命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
育てよう健全信徒(38)〜専守防衛クリスチャン
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     集団的自衛権などが問題となっている昨今ですが、昔からキリスト教会には「専守防衛クリスチャン」たちが存在しております。それは、他者の攻撃や傷つくことから、自らを守ることを主眼として生活を送るクリスチャンです。

     イエス様は「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)とおっしゃいましたが、専守防衛クリスチャンにはそうした「聖なる攻撃性」はありません。「自己防衛」こそが、信仰生活の最優先課題なのです。


     専守防衛クリスチャンの体質は、説教の受け止めや応答に如実に現されます。礼拝メッセージを聞いても、決して、み言葉に刺されたり、問われたりして、自らが傷つくことがないようにと、それを最優先で説教を聞くのです。おのずと、説教に対して、第三者的、評論家的立場で聴くようになります。まるで、説教者が、会衆に語っているのを、観客席から見物しているかのような姿勢なのです。

     当然、その受け止め方は、客観的で、応答も評論家的です。「今日の説教はよかった、わるかった」と、まず「評価」を下します。「この解釈はどうか?」「このことはどうなるのか?」と説教者の問い掛けやアピールへの応答を見事にスルーして、説教テキストへの「お勉強的アプローチ」を始めます。


     「専守防衛クリスチャン」は、決して「私のために神様が語られた」「心が刺された」「自分のあり方が問われた」「悔い改めます」とは言いません。自分を守ることが主眼ですから、み言葉に動かされることはありません。み言葉が正しく愛をもってて説きあかされても、自分は一ミリも動かされません。自分を固定して、逆に、み言葉や説教者や教会を動かそうとさえします。

     聖書の言葉も、神様からの人格的な語り掛けとしては受け止めません。神様からの人格的な語り掛けとして受け止めてしまうと、受け止めきれない自分のプライドが傷ついてしまうからです。語り掛けられた基準に生きていない自分が明らかにされてみじめな思いをするからです。応答責任を果たすのがストレスとなってしまうからです。ですから、自分防衛のために、聖書の言葉を自らへの語り掛けとしてではなく、客観的情報として処理していくのです。

     そうです。「語り掛け」でなく「情報」として受け止めて、「人格的応答」でなく「機械的処理」をするのです。それによって、自分のクリスチャンとしてのプライドを守ります。確立してしまった独りよがり信仰スタイルを守ります。他者の批判からも自分を守るのです。

     女性に比べて男性の方が客観性もプライドも高いからでしょう。私の経験では、「専守防衛クリスチャン」は、圧倒的に男性が多いです。と言いますか、男性牧師である私自身が、ともすれば、この手の落とし穴にはまりやすいように感じています。恥ずかしながら、自分が、説教者の立場ですと、「専守防衛クリスチャン」に、むかついたり、がっかりしたりのトホホぶりですそのくせ、自分が聴衆ですと、自己防衛心理が生じて、「専守防衛クリスチャン」に傾いていく自分を見つけて、悔い改めることもあるというスーパートホホぶりであります。


     私たち罪人は誰でも、神様の語り掛けに対して心をかたくなにして、自己防衛的となりやすいものです。それだけなら、「専守防衛クリスチャン」ではないというのが、私なりの定義です。自己防衛的なのは、残念ですが、罪人の普遍的性質なのでしょう。選手防衛クリスチャンの問題は、自己防衛的であることではなく、自己防衛を最優先していることにあるのです。そのために、神様からの「語り掛け」を「情報提供」に、神様への「人格的応答」を「機械的処理」に置き換えてしまっていることに、問題があると思うのですがどうでしょう?この置き換えを無意識にしているかどうか?が、選手防衛クリスチャンか否かの境目のように考えるのです。


     防衛問題の方はさておき、信仰生活においては、「専守防衛」は卒業していただきたいものです。そうした信仰姿勢は、語り掛け給う神様にしてみれば「おい、無視かよ!」に近いように思うのです。み言葉を「語り掛け」として受け止め「人格的応答」をする交わりこそ、「み言葉による礼拝」でありましょう。そう考えますと、「専守防衛クリスチャン」は礼拝をささげながらも、礼拝を失っているのかもしれません。

     私たちの自己防衛が、他者との人格関係を乏しいものとするだけでなく、神様との交わりを破壊しかねないものであることを深く覚えたいものです。
    | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 20:14 | - | - | - |
    育てよう健全信徒(37)〜フェルトニーズ一直線クリスチャン
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       キリスト教会では、よく「フェルトニーズ」と「リアルニーズ」で、物事が区別されたり、整理されたりすることが多いです。フェルトニーズは"Felt Needs"でありまして、「その人自身が感じている必要」です。リアルニーズは"Real Needs"で「その人にとっての本当の必要」です。特にクリスチャンにとっては、「神様がその人に必要だと判断している本当の必要」と言えるでしょう。

       両者が同じならいいのですが、そうでないことも多くあります。たとえば、アルコール依存症の方のフェルトニーズはお酒ですが、リアルニーズはアルコール依存症の治療です。ある既婚者のフェルトニーズは「結婚相手が変わること」ですが、リアルニーズは「自分が変わること」だったりします。あるクリスチャンのフェルトニーズは、「もっと神様に祝福されること」でしょうが、神様が願うリアルニーズは「自らを省みて、罪を認めて、悔い改めること」というケースも。

       もう、お分かりでしょう。フェルトニーズとリアルニーズが異なるなる場合、当人は間違ったもので必要を満たしますから、その努力は問題解決やその人の成長や祝福につながらず終わってしまいます。あるいは、誰かが、愛をもってその人の訴える必要を満たしても、その人の問題は解決せず、成長もしなかえれば、祝福されることもありません。リアルニーズを見過ごして、フェルトニーズを満たそうとするなら、結局うまくいかず、当人の労は他者批判に、周囲の者の愛は徒労感に行きつきます。これはクリスチャンの成長問題、牧会、交わりなどでよくあることでしょう。


       そこで、今回取り上げますのは、「フェルトニーズ一直線クリスチャン」です。イエス様は、「狭き門」から入り、「狭き道」を歩み、「いのち」に至るようにと勧られめましたが、このタイプのクリスチャンは、「フェルトニーズの門」から入り、「フェルトニーズの道」を歩き、クリスチャン本来の「豊かないのちに至る」ことなく、信仰生活を歩んでいるクリスチャンのこと。

       フェルトニーズ一直線クリスチャンは、信仰決心や洗礼などの「入門時」の時点で、そもそもフェルトニーズ一直線であります。信仰生活に、「フェルトニーズの門」から入るのですから。異論はあるでしょうが、私は「リアルニーズの門」から入るのが、健全なクリスチャンだと思います。

