命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
神が今日求め給う「傷ついた癒し人」と「傷つける愛し人」
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     「父となる旅路」から考える母性愛と父性愛のシリーズは、それなりに好評であったようです。
             

    (5)に対してはFBの方ではこんな応答が。(太字は私の編集)
     
     青年期を振り返るとき、大切な転機となったのは幾人かの年長者の愛ある叱責、警告、問いであったように 思います。ある人は細やかな配慮の中で控えめに、ある人は多少の誤解を恐れず大胆にぶつかってくださいました。その時、確かに自分のことについては言い訳はそれなりにしやすいわけですが、神は人間関係、特に信仰者の交わりの中で、人間の限界を用いつつそれを超えて語り給うと信じて、先ずは聴く、そして御心を問う、というというふうにすることで、己を違った角度から見つめ直し、砕かれる経験をしたように思います。


     傲りにせよあきらめにせよ、もう変わらない、変わる必要もない、というのではなく、常に生かされ変えられて行くことに開かれている、というところに信仰生活の革新があり、しばしば母性的と捉えられる聖霊は、しかし革新者、変革者として立ちたもうという意味においては、先生の記事の文脈で言うところの「父性愛」を持って働いておられるのかもしれません。


     以上が引用です。信仰者の交わりの中、年長者からの愛のある叱責が青年期の転機となること。聖霊の働きが父性愛的側面を持つこと。適格で鋭い考察と指摘だと思いましたので、ご紹介しました。残念ながら、昨今は相手を傷つけることを恐れるあまり、こうした人間関係の中での恵み、聖霊の父性愛的な働きが経験されなくなっているのかもしれません。


     また、ある方は(4)を。シェアをしてくださり、その際に、箴言27:6の後半のみことばを記されました。

    「憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」


     これら二つのことを通して、考えました。

    (後記:以下は、一連のシリーズ記事の文脈の中、豊田先生による「父性愛」の定義の中でお読みください。)


     「傷ついた癒し人」という表現があります。イザヤ53:5は記します。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」キリストは傷つけられたことによって他者を癒す者となられました。同じように、小さなキリストであるクリスチャンたちも傷つけられた経験が用いられて、他者を癒す者とされるのでしょう。

     一方で、真実な愛の故に愛する者の罪や課題を指摘し、その結果として相手を傷つけてしまうことがあります。愛の名目で人の罪や欠点を指摘して、意図的に傷つけるのではありません。傷つけることが目的はなく、予想される結果、リスクなのです。目的は罪であれ欠点であれ、課題を示し、相手がそれに向き合い、回復成長し、祝福されることです。相手を傷つけてしまえば、その事実が自分を傷つけます。それでも相手のためにと願うのは、自己犠牲を伴う献身的な愛キリストの愛と言うべきでしょう。

     (後記:愛という動機が相手を傷つけることを正当化するわけではありません。これは、相手を傷つけ、それによって自らも傷つくことを恐れるあまり、愛することから逃げてしまうことへの警鐘です。また、エペソ4:15の「愛をもって真理を語り」とのみことばに生きることを願って記しています。この点は誤解をされませんように。)


     私はそれを、「傷ついた癒し人」ならぬ「傷つける愛し人」と呼びたいです。


     そして、思うのです。

     傷つきやすい現代人が集う日本の教会において、今、神様が求めておられるのは、

     傷ついた者を癒す「傷ついた癒し人」とともに、

     傷つけることを恐れず愛する「傷つける愛し人」でもあるのだろうと。


     そう、君も誰かの「傷つける愛し人」になろう。

     傷つける愛し人に愛されたら、たとえ傷ついても、逃げず、心閉ざさず、逆切れせず、その愛を感謝し、受け止め、その真実の愛に応答しよう。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 15:35 | - | - | - |
    非婚、離婚、不妊〜女性のあり方に求められる新しい革袋
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       木曜日は、金城学院大学の非常勤講師の集まりがあり、大変、有意義な交わりをいただきました。男女共同参画社会について講義をしておられる先生からは多くを教えられました。一つだけお分かち。

       今後、女性の四分の三は、生涯結婚をしない「非婚」というライフスタイルで生きていくと予想されています。また、結婚したカップルの三分の一は離婚するとのこと。

       ですから、結婚をして、離婚をしない女性は、3/4×2/3=1/2となり、半数に過ぎません。

       さらに、私は考えました。結婚したカップルの7組に1組は不妊で、お子さんを産み育てることがないそうです。ですから、今後、女性が結婚をして、離婚をせずに、子どもを産み育てる確率は・・・。

       3/4×2/3×6/7=3/7となります。つまり、約43%です。

       そこで考えるべきは、これからの女性のライフスタイルにふさわしい革袋を教会が備えるかどうかでしょう。。

       今後、婦人会、女性祈祷会など平日に女性が集まるスタイルは成立しなくなるのかも。集まっても高齢者のみとなるのでしょう。

       今、(教会外の基準を単純に当てはめれば)教会に集っている若い女性が、結婚し、離婚せず、子どもを産む可能性は4割程度

       その子どもが、教会学校に来るのですから、教会学校の将来も見えてきます。


       しかし、悲観する面だけではないでしょう。

       離婚経験者の小グループ、シングルマザーの集い、その子どもたちをフォローする教会有志チーム非婚就労者の学び会・・・

       新たな革袋を通じて、届けなかった地域や知人に届く教会へと脱皮していくチャンスともなりうるのではないでしょうか?

