過ぎれば奴隷労働、搾取、人権侵害も起こりかねません。

                 逆にタレントを育ててチャンスを与えて優れた芸能活動をさせて人気者にすること、それ自体に大きな意味や喜び、使命感を持っており、なおかつ、それをビジネスとして成立させようとするなら、タレントはビジネスパートナーとなるでしょう。

                 そこで、考えてしまったのが、牧師と信徒のパートナーシップであります。読者の皆さんは「牧師と信徒はパートナーだ」と考えたことがあるでしょうか?いいえ、むしろ、牧師先生に同じ質問をしてみると面白そうですね。


                 聖書が示す牧師と信徒の関係はあえて選ぶとすれば、次のどれに近いでしょうね?

                ?主人と奴隷、親分と子分
                ?経営者と労働者 上司と部下
                ?教師と生徒 師匠と弟子
                ?監督と選手 コーチと選手
                ?政治家と有権者 村長と村人
                ?便利屋と顧客 サービス業と顧客
                ?族議員と圧力団体 雇われ店長と店のオーナー

                 一部、?のようだと泣いている信徒の方もいれば、?の状況で辞表を懐に、ストレスを溜めている牧師先生もいらっしゃることでしょう。?と?の状態の教会も少なくないのでは?

                 健全な牧師と信徒の関係にピッタリのものは一つもないでしょうが、それでも私なりにあえて、選ぶなら、?、?、?あたりでしょうか?牧師は教師ですから?でしょうが、もちろん牧師と信徒は相互に教え学ぶ関係でしょう。ですから、よい教師と生徒の関係に似ているように思うのです。?のコーチと選手も似ているのでは?「聖徒を整え奉仕の働きをさせる」のが牧師の役割の一つとすれば、選手を鍛えて、共にチームの勝利を目指す関係は、教会形成のためのパートナーシップに多少、似ているのでは??の場合は、人格関係の強い村長と村人は、近いのでは?善良な村長は村人の立場に立って村人の幸せの実現を願い、指導をします。サーバントリーダーであるはずの牧師も、信徒の立場にたち、その成長と祝福を願って、リーダーシップを行使します。

                 ???あたりの、「共によいクラス作り」、「共に強いチーム作り」、「共に幸せな村作り」などは、健全な教会における牧師と信徒の関係に近いのでは?そう考えますと、やはり、健全な牧師と信徒の関係には、「共に教会形成をするパートナー」という面があるのではないかと考えるわけです。

                 信徒が牧師をパートナーとして考えないと、自分は教会形成に参与しない牧師依存となります。
                主体的に聖書を読んで考えずに、牧師の言いなりとなるか、牧師に感情的反発を覚えるかの両極端に走ったり。
                 
                 牧師の側も信徒をパートナーとしての一面を否定するなら、信徒を思い通りに支配し、誘導し、キリストに代わって自らが教会の頭になったり、逆に、神の御心ではなく、信徒の要求実現やご機嫌伺いに走りかねません。

                 もちろんパートナーシップだけが信徒と牧師の関係のすべてではないでしょう。しかし、共に教会を建て上げるパートナーシップ、共に生き生きとした礼拝を作り上げるパートナーシップ、共に熱意をもって宣教を進めていくパートナーシップ。そうしたパートナーシップの関係性を認めない、教えられない、聖書に書いてあると考えない、あるいは知っていても、都合が悪いので採用しない、現実化できそうにないので目指そうとしないなどの態度が、教会に不健全さを生み出す要因の一つではないかと危惧してしまいます。

                 「事務所とタレントの関係はパートナーシップのはず、事務所がタレントを支配しようとするから問題になる」

                 この言葉の、「事務所」を「牧師」に、「タレント」を「信徒」に置き換えても、一定の真理を示しているように思えるのですが、どうでしょう?

                 逆に言えば「事務所とタレントの関係はパートナーシップのはず、タレントが事務所に依存するから問題になる」というのも一面の真理でありましょう。

                 どうも、牧師が疲弊して働きを退いてしまったり、信徒が疲れて教会生活を離れてしまう要因の一つは、日本の教会に見られる 「共に〇〇する」という牧師と信徒のパートナーシップ意識の欠如にあるのかもしれません。

                 読者の皆様におかれましては、KARAと芸能事務所の決裂のごとき悲劇を起こさないためにも、「牧師と信徒はパートナーか?」「聖書はそのように記しているのか?」を一度考えてみてはどうでしょう?
                | | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 08:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                牧師:信徒≠飼い主:飼い犬
                0
                    牧師の多くは、愛を注いできた信徒が、教会を去ることになり、別れ際に(事実か誤解かは別として)手厳しい批判をされたり、今までにないような罵詈雑言を浴びせられたりすることがあります。牧師夫妻や家族は、それで傷ついたりします。そうした時に、牧師がその心情や出来事を表現する時に使用される諺の一つは・・・。

