命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
男と女、心と体(3)〜心先行の女と体先行の男
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     今回で最終回にしておきましょう。男女の性的不一致で、よく問題となるのが、心と体の優先順位についての男女差です。先に結論を言ってしまうと、女性は「心優先・体後続」で、男性は「体優先・心後続」だとの見解をよく見聞きします。

     具体的には、健全な女性の多くは、心の通じ合わない男性とは体を一つにしようとは思いせん。女性は、心の通じ合いが前提になって体を一つにします。別の言い方をすれば、心が一つになったことが体を一つにすることにつながります。

     多くの男性は全く逆で、特定の心通いあう女性でなくても、体を一つにしようと願うことがあります。よくも悪しくも、男性の性的欲求はそうしたものです。妻や彼女など、特定の女性がいても、これは同じで、喧嘩などで心が通じていなくても、体を一つにしようと願います。いいえ、むしろ、体を一つにすることによって、心を通じ合わそう、愛を伝えよう、和解しようとすることもあります。

     たとえば、夫婦喧嘩をして和解がないままでいるとします。夫の側は、喧嘩をしていても愛していることを伝え和解をしたいという思いをもって、性関係を求めることがあります。求めらえた妻は、この夫の行動が信じられません。心が離れているのに体を一つにするなど、ありえないと思います。夫からバカにされている、あるいは性欲処理手段扱いされていると受け止めて傷つく妻たちもいることでしょう。


     そこで、妻の皆様にお知らせです。男性は、「体先行・心後続」です。決して、妻をばかにしているのでも、性欲処理手段扱いをしているのではありません。体を一つにすることを通じて、愛を伝え、深く心を通じ合わせて、和解しようと願っているのです。ある夫たちは、コミュニケーション能力が不十分で、素直に謝ったり、言葉で上手に自分の思いを伝えられないのです。

     こうした言語能力の不十分さから、ある夫たちは、いわば、ボディーランゲージに訴えるわけです。まずは、妻の皆様は男性は基本的に「体先行・心後続」であり、こうした自分の発想で、妻との心の通い合いを得ようとすることをご理解いただきたいわけです。


     次に夫である皆様にお知らせです。女性である妻たちは基本的には「心先行・体後続」のようです。以前、ラジオ番組の「セックスレス特集」に登場した専門医が夫たちに向けて、こう訴えておりました。「普段の夫婦の会話なくセックスを求めるのは、ほぼ強姦」。これは妻の側に立っての発言です。たとえ、夫であっても心を閉ざいしている相手を、体で受け入れるのは厳しいのです。

     この専門医は、「会話は最高の前戯」とインパクトあり過ぎのフレーズで体の前の心の通じ合いを主張。セックスレス解消のためには、夫婦水入らずで外食しデートすることから始めることを提唱していました。番組パーソナリティーの北野誠さんは、「夫婦一緒に家から出かけるんでなくて、外で待ち合わせてデートするのがいい」と提案していました。非日常的シチュエーションによって、共同生活者や共同保育者男、なれ合い、惰性の関係をリセットして、最初に戻って男と女の関係を再出発させるのです。これによって、男女の心を通じ合いが再開し、それが性関係の復活につながるということでしょう。

     
     普段から会話もなく心の通じ合いもないのに体を求める夫に嫌悪感を覚えて傷つく妻たちがいます。一方、心の通い合いのための性的求めを妻から拒絶され、自分の心まで拒絶されたように感じて傷つく夫たちがいます。夫たちは体を求めているのではなく、心も求めているのです。体が受け入れられないことは自分の心が受け入れられないことなのです。一方、心を開いていない相手を体で受け入れることは、妻にとっては、耐えがたい苦痛でさえありえます。

     これは「体先行・心後続」の男性と「心先行・体後続」の女性の違いから生ずる悲しい行き違いだと思うのです。愛の基本は相手の心情と立場を想像することにあります。こうした男女の差異を理解して、自分の発想や感性ではなく、相手の側に立って、心と体を一つにしていくことか思います。


     「心先行の女と体先行の男」このフレーズが、ありがちな男女の性的不一致の克服につながれば感謝なことです。
    | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 11:02 | - | - | - |
    男と女、心と体(2)〜田中律子さんのケース
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       昨日の記事との類似事例として、紹介したいのが、最近離婚したことを発表でした田中律子さん。「元気、健全、善良」のイメージを売りにする女性タレントは多くいますが、20年近く前のこと、西田ひかるがその文化系代表で、田中律子が体育会系代表というのが個人的な位置づけでした。私自身、そんなタレントイメージを20年間温存してきたので、田中律子さんの離婚報道は少しショックでした。田中律子さんをご存知ない方は、こちらをどうぞ。

      wikipedia「田中律子

      田中律子のオフィシャルブログ


       その離婚に至る経緯や葛藤、そして決断をさせたものについては、こちらの「スポニチ」の記事をどうぞ。

      田中律子 仮面夫婦13年の裏に若乃花夫妻…長女が離婚後押し

       
       私はあるテレビ番組で田中さんが離婚の経緯を話すのを見ました。スポニチの記事には、出産を機に関係激変し、その後スキンシップもお心の通い合いもなくなったようにと書かれていますが、テレビ番組での証言によれば、夫は彼女に「女として見れなくなった」と発言したそうです。まさに夫の意識の変化がそのまま二人の関係の変化につながったようです。

       その後は記事にあるように、タレントイメージを保つため、また、娘のためにも仮面夫婦を続けざるを得なかったわけです。母の理解者となった娘の後押しで13年間の仮面夫婦生活にピリオドを打てたわけです。あくまで田中さんの発言が事実だとすればの話ですが、カメラマンである夫の激変ぶりは極めて極端な例だと思います。妻の出産をきっかけに、セックスレスになっただけでなく、一切のスキンシップも拒否して、夫婦としての心の通い合いまで捨て去ったわけですから。

       これは、よくある「妻の出産をきっかけにした夫婦の危機」ではなく、「妻の出産を機にした結婚破壊行為」であります。これは夫に妻に対する「精神的虐待」とも「いじめ」とも解釈できます。昨日の記事で紹介した第一コリント7章3節を基準にするなら、「妻の出産を機にした結婚義務放棄」とも言えるでしょう。これは法律的にも夫側の責任放棄とされ、正当な離婚理由とされます。


       そもそも田中さん側からの一目ぼれでの結婚であったということですが、もしかすると、相手男性のこうした本質をみないままで、結婚の決断をしてしまったのかもしれません。とはいえ、強い恋愛感情をいだいた女性に、男性のこうした未熟さや結婚不適応性、不誠実さをどこまで見抜くことまで要求するのは、酷なのかもしれません。