       神様や真理や救いを求める最初の動機は、多くの場合は、フェルトニーズが中心でしょう。求道の動機は、大抵、フェルトニーズかと思うのです。幸福、平安、満足感、問題の解決などを求めることが動機でしょう。人間疎外的な現代社会では、「あるがままで愛されたい」「自分の価値を実感したい」などが、大きな動機になってきています。これらがすべてリアルニーズではないとは言いませんし、リアルニーズに転じていく大切な必要感でもあります。しかし、これらは、基本的に自分の側が感じているフェルトニーズです。


       一方、健全なクリスチャンは、求道中にニーズの移行が生じます。フェルトニーズが生じたり、それが満たされない原因自分の罪にあると分かるからです。そして、「罪を赦されて、救われること」がリアルニーズだと悟り、罪を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れます。そうして、健全なクリスチャンは「リアルニーズの門」から入るのです。

       一方、「フェルトニーズ一直線クリスチャン」は、「あるがままで愛されたい」「自分の価値を実感したい」などの「自己感情の満たし」や「自己価値確認欲求」が中心のままで求道生活を継続します。そして、聖書が示す十字架の愛や教会で語られる神の愛は、そのフェルトニーズを満たします。自分の人生の中で、また、この世で初めて、自分の本源的なフェルトーズが満たされるのですから、それは大感激です。その結果、これからも、フェルトニーズが満たされ続けていくことを願って、信仰決心をして、洗礼を受けます。

       こうしたプロセスで、クリスチャンとなる場合、洗礼後も、フェルトニーズ中心で、信仰生活を送りやすくなる傾向は否めないように思います。あくまで傾向です。そうした傾向となるのは、ニーズが移行する最初のチャンスを逃しているからです。好意的に解釈すれば、洗礼後にそのチャンスを期待して、多少見切り発車であっても、神様がフォローしてくださると信仰的判断がなされるからです。


       教会が「フェルトニーズの門」からの信仰生活入門を許可すれば、「クリスチャンになるためのハードル」は低くなり、クリスチャンの大量生産?は可能となるかもしれません。しかし、それに伴う「フェルトニーズ一直線クリスチャン」の大量発生もリスクとして覚悟しなくてはならないでしょう。

       もちろん、洗礼後に、罪の認識が深まり、リアルニーズへと移行してゆけばいいでしょう。実際に「愛されていると分かったから」「自分の価値を実感できたから」でスタートして、成熟に向かうクリスチャンは今日、多く存在します。そして、その多くは、愛に満ちた指導者や親、優れた教会教育、幸いな教会の交わり、熱心なとりなしの祈りなどの支えが背景にあってのことでしょう。洗礼後に、ニーズの移行を期待するなら、そうした要素が当人の家族や周囲、あるいは教会にあることが条件かと私は考えています。

       洗礼後もニーズの移行を拒み、自己感情満足と自己価値確認を中心にいきるクリスチャンが、教会外でみ言葉に生き、キリストを証し、教会を建て上げ、神の栄光を現していくことは、到底、期待できません。「フェルトニーズの道」は、豊かないのちに至ることはなく、聖霊の実も救霊の実も結ぶことはないでしょう。

        なぜなら、そうしたクリスチャンの目的は、自分の感じている必要を満たすことだからです。本ブログでも取り上げてきた「自己実現系クリスチャン」や「あるがまま止まりの福音理解」などはその典型です。「フェルトニーズ一直線クリスチャン」に期待できるのは、せいぜい「礼拝出席、奉仕、献金」という「教会組織の維持への協力」くらいでしょう。


       十字架は私たちに「あなたは、ありのままで愛されている」と伝え、「あなたには絶大な価値がある」と教えます。しかし、それらは「十字架が結果的にもたらす私たちへの恵み」であって、「十字架本来の意味・目的」ではないでしょう。十字架の意味目的とは極度に単純化するなら、「罪を赦し、永遠のいのちを与える代償的死」かと思うのです。それが「救い派的」なら、「神の創造の意図に従って生きることための代償的手段」などと言い換えてもいいでしょう。

       そう考えますと、「結果的にもたらされる恵み」が「本来の意味、目的」に優先してしまうのは、どうかと思うわけです。たとえば、求道者が「十字架の意味が分かりました。それは私のため」と言ったとしましょう。しかし、「私のため」の意味が「私の罪の赦しのため」でなく「私が愛され、自己価値を見出すため」というケースは、昨今少なくないように感じています。

       そして、それは、本末転倒のように思うのですがどうでしょう?さらに、そのような信仰生活のスタートが、生涯をフェルトニーズの充足のための信仰に費やすクリスチャンを生み出しているとしたら、心配です。


       「フェルトニーズの門」から入り、「フェルトニーズの道」を歩き、クリスチャン本来の「豊かないのちに至る」ことなく、信仰生活を歩んでいるクリスチャンたち。もしかしたら、今日のキリスト教会にとって深刻な課題の一つは「フェルトニーズ一直線クリスチャン」なのかもしれません。もし、そうであれば、その一因は、求道過程のあり方や洗礼時の判断基準にあると言えそうです。


       求道過程におけるフェルトニーズからリアルニーズへの移行の重要性

       「フェルトニーズの門」からの信仰生活入門を許可することの是非、

       「自己感情の満たし」や「自己価値確認欲求」中心の求道者に洗礼を授けることの可否、


       これらは、従来の日本の宣教や教会形成を省みながら、検討すべきことなのかもしれません。
      | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 21:04 | - | - | - |
      育てよう健全牧師(59)目黒牧師と目白牧師
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         今回、論じますのは「目黒牧師」と「目白牧師」。この二人は、何も、この地名に住んでいる牧師ではありません。同名の山手線駅を愛する鉄道マニアでもありません。東京都内に限らず、全国各地にこの二種類の牧師は散在し、その生存とご活躍が確認されております。

         では、この二種類の牧師とは、どのような牧師でしょうか?「目黒牧師」とは、ご自分の「目の黒いうち」が、すべてであるかのように働かれる牧師であります。それに対して「目白牧師」は、「目の黒いうち」を超えて、「目が白くなってから」も展望して、今の働きを積み上げてゆく牧師です。つまり、ご自分の転任や引退どころか、死後までを展望して、働いている牧師のことです。


         現時点で、プロテスタント日本宣教150年を超えておりますが、福音派や聖霊派の団体は長くて、60、70年程度の歴史でしょう。創設者から次世代へ、外国人宣教師から日本人牧師に、責任が移行されて間もない教会も、少なくないようです。戦後の外国人宣教師や創始者の尊い働きによって、宣教が開始され、継続されてきました。たとえ、今は、数においては小さくとも、これから、深められ、広げられていけばいいのです。

         そのためには牧師などリーダーのスムーズで発展的な世代交代が必須でしょう。地域宣教や教会形成は、50年から100年長期展望で考えなくてはならない面は絶対にあると思うのです。そのためには、「目の黒いうち期間限定」で、宣教や教会形成を考えてはならないでしょう。

         目黒牧師のあり方は、ともすれば「一代限りの栄枯盛衰」で教会を終わらせかねません。さらには、「二代目は一からやり直し」あるいは「二代目はマイナスからのスタート」となり、次世代の教会形成に悪影響を与えます。自分の存命中の結実を目指しながら、次世代での結実継続を考えないあり方は、千年は一日のようである神様の目には、どう映るでしょうか?