                   「後足で砂をかける」というもの。

                   それは、犬や猫が自分の糞に後ろ足で砂をかける動作に由来する諺で、「お世話になった人のを忘れるばかりか、去る時にさらに迷惑をかけること」の意味。牧師と信徒のどちらに非が大きいかとは無関係に、その時の牧師の心情や牧師なりの出来事の解釈を示すときにこのたとえが用いられます。私は多分、数十人もの牧師から、この諺をお聞きしていると思います。

                   同様の状況の中で、別の諺が用いられることがあります。私自身はほんの数例だけ、牧師の発言として直接間接お聞きしたにこういうのがあります。

                   それは「飼い犬に手を噛まれる」という諺。

                   「後足で砂をかける」も「飼い犬に手を噛まれる」も共に、動物の飼い主に対しての忘恩と迷惑行動に由来し、ほぼ同じ意味のたとえであります。

                   しかし、私は前者の「後足で砂をかけられた」と発言する牧師には、是非の判断は保留しても、一定、その心情には同情や理解を示したいと思います。しかし、「飼い犬に手を噛まれる」というたとえを使用する牧師には、正直、疑いを感じてしまいます。(事実としてその比喩がピッタリの極端な事実があれば話しは別ですが)

                   どちらのことわざを使用するかで、牧師の意識はかなり異なると私は推察します。。

                   
                   前者は「自分なりに愛を注いだつもりだが、応答してもらえず悲しい」というニュアンスかと思います。それに対して後者は「こんなにも面倒を見てきたのに、恩を仇で返すのか?」というニュアンスかと思います。どうも後者の方が、より主観的で、上から目線で、自分の側の非を考える姿勢に欠けるのように思えるのですが、どうでしょう。そうした牧師の発想には「信徒が自分のような牧師を忍耐してくれて、支えてくれている」という意識がないのかもしれません。

                   前者は、犬の行動のたとえとは言え、「」が意識されていませんが、後者は、かなり「犬」が意識されているように思います。どこか「牧師が飼い主で信徒が飼い犬」というような発想があるとしたら心配です。「哀れな野良犬を拾ってやって、牧師の自分が飼い主になってやった」かのような意識があるとしたら、とんでもないことでしょう。ご自分だって神様に拾われ育てられた元野良犬なのですから。

                   そう、「牧師:信徒=飼い主:飼い犬」というような発想は、微塵たりとも、あってはならないと私は考えています。そのことは、牧師は当然のこと、信徒もでありましょう。「自分のような野良犬を拾ってくれて、愛し受け止め育ててくださった先生に一生ついて行きます!」、それは間違いです。拾ったのも育てたのも、イエス様ですから。牧師は種を蒔き、水をやりをしただけ、拾ったのも育てたのもイエス様。ですから従っていくのもイエス様。本当の恩人とその補助者を取り間違えてはなりません。牧師は補助者として、尊敬し、信頼しましょう。キリストに従う文脈で指導者に従いましょう。

                   もし、どうしてもたとえる必要があるなら、「牧師:信徒=牧者:羊」が聖書的正解でありましょう。
                  「犬」は聖書の文化では「蔑称」でもあるので、信徒を犬呼ばわりするのは、たとえ問題信徒であったとしても、(異端者でもない限り)聖書的に正しくないでしょう。

                   やはり、「犬」ではなく「羊」でしょう。冒頭のような事例があった場合、牧師はそれをどのように形容すべきでしょうか?ケースによるのでしょうが、「わがままな羊が群れから逃げてしまった」「一匹、群れを迷い出た」「逃亡した羊に蹴られた」という表現が適切な場合もあるでしょうし、「牧者側の力量不足です」とか「自分の牧会があの羊には適切でなかったようです」などの自己評価が正解の場合もあるでしょう。

                   どうか「飼い犬状態」や「飼い犬意識」になっている信徒の方は、この記事を、お読みになって意識改革を。聖書や信仰とは別の義理や人情中心で、教会につながり、ドッグフード並みの説教や教会教育にも忍耐し、鎖と首輪でつながれているかのようにキリストではなく牧師個人につながっているというのはどうでしょう?それはまさに飼育・ペット状態。しっかりキリストにつながって、まずはご自分が聖書を通じて、しっかりと栄養吸収し、自立に向けて成長愛し仕えあう関係を教会で形成していただきたいもの。

                   一方、牧師の側も「牧会」ならぬ「飼育」によって、飼い犬が、自分になつくかのように、教会をまとめていくような牧会手法もどうかと思うわけです。賢明な信徒は「一見、うまく行ってるように見えるけど、実はキリストの体ではなく、牧師のファンクラブ?支援会?組?」と疑問を持ちます。中には、牧師個人への義理人情が求心力となって形成された大規模教会、名づけて「101匹ワンちゃん大集合教会」もあるとかないとか?(牧師の愛を通じて神の愛を知り、それに応答している場合は健全なのでしょうが・・・)