       もし、そうした交わりやミニストリーができるなら、その教会は、今後のモデルとなっていくのかもしれません。以前は、7,8割の女性が送ってきたライフスタイルを送る女性は4割程度となっていくのです。女性のライフスタイルの大きな変化は、宣教や教会形成にも大きな影響を与えていくのだろうと思えてなりませんでした。
      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 22:45 | - | - | - |
      「若手を自分色に染めるより、自分が若手に染まった方が早いし効果的」って、けっこう聖書的かも
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         今朝のラジオで番組で、引退を発表したAKB48総監督の高橋みなみの著書「リーダー学」が紹介されておりました。これが、侮れない内容で、評価が高いそうです。今やAKB48は日本のビジネスモデルの一つですから、たかみなのリダーシップも注目されるのでしょう。本日のタイトルはその中の言葉を要約したものです。

        若手を自分色に染めるより、自分が若手に染まった方が早いし効果的
         
         ネット上の情報によれば「上の代が下の代に、近づいていく、降りていく。『私たちはこうやってきたんだから』と押し付けても、今の若手メンバーはついてこない。だったら自分たちが、若手メンバーたちに混ざっていけばいい。」というような内容だそうです。


          これは、キリスト教会には、有益な「リーダー学」なのでは?「私たちはこうやってきたんだから」との押し付けは、時に未来のキリスト教会を担うはずの若い芽を摘み次世代との断絶を生み出しかねない行為と言えるでしょう。どうも、これを無自覚に行いながら、「若い人がいない」「若い人が来ない」「どうして?」「自分たちの若いころは・・・」とお嘆きのベテランクリスチャンも少なくないように観察しています。

         でも、この手の失敗って、パウロもやってるんじゃないかと思うのです。バルナバと伝道旅行へ出かけようとした時のこと、パウロは、前回の伝道旅行で離脱したマルコを同行すべきてないと主張します。マルコを同行すべきと主張するバルナバと反目となり、別個で伝道旅行に出かけます。

         これは、想像ですが、パウロには、「若手を自分色に染める」発想があったのかも。次世代リーダーのマルコに対して「私たちはこうやってきたんだから」との押し付けがあったのではないかと想像するのです。パウロは、迫害で石打ちにあって死んだと思いきや、起き上がり伝道旅行を続けるような器でした。「どっこい生きてるシャツの中」ならぬ「どっこい生きてる石の中」のど根性伝道者です。パウロが、マルコに自分同様のど根性を伝道者の必須条件するのは、当然の心情です。でも、現実のマルコは、伝道旅行から離脱する「根性なし」なのです。どう考えても、パウロ色に染めるのは無理です。世代間格差とはそういうものです。自分にとっての標準が、世代を超えての普遍的標準とは限らないのです。

         これに対して、バルナバは、自分が若手に染まったのでしょう。きっと、伝道旅行中にも、根性なしのマルコの心情に寄り添い、賜物である慰めと励ましで、マルコを第一線の伝道者にまで育てたのでしょう。結果論だけで言えば、ご存知のように、マルコは、晩年のパウロが認める第一線の伝道者となりました。

         この事件「パウロ、やっちゃまったなー」と受け止めることもできるのでは?まあ、パウロ大先生でもやっちまうのですから、今日、日本のキリスト教会で、ど根性伝道者が、根性なし伝道者を潰したり、熱血ベテランクリスチャンが若手ヘタレクリスチャンに気合を入れ過ぎて、教会に来れなくしてしまうことも、ある意味、「残念な必然」「避けがたい悲劇」なのでしょう。

         そういうわけで、身に覚えのある方々は、「パウロの振り見て、我がふり直せ」として受け止めてみてはどうでしょう。自覚のない方も、せめて、パウロのしくじりを、同じしくじりをしないための反面教師として受け止めていただければと願うばかり。


         こんなしくじりに学んだからでしょうか。晩年のパウロの草食系ヘタレ伝道者テモテに対しての手紙は、まさに「若手を自分色に染めるより、自分が若手に染まった方が早いし効果的」を具現化したような文面です。マルコにダメ出しして、バルナバと反目したあのパウロはどこへやら。「パウロ先生、バルナバ入ってません?」と申し上げたくなるような変貌ぶりであります。

         自戒を込めて思うのですが、長年、忠実に励んできたからこそ、パウロのようにしくじりやすいのです。「若手を自分色に染める」発想に陥ってしまい、そこから抜けられないのです。「私たちはこうやってきたんだから」と押し付けることが、若手にとってのよいことだという間違った確信を持ってしまうのです。

         そして、「もっと若い人に教会に来てほしい、そして、私たちがやってきたことを続けて欲しい」と願うのです。一つの目的を実現する方法を自分がしてきたこと一つに限定するのです。同じ目的を果たすための次世代のあり方や表現や方法論を否定するのです。ダメ出しと否定をしておいて「若い人に来てほしい」と切望し、「若い人が去っていくのはなぜ?」と嘆いておられるケースも少なくないように観察します。


         お互い、50、60を過ぎたら、いい加減、「マルコダメ出し系パウロ」から「テモテ励まし系パウロ」に脱皮したいものです。いい歳してマルコ潰ししていては、神様から「あんた、何のために聖書を読んでんの?」と呆れられしまいます。この点については、パウロも「しくじり先生」でした。ましてや、私たちは、同様のしくじりを免れないことでしょう。でも、せっかく聖書がパウロの「恥ずかしいしくじり」と、「バルナバ入ってます的変貌」を記しているのですから、どこかの時点で、シフトチェンジして、パウロのように次世代を励まし育てる晩年を送りたいと願うのです。


        若手を自分色に染めるより、自分が若手に染まった方が早いし効果的

         たかみなのこのリーダー学、侮れませんな。結構、聖書に通ずる真理なのかもしれません。
        | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:53 | - | - | - |
        一昨日の記事への一牧師の応答をご紹介
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            一昨日の記事(シリーズの2番目)に応答して、知人牧師(南野浩則師)が、ご自身がずっと考えてきたことをフェイスブックに記されました。牧師のストレスや破たん原因の一つについての鋭い指摘と深い考察だと思いますので、以下にご紹介します。(一部削除しています。また、太字は水谷の編集によるもの)


           敬愛する水谷潔牧師のblogで、自らの「闇」を含めて牧師職にある者は自己と向き合わなければならない、そのようなことが主題となっていた。私自身にとっては、自らが牧師であること、また牧師や宣教師を志望する神学生と相対さないといけないということで、「失敗」を含めて身につまされる話題であった。同時に、自分なりに考えてきたこともある。

           戦後、福音派と呼ばれる教会は、少品種大量生産の価値観に乗って人数を拡大してきたと私は考えている。教会に集う人々は、教会やその組織に自らを同化させることで自己実現を図ってきた。そこでは排他的な福音理解、世界観で話がまとめられ、それ以外の考え方やあり方は受け入れられなかった。

           しかし、時代は多品種少量生産の時代となり、人々は教会に自己を同化させるのではなく、自らの福音理解や世界観で生きることで自己実現を図るようになってきた。牧師のいわゆる「燃え尽き症候群」の一因は、両者の狭間の調整の失敗ではないかと推察している。