       妻の出産を機に、夫の妻への意識が大きく変化することは珍しくありません。「妻が母になること」は「夫婦が男女関係から家族関係になること」「結婚生活が恋愛の延長から家庭形成に移行すること」「妻が性欲の対象から思いやりの対象になること」を意味します。そこで問われるのが、男性のシフトチェンジです。

       正しいな結婚観、健全な家族イメージ妻への誠実な愛を持っている男性は、葛藤や小さな失敗はあるでしょうが、このシフトチェンジに成功します。ところが、「恋愛の延長としての結婚」という結婚観しか持ちえない男性は、妻が母となったら、結婚は終わりとなりかねません。健全な家庭イメージを持ちえない男性は、「妻を女性として愛すること」と、「共に家庭を築き上げるパートナーとして歩むこと」の両立がイメージできないのかもしれません。

       ここに見られる「女(性的対象)として見れなくなった→心身の交わり拒否」というのは、昨日言及した「お子ちゃまセックス」に共通する男性の性の幼児性性的未熟さを感じます。ここに見られる「母→自分以外の相手にも愛を向ける女性=相手のすべてを独占できない関係→性的対象外」という発想は、生まれたばかりの妹や弟に母親の愛情を奪われて怒る幼児との類似性もあるのかもしれません。


       西洋には「女性は一人目の子どもを出産した後が最も美しい」という言葉あるそうです。外面的な美貌も衰えておらず、なおかつ女性が誇りと自信と充実感を得ることで内面の美しさがにじみ出てきて、女性が総合的に最も美しくなるのは、まさにこの時期でしょう。そんな妻を美しいと思えて、性的対象としても愛していくのが、成熟した夫だろうと思うのです。男性にとっては、性生活が、性欲解消や性的自己実現から、夫婦の絆、人生のパートナーシップを確認し強く結んでいくものになることが、性的成熟でありましょう。

       女性が「寂しさの解消だけ」を動機として結婚するなら、結婚生活ではさらに深い孤独を経験することでしょう。男性が「性欲だけ」を動機にして結婚するなら、何かの転機によって、結婚初期にして妻が性的対象でなくなり、乏しい性生活を送ることでしょう。父母を離れた精神的自立を得た男女が共に生きる中に、心と体を一つにする性があるのです。

       田中律子さんの悲しい事例を、読者の皆様が、それぞれの立場で活かしていただければ、幸いです。
      | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 13:30 | - | - | - |
      男と女、心と体(1)〜夫が求め妻が応えるだけ性
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         先日、北野誠さんがパーソナリティー務めるラジオ番組を聴いていると、一人の新婚妻からの「忘れられない恨み」の投書が。それは夫婦の性生活から生じた恨みつらみでした。不正確ながら再現するとこういうお話。


         新婚の妻が自分から夫を誘ってみると、夫は「お前、ゲスいな」と言って拒否。そして、「女は、男から求められてするもの」と説教されたとのこと。

         夫の言い分に従って、自分を抑えて、待ちに待っているとようやく、夫が求めてきました。ところがタイミング悪く、妻が「生理だからごめんね」と断ると、夫は「チッ」と舌打ちをして「役立たずが!」と吐き捨てるように言ったとのこと。その妻は、夫に隠れて数日間を泣き明かし、この恨みは忘れないと誓ったとのこと。


         この夫、最低です。求めてくる妻を「ゲスい」と軽蔑し、自分の要求が叶わないと舌打ちをして人格否定発言です。性関係を「男が求めて、女が応じるもの」との勝手な考えを確信している男性主義的独りよがり。きっと、この男性にとって、夫婦の性生活は心と体を一つにする人格的な愛の交わりではなく、「男性の性的欲求を女性が満たすシステム」に過ぎなかったのでしょう。このカップル、ひどい男性だと思うと同時に、新婚当初から対等なパートナーシップがないことに心配を覚えます。


         このような夫婦の性のあり方は聖書の教えに真っ向から反するものです。コリント人への手紙第一の7章4節によれば妻の体は夫のもので、夫の体は妻のもの。つまり、夫婦は肉体の相互所有関係。言い換えるなら、自分の肉体の権利を相手に譲渡しているのが結婚関係。

         ですから、「女性が男性に体を与える、それを男性がむさぼり性的欲求を満たす」という構図は、聖書的には、正常な性行為ではありません。それは、あえて言うなら「女性の肉体を用いたマスターベーション」に過ぎません。残念ながら、そのような低レベルの性で生涯を終えていく男性は日本には少なくありません。私はそれを「お子ちゃまセックス」と呼びたいです。

         そこには深まりもなく、すぐ飽きます。次の女性を求めます。その結果、妻とはセックスレス、外では不倫となるのは当然のなりゆきでしょう。この夫は「愛は惜しみなく奪う」と考えているようですが、「愛は惜しみなく与える」が正解です。「夫が妻に体を与える」「夫が妻に喜びを与える」という側面がなければ、性関係は交わりではなく、一方通行。会話で言えば、一方的にしゃべりまくって、相手が話しかけようとすると無視するようなもの。女性にとってはたいへんな人格否定ですし、男性にとっても性が与える本来の喜びなどありません。


         また、同じくコリント人への手紙第一の7章3節には、夫も妻も相手に対して性的義務を果たすようにとはっきり命じています。ここでは、夫が求めて妻が義務を果たすだけでなく、妻が求めて夫が義務を果たす面も等しく命じれらているわけです。求めてくる妻を「ゲスい」と評しながら、自分の求めが拒否されれば舌打ちをして人格否定的言動などは、いかにひどいかが分かります。

         パウロがリアルに記している夫婦の性は、男尊女卑の時代と社会を超越した男女平等性と対等な両面通行性を持っていることがお分かりいただけるかと思うのです。こうしたリアルで生々しい事がらのなかにこそ、世の人々とは異なるクリスチャン夫婦ならではのあり方が現されるように思うのです。


         「そんなリアルなこと聖書に書いてあったの?」とか思われた方は、是非、第一コリント7章の1−7節をお読みください。この記事が性における未熟さや非聖書性に光を当てることを願っています。
         
        | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 20:46 | - | - | - |
        恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する(4)〜体の交わりは結婚の本質
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           夫婦は「一心同体」で、それは統合的一体で、心と体の両方を一つにすることです。ですから恥の共有も心と体の両方においてのこと、心も体も裸で交わり一つとなることが聖書が示す結婚の本質かと思います。

