アダムが農業仕様で創造されたせいでしょうか?男性たちは、基本的に目的達成的で、結実を願うばかりで、そこまでの過程を楽しむことができません。すべてが、パフォーマンスやご仕事になりがちで、最も身近な家族との交わりさえも、こなすべき仕事や果たすべき使命となりかねません。
多くの既婚者男性は、具体的には、クリスチャンでありながら、以下のような非聖書的な家族としての意識、あり方へと逸脱しがちなのでは?
家庭は、「あるがままで愛しあう共同体」ではなく、「役割を果たして運営する組織」
つまり、「人格的共同体」ではなく、「機能集団」
家族は「交わりの対象」でなく、「管理・指導・対処の対象」
つまり、「愛の交わり」でなく「一つの仕事」
妻は「共に歩むパートナー」でなく、「従わせるべき部下」、あるいは、「やっかいな上司」
子どもは、「愛し仕え育てるべき一人格」でなく、「管理してクリスチャンにすべき未熟者」
「クリスチャンとしてしっかりやろう」と真面目で使命感の強いクリスチャン男性ほど、こうした落とし穴にはまって、結婚や家庭の本質を失うことも。イメージ通りにきちんと家庭礼拝をしたり、家族で祈ったり形を作り上げるのですが、「人格的交わり」「心の通い合い」が決定的に欠損します。自分が目指す理想のクリスチャンホームの「外形」を作り上げながら、魂、心という「中身」については、空っぽ状態なのです。
それどころか、自分のこうした「男性独自の土俵の外」に出ることを恐れて、妻や子どもと正面から向き合うことから逃避します。夫婦や親子の真実な交わりは、時に場外乱闘なのですが、どこまでもリング上で自分の競技のルールを順守しようとするのです。それは、ファンにとっては正当派の格闘家ですが、家族にとっては、敵前逃亡する卑怯な格闘家に過ぎません。
こうして、私も含めたクリスチャン既婚者男性は、職場や教会では真面目に働き、好ましい対人関係を構築しながら、家庭内でも、奉仕や仕事のように真面目に役割を果たし好ましい対人関係を構築しようと努めます。それは適切に距離をとり、上手に関わり、好ましい関係を作るだけで、一人格として真実に真正面から心と心で向き合うことではありません。こういう男性たちにとって、妻と向き合うなどは、プロレスの悪役レスラーにリング外に引きずり出され、場外乱闘に持ち込まれるような恐怖ですらあるでしょう。
偉そうなことを言っている私も、妻との関係で、強いられて向き合わざるを得ない状況に追い込まれる中で、何とか、向き合える関係を作ってきたに過ぎません。つまり、自分から努力して作ってきたのではありません。妻から、強いられてきただけです。妻が諦めずに忍耐強くアプローチしてくれたらです。自分のリングから場外へと引きずりだされたに過ぎないのです。
人それぞれでしょうが、一般的に男性は、最も身近な家族と心で向き合うことが苦手なようで、それができるようになるきっかけは自発的決断ではなく、妻や子どもからのアプローチによる場合が多いように観察しています。
ちょうど、最近、尊敬しますG先生がそのような内容をブログで記しておられます。
ブログ「どこかで泉が湧くように」
愛せない悲しみは愛する力:息子とのこと(2015.2.22.主日礼拝説教より) (02/23)
「お父さんに何をして欲しい?」
息子さんに対して、たったそれだけの言葉を発するまで、どれだけ長い道のりであったかが記されています。そこにまで至ることができたのも、先生ご自身の自発的決断というよりは、妻と子どもからのアプローチによるものだったようです。
既婚者クリスチャン男性の多くは、愛せないことを認め、その悲しみからスタートすることによってしか、家族と心から向き合えないないのではないか?自らの愛の乏しさを隠し、愛の豊かさを演じて、家族と接している限りは、本物になれないのではないか?そんなことを思っています。
家族への愛については特に、愛せない現実とその現実の自分への悲しみこそが、愛する力を生み出すのだと、私は実感を持って断言できます。そして、その悲しみは「御心にそった悲しみ」であり、正面から家族と向き合えるという「悔い改めの実」を結ばせるのだと確信しています。
そうです。向き合える関係に向かって「愛せない自分」から「その悲しみ」からスタートしましょう。
今日のこの記事がきっかけとなり、向き合えないクリスチャン夫婦、向き合えないクリスチャン親子が、一組でも向き合える関係へと転じるなら、それは至上の喜びです。