           教会内の意見の違いに対する不満や文句は、形を変えつつも、多くの場合は牧師に集中する(ある場合には無責任に)。牧師が辞任したとき、教会自体やそこに集う人たちが自己を見直す必要がある場合もあるのだろう。それはその牧師に対する責任の果たし方というだけでなく、その教会に病巣があるかも知れないことを省みるためである。


           以上が転載です。この記事を読んで、すぐに腑に落ちたのは、教会においての「信仰理解と信仰生活における世代間格差」です。良くもも悪しくも、教会のあり方は、ある程度、時代の精神や社会背景に影響を受けるもの。「少品種大量生産」の時代における教会や組織への自己同一化による自己実現から、「多品種少量生産」の時代での自らの福音理解で生きることでの自己実現へ移行してきたという分析です。

           これは、今まで思い至らなかった内容でした。私などは「自己実現」と聞くと「神を除外した自己欲求達成」というマイナスの意味で受け止めがちです。南野先生の意図とは異なるかもしれませんが、私と同じような読者は、「自己実現」を「自己同一性の獲得」や「自己価値確認」に置き換えると、すんなり同意できるかもしれません。

           まさに教会の世代間格差は、目に見える感性や文化の違いよりも、実は、その根底にあるこの違いが大きいのでは?この根底にある違いを見定められないことが、世代間における相互理解の困難さにつながっているように思うのです。そうした世代間の調整失敗が、牧師の燃えつきの一因と南野先生は指摘しておられます。

           世代間の意見調整に苦慮する牧師が、両方から責められる場合もあるでしょう。牧師が下の世代の育成に重点を置けば、上の世代から不満や批判が来ることも。さらには、理解も尊重もされない下の世代が教会を次々と去れば教会高齢化の責任を牧師が問われることも珍しくありません。南野先生のご指摘の通り、信徒間の問題であるにもかかわらず、なぜか牧師ばかりが責任を問われるのです。あるいは牧師に責任を問えない場合は、無責任体制となり、問題の放置がされるように観察しています。

           残念なことに、教会内の不満の声は、牧師へ向かい、時に、牧師が去ることで事態が収束するかのような錯覚に陥り、その方向へと進みます。結局、牧師が教会を辞任するのですが、多くの場合、牧師の辞任で問題が解決するわけではありません。世代間格差の問題は、牧師の力量不足が問題の直接的原因ではないからです。

           そうした経緯で無牧となった場合は、信徒が自らを真摯に省みるかどうかが、分岐点となるのでしょう。それは、病巣を見定めて問題の克服に向かうか、牧師をスケープゴートにして終わっていくかの分岐点です。後任牧師と共に教会が課題に向き合っていくか、3年程度で牧師を変えながら自らは変わらない教会になっていくかの分岐点です。決められた担当医と共に治療に励むか、本当の病気を認めず症状だけを訴え続け、担当医を変え続けるかの分岐点です。


           一昨日の記事では、牧師や教職志願者が自らの闇に向き合う必要性を記しましたが、教会全体が自分たちの闇に、信徒各自が自らの闇に向き合う必要性を、南野先生の記事からは、教えらえた気がします。とりわけ、昨今の教会において、重大な課題となっている信仰理解と信仰生活における世代間格差については、自らに向き合わぬことが、牧師をスケープゴートにしてしまっているケースが少なくないように感じます。また、病巣を温存したままで、担当医を変え続けていると思われる教会を嘆き悲しむ声も時々、耳にします。

           顧客満足度で牧師と教会を評価する一方で、み言葉によって心の深みを探られ、自らと向き合うことを拒否するような信仰姿勢は、次々と牧師を生贄にするだけでなく、教会にあるはずの希望さえも、自ら捨てる去ることを意味するように思えてなりません。牧師も信徒も、逃げたりごまかしたりせず、み言葉の光に照らされて自らに向き合うことが、不必要な失敗を避け、希望に前進していく大前提となるのでしょう。一昨日の記事に応答しての優れた考察に触れて、そんなことを考えました。
          | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:07 | - | - | - |
          "Ministry"の特集「牧師たちの失敗」がリアルで泣ける、そして、教えられる(2)
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             昨日の記事は、予想外の支持をいただき、拡散もしたのでしょう。アクセスは3000を超えました。読者が記事をどう受け止め活用するかを記者は100%コントロールすることはできません。ただ、記事の本意をくみ取っていただき、牧師批判や教会批判の材料に使わないで欲しいと願っています。それは、記事の意図に最も反することだからです。この点はどうか、よろしくお願いします。


             Ministry最新号の特集「牧師たちの失敗〜しくじりを教訓に」では、実際に失敗を体験された二人の牧師を取材しています。今日はそのお二人の事例について、教えらえたことを記します。

             一人目は、約30年の間牧師をされた後、辞められて、その30年間を失敗として自己評価しておられる方です。取材後記によれば、国内外二つの神学校を出られて周囲からは将来を嘱望された方であったとのこと。インタビュー記事からも、この方の神学的素養の深さや優れた知性を垣間見ることができます。

             様々な側面から、質問がされるのですが、「牧師という仕事と生き方を理解していなかった」ことが原因の一つであったと答えておられます。他の専門職にもあることでしょうが、牧師の場合は、特に、現場に出てからこうしたことが深刻な問題になります。ただ、それは珍しいことではありません。少なくともそれだけなら、辞めることはなかったでしょう。

             就任した教会の待遇面には驚きました。いくら独身で牧師館住まいでも、ありえない牧師謝儀(どうも月額数万円?)にびっくりです。正直、「その給与で、しかもバイト禁止かよ!」とブラック呼ばわりしたくなりました。ヘタレの私なら最初から招聘を断るか、就任してしまったら、迷わず転任をしたでしょう。信徒の未熟さや教会内の混乱も、かなりのものです。「別の教会に移ったら、牧師を継続できるのに」と不真面目な私は思うのですが、そうはなさらなかったようです。

             辞職後は復職を望まず、年齢的に普通の就職もできず、結婚もされずに歩んでおられます。この方は、記事の最後で、牧師を辞めた大きな理由を三つ語っておられます。その三つは、私にとっては、かなり意外なものでした。「召しが不明確だった」「現実の人間関係の破たん」「精神衛生上の問題」などではないのです。その三つに私は教えられました。これは、真面目で有能で純粋だったからこその理由だと感じたのです。そして、それは次の世代への教訓であり、キリスト教会の課題であると受け止めました。


