「安楽死のためのスイス渡航者、5年で611人に」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140821-35052666-cnn-int
多くの国では、安楽死の権利が法律で認められていないために、安楽死を願う方々が、それが合法とされるスイスに向かい、希望通り安楽死を遂げているというのです。「希望通り産めないなら、産めるタイへ、希望通り死ねないなら、死ねるスイスへ」ということになっているようです。そこで、今回つけたタイトルが「生と死は国境を超えて」であります。サブタイトルは、「産むならタイで、死ぬならスイスで?」となったわけです。グローバル化した時代にあっては富裕国の人々には、こうした「国境を超えた生と死の選択肢」が可能となっているのですね。
ここで注意しなくてはならないのは、「安楽死」の定義です。「尊厳死」とは似て非なるものですので、ぜひ、その違いを理解した上で、このことはお考えいただきたいのです。こちらには、簡潔に両者の違いが記されています。
コトバンク「安楽死と尊厳死」
コトバンク「安楽死」
コトバンク「尊厳死」
代表的な事例をあげるなら、かえって人間の尊厳をそこなうと思われるような延命治療の停止が「尊厳死」で、病者が回復の望みもなく苦しみ続ける中で、自らの意志で死を願い、他者がその実現を助けるのが安楽死です。両者は混同されやすいのえすが、その本質は全く異なります。
聖書の生命観を、東神大の近藤勝彦先生は簡潔に「神の所有・人への委託」と著書で表現しておられます。自分の命は、自分のもののようで、実は自分のものではないのです。自分の命の所有者は、神様で、人間はそれを委託された側なのです。命の所有権は神様にあり、人間側は管理責任があるのです。「命、所有者は神様、管理者は私」とういことです。
人間は「神のかたち」に造られました。「神のかたち」とは、デナリ硬貨に刻まれたカエサルの肖像と同様、所有権を意味します。それは、持ち物に書かれた名前、家畜の焼印、奴隷の入れ墨同様に、その所有者を指し示します。人間に神のかたちが刻まれているということは、私たちが神の所有であることを意味します。
ですから、究極的には、命についての権利は人間になく、神様にあるのです。特に命を終わらせるような決定的な権利は、所有者である神様にあります。所有者の承諾なしに、管理者の裁量で決めてはなりません。それ故に、原則として、自らの意志で命を終わらせる権利は認められません。つまり「自殺権」や「自死権」はなく、それ故に苦しむ当人の依頼を受けての「自殺ほう助」も命の主権者である神への越権行為となるわけです(神の御心としての殉教や他者の命を救うための死を選ぶ場合は例外)。
そのように聖書的な生命観に立てば、安楽死には、否定的にならざるを得ません。しかし、だからと言って安楽死を望む人々を安易に批判してはならないでしょう。その壮絶な苦痛、深い絶望感、厳しい孤独感などを理解した上で、それでも生きる意味を与えるのが、周囲のクリスチャンや教会に課せられた使命だと思うのです。安楽死を願ってのスイス渡航を、批判対象としてだけでなく、クリスチャン個人と教会への「それなら生きる意味を与えられるのか?」とのチャレンジとして受け止めるべきではないでしょうか?
一方の尊厳死については、肯定的なクリスチャンも多く、「日本尊厳死協会所属のクリスチャン」という方もおられるようです。近年は、延命治療の進歩により、脳を生かして心臓を止めずに、物理的に生きるだけの状態を保つことが可能となりました。聖書が示す命は、決して物理的・生理的な命ではないはずです。むしろ、神との関係においては霊的命であり、他者との関係においては社会的命であり、当人の内側では人格的命です。
物理的・生理的な命だけで活かし続けることは、かえって、聖書的な命の尊厳を損なわせると考えるのは、ある意味、妥当かとも思うわけです。もし、命の主権者である神様が終わりとされているのに、人間がそれを物理的にだけ無理やりに生かすとしたら、これは逆に神の主権を侵す過剰な延命治療と言えるでしょう。ですから、人間本来の命の尊厳を損なうような過剰な延命治療については、事前に示しておいた当人の意志によって拒否したり、停止できる権利を認めるべきとの声があります。このことの濫用があってはならないと思いますが、私個人も尊厳死は、キリスト者として、検討すべきことかと考えています。
神を離れた人間の欲望に限界はありません。人はどこまでも自らの欲望を肥大させ、その実現に向かいます。神の承諾を不要とするなら、人は、自分が産みたいように産みたいですし、自分が死にたいように死にたいのです。そして、富裕国に暮らす多くの者にとって、医療技術と海外渡航手段と費用を支払う経済力があれば、それは可能となります。
一方で国家は、新たな医療技術の登場が新たな不幸を自国民に与えぬよう法規制をします。国境を超えれば、その法規制をも越えられるならそれを実行します。そして、産みたいように産んで、死にたいように死ぬのです。今日の国際社会においては「命の始まり担当」はタイ、インド、中国で、「命の終わり担当」はスイスということでしょう。
命の始まりと終わりに対しての一定のコントロールを可能にした現代医療技術。
短時間での海外への移動を可能とした現代機械文明。
上の二つの恩恵を享受可能とする富裕国の経済発展。
この三つが、人類の欲望実現を飛躍的に高めたのは間違いありません。しかし、神なき欲望実現が、本当の意味で、自らと他者と社会全体に幸福をもたらすかどうかについては、慎重に考えなくてはならないでしょう。