           よく夫婦の関係を「心のつながり」と「体のつながり」の対比で考えることがあります。たとえば、「心:体=9:1」の夫婦と「心:体=1:9」の夫婦がいるとします。私は、前者が心が通じ合っているよい夫婦で、後者が性欲で結びついている悪い夫婦だとは全く思いません。

           少なくとも一定若い年齢なら、「9:1」は、逆に心の通じ合いも弱くなる場合が多いのでは?と心配になります。もちろん、これは一般論で、夫婦それぞれにベストの割合があるでしょう。ただ、日本のクリスチャン女性には、時々、これを普遍的な理想像とする方がいらっしゃるので、それはどうかと常々思っています。逆に、「1:9」の場合は、会話を通じて心をもっと通じ合わせる方がいいのでしょうが、体の一致が言葉を超えた心の一致を与えているのでは?と想像します。


           今回、取り上げたいのは、時にクリスチャン女性に見られる「心:体=9:1」をクリスチャン夫婦の理想像としてしまう問題です。実はこのことが、夫婦不和や時には離婚原因となっているケースをお聞きします。どうして、こうしたことが起こるのでしょう?私なりに三つの理由を考えてみました。

           一つは、「心は聖で体は悪」とする禁欲的かつ異教的発想が、根底にあると思われます。聖書の性や聖書に立った結婚後の性生活の指針を教えられていないと、そうした非聖書的な思想に立って、クリスチャンが性生活を送ってしまいます。なかには、性関係を求めてくる夫を汚れているように見て、軽蔑する妻もいるようです。これなどは、神様からの聖なる祝福に対するほぼ冒涜でしょう。「神がきよめたものを汚れていると言ってはならない」ということです。

           二つ目には、性犯罪被害や性的いやがらせなどを受けて、性に悪いイメージが植えつけられてしまっている場合があります。こうした方は、聖書から性について繰り返し、教えられ、心の深い部分で価値転換がなされないと、なかなか夫婦の性生活についても肯定的に考えられないケースがあるようです。本来、喜び楽しむべき神様の恵みを、できれば避けたい苦痛や義務にしか思えないとしたら、それは何と残念なことでしょう。


           三つ目には、三浦光世・綾子ご夫妻の影響があります。綾子さんは、著書の中で、ご夫妻の性生活を公にしておられます。綾子さんは病弱で、出産育児の責任が果たせないことが予想されるために、妊娠を避けなければならないという事情があります。そのために、妊娠の可能性のない日を選び月に一回夫婦の交わりを持つそうです。また、三浦夫妻の信仰的判断でしょうが、避妊具は用いないことも書かれています。

           綾子さんは、こうしたリアルな問題で悩む読者のために、自分たちのあり方を一例として提示されたのだと思います。特殊な事情のある中で、妊娠を避ける自制と避妊具不使用という三浦夫妻のあり方は一つのモデルかと思います。三浦綾子さんのされたことは愛の業であり、称賛されるべきことです。ただ、読者の側が正しく受け止めるかどうかは問われます。あくまで、このあり方は、病弱のために出産育児の責任を果たせず、どうしても妊娠を避けなくてはならないという特殊事情の中でのことなのです。一般的で標準的なモデルとは言えないでしょう。

           私は22歳の頃に救われてまもなく、この書物を読んだのですが、「三浦さんご夫妻はこうなんだ。でも、一般的、普遍的なあり方ではないよなー。実際クリスチャンはどうしてるんだろう?」と考えました。ほとんどのクリスチャン男性は「これは例外的モデル」「光世さんはすごい、おれは無理」「この性生活なら、結婚したくない」などと思うでしょう。

           ところが、クリスチャン女性の中には、これを普遍的な理想像とする方がおられるようなのです。多分、「心は聖で体は悪」とする禁欲的かつ異教的発想のままの女性、性犯罪被害や性的いやがらせなどを受けて、性に悪いイメージが植えつけられてしまっている女性などは、そうした傾向がより強まるのではないかと予想します。

           また、避妊具使用の是非は、プロテスタントの中でも多様な判断があるようです。神様からの命が与えられるの恵みを人間が制限することの不当性と受け止めることもできますし、性の恵みを喜びながらも、より責任ある育児のために恵みの管理人として制限する責任を重視する考えもあるでしょう。こうした信仰理解の本質的問題ではなく、判断が分かれることは、ローマ14章にあるように当人の信仰による判断が尊重されるべきかと考えます。


           「心:体ー1:9」のプラトニック夫婦が、聖書的理想像ではないし、「心:体=9:1」の肉食系夫婦が、必ずしも御心に反しているわけではない。それが聖書に立った私なりの判断・評価です。

           もし、読者の中に、「プラトニック夫婦理想像」に該当者するクリスチャン女性がいらっしゃったら、一度、それが聖書の示す御心のあり方がどうかのご検討を。また、こうした価値観のクリスチャン妻に悩み苦しんでおられる男性の皆さんには、この記事が一つの指針となれば、感謝なことです。

           性生活がうまくいかない場合は、多くの場合、どちらが正直な思いを押し隠していて相手に伝えられないことが多いようです。最も私が願うことは、この記事によって、クリスチャン夫婦が正直に思いを伝え合うことです。心を裸にしての話し合いが、体を裸にする交わりの充実につながることです。それによって、夫婦がより一つとなり神様の栄光を現されることを願ってやみません。次回は別の聖書箇所から、心と体の一致について記します。
          | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 10:00 | - | - | - |
          恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する(3)〜心も体も裸の交わり
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             少し記事を挟みましたが、シリーズの三回目です。結婚生活においての恥の共有として、外せないのが夫婦の性生活です。裸を恥ずかしいと思うのは人間として当然の感情。その起源は人類への罪が入ったことにあります。それ以降は、夫婦であっても、人間は、あるがままの自分の体も心も開示することが恥となったのでしょう。

              実際に夫婦の性生活では、お互いの裸を見ますし、他人様にとても見せられない姿を相手に見せます。また、自分の性的な嗜好や傾向も相手に明らかになるわけです。これは、ある意味、「超恥ずかしいの世界」です。そこには、結婚相手にしか見せない生々しい自分があるわけです。

             裸であることは、社会的立場や見栄などの虚飾を取り払った一人の男女としての交わりを意味するのでしょう。旧約聖書では、性行為を「裸を見る」という言葉で表現しています。これはきっと婉曲表現であるだけではなく、裸を見ることが、心身ともに極めて親密な関係を代表する行為だからだろう想像します。

