命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
生と死は国境を超えて、「産むならタイで、死ぬならスイスで?」
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     このグローバルな時代にあっては、自国で代理母が禁止や困難な場合、富裕国の不妊夫婦や同性婚カップルはタイ・中国・インドに向かいます。それだけで、十分、葛藤を覚え、問題意識をもってあれこれ考えていたのですが、それに追い打ちをかけるような情報が、yahooのトップページに。

    安楽死のためのスイス渡航者、5年で611人に」
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140821-35052666-cnn-int

     多くの国では、安楽死の権利が法律で認められていないために、安楽死を願う方々が、それが合法とされるスイスに向かい、希望通り安楽死を遂げているというのです。「希望通り産めないなら、産めるタイへ、希望通り死ねないなら、死ねるスイスへ」ということになっているようです。そこで、今回つけたタイトルが「生と死は国境を超えて」であります。サブタイトルは、「産むならタイで、死ぬならスイスで?」となったわけです。グローバル化した時代にあっては富裕国の人々には、こうした「国境を超えた生と死の選択肢」が可能となっているのですね。

     ここで注意しなくてはならないのは、「安楽死」の定義です。「尊厳死」とは似て非なるものですので、ぜひ、その違いを理解した上で、このことはお考えいただきたいのです。こちらには、簡潔に両者の違いが記されています。

    コトバンク「安楽死と尊厳死

    コトバンク「安楽死

    コトバンク「尊厳死

     代表的な事例をあげるなら、かえって人間の尊厳をそこなうと思われるような延命治療の停止が「尊厳死」で、病者が回復の望みもなく苦しみ続ける中で、自らの意志で死を願い、他者がその実現を助けるのが安楽死です。両者は混同されやすいのえすが、その本質は全く異なります。

     聖書の生命観を、東神大の近藤勝彦先生は簡潔に「神の所有・人への委託」と著書で表現しておられます。自分の命は、自分のもののようで、実は自分のものではないのです。自分の命の所有者は、神様で、人間はそれを委託された側なのです。命の所有権は神様にあり、人間側は管理責任があるのです。「命、所有者は神様、管理者は私」とういことです。

     人間は「神のかたち」に造られました。「神のかたち」とは、デナリ硬貨に刻まれたカエサルの肖像と同様、所有権を意味します。それは、持ち物に書かれた名前、家畜の焼印、奴隷の入れ墨同様に、その所有者を指し示します。人間に神のかたちが刻まれているということは、私たちが神の所有であることを意味します。

     ですから、究極的には、命についての権利は人間になく、神様にあるのです。特に命を終わらせるような決定的な権利は、所有者である神様にあります。所有者の承諾なしに、管理者の裁量で決めてはなりません。それ故に、原則として、自らの意志で命を終わらせる権利は認められません。つまり「自殺権」や「自死権」はなく、それ故に苦しむ当人の依頼を受けての「自殺ほう助」も命の主権者である神への越権行為となるわけです(神の御心としての殉教や他者の命を救うための死を選ぶ場合は例外)。

     そのように聖書的な生命観に立てば、安楽死には、否定的にならざるを得ません。しかし、だからと言って安楽死を望む人々を安易に批判してはならないでしょう。その壮絶な苦痛深い絶望感厳しい孤独感などを理解した上で、それでも生きる意味を与えるのが、周囲のクリスチャンや教会に課せられた使命だと思うのです。安楽死を願ってのスイス渡航を、批判対象としてだけでなく、クリスチャン個人と教会への「それなら生きる意味を与えられるのか?」とのチャレンジとして受け止めるべきではないでしょうか?