             この牧師は匿名でのインタビュー記事ですが、もうお一人は、実名で取材を受けておられます。編集主幹の平野克己師の神学校時代の先輩で当時は寮長を務められていた方です。牧師となり、結婚して、お子さんも与えられながら、ノイローゼ、DV,離婚を経て辞任します。この経緯は実に痛ましいです。でも、ある意味、起こるべくして起こったという面もあり、目を背けてはならないと思いながら読みました。

             しかし、それで終わりではないのです。この方は、ノイローゼやDVなどの原因となる自分の問題と真摯に向き合ったのです。周囲の助けも受けながら、「厳格な母との母子関係」「怒りの根幹にあった見捨てられ不安」などに気づき、克服に向かいます。そして、別団体の牧師として復職を果たします。問題が起こってしまった後に、自分の本当の問題に向き合ったことによって、回復の道が開かれたということでしょう。この記事には、大きな希望があります。

             この事例は、現われは異なりますが、近年増加してきたパターンだと思うのです。不健全な親子関係や不幸な成育歴を持つ方が教職を目指します。そこから由来する課題がキリストにあって克服されていたり、遅くとも神学校時代に取り扱われていればいいのですが、なかなかそうはいかないのが現実のようです。

             その潜在的問題は、信徒との人間関係という牧会現場結婚生活という現場で、表出します。この復帰された牧師も結婚生活の中で「自分の知らない自分が、相手との関係性の中で掘り起こされ」と回顧し、その怒りの表出がDVとなったことを振り返っています。

             親子関係や成育歴の中で受ける傷は、誰もが大なり小なり抱えているでしょう。特に牧師家庭には、親子関係に独自の課題が生じやすいものです。結婚関係の中で自分の知らない自分が表出すること既婚者の多くが経験することでしょう。要は、程度問題だと思うのです。それが、結婚を破壊し、牧師の職務を不能にするレベルであるならば、何とか、当人や周囲が気が付いて、神学校入学前に対処するか、克服するまで、献身を延期できればと願います。

             教職者不足解消と教会維持と神学校維持が優先されるあまり、教職希望者の適正が検討されずに、当人の「主観的召し」が実質上のパスポート化してしまっているのでは?と心配になるケースを時々お見かけします。二人目のこのケースも、神学校入学前からノイローゼ気味なのは自覚されていたのですから、周囲がメンタル面や成育歴の課題を理解していれば、最初の挫折は避けられたのではないかと思えてなりません。私は、この記事がよい事例となり、教職志望者を送り出す教会、受け止め育成する牧師養成機関、牧師を迎え入れる教会の三者が、当人のメンタル面や成育歴について、必要と判断されるなら、専門家の助けも借りて、検討するようになればと願っています。
             

             成功者と評される牧師には、時に「成功者だから言えないこと」もあれば、「成功者故に見えていない自分」があります。しかし、この記事には、「辞めたからこそ、言えること」、「失敗したからこそ、見えた自分」、「失敗者だからこそ、見えたこと」が、記されています。その意味で、今回の特集は、これまで学べなかったことを学べる記事と言えそうです。闇に向き合うことなしには見えない真実闇に光を当てることによってでなければ見い出せない真理がこの特集にはあります。

             「アッパレ!それでこそ、"Ministry"」というのが最新号に対しての個人的評価です。自信をもってお勧めします。



            Ministry最新刊 28号の詳細はこちら!
            http://www.ministry.co.jp/book/view/282/

            明日は、藤掛明先生の「まとめに代えて」をご紹介。







             
            | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 10:42 | - | - | - |
            教会立てこもり事件に関連して、一教会の週報コラムを紹介
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               先日の記事に応答して、日本長老教会の一牧師が、本日の週報に掲載するコラムを送ってくださいました。日本長老教会は私たちはひとつ教会」という意識を大事にしておられ、諸教会は一つ思いとなって祈り支えておられるようです。事件発生前から、週報に掲載するコラムを書いておられたのですが、今回の事件を受けて、最終部分を事件に触れるようにされたとのこと。この事件を共に痛み悲しむ者には、不思議な調和に満ちた励ましとなることでしょう。以下に著者のご快諾をいただき、転載します。(太字は水谷による編集)


              【コラム】
               楽しみに読んでいた徳島新聞の連載「没後125年 人間ゴッホを求めて」が終わりました。一時は牧師を目指したビンセント・ファン・ゴッホですがあまりに純粋で、情熱的で、激しかったため伝道者の道は捨て、芸術の筆を執りました。そして、多くの悲しみや人々の苦しみにもがき続け、最後はピストル自殺をし、最愛の弟に手を握られる中、「悲しみを消すことはできない」という言葉を残して世を去ります。

               1月12日付けの連載では、「オーヴェールの教会」が紹介されていました。「コバルト色の不穏な空と黄緑色ののどかな地上が対比され、その中間に大きな教会堂がゆがんで建っている」絵です。筆者の坂口哲啓氏いわく、《「汝の隣人を愛せよ」というイエスの素朴な教えが、長い時間の中でゆがめられてしまった。その〈悲しみ〉をゆがんだ教会が象徴している。画家自身の人生の悲しみがそれに共鳴する。「あなたも苦しんでいるのですね」という共感がゴッホを教会に向かわせたのだ。》 これを読んで、「なんで教会がゆがんでるんだろ?」としか思えなかった絵心ゼロの私は、目からウロコの思いでした。大塚国際美術館にもあるこの絵を、次回じっくり見てきたいです。

               ゴッホの母は「確かにあの子は変わっていましたが、いつも貧しい人々のことを気にかけていたことは疑いようのない事実です。神がそれを見逃されるはずがありません」と言います。「悲しむ者は幸いです」と言われたイエスご自身「悲しみの人で病を知っていた」方です(イザヤ53:3)。教会も、世界の苦悩と無縁に真っ直ぐ存在するより、歪むほどに悲しみを知る場なのです。先週、千葉の教会が被った事件からも、そのことを思わされています。