             夫婦が裸で交わりをもつのは、身体面においてあるがままのお互いを受け入れ合うことだけではありません。創世記2章24節の「ふたりは一体となるのである」の「体」は肉体だけではなく「心をも包括する全体」を意味します。ですから、福音書でイエス様がこの言葉を引用した個所では(新改訳第二版では)、「一心同体」と訳されています(第三版では旧約との整合性のためでしょうか「一体」)。
             

            ・『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。(マタイ19:5)


            ・ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。(マルコ10:8)


            ・遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。(汽灰螢鵐硲供В隠供


            ・「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」(エペソ5:31)


             聖書によれば性は、その本質は肉体的作業でも、性欲充足手段でもありません。それは性の一面や一機能にすぎません。性の本質は心と体において、男女が一つとなり共に生きることです。神様が結婚関係を体を裸にして交わる関係と定められたことは、心も裸にして交わることを意図されてのことでしょう。逆に言えば、心を裸にする深い交わりのために、神様は、体を裸にする交わりを定められたのでしょう。心を裸にするためには、体の裸が必要で、体の裸は、心の裸のためとも言えそうです。

             恥という視点からは、体を裸にして、体の恥をさらし、お互いが受け止め合うことは、心も裸にしてお互いが受け止め合うためかと思うのです。


             以前ラジオで、セックスレス問題の専門家がこんな名言を発しておりました。

             「セックスは究極のコミュニケーションです!」

             
             実に聖書的な名言だと思いました。この専門家は「夫婦の会話から既にセックスは始まっている」「セックスは夫婦の会話の延長」など、聖書に共通するような真理を語っておられました。聖書と関係なく、性や結婚の本質を追求した結果、到達したのが聖書的真理であったということでしょうか?

             「心身の一体化が結婚の本質」

             「セックスとは心も体も裸にする交わり」

             「体の恥も、心の恥も、受け止め合い共有するのが夫婦」

             そう考えると、この方の言葉は、やはり聖書的名言としたいです。そして、逆に思ったのです。「聖書を読んでいないであろうこの専門家が聖書的な真理を語っている。でも、聖書を読んでいるクリスチャンたちは、この聖書的真理を知っているだろうか?知っていても従って、実行しているだろうか?聖書的な価値転換をされた上で、現実の結婚生活を送っているだろうか?」と。


             夫婦の心通いあう会話がないままでの性欲や孤独を満たすためのセックスは、どうかと思うのです。自己開示や会話が苦手であるなら、むしろ、体を一つにするその現場では、心を裸にしていただきたいもの。普段は恥ずかしくて言えない愛情表現や深い相手への思いを言葉でも伝えてみてはどうでしょう?そうすれば、普段の会話は不十分でも、体を一つにすることが、心を一つにすることにつながるかと思うのです。

             一方、会話がスムーズで夫婦仲がよくても、体を一つにするコミュニケーションを軽んじすぎると、意外と相手に対する心の深い思いが伝わらなくなってしまうものです。特に性的に活発な若い時期や結婚初期は、体を一つにすることが、心を一つにすることに大きく貢献するように思います。プラトニックな夫婦は決して、聖書の理想像ではないと私は思います。神様は、人間を心と体の統合体として創造され、心身両面の交わりとして、結婚を定められたのですから。


             というわけで、私もこの専門家にならって恥ずかしいフレーズを考えてみました。

            「夫婦間のセックスは身体による会話であり、夫婦の会話は、言語によるセックスである」

            体の恥さらしは心の恥さらし心の恥さらしは体の恥さらし、互いの恥を受け止め、共有してこそ夫婦の絆は築かれる」


             自分で書いておきながら、めちゃめちゃ恥ずかしいわー。まあ、同じような趣旨のことは先人も言っておられることでしょう。読者の皆さんの益になれば、恥をかいた甲斐もあるでしょう。次回はもう少しこのことを深めてみます。
            | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 10:48 | - | - | - |
            恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する(2)〜恥を伝える勇気と恥を受け止める寛容で結ばれる絆
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               今朝はこの記事をアップしたら、神戸に向かいます。夜遅くの帰宅予定です。

               「恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する」とのパクリ名言から、今回考えてみたいことは、結婚後の恥の共有であります。そもそも、結婚の本質は「交わり」です。神様は、「人が一人でいるのはよくないと」と判断され、エバを創造されたのです。神様が意図されたことの一つは、孤独を解消する交わりの相手をアダムに与えることだったのでしょう。

               それは「助け手」と表現されていますが、決して、農業従事者であったアダムの「農業アシスト」ではなかったのです。それなら、神様が連れてきた家畜類でよかったはずです。動物たちがオーディションに落ちた末にエバが作られたのは、まさに、交わりのためです。農作業の効率化のためでも、収穫増加のためもないのです!既婚者男性読者の皆さん、読んでますか?そこを間違える結婚の本質失いますよ。妻の機嫌もめちゃめちゃ悪くなりますよ!

               さて、エバはアダムの肉体から創造されました。同一の肉体から取られたことから分かるように、夫婦とは、体も心も一つにする交わりの相手ということです。男女はもともと一心同体だったからこそ、人間には心を一つにしたいと願う恋愛感情体を一つにしたいと願う性的欲求があると考えべきでしょう。それは、自分の心理的満足や自己欲求の実現のためだけではなく、相手のためでもあり、お互いのためでもあり、それによって神様の栄光が現されるのですから、究極的には神様のためであるわけです。


               今回とりあげたいのは、心を一つにすることです。自分の心を伝え、相手の心を受け止めて、心を一つにするコミュニケーションです。動物が落第となり、最終的にエバが創造された理由は、言葉を通じて心の交わりができるからに違いありません。結婚の本質は、交わりです。神様の御心は明らか。夫婦が向き合い深い愛の交わりに生きることです。夫婦がそれぞれの役割を果たす以上に、それぞれが社会や教会や家庭で実を結ぶ以上に、神様が望んでおられることは、夫婦が深く心通じ合わせる人格的交わりに生きることだろうと私は思います。

               当然、伝えることのなかには、が含まれます。また、受け止めることの中にもが含まれます。ですから、結婚前にどちらかが、演技を通してしまい、片方が美しい誤解に基づいて結婚してしまうと大変です。思い込み相手と現実の相手とのギャップが大きすぎて、いきなり不幸のどん底へ。結婚後に関係を構築することなく、短期間で破たんする結婚にはこのパターンも多いようです。ですから、そうならないためにも、昨日の記事に書いた交際前の観察と交際中の自己開示をしっかりなさって下さい。

