昨日、「ラジオ人生相談」を聞いておりますと、夫の浮気癖に離婚を考えている妻に、回答者が、男性理解を願ってこんな言葉で諭しました。
「女は音楽会、男は美術館」
女性にとって、異性関係は、音楽会のようなものです。一つの音楽会で楽しめるのは、通常一ジャンルの音楽だけです。クラッシクとジャズとロックの三つアーチストを一回で楽しめません。しかし、男性にとっての女性関係は、、美術館のように、多様なアーチスト、絵画、彫刻など様々なタイプの作品を楽しめるというのです。つまり、女性は一人の男性にのみ関心と愛情を向けますが、男性は多数の女性に関心と愛情が分散してしまうのです。
よく言われることですが、「女は、一人の男に真実に愛されることを願い、男性は、多くの女性に愛されることを願う」というのと同様の趣旨でしょう。
実際に正常な人格の女性であれば、夫から真実に愛されていたら、まず、浮気をすることはありません。しかし、正常の男性の多くは、妻から真実に愛されていても、なお、他の女性に気を惹かれたり、浮気心が芽生えたりです。これが現実なのです。
女性は「あんな素敵な奥さんがいるのに、浮気するなんて」と驚いたり、ショックを受けたりします。きっと真面目な独身男性は、「あんな素敵な奥さんがいたら、自分は絶対に浮気なんかしない」と思うでしょう。私も独身時代はそう思いました。しかし、既婚者男性の多くは、自分の立場に置き換えて、「きっと、あんな素敵な奥さんでも、浮気心は芽生えるかもなー」と想像することでしょう。そう、男性は最高の音楽会でも、満足しきれず、美術館に移動したがる罪深さを持っているものです。
これは、コロサイ3:5によれば、性の世界における「むさぼり」であり、「そのまんま偶像礼拝」なのであります。偶像礼拝の本質は、刻んだ像を神様の代理として拝むことではありません。それは、本質の具現化に過ぎません。偶像礼拝の本質は、人間の欲望の無限肯定です。真の神とその言葉を退けてまで、その実現を目指すなら、その欲望対象が、偶像なのです。
その意味で、男性は、恵まれた結婚の中にあってもなお、性を偶像としやすい罪深さがあるように思います。逆に、妻は、結婚関係の中で、夫を偶像としやすいのでは?創世記3章にあるように、本来、神との関係で得るべき究極のアイデンティティーを夫との関係に求めるあまり、夫に依存したり、現代では、逆に意に沿うように夫を支配したりすることが、妻の側の偶像礼拝のように思います。
「結婚関係の外に偶像を持ちやすい男」と「結婚関係の内に偶像を持ちやすい女」という傾向はあると思うのですがどうでしょう?こうした男女それぞれの罪深さが、結婚生活の困難さの奥底に潜んでいることも少なくないように感じています。
ラジオでは、その相談者女性が、離婚前にすべき努力をしておらず、離婚する覚悟もできていないため、「男性の浮気はある程度仕方ない、一定、寛容であるべき」と回答者は相談女性に伝えていました。この言葉はおよそ同意できませんが、「音楽会と美術館」の喩えは、異性理解のために有効な言葉だと思いました。
女性読者におかれましては、浮気に寛容である必要はありませんが、男性のこうした残念な現実とどうしようもない弱さについては、ご理解をいただき寛容であっていただきたいとは願うのです。少なくとも、自己感覚という「物差し」で男性を計測して、浮気心を垣間見せた男性に「信じられない」とダメ出しをしたり、「ありえない」と断罪しないで欲しいなとは、願うわけです。同時に、自分の側にあるかもしれぬ「結婚内偶像礼拝傾向」についても、一度考えてみてはどうでしょう?