                   というわけで「『飼い犬に手を噛まれた』という諺はどうよ?」と思う私です。信徒は牧師の飼い犬ではないし、牧師も信徒の飼い主ではないのです。まずは、当たり前のことを、確認したいです。
                  | | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                  エコも神の愛も3R
                  0
                     土曜日は名古屋は金城学院大学でのWATOTO公演へ。今年は実行委員長ではなく、一人のお客としてお気楽モードで楽しみ、そして考えさせられました。

                     WATOTOのポリシーは三つのRです。それは
                     
                     ”Rescue”(助け) ”Raise”(育て) ”Rebuild”(建て直す)

                     つまり、貧困、エイズ、内戦などで見捨てられた子ども救済し、ワトト村の家庭と学校で育てられ、訓練されます。子どもたちが新たな家族を得て、その人生は、再構築され、やがてウガンダ社会を建て直すリーダーとなって送り出されていくのです。この3Rはまさに神の愛の働きだと思うわけです。

                     エコは"Reduce", "Reuse", "Recycle"の3R。
                    そして神の愛は"Rescue","Raise","Rebuild"の3R。

                     神の愛は一人子を犠牲にしてまでも、私たちは滅び行く罪の世からRescueして下さいました。その愛は私たちの成長を願い私たちをRaiseします。そして、神なき土台、間違った価値観の上に築き上げてきた生活やライフスタイルを"Rebuild"し、祝福の人生を歩ませてくださいます。

                     神様は私たちをあるがままで愛してRescueして下さいました。同時にその愛は愛する者の成長を願い実現します。ですから「あるがままで」愛された者は、その愛によってあるがままではいられません。Raiseされることがみこころです。それを通じて、救われた者の土台(価値観、生活習慣)は、取り替えられ、新たな人生がRebuildされていくのであります。

                     「あるがままで愛された、だからずっとこのままでよい」というのは聖書的には正しくないと私は思います。少なくともその信仰姿勢は神様の御心ではありません。確かに「あるがままで愛された。今のままでも神様ずっと愛して下さる」というのは事実でしょう。

                     しかし、聖書が示す神様の御心は、明らかに教えられ、訓練されての価値転換、生活転換であります。大宣教命令は「バプテスマを授け」→「教えなさい」であります。Rescue→Raiseなのです。さらにローマ12:2などは「心の一新によって自分を変えなさい」と明確な自己変革を命じています。

                     「あるがままで愛されている、このままでも愛してもらえる」は「愛されたがりクリスチャン」や「自己愛性クリスチャン」には都合のよい真理でありましょう。しかし、「神を愛し、隣人を愛せよ」とのみ言葉に従う事を願う、「正統派クリスチャン」、「神愛・他者愛性クリスチャン」は、自らが教えられ、訓練され、御心に適う人格と実生活へと変えられるを願うわけです。

                     「あるがままで愛されている、このままでも愛してもらえるから成長も自己変革もお断り」という信仰姿勢は実は、恐ろしいまでの自己矛盾ではないでしょうか?それは「"Rescue”の愛は欲しいけど、"Raise”と”Rebuild”の愛は要りません」というようなもの。つまり、より深い愛、より発展的な愛、これから注がれるはずの神の愛を拒否していることになるのでは?育児にたとえれば、「一生、授乳とオムツ替えの愛だけで結構です。立てば歩めの親心などお断りです。ましてや神の子らしく成人になり自立させようなどという愛などまっぴらごめんです。」と宣言しているようなもの。

                     そうです。愛されたがりのクリスチャンの問題は、「愛せよ」との命令に従わず、豊かな愛に満ちた人生を生きられないことだけではないのです。私は、愛されたがりクリスチャンの本当の問題は「愛されたい」と願いながら「深く愛されることを拒否していること」だと思います。愛する者を成長させ、その人格と生活を造り変え祝福しようと願う神の愛を自ら拒否していることなのです。

                     つまり「ありのままで愛されているからこのままでよい」とは皮肉にも「愛されたがりクリスチャンによる愛されない側の選択」となっているのだと私は考えます。

                     ”Rescue”(助け) ”Raise”(育て) ”Rebuild”(建て直す) この三つの”R”、まさにそれは、神の愛の具現化であります。クリスチャンの成長、教会の働き、牧師教師の使命でもあるでしょう。

                     これは逆転の発想なのでしょう。この三つの”R”は、「愛されたがりクリスチャン」や「自己愛性クリスチャン」にとって、さらに深く、豊かに愛されていく世界を展望させるものではないでしょうか?

                     この拙い記事が愛されたがりや自己愛性クリスチャン克服のヒントや一助になれば感謝です。
                    | | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
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