               私たちは、異性である親や兄弟、先生、教会の指導者や信徒など身近な異性を通じて異性理解をするものです。「点をもって線と思うな、線をもって面と思うな」と言いますが、私たちは成育歴の中で異性の親という点をもって、男性一般を理解し、人生の中で接してきた身近な異性という線の延長で、世界中の異性という面を決めつけがちなものです。言い換えれば、「一を聞いて十を知る」ならぬ「一に触れて十を決めつける」ものです。ですから、非現実的な理想を異性に投影してしまうこともあれば、、異性全般に対して強い不信感や恐れをいだいてしまうこともあるわけです。もっとも、私たちの多くは、中高生、親・教師など異性の大人を見ながら、その恥の部分を垣間見て学習はしているとは思うので、極端に現実からかい離した異性理解を持つことはあまりはいでしょう。


               結婚すれば見えてくるのはお互いのです。理想的なのは、恥を共有することで、夫婦の絆が深まることですが、いつもそうとは限りませんし、恥の種類によってはそう簡単にいきません。恥を受け入れてもらえず、拒絶観を覚えて、それが、相手に対して心を閉ざすことになることも。

               結婚の親密さを高めるために自己開示は不可欠でしょうが、そこに必要なのは勇気という名の信仰です。「相手が受け止めてくれるだろうか?」「知ったら嫌われるのでは?」との恐れはあるのですが、神様が導かれた結婚という信仰があれば、踏み出す勇気が与えられます。もちろん、現実認識もなく、相手の心情も考慮せず何でも自己開示するのがいいわけではありません。時期と内容と表現については考慮すべきです。相手が受け止めやすいように愛と知恵をもって、伝えましょう。

               一方、自己開示を受け止めて、恥を共有する方に必要なのは寛容という名前の愛かと思うのです。お互いは神様にあるがままで愛され受け入れられていながら、実際に共同生活を始める戸生涯愛すると誓った相手をあるがままで愛し受け入れることに葛藤を覚えてしまう罪人です。結婚関係を壊すのは、いつもそんな自己中心性です。愛される愛だけを相手に求め、愛する愛についての自分の努力を怠る時、結婚関係にほころびが生じます。

               第一コリント13章は、愛の本質を擬人法で表現し、その第一は「愛は寛容する」という主語と動詞となっています。結婚も同様で、結婚生活において最初に求められる愛は、寛容する愛でしょう。相手をあるがままで愛すると決めて、そのをも受け止め、寛容という名の愛で愛していくことです。

               そして、相手の恥として嫌悪して、責めることなく、私たち夫婦の恥として共有するのです。なぜなら、夫婦は一体だからです。夫の恥は妻の恥、妻の恥は夫の恥です。恥の内容にもよりますが、いつまでも結婚相手の恥を嫌悪して、責め、寛容さをもって受け止めないなら、それは、夫婦の一体性を拒否していることを意味するのかもしれません。罪のようなことでなければ、愛想をつかすようなことであっても、受け入れて、夫婦の恥として受け止めることが、その恥の改善にもつながるように思います。とりわけ夫婦間にあっては、恥は、責められ、嫌悪されて改善することはあまりなく、あるがままの愛で受け入れられてこそ、真実の悔い改めと改善につながるように観察します。


               これは補足なのですが、この件について教会でお話すると、よくお聞きするのが、「自己開示をしない夫たち」のこと。多くの夫たちが、自己開示をしないのです。もっと正確に言えば、自己開示という名目で情報公開をするのです。夫たちの発送は「情報公開=自己開示」なのです。「あんたは公務員か?」「わが屋は役所か?」とツッコミたいようなお話を時に伺います。自分についての知られざる情報を提供することをもって自己開示としているわけです。

               これは妻の側から見れば、まったく自分に心を開いてくれていない、あるいは自分を信頼していないかのように思えてしまうことも。自分の自己開示が一方的なように思えて、孤独感を深めてしまいます。もしかしたら、夫は自分との心の通い合いを願っていないのでは?と被害妄想に陥る妻もいるようです。

               しかし、男性にはそうなってしまう理由があるのです。多くの男性は自己感情を表現せず生きています。それをしないのが、男の美学という文化もまだ日本にはあります。男のプライドとやらを保つためそうせざるをえなかった面もあるでしょう。そもそも、男性は情報交流一辺倒傾向で、感情交流中心の女性とは、正反対です。結婚して、いきなり自己感情を出しての自己開示は無理というもの。そんな事情もありますから、優しく見守り夫の自己開示を励ましてやっていただいたいものです。出来事や経験だけでなく、それに付随する深い感情をうまく聞き出して、表現できたら、受け止めて褒めてやってください。妻の助けがないと男性の自己開示は困難なのが現実のようです。


               ルターは結婚後に「結婚生活は修道院生活に勝る訓練の場」という趣旨の発言をしていたと記憶しますが、まさに、結婚とは愛の訓練を受け、愛において両者が成長する場でありましょう。まさに結婚は愛の道場です。そして、その訓練によって愛における成長を遂げるなら結婚生活はパラダイス、天国のリハーサルとなるのです。私は結婚生活は、リアルに「愛の道場兼パラダイス」だと思っています。

              「恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する」

              「恥を伝える勇気と恥を受け止める寛容で結ばれる絆」



               というわけで、結婚後の恥の共有に必要なのは、自己開示する側の「恥を伝える勇気」と自己開示を受ける側の「恥を受け止める側の寛容」だろうと思います。これは、かなりストレスもハードルも高いのですが、「これにチャンレジし続けるか?」と「諦めて結婚を続けるか?」の違いはそのまま「夫婦間の愛と信頼を深めるか?」と「形だけの夫婦でやっていくか?」に直結する程の大きなファクターだと私は考えています。

               一生、本当の自分を受け止めてもらえず、本当の相手を知らないまま終わっていく結婚が、聖書が示す神様が望んでおられる結婚だとは、思えません。ぜひ、勇気と寛容をもってチャレンジし続けていただきたいと願っています。


               では、神戸へ行ってきます!
              | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 08:37 | - | - | - |
              恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する(1)〜交際前の観察と交際中の自己開示
              0
                 先々週放送の「ホンマでっか!?TV」で植木理恵先生が、こんな趣旨の発言をされました。