              こちらが、ゴッホの「オーヴェールの教会」


              古川 和男さんの写真
               

                このコラムを読んで、千葉の教会とオーヴェールの教会が重なるように見える中、私はこう思いました。

               特殊部隊の突入で教会内はひどく傷ついたことだろう。でも、それは「傷ついた癒し人」であるキリストの体らしいのかもしれないと。

               事件によって教会内の備品は、激しく転倒したことだろう。でも、それは「羊飼いのない羊のように弱り果て倒れている群衆を内臓が掻き乱されるように憐れまれた」キリストの体らしいのかもしれないと。

               そして、ゴッホの母のように思うのです。「苦しみ助けを必要としている人を受け止めたことは疑いようのない事実です。神がそれを見逃されるはずがありません」と。
              | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 18:12 | - | - | - |
              ”人工衛星”発射に際して「某国ミサイル問題との共通項としての牧師説教問題?」を再度掲載
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                 本日の礼拝少し前の時間に事実上の弾道ミサイルが発射。第一弾は、五つに分裂し落下。また、一部が宇宙空間に達して軌道に乗ったとの報道。



                 そこで、2012年4月のミサイル発射時の記事を再度掲載。さらにそれへの応答記事を以下に掲載します。

                 ここ数日、メディアのトップニュースは某国のミサイル発射関連ばかりであります。その報道内容に触れながら、思った事は・・・・。

                 「これって、時に、信徒の皆さんからお聞きする牧師の説教への苦情と共通だなー」

                 ということ。

                 信徒の方からの訴えによれば、極一部の牧師の説教は「某国のミサイル発射のごとし」であります。人工衛星という名目で実質はミサイルであるように、説教という名目で、実質は証しや講話や世間話なのであります。どうも、一部信徒の報告によれば、ある牧師は、御言葉の解き明かしとは別の内容の話を、「説教」と称して、ミサイルのごとく講壇から会衆に向けて発射しているそうです。

                 では、その「名目上の説教」がどうなっているかと言えば、これまた、某国発射のミサイルのごとくであります。発射台は聖書の言葉なのですが、その軌道は発射直後から、逸脱してしまうのです。聖書の言葉が意図することとは別のお話しが始まります。

                 しかも、聖書のテキストに従った展開、構築、一貫性などがなく、某国のミサイルが10個の破片に分解したように、その説教は、いつくもの断片に分解。そして、その名目上の説教はミサイルのように発射後、1分程度で、会衆の心に届く前に海に沈没

                 某国のミサイル発射は、いよいよ某国を国際社会から孤立化させると言われておりますが、こうした某国のミサイル発射のような説教が毎週続くと、その説教者も教会の交わりから孤立化する危険性があるわけです。

                 心ある信徒が愛をもって謙遜にご忠告下さっている間に、真剣に改善を試みればよいのですが、そうした努力をしないと、亡国が国際社会から何からの制裁を受けると予想されるように、説教者である牧師が、会衆から制裁を受けることも予想されます。

                 説教中に週報を読み始める、あくびをする、居眠りなどは、軽レベルの制裁です。それらは、制裁の意図を持たぬ信徒側の問題という場合もあるでしょう。しかし、そうした制裁的な意思表示を見逃してしまい、改善努力をしませんと、次には信徒の教会移動という制裁が始まります。場合によっては牧師交代という制裁も起こりかねません。(正確には制裁ではなく、やむをえない応答あるいは信徒としての最後の権利行使なのでしょうが)

                 「優」や「良」のレベルの説教でなくてよいのです。「不可」でなく「可」でさえあれば、こうした問題は回避できると私は思います。しかし、やはり、「不可」のレベルですと、真面目で忠実な信徒も忍耐に限界があるもの。

                 説教者は「人工衛星」と称するなら、人工衛星を発射して、宇宙の軌道に乗せるのが、最低限の使命なのでは?それとは別のミサイルを発射して、分解、一分後に沈没では、国際社会からヒンシュクをかい、待ち受けるのは孤立と制裁であります。

                 「聖書の言葉から発射して、逸脱することなく、聖書の軌道に乗せて、語り続ける」

                 これが、説教者の可と不可合格と不合格の分岐点ではないかと、某国のミサイル問題から、思った次第であります。

                 信徒の方からお聞きする牧師の説教への不満にはこうしたレベルのものが時にあります。優劣以前に「説教として成立しているか否か?」のレベルでの不満です。辛辣な言い方かもしれませんが、そもそもが説教観の問題、正しく聖書が読めているかどうかのレベルの問題かと思います。説教者であるが故に牧師が、孤立と制裁の道に歩まないようにと願うのは当然のこと。それに加えて、成熟した信徒が、不満の訴えではなく、忍耐と愛の祈りと励ましを通じて牧師説教者の成長を助けていくことをと願ってやみません。



                 以上が、最初の記事です。その一週間後に記した記事も再度掲載します。

                先日の記事「某国ミサイル問題の共通項としての牧師説教問題?」には、最近、ブログ上で応答がいつくもありました。「主とブログにある友」とも表現すべき方々からの有意義な応答に感謝します。

                 「ちゃんと聖書からお話ししてよー」とお嘆きの信徒の皆様の声を代弁したに過ぎない記事なのですが、高尚な説教論にまで、掘り下げたり、多様な視点で説教を考察していただき、申し訳ないやら、ありがたいやら。

                 発信順に並べて見ました。関心のある方は、以下の3つのブログ記事をお訪ねください。順番に読むと、なかなか面白いです。主流派的な説教論とその落とし穴の両者を学ぶことができるかもしれません。
                 

                 大和郷にある教会
                http://sugamo-seisen.blogspot.jp/2012/04/blog-post_17.html

                久保木牧師のきらきら探訪
                http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/63225028.html

                一キリスト者からのメッセージ
                http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=325
                | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:21 | - | - | - |
                清原問題から考える「批判者排除=警告機解除」
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                   連日、清原氏のことが報道されています。昨日は、桑田真澄氏が登場し、3年前に清原氏から絶縁を言い渡されたことを明かしました。桑田自身「小姑のようにあれこれ言ってきた」とのこと。頭脳明晰な彼のことですから、理路整然と正論を語ってきたことでしょう。そして、今朝の「スッキリ」のレポーターによれば、妻である亜希さんは、再三再四、清原氏に暴力団との交際と薬物を止めるよう求めていたそうです。しかし、やめようとしないので、離婚に踏み切ったとのこと。