         それに対して目白牧師は自分の目の黒いうちは、大きな実りを見ることができなくても、死後に次の世代が大きな実を結ぶことをねがって、存命中に働きを積み上げていくのです。牧師ではなく、キリストを土台に据えて、しっかりとキリストに根差した信徒を育てるのです。豊かな実を結びうる土壌を作り、苗を成長させ、その後の開花や結実は、次の世代に期待するわけです。

         そもそも、自分が目に見える実りを得て、他者から賞賛を受けることは願わず、天において神様からご評価をいただくことを思いながら、地上の生涯を歩むのが、献身者のあるべき姿でしょう。天での報いの約束を信頼し、地上限定の結実をすべてであるかのように思うことなく、地上での報いに執着すべきでないことを聖書から、語っておられるのですから、語ったように、語った者が歩まれるべきだと思うのですが、どうでしょう?残念ながら、語ったように歩まれないのが、目黒牧師で、そのあるべき姿を貫き、語ったように歩まれるのが、目白牧師のように思うのです。

         
        以前「引退牧師、残すべきものと残してはならぬもの」という記事を記しました。
        http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3577

         今回は、それをアレンジして、目黒牧師と目白牧師に当てはめてみました。

        目黒牧師が残すのは、引退後に信徒が維持費で苦労する目に見える教会の会堂
        目白牧師が残すのは、揺るぎなく建て上げられた目に見えぬ教会

        目黒牧師が残すのは、極一部だけが整えられた大会衆
        目白牧師が残すのは、満遍なく主の前に整えられた信徒たち。

        目黒牧師が残すのは、牧師依存体質のイエスマンばかりの役員会
        目白牧師が残すのは、聖書に立ち主体的判断可能な成熟した役員会

        目黒牧師が残すのは、後継者候補の屍
        目白牧師が残すのは、自らが育てた後継者

        目黒牧師が残すのは、私訳聖書、優れた神学論文あるいは立派な施設など目に見えるメモリアル
        目白牧師が残すのは、目には見えぬ後継育成というメモリアル。

        目黒牧師が残すのは、生涯現役を貫いた武勇伝
        目白牧師が残すのは、適切な時期に後継を果たした模範事例

        目黒牧師が残すのは、自らの存命中に成し遂げた業と名声という実り
        目白牧師が残すのは、次世代での実りを願って自らを地中に埋葬する「一粒の麦」としての生き様


         古典落語の「目黒のさんま」のオチをご存知でしょうか?殿様への配慮で、油を落とし、骨を抜かれたさんまを食した殿様は、そのさんまが日本橋で求めてきたものと知り、言います。

         「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。

         二千年の間、世界宣教と教会形成を導き、見守ってこられた神様は、目黒牧師たちの存在をご覧になり、きっとこうおっしゃるでしょう。

        「ううむ。それはいかん。牧師は目白に限る」。

         お後がよろしい?ようで・・・・。
        | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 06:21 | - | - | - |
        育てよう健全牧師(58)May.J牧師
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           このシリーズも58回目となりました。今回は、「南国のブログ王子」である久保木牧師が期待をしておられたと知って、数日考えて、思いつたことを記します。

           まずは、久保木牧師のブログ記事をお読みください。

          「May J牧師??」
          http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/64677702.html

           我が家でも「アナ雪」を鑑賞した妻と娘に聞けば、二人とも、松たか子への評価は高く、May.Jへの評価はかなり厳しいものでした。音楽的にもこの記事の通りのようです。妻も「音を外して多少不正確でも、心に届く松たか子の歌唱に対して、May.Jは正確だが、つまらない」というもの。

           久保木牧師の指摘のように、私も、松たか子が、登場人物の声優である故に、また、優れた女優であるが故に楽曲の再現を超える感情移入やほとばしる思いが歌に込められているのだろうと思います。それに対して、May.Jは歌唱力は高いが表現力に欠ける歌手だと思うのです。

           譜面に記された楽曲をほぼ完璧に再現しているのですが、歌い手の自己表現がなされていないように感じます。「優れた歌唱力ともう一つの表現力」「ほぼ完ぺきな再現だが、不満を感じさせる表現」「表現のために正確さと形を犠牲にできない表現者」、May.Jのファンには申し訳ないのですが、それが私なりの評価です。

           
           さて、そこで、May.J牧師です。基本的に音楽は表現で、説教は伝達だと私は考えています。「説教はみことばの取り次ぎであるべき」というのが、私の説教観です。説教行為には、表現芸術に共通する要素はあるでしょうが、間違っても説教は説教者の自己表現であってはならないと考えています。

           しかし、だからといって、研究者が研究対象を扱うように、第三者として、聖書のテキストを扱い、そこに込められている情報を正確に伝達するだけとなれば、多分、May.J牧師になりかねません。松たか子がそうであるように、自らがテキストの登場人物になり、書簡の受け取り手となり、テキストの中から、みずみずしい恵みを、いきいきと取り次ぐなら、それは、会衆の心に届くものとなるのでしょう。

           少なくとも、第二者?として、神様の語り掛けを受け、それに応答し、み言葉に従い、生きようとする中で、説教が作られなければ、説教は「聖書研究発表」や「聖書解説」になりかねないのでは?「取り次ぎ=第三者的伝達行為」ではないと思うのです。

           正しく取り次ぐとは、言葉持つ深いの意味やテキストが語っている内容を正確に伝達することだけではないでしょう。それを語り掛ける神様の御思いや深い感情をも伝えることだろうと思っています。つまり、説教は情報交流ではなく、感情交流の面もあり、全体として人格交流だと考えるわけです。そして、優れた説教者は、正確な意味と内容と共にテキストの込められている深い御思いを読みとなるのだろうと予想します。自分はそのレベルの説教者でないので、予想になってしまうのが情けないのですが。