                恋愛関係では、お互いの恥を隠し合いますが、結婚生活では、お互いの恥を共有することになります。」

                 
                  これは、恋愛と結婚の本質的な違いを、明白に示していると思うのです。恋愛は相手に好かれるように、自分の恥を隠そうとします。それによって、関係を深めようとしますが、やがて、恥の部分が明白となり、多くの場合は、関係は解消に向かっていきます。しかし、生活と人生を共にする結婚においては、自分の恥を適切に見せて、お互いの恥を受け止めて、親密な関係を作っていきます。いいえ、「嫌になってもやめない」「あるがままの相手を受容して愛する」との覚悟をもって、するのが結婚です。この優れた言葉を私なりに、格言にしてみました。

                「恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する」

                 
                  「完全なパクリとは言え、我ながら、なかなかの名言だなー」とご満悦気分であります。というわけで、今回から、4回にわたりこの言葉から、いろいろと考えたことを記してみます。

                 
                  まずは、恋愛についてです。恋愛は、お互いの恥を隠しながら、継続する関係です。相手を失望させたり、嫌われるような要素を隠しながら、関係を築いていきます。逆に、相手に好かれるような自分を演じて、恋愛関係を続けていく面もなきしもあらず。このような関係には、「本当の自分を知られたら、嫌われる」「あるがままの自分は受け入れられないのでは?」との恐れと背中合わせです。

                 良い恋愛は、次第に自己開示をして、自分の恥の部分も小出しにして、知らせます。適切にあるがままの自分を出してゆきます。そして、お互いの恥を受け止め、あるがままを受け入れていきます。そのようにして、二人の関係は恋愛感情による結びつきから、真実の愛による結びつきに成長するのです。年齢や環境にもよるのでしょうが、その場合は、結婚に結びつく可能性が高くなります。これは、好ましい恋愛結婚のプロセスだと思うのです。

                 
                  「つきあわなくちゃ分かんない」と考えて、「とにかく付きあってみたら」と言われて、「とりあえず付きあおうか」と決めて、大して好きでもない異性と付きあうような恋愛パターンをよく耳にします。現実は全くの逆でしょう。「付きあうと分からなくなる」から「安易に付き合うべきではない」ので、「とりあえず」のノリで付きあうのは、後悔する恋愛や忌まわしい思い出や時間の無駄となる可能性が高くなります。

                 付きあうと演技が始まり、その異性のが見えなくなります。付きあい始めて恋愛感情だけが強くなると恋は盲目状態です。いよいよ本当の相手が見えなくなってしまいます。とりわけ性的関係後に、相手のが発覚し、現実の相手に失望するなら、後悔と将来へのマイナスは大きなものとなります。

                 
                  だからこそ、付きあう前に相手をよく観察して、恥の部分、本当の相手の姿を見るのです。その上で、それを判断材料として、マイナス要素も一定受け入れる覚悟で、付きあうかどうかを決めるのです。そうすれば、見えてくる相手の現実は、その多くは想定内となり、大きな失望をすることもなく、後悔の少ない恋愛となるでしょう。また、そのようなリスクや後悔の可能性があることからも、結婚前に性的関係を結ぶことは、安易な行動と言えるでしょう。

                 ある有名企業の重役で100組近くの仲人を務めたクリスチャンがおっしゃっていました。「会社の女の子で、結婚がうまくいかなかった子は、大抵は、現実の相手が見えていないままで、結婚した子たちだったなー」。

                 リアルで説得力のある言葉だと思います。恋愛感情は、相手を美化します。交際前にこそ、相手を観察するのです。交際が開始したら、自己開示をして、恥を少しずつ出し合い、受け止め合うのです。「かなり無理」と思ったら、結婚はやめるのが無難でしょうし、「絶対無理」と思ったなら、その相手とは結婚しないことです。


                「恋愛は恥を隠し、結婚は恥を共有する」

                 
                  後悔しない恋愛と失敗しない結婚のためには、交際前の観察と交際中の自己開示がいかに重要かを、このパクリ名言から、改めて思わされました。
                | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 18:07 | - | - | - |
                あなたの結婚相手は、山田(ヤ)でも柳田(ソ)でもない!
                0
                   プロ野球は、先週土曜からCSがスタート。今年の大きな話題の一つはセ・パそれぞれのリーグで、いわゆる「トリプルスリー」を達成した選手が登場したこと。ヤクルトの山田内野手とソフトバンクの柳田外野手は、「打率三割、本塁打30本、30盗塁」の三つを達成。これは日本のプロ史上で、まだ8人しかいないとのこと。つまり二人は極めて高い希少価値の持ち主なのです。

                   トリプルスリーの困難さは、言うまでもなく、ホームラン30本と盗塁30以上の両立の困難さにあります。ホームランバッターはパワーのある巨体で、走るのは遅くなりがち。一方、30盗塁以上できるのは、体が小さめの選手になるので、パワー不足でホームランの量産は無理です。ですから、山田選手や柳田選手のようになれと言っても、ほとんどの選手には無理なのです。

                   そこで思いついた今日のタイトルがこれ!

                  「あなたの結婚相手は、山田(ヤ)でも柳田(ソ)でもない!」

                   たとえ話をしましょう。あるプロ野球の球団があったとさ。当然のことでしょうが、山田・柳田タイプの選手はいません。しかし、球界を代表する打者が二人います。4番を打つA選手は昨シーズン本塁打50本の主砲ですが、巨体と鈍足のため盗塁は毎年ゼロです。不動のトップバッターであるB選手は出塁が多く俊足を活かして毎年盗塁数は50以上で盗塁王の常連。好打者ですがパワーはなく、昨年のホームランはゼロでした。

                   この二人は仲がよく、昨年は、お互いの長所を尊重し、それぞれがチームに貢献し、リーグ優勝を飾りました。二人はMVPを争う大活躍でした。A選手が出てB選手がが返す得点パターンでチームは勝利を重ねたのです。ランナーを返すA選手がいるので、B選手の俊足と盗塁が得点につながり、A選手の出塁があるからB選手の打点が増えるという相乗効果があったのです。

                   ところが、今シーズンは、A選手は、打撃不振でホームラン数は激減し、三振王。B選手も打撃不振のため出塁数が激減し、盗塁数は昨年の半数ペース。それぞれ自分の不振にいらつく二人の仲まで険悪になってしまいます。

                   A選手がB選手に言います。「お前が出塁して盗塁しないから、投手にプレッシャーがかからず、打てないんだ。お前がホームランを打てば、点は入るのになー」

                   むかついたB選手はA選手に言います。「後続の打者が言ってたぞ。お前が鈍足だからワンヒットで点が入らないって。たまには盗塁くらい決めたらどうなんだよ!」

                   二人は、この後、売る言葉に買い言葉となり、殴り合い蹴り合いの喧嘩をしてしまい、翌日の試合は、怪我のため二人共が欠場。ただでさえ低迷しているチームに多大な迷惑をかけてしまうことに。二人の活躍を信じて忍耐してきた監督はがっかりです。