                   理路整然と正論を言う旧友も、立ち直るように懇願する愛妻も、清原氏は排除してきたのでしょう。むしろ、薬物と暴力団が、彼をそうせざるを得ないように追い込んだと表現する方が的確なのかもしれません。自分のためを思い、時に苦言を呈し、耳の痛いことを言ってくれる家族や友たち・・・・。そうした人々を、自分の思い通りにしたくて、排除することは、何と危険なことでしょう。思い通りにすることが、当人を逸脱や破滅に向かわせると判断して、苦言を呈し、耳の痛いことを言っているのですから。

                   
                   そう考えていますと、最近「いいね!」を押しまくっているM牧師のF.B.の記事を思い出しました。あまりに適格で素晴らしいので、当人のご許可をいただき、以下に転載します。(太字は私の編集です)。ぜひ、読者の皆様には、お読みいただきたいのです。


                   溜め込んだ録画済みVTRを観ている。ある歴史ドキュメントの中で、批判者とは迫り来る危機を感じ取っているセンサーだ、そのように理解すべきであるというコメントがあった。批判もしくは批判者を一方的に排除すること、自分の都合で聴かないことは、その危機を見過ごすことになり、何も学ばなくなり、結局はその危機の顕在化によって身を滅ぼす

                   本当に、そうだなと思う。そのようなことを自分でも経験してきたし、最近も目撃した。牧師・宣教師になるような人、あるいは牧師・宣教師になった人は、正直、批判されるのが嫌いだ(もちろん、すべての牧師・宣教師がそうだとは言わない、誤解のないように)。だから批判されないような雰囲気作りをしてみたり、批判されたら怒ったり、違う意見に 不快感を示したり、批判を見ないようにしたり、とにかく批判が自らに届かないように努める(牧師や宣教師など、文句や陰口を言われて爐覆鵑椨瓩覆鵑任垢韻匹諭次法

                   それが宣教阻害の一端にもなっている。改めて「違い」の関係性が私たちを豊かにし、安全にし、平和の土台になること、ひいては神の意思の実現につながることを確認したい。


                   以上が引用です。M牧師のF.B.には教えられてばかりなので、ご紹介しておきます。
                  https://www.facebook.com/hironori.minamino.9?fref=ts


                   一般的に既婚者男性は妻に対して、「自己防衛的」です。さらに牧師のような信仰リーダーになると、被害妄想レベルで、病的なまでに、「自己防衛的」になることは珍しくありません。私などは両方とも該当者であり、経験済みです。

                   ですから、既婚者の男性牧師は、最高の危機警告者である妻を無視したり、黙らせたりして、自分の思い通りにすることは極めて危険と言えるでしょう。同じく、とりわけ賢明で成熟した信徒の苦言を受け入れず、結果的に、その信徒が教会を去るなら、それは、最大レベルの損失であり、教会を危機にさらすことにもなりかねません。

                   このことは信仰リーダーに限らず、多くの男性に当てはまるように思うのです。結局、愛による危機警告者を排除して、自分の思い通りにすることは、自らを王とする小帝国を築くことに過ぎません。教会であれ、家庭であれ、職場であれ、その場から、豊か安全を失わせ、平和の土台を築くことなく、ひいては神の意思の実現に至らないのでしょう。


                  清原問題から私たちが学ぶべきことの一つは、このことだと思うのです。

                  「批判者排除=警告機解除」

                   M牧師が記しておられるように「批判者とは迫り来る危機を感じ取っているセンサー」なのです。批判者を排除することは警告機を解除状態にして、自らを危険に対して無防備な状態に置くことを意味しています


                   
                  批判を受けたら、耳の痛い苦言をいただいたら、次のような可能性を考えてみたいものです。

                   批判者の言葉が「ミサイル」なのではなく、ミサイル接近を知らせる「警報機の警告音」である可能性。

                   批判者自身が「地雷」なのではなく、「地雷探知機」である可能性

                   批判者がもたらす痛みが「病巣」なのではなく、それは、「自分が病気であることを示す痛み」である可能性。


                   愚かなことに、時に、私たちは何と安易に「危険警告機」「危険物そのもの」と決めつけてしまうことか!

                   そして、危険を排除したつもりで、危険警告機を解除してしまうことか。

                   本当に危険なのは、自分とは異なる他者なのではなく、その他者を危険人物としか認識できず排除しようとする自分自身であるのに!

                   それでいて、豊か安全が失われ、平和の土台を築けず、神の意思の実現に至らない責任を、批判者、苦言の主に押し付けてしまうのです。


                   お互い、苦言や批判によって自分の願う世界の実現を阻むかのように思える人物が、自分にとっての亜希元夫人や桑田真澄である可能性を、考えるくらいの謙虚さは、持ちたいものです。

                   清原問題のテレビ報道とM牧師の記事に触れながら、そんなことを考えました。
                   
                  | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:39 | - | - | - |
                  物語からの説教は、圧縮ファイル?冷凍サンマ?健康食品?
                  0
                     書くべき記事ができたので、「親ラブ族」の続編は後回しにします。

                     ベッキーが不倫しようが、SMAPが解散しようが、最近は「聖書信仰ウオッチャー」の私であります。昨日は、山崎ランサム先生のブログに藤本満先生によるゲスト投稿の5回目がアップされました。

                    聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)


                     ご自身の「物語と説教」に目が開かれる経験をお伝え下さり、多くの事例を挙げながら、読者にわかりやすく説明をしておられます。これまでの理路整然、趣旨明確な記事とは違い、今回に限って、少し着地点を見失われたようですが、私にとっては、大きな示唆に満ちたものです。

                     たとえば、洗礼の神学的定義から、一人物の物語を読んでしまった方の事例などは、「聖書的に正しいけれど、聴衆の心に届かず、生活を変えることもない説教」を生み出す最大要因の一つを示していると思うのです。「命題的な説教が、心に届かず、人生にも触れず」という文言などは、説教者の一人として、私も身に覚えがあり、大いに反省させられます。


                     今回、この記事から考えさせられたことは「聖書信仰」とか「物語」とは、関係のないことです。それは、聖書の物語からの説教ということです。自分の説教を検証すると、大抵は物語を分析的に読んで、文脈上重要でかつ聖書全体として支持できる「真理」や「教理」を発見し、それをに説教は再構築して、それらを聴衆の生活に適用させて語るというものです。多くの場合は3ポイントに絞るので、典型的な大衆伝道タイプだというのが自己分析です。まとめれば、こうなるでしょう。