           そもそも、礼拝自体が、神とその民との人格的交わりなわけです。礼拝説教の場合は、その現場で神から民への語り掛けを取り次ぐのですから、説教行為は、人格交流でありましょう。説教者と会衆との人格交流の面はありますが、説教者があくまで通訳であろうとするなら、最終的には、説教は神と民の人格交流になるのだと私は考えています。

           また、そうなることが、説教の成功を意味すると思っています。礼拝という神と民の交わりの中での説教は、神の語り掛けに民が応答することによって成功と言えるのだろうと考えるのです。逆に言えば、神と民との人格交流となるために、言葉や意味の誤解があってはいけないので、言葉の正確な意味確定やテキストに込められたメッセージの正しい読み取りが必要となるのでしょう。正確かつ優れた説教というのは、そのレベルなのだろうと想像します。

           いかに正しい取り次ぎがなされていても、語り掛けられる神様の人格や情緒を排除した情報伝達や思想伝達に終始していたら、説教は神と民との交わりでなくなってしまうのでは?

           つまり、皮肉にも、礼拝の中で、説教中の時間において、礼拝が礼拝でなくなってしまうわけです。特に、どんなに正確な解き明かしであっても、会衆が理解できない専門用語連発で、テキストからの分析的な思想伝達がなされてしまうと、会衆は受け止めることも応答もできず、まさに礼拝の中で、神と民との交わりが説教者によって遮断されてしまうことになるのでは?神と民の交わりを遮断する説教というのはどうかと思うのです。特に、礼拝説教は、どこまでも礼拝の一部であることを、忘れてはならないでしょう。

           これは歌唱力(楽譜再現能力)は高いが、心に届かないと評価されるMay.Jと、確かによく似ています。テキストの解き明かしとしては完璧だが、人格的存在としての神の語り掛けとならないので、会衆の心に届かないということです。テキストが本来持っているはず、あるいはもたらずはずのみずみずしく生き生きとした感動や背後にある神様の人格性が、人格としての会衆に届かないわけです。他にも、説教者と会衆の意識や関心の際、生活実感の違いなども、説教者をMay.J状態にしかねません。

           当然ながら正確さは必要です。というかある程度の正しさは大前提でしょう。神と民との正常な人格的交わりのためには、言葉の誤解があってはなりません。説教が取り次ぎであるなら、正確さは必須です。しかし、正確さ自体の追求が人格交流を妨げてしまっては、本末転倒でしょう。

           優れた説教能力があるほど、正確さの追求が自己目的化してしまい、会衆理解の努力を忘れ、「説教者の自己評価は高いが、会衆の心に届かない説教」になってしまうのかな?と想像するわけです。聖書原語に詳しく優れた説教力を持ちながら、会衆からMay.J牧師と評価されることがあるとすれば、こうしたことがその一因なのでしょうか?

           正確さにおいてはかなり怪しい説教者である私なので、正確さを追求する説教者については、その程度の想像しか及びません。邪推であったら失礼をお赦し下さい。はてさて、久保木牧師の期待に沿えたかどうか・・・。
          | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 16:21 | - | - | - |
          パウロとテモテの関係に学ぶ「潰さないつもりで迎えて下さい」
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             今日は、昨日の記事のフォローとして予定していた記事をアップします。昨日は若い教職者という遣わされる側への「潰れるつもりで来てください」でしたが、今日は受け止める側への「潰さないつもりで迎えて下さい」というアピールです。

             胃も弱ければ、気も弱く、信徒とうまくいかなかったのか?純粋な信仰を持ちながらも、賜物をくすぶらせていた若く未熟さも目立ったテモテ。そのテモテが潰れることなく、賜物を再度燃え立たせ、後に、パウロの一番弟子のようになった転機の一つは、第2テモテ1:3−8が記すパウロの励ましにあると私は想像しています。理解の助けになるように、新改訳第三版で本文を引用しておきます。

            3.私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
            4.私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。
            5.私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
            6.それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください
            7.神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
            8.ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。


             石打ちにあっても立ち上がって伝道旅行を継続するパウロは、無理やりたとえるなら、「昭和ど根性系伝道者」で、純粋ながら、臆病で今や賜物をくすぶらせているテモテは「平成ヘタレ系伝道者」に相当すると思うのです。パウロは、自分の基準からすれば、随分テモテが弱々しく見えたことでしょう。真理からそれていると判断すれば、先輩格のペテロもバルナバにも遠慮のなかったパウロですが、後輩格の弱さや未熟さについては、大変寛容であったことが分かります。この姿勢は、見習いたいものです。このところで、パウロのテモテへの言葉には、五つのことがあるように観察します。

            (1)感謝と愛での開始
             3,4節では、祈りの中でテモテの存在を感謝し、会って喜びたいとを伝えて、注意を開始しています。

            (2)先行する長所の指摘
             5節において、課題や欠点を示すより先に、テモテの長所である信仰の純粋さを示し、それを次の課題指摘につなげている。

            (3)お願いモードでの注意
             6節では、パウロは長所があるからこそ、期待して、注意するのだと宣言します。しかし、その注意の言葉は、否定やダメ出しでなく、「お願い」でした。大伝道者からお願いされたら、テモテはどう受け止めるでしょう?

            (4)課題克服の指針の提示
             7節では、課題指摘にとどまらず、課題克服のための指針をとして、臆病な自分ではなく、愛と力と慎みの霊である聖霊に信頼するように勧めています。

            (5)大きな期待の伝達
             最後に8節では、臆病なテモテに恥じることなく大胆であるように勧めるばかりか、大伝道者パウロと福音の苦しみを共有するまでの成長を期待します。大伝道者に「福音の苦しみを共に」と期待されたテモテの心中はいかに?


