先週の新潟での中高生キャンプは、3泊4日で六回のメッセージ。午前と夜は常に集会という今どき珍しい御言葉漬けキャンプ。それも「メッセージは4回から6回」と依頼されて、大して考えもせず、調子に乗って6回と応えた私のせいであります。
以下のブログでキャンプリーダーが、レポートをしておられます。6回でも、中高生にヒンシュクをかわずにすんだようで、一安心であります。非常に霊的感性が豊かで、しっかり御言葉に応答できる中高生ばかりで語るこちらが感激しました。背景にある家庭や教会の積み上げてきた祈りと労を思わずにはおられません。
「U−18リトリート」
http://niigatabiblech.blog27.fc2.com/blog-entry-70.html
今回もご依頼に応えて、定番の「ずっと幸せになるための恋愛講座」をお話し。そこでの女子中高生から起こった応答に、大変教えられました。
その応答は「結婚までしなくていいんだ。安心した」というもの。
「えーっ!結婚までしちゃいけないのー!知らなかった」という教育不足ではないのです。
「結婚までしちゃいけないなんて・・・・」という反発や疑問ではないのです。
「結婚までしない方がよいとよく分かった」という期待通りの応答でもないのです。
「結婚までしなくていいんだ。安心した」。この応答の背後にあるのは何でしょう?
「結婚前のセックスは当然」という一般社会からの声。
「愛し合っていたらしないのがおかしいでしょ!」という友人達からの声。
「体験できない女の子はいけてない」という無言の圧力。
いやいや、きっと「結婚前でも求められたらセックスしなくてはいなけい」という刷り込みだったのでは?と考えております。
現代日本は不思議な社会で、「結婚しなくてはいけない」とは若い時期にはあまりプレッシャーはかけられませんが、「恋愛しなくてはいけない」「求められらセックスしなくてはいけない」などの妙なプレッシャーがあるもの。
クリスチャン家庭や教会の交わりで育った女子中高生には、言語化できない違和感や、性体験への恐れがあるようです。幼い頃から信仰的な環境で育つことの大切さを思います。結婚前に愛し合っているからといってセックスをする風潮に言葉にならないおかしさを感じたり、性体験を自分を相手に与える恐ろしさを伴うものとして感じている感性は素晴らしいと思うのです。
同時に、「結婚前でも当然」「するのが当たり前」という風潮にプレッシャーを感じているのも事実のようです。その意味で、プレッシャーから解放され、自由になったとしたら、それはうれしいことです。
「結婚までしなくていいんだ。安心した」。それは世の言葉に刷り込まれず、まともな感性が残っている女子中高生たちの正直な思いなのでしょう。逆に言えば、それは「しなくてはならない」に近いようなプレッシャーが強く存在していることを意味します。
本来「自由」とは「するかしないかを判断して選べること」のはず。「結婚まで待つのが幸せ」というのも一見不自由に思えるのでしょうが、「しなくてはいけない」は、それ以上に不自由な世界だと思うのです。
「しなくてもいいんだ!」>「えー!しちゃいけないのー?」
これは、正常な感性を残す女性たちに見られる「婚前の性、飽食の時代」ならではの揺り返し現象ではないでしょうか?