                     「物語から教理を伝える+その教理を社会生活に適用する→聖書と現実をつなげる」


                     このタイプの説教は分かりやすいのでしょうが、物語の持っている瑞々しさやダイナミズムが失われかねません。私の説教は時に「先生みたい」「予備校の講師」と評されます。また、理解してもらえ、指針を受け止めてくれたとしても、「そんな教理伝達と適用なら物語である意味あるの?書簡から説教しても同じじゃん!」とか、自問自答したりします。まあ、それでも、向上心のない私は、説教スタイルを変えずに今日まで来てしまったわけです。


                     物語からのこうした説教についてどうなんだろう?と悩んだ末に、三通りの譬えを思いつきました。どれが、譬えとして適切なんだろうと考えたのです。

                    (1)圧縮ファイルの解凍
                     
                     聖書テキストに込められたメッセージを、命題的真理に圧縮して、説教で語り、「適用」として、解凍方法を示した上で、聴衆の側にダウンロードしてもらう。これなら、元データと同一ですね。でも、説教の場合は同じではないと思うのです。


                    (2)冷凍サンマの解凍販売、調理提供

                     サンマ漁漁船上で、サンマを一旦冷凍して保存、それをスーパーが解凍して販売します。スーパーでの表示は「生サンマ」ではなく「冷凍サンマ」や「サンマ(解凍)」です。それを購入して、料理して、家族や客に提供するのです。

                     瑞々しく、弾力のあるサンマを、命題的真理によって冷凍します。それを説教の際に解凍し、食べやすいように調理(再構築・適用)して、提供するのです。料理人の腕がよければ、おいしいけど、生サンマの新鮮さにはかないません。


                    (3)健康食品の製造・提供

                     ニンニクでも、卵でも、スッポンでもいいです。栄養満点の材料を、煮詰める、成分抽出などの加工して、有効成分が凝集された粒状の健康食品を製造し、それを消費者に提供します。同様に、生き生きとしたいのちに満ちた物語から、命題的真理を抽出し、それを凝縮して、提供します。健康食品なら、成分などを理解しなくても、飲みさえすれば健康に有効ですが、物語からのメッセージは、凝縮してしまうと、理解ができず、物語のイメージも失われ、聞く側にとっては有効成分も無駄になります。

                     「圧縮データなのか?」「冷凍サンマなのか?」「健康食品なのか?」

                     こうして分析し、自己評価すると、自分は(2)の方法論で、料理人としての腕を上げようと努力してきたようです。だから、残念ながら、聖書の物語からの説教に関しては、サンマ漁の船の上で、刺身を食べてもらうような命あふれる取次ぎはできてこなかったとの自己評価にならざるを得ません。
                     

                     私は藤本先生が目が開かれた神学的な意味での「物語」はよく分かりません。でも、聴衆をサンマ漁の船の上に招き入れるような「メッセージ・オン・ザ・シップ」、会堂に漁船が降りてきて、ピチピチはねるサンマの水しぶきが聴衆にかかるような「スプラッシュ・メッセージ」こそが、物語からの説教の理想だろうと考えています。目標と理想像については、藤本先生とは、大きく違わないでしょう。


                     私などは、小賢しく、これを説教の組立や構成によって実現しようと願うのですが、どうも、それは的外れなようです。そこには、パラダイム・シフトが必要なようです。きっと軸足を自分の能力や知恵ではなく、神の恵み側に置き、信頼をテクニックの駆使ではなくみ言葉の力に置くべきなのでしょう。藤本先生はこう記しておられます。
                     

                     これを単に説教の「組み立て」「構成」の問題ではなく、神の言葉の「力」として考えてみました。


                     「神の言葉の力への信頼」ということは、私なりには、分かったつもりなのですが、私の理解は、きっと従来からの聖書信仰によるもので、「物語」という神学の文脈とは、全く違う次元での理解だと思われます。今回は、藤本先生の意図とは、かなり異なるのでしょうが、私なりにこの記事から教えられ、考えたことをお分かちしました。
                     
                    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 16:40 | - | - | - |
                    「神主・狩野英孝」は対岸の火事か?
                    0
                       今朝のテレビ報道によれば、「僕、いけめん」で知られるお笑いの狩野英孝(実家は由緒正しい神社)が、お亡くなりになった父上のあとを継いで、年始には神主を務めたのだとか。そして、元旦の一日にして、準備していた「おみくじ」が"Sold Out"になったことをSNSに記したそうです。

                      「狩野英孝 実家神社のおみくじがまさかの売り切れ 元日たった1日で」
                      http://news.goo.ne.jp/article/dailysports/entertainment/20160102041.html

                      <追記>
                      「狩野英孝 神主との兼業批判にも平然」
                      http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/12/19/0008661107.shtml

                       この記事によれば、どうも、お笑いがダメになった時の保険として神主資格を取得したようです。「お祓いとお笑いを両立」と不敬虔なギャグを飛ばしつつ、お笑いにも神主職にも専心しない姿勢を見せて、さらに好感度を低くしております。(以上、追記)


                       狩野英孝と言えば、信頼できず、好感度が低いのは芸風だけではありません。高校時代のあだ名は何と「いんちき」、さらには、結婚後、数か月にして浮気現場を写真週刊誌に撮られて、芸風と人格がかなり近いとの印象を世間に与えております。その後、お清めや禊でもしたのでしょうか?数年前から、年始や七五三などの繁忙期は、実家の神社で神主として務めているようです。

                       実家の神社は、大変古くからの神社で由緒正しいところだとか。地域としても廃業やあれ果ててしまうことは避けたいような歴史的価値もあるようです。神社が基本的に世襲で、特別な時期以外は神主がいなくても維持できることも、こうしたあり方を可能にする一因なのでしょう。元旦は、普段にはない大賑わいとなったとのこと。


                       そこで、想像したのです。「自分が氏子(うじこ)ならどうするだろう?」と。私が氏子なら、「神主・狩野英孝」は、絶対反対すると思います。彼の芸風ではなく、これまでの行動や品性が、神主にふさわしいとは思えないからです。神主がいなくても、何とか、氏子たちで神社を維持して、繁忙期には、掛け持ちでいいから、資格者を期限限定でお呼びして、儀式等をしていただくことを考えるでしょう。