             以上をまとめるなら、パウロのテモテへのアプローチはこうなるでしょう。
             
            感謝と愛を示し→先に長所を指摘した上で、→お願いモードで注意。→それだけでなく克服の指針を示し、→最後に大きな期待を伝えて励ます。」

             これが臆病で、賜物くすぶらせ、潰れかけのテモテを、一線で用いられる伝道者へとV字回復させたパウロの言葉です。これは、今で言えば、「潰れかけの平成ヘタレ系伝道者を活かす言葉」に相当するでしょう。


             残念ながら、それとは正反対のアプローチがあります。それは・・・

            (1)感謝と愛でなく、失望と責めで始まります。

            (2)長所の指摘よりも欠点の指摘が先行します。

            (3)「お願いモード」ではなく、「否定・ダメ出し」による注意です。

            (4)課題克服のための霊的指針を示さず、「信仰」や「がんばり」との名目の「根性論」「精神論」に終始します。

            (5)最後に、期待を伝えて励ますのでなく、失望を伝えて意気消沈させます。


             これら五つのことを第二テモテ1:3−8と対比して、例文にするならこうなるでしょう。

             「私は祈りの中で、あなたを思い起こしては、がっかりしている。先輩伝道者として本当に情けない。いったい、信仰があるのか?賜物をくすぶらせてどうするんだ?そんな臆病じゃ、伝道者失格だぞ。純粋な信仰なんか、何の役にも立たないだろう。伝道者に召されているなら、信仰持って、がんばらないでどうする?本当にがっかりだよ。福音の苦しみを先輩牧師と共にしてこそ、一人前の伝道者今のままじゃ、とても、福音の苦しみを私と共にすることはないだろうよ。」


             うわー、「キツイわ」、「上から目線だわ」、「一方的だわ」の三重苦!この言葉をパウロが手紙に書いていたら、きっとテモテは潰れていたでしょう。


             きっと、私自身も含めて、すべてのベテランクリスチャンはこの第二テモテ4:3−8の前に自らが問われるのでしょう。

             クリスチャンとして、先輩教職としてお互いは、若く未熟さを持つ伝道者に対して、パウロのように接してきただろうか?それとも正反対の接し方をしてきたろうか?潰れかけていた伝道者を活かしてきただろうか?それとも、自覚もないままに、若く未熟な伝道者を潰すような接し方をしてこなかったか?場合によっては、潰れかけの伝道者にとどめを刺すかのような言葉を発してこなかったか?と。

             また、伝道者だけではありません。一先輩クリスチャンとして教会内の青年や学生、子どもたちに、クリスチャンホームの親として、子どもたちにどう接してきたでしょう?弱く未熟なのが当然の者たちを、パウロのように理解し、受け止め、活かしてきたでしょうか?それとも、成長の度合いも考慮せず、過剰な要求を突きつけ、それができなければダメ出しをして、潰すようなことはしてこなかったでしょうか?「聖書的正論」や「あなたのため」という名目で、将来ある者たちを潰すようなことはなかったでしょうか?

             正直に言えば、私には悔い改めるべきこと山ほどあります。教職や神学生に対しての自覚はないのですが、若くて未熟に思えた信徒については身に覚えがあり過ぎです。特に30代の頃はひどかったと思います。神様の前に悔い改めることはできても、もはや償うことも、取り返すこともできない事例が頭をよぎります。「主よ、私はこれまで何人ものテモテを潰してきたと思えてなりません。」と罪を言い表さざるを得ないのです。

             深刻な教職者不足や教会の少子高齢化については、若い世代当人教会全体にも、責任や原因はあるでしょう。しかし、その責任や原因を論ずる前に、、自分がテモテを活かしたパウロのようであったか?それともテモテのような人物を潰しかねない言動をしてきたかを自問し、思い当たるなら悔い改める必要があるでしょう。

             その悔い改めもないままで、先輩クリスチャンたちが、教職者不足少子高齢化信仰継承破たんを、嘆き、他者批判するなど、神様の目の前には愚の骨頂だと思うのです。教会が抱えるそれらの課題の被害者のように自分を位置づけるだけで、加害者である自らを省み、悔い改めることを拒み続けるなら、神様の恵みは日本の教会を去りかねないだろうと私は本気で危惧をしています。

             本当に危機的なことは、「何人ものテモテを潰してきたその罪」ではなく、「その罪を考えようともしない無自覚さと高慢さ」「その罪を認めず悔い改めを拒否する頑なさ」でありましょう。「罪を犯すから滅びるのではなく、その罪を悔い改めないから滅びに向かうのだ」と後進に語る先輩たちこそが、その語った言葉に生きる責任があるはずです。


             お互いは、たとえ若きテモテが、「潰れるつもりで来ていた」としても、「絶対に潰さないつもりで迎える」のパウロでありたいと願うのです。神様が教会やクリスチャンホームに委ねて下さっているテモテを活かすも潰すも、指導者、親、そして先輩クリスチャン次第となる傾向は否めません。

             教職であれ、信徒であれ、CS生徒であれ、我が子であれ、若く未熟なクリスチャンを嘆き、その課題を論じるより前に、パウロのテモテへの言葉を前に、自らの課題と責任を省みるお互いでありたいと願います。
            | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 16:47 | - | - | - |
            育てよう健全牧師(57)篠田麻里子牧師
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               このシリーズも今日でとりあえず最終回。最後に登場するのが、「篠田麻里子牧師」。この牧師、同名のアイドルのように「美人過ぎる女性牧師」ではありません。実際はほとんどが男性牧師であります。

               では、男性牧師たちが、「篠田麻里子牧師」とは、どういうことでしょうか?篠田麻里子と言えば、以前の総選挙か何かでのスピーチで発した「潰すつもりで来てください」がインパクトありました。

               そして、この発言から思いついたのが、「篠田麻里子牧師」。それは、「潰すつもりで来てください」ならぬ「潰れるつもりで来ている」牧師のこと。つまり、厳しい昨今の状況を把握しており、牧会現場に遣わされていく際に「潰れるつもりで来ている」牧師のことであります。

               実際に20〜30代の神学校を卒業された教職が、かなりの確率で、潰れているのが現状です。団体によっては、「休職中」が非常に多いです。うつ病やパニック障害で休職したり、働きを退いたりする若い伝道者の多さには、心が痛みます。留学という形で、現場を退く若い教職などは、本当に学びのためなのか疑問視されることも多いです。召命観がもとから怪しいのか、現場に来て失ったのか分かりませんが、召命の問題で、働きを去ることもありようです。人間関係は大変で、形は転任なのですが、実質上は、牧師と信徒が信頼関係を築けないまま、働きの場を移しているケースも。

               これらの厳しい現状をよく心得てた上で、潰れることも想定した上で、強く明確な召命観をもって現場に来るのが、「篠田麻里子牧師」であります。

               経済が右肩上がりで、終身雇用であった頃は、企業も人材育成をしたものです。未熟な新入社員を教育して、一人前にして、退職まで、40年程度働くようにしていました。慢性不況と終身雇用の終わりで、余裕のない企業は人材育成をしません。また、企業側が育てても、他の企業に移られてしまうのですから、しない傾向に拍車がかかっているのでしょう。そういうわけで、近年の人材使い捨ての悲惨な労働環境が生まれているように思うのです。


               教会もよく似た状況にあるように、感じます。慢性財政難と慢性教勢不況により、多くの教会や団体には、新卒牧師を育成する余裕や体力がないかのようです。神学校を卒業して、教職試験に合格したら一人前ではありません。現場に出てから、一人前になっていくものです。最初の何年かはインターン、研修中のようなもので、教会の皆様にたくさん忍耐していただいて、育てていただくのが伝道者です。

               かつては、それができる体質の教会や役員会も多かったようですが、最近は厳しいようです。寛容さという愛が乏しいのか?神学校を卒業した完成品がやってくると思っているのか?すぐに結果を、あるいは質の高い奉仕を求めているのか?顧客満足度で牧師を評価する発想なのか?受け入れる教会側に寛容さや未熟さを受け止める心の余裕がなく、それが人間関係のストレスとなり潰れる要因の一つとなっているのでは?