                   察しのよい方は、このたとえ話が指し示すことが既にお分かりでしょう。A選手とB選手と同じような愚行を、チームが低迷すると多くの夫婦がやってしまいがちです。全くタイプの異なる二人は、お互いのホームラン50本と50盗塁という偉業故に相手を尊敬していたのです。お互いの盗塁ゼロと本塁打ゼロなど、お互いの関係にはなんらマイナスを与えてきませんでした。ところが、チーム低迷の中、自分が思い通りにいかないと相手の欠点に注目し、自分との違いを尊重しない無理な要求をするのです。

                   夫婦の場合は、自分とは異なる異性の性格に魅力を感じて、結婚するのですが、その違いにむかついたりして、関係がけんあくになると、相手の性格の変更願いをします。

                   「あなたその性格なんとかしてよ!」

                   「その前に、お前こそ、その性格直した方がいいぞ!」

                   「あなたの性格こそ、あり得ないわよ」

                   「お前にだけは言われたくないわー!」


                   全く勝手なものです。異なる性格に魅力を感じて結婚しておきながら、結婚後に、それが自分にとって都合が悪くなるとその性格を変える要求をするのですから。でも、それが多くの結婚した者の現実だと思うのです。素敵に思えた自由さは、今は、いいかげんさにしか見えません。楽天的なのは、無責任でむかつきます。長所と信じていた几帳面さは、がつまりそうです。魅力的に思えた感情の豊かさ情緒不安定にしか思えず困惑するばかり・・・。

                   そうです。すべての性格には、光と影、プラスとマイナスがあるのです。魅力的な性格の裏側には、嫌悪すべき要素が潜んでいるのです。ホームランバッターは盗塁ができませんし、盗塁王はホームランが打てないのが通常なのです。私たちの多くは、こうした現実を知らぬまま、恋して結婚します。結婚前に相手の性格を十分観察もしないで、導きと信じて結婚したりします。多くの場合はそれでよいと私は思っています。ただ、結婚後に相手の性格は変わらないという覚悟だけは、しておくのが賢明だろうと思うのです。


                   はっきり言っておきますが、根本的な性格を変えることは不可能です。A選手は俊足になれませんし、B選手はホームランを二ケタ打つことはありません。結婚後に、相手の根本的な性格を変えることを願っても無意味です。また、変えようと努力していも無駄です。あなたの結婚相手が、プロ野球史上8人しかいない山田(ヤ)か柳田(ソ)でない限りは、無理です。

                   生活習慣や思考パターン、そして価値観は、当人の決意と努力や訓練、周囲の支援で変えることはできます。しかし、根本的な性格は、当人の決意と努力、伴侶の支援があっても、まず、変えられません。

                   また、生活習慣や思考パターン価値観変更要求は、夫婦間において、多くの場合、相手を否定しない正当な要求です。しかし性格についての変更要求は、結婚相手に対しての人格否定に準ずると私は思います。それをされると自分が否定されたように感じてしまいます。その意味で、夫婦喧嘩においては、「その性格変えろ」とは言わず、「その性格」を「その行動」、「その言葉」、「その考え方」、「その価値観」に変換することお勧めします。

                   ですから、相手の性格を変えることは、さっさと諦めて、その性格が夫婦にとってプラスに作用するように、夫婦で話し合い、共に考え、相手を活かすのです。つまり、性格は変えられないが、性格の作用は変えられるのです。ペテロは基本的にあの性格のままで、使徒のリーダーが務まりました。性格上の欠点がなくなったというより、あるままで貢献したのです。それはパウロも同様でしょう。真理に妥協しない性格は、時にチーム内に軋轢と不仲を生み出しながらも、世界宣教を飛躍的に前進させました。


                   ホームラン50本で盗塁ゼロのも、50盗塁ホームランゼロのも、そのタイプのままで、選手生涯を全うするのです。夫はホームランで貢献すればいいのです。妻は盗塁でチームを勝利に導けばいいのです。二人は仲よく励まし合いチームを優勝させるのが、目標でしょう。


                   ですから、結婚相手に性格変更要求ばかりして、それが無駄だと悟らない夫婦というのは・・・・

                   「お互いにないものねだりをしてどうすんの?それでチームが勝利に近づくとでも思ってんの?」ということです。


                   二人は互いの違いを認め、尊重し、それぞれのスタイルで同一チームに貢献することを追求するのです。自分個人の技術と力量は、チームのためです。相手個人の技術と力量もチームのためです。そして、二人は同じチームに所属するチームメイトなのです。最優先事項はチームの勝利です。だとしたら、互いのタイプの違いを尊重し、そのタイプなりの貢献をすることを最優先とすべきでしょう。

                   まるで、別のチームにいるかのような夫婦喧嘩を時にしてしまうこともあるでしょう。性格変更要求の虚しさに気が付きながら、異なる性格を受け入れる覚悟ができないでいる夫婦もあるでしょう。でも、この事実を事実として、受け止めることからしか、よりよい夫婦へと向かう歩みは始まらないように思うのです。その事実とはこれです。


                  「あなたの結婚相手は、山田(ヤ)でも柳田(ソ)でもない!」

                  「結婚相手にトリプルスリーなし!」

                  「ホームラン打者は盗塁できないし、盗塁王はホームランは打てないもの!」



                   信仰とは不都合な事実を見ずに、あり得ない仮想現実に逃避することではありません。むしろ、不都合な事実に向き合い、より神様に喜ばれる現実に変えていくために信仰は与えられているのです。

                   この事実に立って、もう、戦力ダウンをさせて、監督を悲しませるような争いはやめましょう。「性格自体は変えられない!性格の作用は変えられる」のです。ですから、夫婦が向き合い、真剣に話し合い、それぞれの異なる性格をいかに夫婦関係にプラス作用させるかを考えてみてはどうでしょう?そうした夫婦喧嘩なら、監督も安心して見守ってくれることでしょう。そして、自分を胴上げしてくれる栄光を現す夫婦となることを期待してくれるにちがいありません。
                  | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 17:55 | - | - | - |
                  夫婦間に勝ち負けはなし!あるのは、夫婦一緒の勝ち負けのみ!
                  0
                     実力とルックスを兼ねて大人気だった「オグシオ」の潮田玲子選手は、オグシオペア解消後は、男性である池田選手とペアを組み、「イケシオ」として、混合ダブルスに転じました。