                       世襲とは言え、適正が極めて疑わしい人物が、神主を務めるに至った背景には、次の三点があったと推測されます。


                      (1)父親たち家族と氏子と地域社会の三者が神社存続を願った。

                       千何百年も続く神社なのですから、一族としても、地域としても、絶やすわけにはいかないでしょう。「おかげとたたり」という日本的宗教観からすれば、絶やすことは、一族と地域に大きな恐れをもたらすに違いありません。「ぜひとも、続けたい」という積極的思いよりは、「やめてはいけない」「やめられない」という消極的思いが強いのでは?と勝手に想像します。


                      (2)しかし、氏子が存続を望むのは建物と機能のみで、宗教生活や布教ではない。

                       そもそも、神道に「布教」という概念があるかどうか私には不明ですが、この脱宗教的な社会と日本人の宗教観を考えると、氏子をはじめ地域の方々の多くは、宗教的な意味で神社を大切に思い、真剣に参拝し、神道の教えに生きて、地域に布教しようとは、思ってはいないでしょう。初詣や七五三など、生活習慣に残る宗教文化的儀式を行うという機能、由緒正しい神社がもたらす安心機能のようなものの維持を願ってたのだろうと予想します。つまり、社会が必要とする人間的機能が継続すれば、本来の宗教的役割はあまり問わないということです。言うまでもなく、おみくじが、一日で完売する盛況ぶりも、それがもたらす神社と地域への経済的貢献も、本来の宗教的役割ではないはずです。


                      (3)そのために、職業適性も宗教的使命感もない人物への人間的動機のみでの世襲がなされ、ますます、本来の宗教性が失われている。

                       狩野英孝が浮気発覚や父上の死後に、人が変わったというのなら、話は別ですが、普通に考えれば、職業適性や宗教的使命感があるとは思えません。ですから、(1)と(2)の要因が、(3)という本来好ましくない結果を生んだのだと思うのです。つまり、宗教的本質面から見ての「不適切者であることの問題」より、「機能の存続」という実利性が優先されたということです。



                       そこで、考えたいことがあります。それは、上に示した三点は、キリスト教会にとって「対岸の火事」と言えるか?ということです。残念ながら、近年は、該当事例や類似事例を見聞きすることもしばしばです。奉仕先の教職夫妻や役員方から相談を受けたり、ボヤキをお聞きするのは、特に地方の教会における該当事例です。上の三つをキリスト教会に当てはめてみましょう。


                      (1)団体と父親たち家族と信徒の三者が教会の存続を願った。

                       これはある意味、当然のことです。長年にわたり地域で礼拝がささげられ、宣教がなされてきたのですから、特に教会数が限られた地域では、よほどのことがない限り、存続を願うのは当然でしょう。


                      (2)しかし、教会員が存続を望むのは建物と機能のみで、真実な礼拝をささげること、み言葉に生きることをではない。

                       真実な礼拝者が高齢者であろうと数名であろうと、そこに集うなら、教会が継続され、兼業牧師や日曜限定牧師が仕えてゆかれるのは、尊いことです。神様はその教会と牧師を喜んでくださると私は思います。誤解を招きそうなので、断っておきますが、「兼業牧師」とは厳密には「テントメーカー」とは異なり、牧師以外の職業も本業との意識を持つ牧師のことです。今後は、こうしたあり方をする牧師が各地で登場し、増加するのでは?と予想します。

                       しかし、真実な礼拝をささげるためではなく、教会存続自体が目的であったり、精神的安定機能が第一の目的であるなら、神様はその教会の存続と一牧師がそこで仕えることを喜んでおられるだろうか?と感じてしまいます。それが、教会の存在意義だろうかと疑問に思うからです。

                       礼拝出席して、説教が聞けて、それが心の拠り所よりどころになればよいという自己充足的信仰状態に陥り、地域への証詞や次世代への信仰継承を本気で願わず、経済的に牧師を支える責任など微塵も考えないなら、むしろ、平日は働き、日曜日だけ牧師やってくれたら、都合がよいことになってしまいます。果たしてこうした教会のありようを神様が喜ばれ、教会の存続を願われるだろうかと考えてしまうのです。


                      (3)そのために、職業適性も召命もない人物への人間的動機のみでの世襲がなされ、ますます、教会の本質が失われている。

                       教会存続が人間側によって希望され、教会存続が自己目的化してしまうと、牧師の条件は「教会という建物・組織と儀式の継続」が最優先となります。そうなれば、教職者不足のために、職業適性と召命は不問となります。時には、教会継続のために審査基準が意図的に低くされてしまいます。場合によっては、団体の教会論や教職論や規則さえ有名無実化されます。

                       特に、牧師子弟は、親や信徒たちから教会存続のための献身を期待をされ、それに応えることが、神様の召しへの応答であるかのように、考え違いをしてしまいます。その結果、職業適性も召命もない人物への人間的動機のみでの世襲がなされるのです。神学校入学前や卒業前、あるいは現場に出る前に、考え違いに気が付けばいいのですが、その三度のチャンスを逸してしまうケースも無きにしも非ず。本来ならありえない「狩野英孝牧師」の就任となります。同じく「不適切者であることの問題」より、「機能の存続」という実利性が優先されてしまうのです。


                       この年始に報道された「神主・狩野英孝」は、キリスト教会にとって「対岸の火事」と言えるか?

                       あちらこちらで、見聞きする限り、「対岸の火事」ではなく、「わが岸の小火(ぼや)」くらいにはなっているというのが、個人的な実感です。
                       

                       教会の存続が最優先とされ、それが自己目的化するなら、その目的を果たすための牧師たちが就任し、教会の本質と存在意義は失われていくのでは?

                       真実な礼拝者と教会論・教職論が先行するなら、それにふさわしい牧師が就任し、その牧師が兼業であれ、日曜限定であれ、教会の本質と存在意義は失われることはないのでは?

                       
                       神主・狩野英孝の報道に触れて、そんなことを考えました。



                       以前に教会存続についてのシリーズ記事を書いておりますので、参考になさってください。
                                 
                      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 22:05 | - | - | - |
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