               藤掛明先生によれば日本社会において、最もストレスの高い職業は「皇室」(だから精神疾患になりやすい)で、第二位は「牧師」なのだそうです。やはり、教会の側の寛容さがないと、精神疾患になりすいのも納得です。また、過度のストレスは、罪や逸脱行為となって現れることがあります。また、若い既婚者子持ちの教職の場合は、経済的なストレスがかなり高く、人間関係のストレスとのダブルストレスは、極めて厳しいわけです。


               パウロ(昭和熱血伝道者)がテモテ(平成ヘタレ系伝道者)にしたように、先輩牧師が、メンターとなり、暖かな理解と共感をもって、弱さと未熟さと葛藤を受け止めながら、励まし導いて下されば、いいのですが、なかなか、そうはいかないことも。不幸にもメンターが、牧師病の一つである「対話不能症」や「指導病」に犯されていると、話も聞いてもらえず、信仰という名の「根性論」を聞かせれて、さらなるストレスを受けてしまうケースもあるとかないとか。

               ましてや、携帯やメールなど、顔を合わせない、生身ではない方法で人間関係を持ってきた世代です。人間関係上のトラブルの対処能力や、生身の人間との信頼関係構築能力は、昭和の伝道者と比べれば、かなり劣るのは、当然です。ベテラン牧師や信徒から見れば、これはあり得ないほどの未熟さと映るかもしれません。これは、一般企業と同様です。それでも、「時代の子の宿命としての未熟さ」を理解し、一定寛容でないと、神様が立てられ、多大な祈りと犠牲によって、現場にまで送られてきた器を潰しかねません。

               そんなわけで、教会内人間関係ストレス経済ストレス先輩牧師からのストレスなどに苦しめられ、時代の子である当人の側には、昭和の伝道者のようにそれを乗り越える強いメンタルや処世術などがありません。近年の若手伝道者の潰れやすさはある意味当然でしょう。問題指揮をお持ちの団体は既に、教職の交わりや育成システムなどを改善して、この課題を克服する努力をしておられるようです。


               本来は、現場である教会の信徒側の意識変革が必要なのでしょうが、なかなか困難なのが現状でしょう。特に、世代間のメンタリティーの差異は、埋めがたいものを感じています。特に、ベテランが思い描く「昔ながらの伝道者の姿」が、若い伝道者に多大なストレスを与えていることが理解できないようです。

               ぜひとも第二テモテの1章を読まれて、パウロのテモテに対する語り掛けを学んでいただければと願います。潰れそうであったテモテがやがてパウロが最も信頼する伝道者となった秘訣はここにあると思うのです。今日の若きヘタレ系伝道者?も、パウロがテモテに語ったように、暖かな理解をもって、愛し、励まし期待していくなら、テモテのようになれるのです。

               いろいろ書いてみましたが、実際に牧会現場に出ていく側にとっては、現場の教会の現実は厳しいのです。テモテにとってのパウロのようなベテラン役員やメンター役の先輩牧師だとは限りません。

               もし、現場の一線で活躍している牧師が、篠田麻里子なら、伝道者希望の若者や若き神学生たちに、こうスピーチすることでしょう。

               潰れるつもりで、来てください!

                私自身も、「明確な召命観」と「聖書的な理想」、そして「現場の厳しさへの覚悟と対処能力」、この三つをもって、来ていただければと願っています。

               (これは、翌日の加筆ですが)「潰れないつもりで、来てください。潰れないような準備をして来てください」


              〈後記〉
               この記事についてはさっそく苦言をいただきました。
              「篠田麻里子牧師」再考・・・・
              http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=569

               苦言はごもっともで、「潰れるつもりで来てください」を、文字通り読めば、牧師という聖なる労働者の人権侵害でしょうし、牧師を潰すような残念な教会の現状肯定と受け止められても仕方ありません。誤解を招きやすい記事なのは確かなので、記事に違和感や不快感を持たれた方にはお詫び申し上げますと共に、この記事の意図を明確に言語化しておきます。

               この記事についてですが、表面上は教職志願者に対して、現場の厳しさを知った上で、来るようにとの勧めです。「潰れるつもりで来てください」の意図を正確に言い換えるなら「潰れる可能性のあることを知った上で現場に来てください」ということです。教職を取り囲む現実への無知や働きに関しての楽観論への警告です。特に召命観の確かさを問いかける意図があります。決して、「特攻隊的意識で、現場に行け」と勧めているのではありません。知人の若手教職が、毎年、何名も精神疾患で休職や退職をしているのですから、とても、そんなことは言えません。この記事はむしろそうした「教会内労災」「教団内労災」の現状をお知らせし、牧師の労働者としての人権を擁護する意図をもって記しました。自分で改めて読み直してみて、表現上は、そのように読めないだろうと思い、反省をしています。

               実は上のことは、この記事本来の意図ではなく副次的なものです。この記事の第一の意図は、若手伝道者を待ち受けるそのような悲惨な現状を知らせることを通じて、受け止める教会の側の意識変革教職への愛の配慮を求めるものです。そのことを直接、信徒に向けて発信するのではなく、(直接ですと自覚できないことも多いので)自らを若手教職の立場におくことによって、教会員の側の課題を客観視していただこうとの意図があって、このようなコンセプトと記事となりました。
               失礼ながら、同様の手法によって、ベテラン牧師に対してもの若手教職への接し方について、検討を願うものです。