                     そこで読者の皆様と考えたいことがあります。「イケシオ」ペアとして出場した試合において、池田選手が勝って潮田選手が負けること、潮田選手が勝って池田選手が負けることがあるでしょうか?もちろん、あり得ません。勝つ時は、二人一緒に勝ち、負ける時は共に負けるのです。バドミントンだろうが、テニスだろうが、アイスダンスだろうが、男女ペアの競技は全部そうなのです。ペアの一方が勝ち他方が負けることはあり得ません。


                     ところが、どうでしょう?結婚という混合ダブルス競技においては、何を考え違いをしているのか、一方が勝ち他方が負けることはあるような錯覚に陥ることがあります。ペアが敵対して、相手を打ち負かそうとするわけです。夫婦喧嘩などは、まさにその通りのことが生じます。

                     相手の間違いを指摘して、言い負かして、謝罪させたら、それが、「勝利」でしょうか?クリスチャン夫婦の場合などは、聖書の言葉まで引用して相手の間違いを指摘して、過ちを認めさせ、謝らせようとすることも。その結果、二人の愛情関係にひびが入るなら、それは勝利ではありません。事実は、二人一緒に負けているのです。敗因は意外にも、正論で相手を謝らせた方にあるのではないでしょうか?つまり、正しい方に敗因があるのです。結婚相手を敵にして負かすことは、時に混合ダブルス競技でのエラーに相当します。

                     逆に、相手に言い負かされて、いつも自分の方が謝って、やられっぱなしという読者もいらっしゃるでしょう。それは「負け」と評価すべきでしょうか?もし、それによって、夫婦関係がよりよくなっているなら、それはチームとしては勝利なのでは?混合ダブルスで共に勝利しているのかもしれません。その場合、勝因は、自分の正しさより夫婦のためを優先して、負ける役を厭わない側にあります。実は正しくない側が素直に負けることが、ファインプレーとなり、混合ダブルス競技を勝利に導くものです。

                     もし、私たちが、夫婦喧嘩で自分が勝ったと喜んでいるなら、相手を言い負かして溜飲を下げているとしたら、それは、私たちが夫婦の一体性という聖書の根本教理を忘れているのかもしれません。そして、個人の勝利と錯覚し、チームとしての敗北を見失っているのかもしれません。


                     そう考えますと「夫婦喧嘩でどちらが勝つか?負けるか?」にこだわるのは何とくだらないことでしょう。結婚は混合ダブルス競技であって、二人一緒に勝つか、二人一緒に負けるしかないからです。ましてや、ペアどころか、一心同体なのですから。夫婦間の争いに勝ち負けなどないのです。

                     喧嘩によって、関係を険悪にするなら、それはチームとして一敗であり、喧嘩を通じて、より親密となり絆を強めるなら、チームとしての一勝を意味するのです。破壊的喧嘩は一敗で、建設的喧嘩は、一勝ということです。

                     ですから、夫婦喧嘩において、最も大切なことは、「どちらが正しいか?」でも「どちらが謝るか?」でもないのでは?「決着をつけること」よりも、「あえて決着をつけずに夫婦の絆を深めること」の方を優先すべきケースも多いだろうと思うのです。


                     というわけで、今日の決めの言葉

                    「夫婦間に勝ち負けはなし!あるのは、夫婦一緒の勝ち負けのみ!」

                     夫婦間の勝敗にこだわるより、夫婦一緒の勝敗にこだわる方が、聖書的だし、よりよい結婚につながると思うのですが、どうでしょう?
                    | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 17:22 | - | - | - |
                    「相手が変わり、自分が癒える」ではない!「相手がわかり、自分が見える」じゃ!
                    0
                       昨日、めでたく新著は入稿(印刷屋さんに原稿を送った)していただきました。7月の最終週前半に、納品との連絡をいただきました。早ければ7月の最終週の週末から、多分、8月の第一週のどこかで、書店には並ぶのでしょう。ただし、書店で、お求めの際にはくれぐれも確認をしてお出かけください。それから8月2日にお邪魔する関東の某教会の皆さん!20〜30冊をお持ちしますので、よろしくお願いします。

                       さて、昨日、新著のタイトルを「痛おもしろ結婚塾、相手がわかる!自分が見える?」と発表したところ、それを受けて、お世話になっているN牧師がツイッターでこうつぶやいておられるのを発見!

                       「相手が変わり、自分が癒える、そういう本を書いて欲しかった… 」

                       これは、笑いました。最高のユーモアです。「相手がわかり」でなく「相手が変わり」、「自分が見える」のでなく「自分癒える」とは、まさに結婚生活向上を妨げる典型的な姿勢、新著のコンセプトの正反対であります。

                       結婚生活の中で「相手が変わって、自分が癒える」を体験することは、まずありません。相手の変化と自分の満足を願う自己中姿勢は、エペソ5章が示す結婚観に真っ向から反するもの。「相手をわかろう」とする愛の努力、「自分が見える」という客観性、自省的態度からの悔い改めこそが、結婚関係を向上させるのです!

                       良い夫婦を見てごらんなさいよ。クリスチャンであるなしに関係なく、夫婦両方が努力をしており、お互いを思いやっているはずです。幸せな夫婦関係は、両者ともが努力をしています。そして、二人共が自己中心を一定克服した成熟に達しています。結婚関係とは努力によって築き上げられ、夫婦関係は相手を思いやる愛によって、成長するのです。これはクリスチャンであるかどうかに無関係のように思います。

                       
                        「相手が変わり、自分が癒える、そういう本を書いて欲しかった… 」

                       この最高に笑えるフレーズは、多くの既婚者、現代日本においては、とりわけ夫たちの本音でしょう。でも、神様は、このプロセスでは働かれませんし、聖書が記す結婚の教えはこの正反対。「相手が変わり、自分が癒える」を待っている限り、結婚生活の改善は永遠に訪れないでしょう。

                       ありえないことを願いながらの乏しい結婚生活を脱して、為すべき異性理解と悔い改めによって、豊かな結婚生活へと導く。それが新著の狙いです。「相手が変わり、自分が癒える」から「相手がわかり、自分が見える」への意識変革、それが新著の願いです。


                       というわけで、タイトル発表へのユーモラスな応答を通じて、より鮮明に新著のコンセプトをお伝えできて、感謝するばかり。あと2,3週間程、お待たせすると思いますが、新著「痛おもしろ結婚塾、相手がわかる!自分が見える?」、なにとぞ、ご愛読とご活用をよろしくお願いします。
                      | ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 13:48 | - | - | - |
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