               ですから、本心においては、苦言をいただいた記事が意図することと同様と受け止めていただければ幸いです。字義通りに読めば、聖書的にも倫理的にも人権的にも間違った内容となっていますが、後記に記した意図に立っての記事として、お読みいただければと願います。聖書全体の教理に立って、特定の聖句が意味確定されるように、この記事を単独で読まれて、意図を確定するのでなく、これまで本ブログが記してきた内容全体に即してこの記事の趣旨を受け止めていただければと、実に勝手ながら、思ったのですが、それが間違っていたと痛感しています。F.Bに同時投稿しているのですから、初めてお読みになる方もおられますから。

               今後はこうしたご迷惑をかけぬよう正確な表現を心掛けてまいります。
              | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 18:13 | - | - | - |
              育てよう健全牧師(56)やしきたかじん牧師
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                 先ごろ惜しまれつつお亡くなりになったやしきかたじんさんの代表曲「やっぱ好きやねん」のサビメロが、大阪駅電車の発車時のチャイム音になったのだとか。シンガーソングライターとしても、関西では高く評価されていた方で、声質が甘く魅力的なこともあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていたのだとか。

                 つまり、外見はゴキブリで、声は鈴虫ということ。このギャップは、すごいです。同じ関西から出てきたシンガーでも、世良公則さんは「浪曲師の声を持った貴公子」というたかじんさんとは、正反対のギャップで、世の女子たちがギャップ萌えしておりました。

                 そこで、「やしきたかじん牧師」であります。やしきたかじん牧師とは、「鈴虫の声を持つゴキブリのような外見の牧師」などという失礼な話ではありません。それは、「カラスのような声で、ウグイスのような福音を語る牧師」なのです。声質は、カラス系のガラガラ声なのですが、語られる内容は、ウグイスの鳴き声のように麗しい神の恵みというわけです。

                 説教者としての牧師は美声がよいか?と言えば、そうでもないようです。説教が、NHKの男性アナウンサー朗読のようですと、メッセージが睡眠導入剤になってしまうことも。意外といいのが、演歌歌手や浪花節系の声質です。何がいいかと言って、眠くならないで、インパクトがあります。あの田中角栄氏の演説は、説得力があり、聴衆を虜にしたようですが、その秘訣の一つは、あの親しみやすい声質にあったとも言われています。実際に、親しみやすい大衆伝道者の中にはこの声質の方もおられるのでは?

                 説教が音声による伝達である限りは、説教者の発声はとても大切だと思います。聞きとりやすさは必須なので、一定の滑舌と声量は基準値を満たすよう心掛けるべきだと思っています。しかし、声質は意外と問題ではないように個人的には感じています。聞き取りにくい声質の場合は多分、声質ではなく音圧や発声法の問題だと予想します。時にマイクの使い方であることも。これは意識して努力すれば改善できます。しかし、声質そのものは、なかなか変えられません。

                 私もラジオ放送の働きをさせていただき、学ぶことが多いです。音圧や発声は気を付けますが、声質は完全に地声でやっています。それで、OKのようです。これは私見ですが、声質自体は神様が与えられたものとして受け止め、滑舌や発声法については、聞き取りやすくなるように努力すればよいと考えています。

                 ですから、「やしきたかじん牧師」で100%OKなのでしょう。「カラスの声で、ウグイスのような福音」というのは、「土の器に入れられた福音という宝」のようなものではないでしょうか?

                 
                | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 23:12 | - | - | - |
                育てよう健全牧師(55)タモリ牧師
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                   同一司会者最多放映回数ということでしょう?とにかくギネス認定を受けたテレビ番組「笑っていいとも」も、ついに終了。それを受けて、タモリさんが、30年以上も司会を継続できた理由を多くの方が語っているようです。

                   ビートたけしさんは、タモリさんのことを「ごはん芸人」と評しました。30年以上もあきられなかったのは、タモリさんが「ごはん」であったからという分析です。浮き沈みの激しい芸能界で、旬のタレントをおかずにして、番組を盛り上げます。タモリさん自身は司会として決して、前面に出ることなく、鵜匠のようにタレントたちを操り、その個性と持ち味を引き出します。

                   その結果、飽きられるのは、「おかず」であるタレントたちで、「ごはん」であるタモリさんは飽きられることなく、30年続いたのでしょう。おかずであったタレント中には、初代いいとも青年隊の某メンバーのように、低学力と恐妻家を売り物に独自の路線で活躍している者もいれば、同じく初代いいとも青年隊の某メンバーのように将来を期待されながら、犯罪者になってしまった残念なタレントもいるわけです。番組から送り出されたおかずの側がどうなるかは、当人次第のようです。

                   そこで、「タモリ牧師」です。タモリ牧師とは、タモリさん同様に、多くの伝道者を適材適所に配置し、賜物を活かし、自分は、あまり前面に出ることなく、教会形成をしていく「調整型リーダー」の牧師であります。同労の伝道者は、移り変わりますが、タモリ牧師は、主任牧師としてタモリさんのように30年以上、同一教会で優れた働きをされます。

                   共に働く伝道者は、やがて独立して開拓を始めたり、転任して別の教会で活躍したり、残念ながら働きを退いたりです。主任であるタモリ牧師はよく見守り、指導し、励まして適材適所で用いてくれます。共に働く側のその後は、基本的に当人の責任と思える状況です。

                   「タモリ牧師」は、教会の規模が大きくなく、複数牧会や共同牧会が少ない日本では、あまりお見かけしないタイプの牧師です。複数牧会や共同牧会をしても、主任牧師が、日本に多いとされる権威的リーダー共依存的リーダーですと、共に働く伝道者はあまり活かされず、きつい思いをすることも多いようです。

                   ただ、日本でも健全で、優れた地域宣教をしておられ、100人を超える規模の教会の場合には、時々、タモリ牧師がおられるようです。大規模教会の主任牧師が、権威的で強いリーダーシップを持つとは、限りません。むしろ健全な大規模教会で、複数牧会体制の場合は、調整型リーダーである「タモリ牧師」が多いように思います。教会の規模が大きいので著名になってしまいますが、主任牧師は至って穏やかで、権威的な方には思えないことが多いです。

                   タモリ牧師のよさの一つは、後任者が働きやすいことです。カリスマ牧師や権威主義的リーダーですと、後任者は大変です。カリスマとリーダーシップは継承できないからです。しかし、調整型リーダーが残していって下さった教会の体質は、継承できます。前のリーダーを後任者が継承するのでなく、継続されている教会の体質の中に、リーダーが入っていけばいいのです。そうなると平均的な牧師が、大規模教会を牧することもそれほど困難ではなく、その召しにふさわしく働いていくことが可能だと思うのです。

                   「笑っていいとも」の後番組は、旬のタレントを曜日ごとの司会に就けていますが、悲惨なまでの低視聴率のようです。しかし、キリスト教会においては、タモリ牧師は、後継者にもよい教会の体質を引き継ぎ、次世代にまで、働きの実を結び続けてくれるのでは?

                   大規模教会に学ぶなら、是非とも主任牧師が「タモリ牧師」である教会をお勧めします。カリスマ牧師や権威主義的リーダーが牧する大規模教会にも、学ぶことは多いでしょうが、「リーダーあっての教会」なので、同じようにはなれません。

                   リーダーシップは多様で、異なるタイプのリーダーになることは困難のようです。しかし、調整型リーダーの賜物をお持ちの方が、「タモリ牧師」として、複数牧会の中で、賜物が活かされ、豊かな実を結ぶことができればと願っています。
                  | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 11:24 | - | - | - |
                  育てよう健全牧師(54)谷繁牧師
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                     野球つながりで、今日のテーマは、「谷繁牧師」であります。先にお詫びしておきますが、この「谷繁牧師」は、固有名詞でなく一般名詞で、実在する谷繁姓の牧師を意図しているのでなく、たとえに過ぎませんので、ご理解をお願いします。

                     谷繁監督は、監督としてゲームの指揮を執り、選手の指導・育成をするだけでなく、捕手として試合にも出場し、苦心のリードもせねばならず、さぞかし大変だろうと想像します。こういう監督と選手を兼任するあり方を「プレイング・マネージャー」というそうです。

                     教会政治や教職者観は、多様でしょうが、プロテスタントの場合は、牧師は信徒ですし、理念としては万人祭司ですので、ほとんどの牧師は「プレイングマネージャー」なのが、現状でありましょう。教会の指揮を執り、信徒の指導育成という野球で言えば「監督」に専任というわけではないでしょう。

                     それ自体は、問題ないと思うのですが、今回、問題として考えたいのが、教会における「代打オレ」であります。先発出場していないゲームでは、自分自身を代打として指名する可能性が、プレイングマネージャーにはあります。これって、どうなんだろうと思うわけです。

                     教会の掃除当番が急遽、不都合で来れないとなれば、「代打オレ」となり、牧師が掃除をします。週報作成担当が、奉仕できないとなれば、説教準備で多忙な牧師が、週報まで自分で作成します。教会への送迎奉仕者がお休みとなれば、牧師自身が近隣駅への送迎車の運転です。

                     聖書によれば、「教職がみことばと祈りに専念するための執事選出」が起源なのだから、執事や役員、あるいはその指示を受けた信徒が、「代打」をすべきだろう?というのは、聖書的な正論であっても現実論ではないのでしょうか?教会の少子高齢化や日本社会の超多忙性などで、働き手が少ない現実にあっては、牧師の「代打オレ」は、仕方ないのでしょうか?

                     私の記憶が正しければ、昨夜の試合では、サヨナラ勝ちのチャンスで、「オレに代打」ということで、谷繁監督は自分の打席に代打として小笠原選手を送ったと思います。野球のプレイングマネージャーには、「代打オレ」もあれば、「オレに代打」もあります。

                     しかし、教会のプレイングマネージャーには、「代打オレ」はあっても、「オレに代打」はないのが一般的です。これはなかなか厳しいですね。

                     苦悩する谷繁監督を目にするたびに、牧師の苦労を覚えられてはどうでしょう?また、教会内のプレイングマネージャーについて、「聖書はどう記しているか?」「教会はそのみことばに歩んでいるか?」をお考えになってみてはどうでしょう?自らに代打を送る谷繁監督に触れながら、そんなことを考えてみました。
                    | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 20:12 | - | - | - |
                    育てよう健全牧師(53)浜田達郎牧師
                    0
                       いやー、久しぶりに買いました。中日スポーツ!記録的な浜田達郎投手の勝利であります。日本のプロ野球において、高卒かつ10代での初先発での完封勝利は、あの近藤真一投手以来、27年ぶりの快挙だとか。興味深いことは、これが、腰の張りで急遽登板回避した川上投手の代役であったこと。浜田投手が、先発を言い渡されたのは、試合開始の2時間前だったそうです。

                       急遽の代役が、本来の人物以上に活躍し、後に高い評価を受けるようになっていくことは珍しくありません。総理候補が何人もこけて、瓢箪から駒で就任した小渕首相は、ビートたけしから「海の家のラーメン(意外とうまい)」と評され、少ない期待に反して堅実な政権運営。今や、娘までもが重要ポジションに就いているという予想外の大健闘

                       「金八先生」を不朽の名作とした武田鉄也さんは、実は、岸田智史さんの代役だったのだとか。歌がヒットしすぎた岸田さんが、キャスティングできないので、武田さんに回ってきたのだそうです。

                       昨日も、開幕投手にしてベテラン川上投手の代役であった浜田投手が、猛打の阪神を相手に、歴史的な大勝利であります。

                       時にキリスト教会でもこうしたことがあるようです。病気で倒れたベテラン牧師の代役の伝道師がよい奉仕をされ、信徒が新鮮な恵みを体験し、主の御名が崇められます。

                       予定していた牧師が就任できないことになり、人間的には、不本意ながら、実績のない若い牧師を招へいします。この方が予想に反して、豊かな実を結び、神様のご摂理の深さを信徒が実感します。

                       長年、教会をリードしてきたベテラン牧師が、退任や転任し、若く経験不足の副牧師や伝道師が昇進して、主任牧師に就任します。信徒の祈りと忍耐に支えられ、めきめきと力をつけ、数年で、信徒が絶大な信頼を寄せる牧師に成長します。


                       神様は時に、「浜田達郎牧師」を立てようとされる方のようです。確かに、牧会経験や人生経験は大切です。それは、牧師の力量に直結する要素には違いありません。しかし、エレミヤやテモテを立て、育て、用いられた神様は、現代も「浜田達郎牧師」をお建てになると私は考えています。

                       大切なのは、人間的な基準を絶対視して、神様が備えておられる「浜田達郎牧師」を拒否したり、軽視したりしないことでしょう。牧師は神様がお立て下さると信じていながらも、牧師の人事には、信徒の人間的な思惑や好き嫌いなどがからみやすいものです。

                       しかし、時に神様はサプライズ人事として、愛する教会に予想外の新鮮な器をお立てになり、教会をさらなる祝福のステージに導かれることがあります。お互いは神様のサプライズである「浜田達郎牧師」を、受け止められるだけの心の柔軟さ神様の摂理に対する厳粛な思いを持っていたいものです。

                       昨夜の浜田投手の快挙から、そんなことを考えました。
                      | ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 21:41 | - | - | - |
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