     一方の尊厳死については、肯定的なクリスチャンも多く、「日本尊厳死協会所属のクリスチャン」という方もおられるようです。近年は、延命治療の進歩により、脳を生かして心臓を止めずに、物理的に生きるだけの状態を保つことが可能となりました。聖書が示す命は、決して物理的・生理的な命ではないはずです。むしろ、神との関係においては霊的命であり、他者との関係においては社会的命であり、当人の内側では人格的命です。

     物理的・生理的な命だけで活かし続けることは、かえって、聖書的な命の尊厳を損なわせると考えるのは、ある意味、妥当かとも思うわけです。もし、命の主権者である神様が終わりとされているのに、人間がそれを物理的にだけ無理やりに生かすとしたら、これは逆に神の主権を侵す過剰な延命治療と言えるでしょう。ですから、人間本来の命の尊厳を損なうような過剰な延命治療については、事前に示しておいた当人の意志によって拒否したり、停止できる権利を認めるべきとの声があります。このことの濫用があってはならないと思いますが、私個人も尊厳死は、キリスト者として、検討すべきことかと考えています。


     神を離れた人間の欲望に限界はありません。人はどこまでも自らの欲望を肥大させ、その実現に向かいます。神の承諾を不要とするなら、人は、自分が産みたいように産みたいですし、自分が死にたいように死にたいのです。そして、富裕国に暮らす多くの者にとって、医療技術と海外渡航手段と費用を支払う経済力があれば、それは可能となります。

     一方で国家は、新たな医療技術の登場が新たな不幸を自国民に与えぬよう法規制をします。国境を超えれば、その法規制をも越えられるならそれを実行します。そして、産みたいように産んで、死にたいように死ぬのです。今日の国際社会においては「命の始まり担当」はタイ、インド、中国で、「命の終わり担当」はスイスということでしょう。


    命の始まりと終わりに対しての一定のコントロールを可能にした現代医療技術

    短時間での海外への移動を可能とした現代機械文明

    上の二つの恩恵を享受可能とする富裕国の経済発展


      この三つが、人類の欲望実現を飛躍的に高めたのは間違いありません。しかし、神なき欲望実現が、本当の意味で、自らと他者と社会全体に幸福をもたらすかどうかについては、慎重に考えなくてはならないでしょう。
    | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 14:37 | - | - | - |
    24歳にして23児の父(2)経済的、技術的に可能で違法でなければいいのかよ?
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       御曹司にして資産家のこの青年には、代理人である弁護人が6人もついているようです。その一人は、弘中惇一郎弁護士です。この弁護士は、ロス疑惑、薬害エイズ、村木厚子事件、小沢一郎事件などの担当弁護士として知られ、「無罪請負人」とも呼ばれるほどの超敏腕弁護士なのだとか。

       一連のことも、高額の顧問料を支払って、弁護士たちに相談して、違法行為とならぬよう、犯罪者として拘束されぬよう進めてきたと予想されます。私自身は、この青年の倫理的問題とは別に、「弘中弁護士自身の弁護士倫理はどうなんだろう?」と疑問に感じています。

       犯罪の嫌疑をかけられ裁判で訴えられた被疑者を弁護して、冤罪を晴らしたり、依頼者のために無罪を勝ち取ることは、弁護士として正しいことでしょう。しかし、一般社会において、倫理的に問題ありとされる異常行為を、違法とならないようにその実現を手助けすることは、弁護士倫理としてどうかと思っています。こうした弁護士活動は、暴力団から多額の顧問料を受け取り、犯罪一歩手前の反社会的行為を助ける悪徳弁護士と同じことになりはしないかと心配をしているのです。

       代理母の乱用と評価すべき一連の出来事に対しての私の個人的抗議の声はこれです。

      経済的、技術的に可能で、違法でなければ、何をしてもいいのかよ?

       
       まず、一つ目は「金があれば何をやってもいいのかよ?」ということです。言い換えると「経済的交換性獲得上の倫理を保証するか?」という問題です。今回の件は、大変な経済力があって初めて実現可能となることです。いくら安価とは言え、代理母への依頼費用、ベビーシッターへの給与、将来の養育費を考えれば、莫大な経済力が求められます。実際に彼は、倫理的には異常に見えたとしても、莫大な経済力によって、正当な経済行為を通じて、経済的には正当に自己願望をかなえているのです。
       
       バブル期には、転売目的で、ヨーロッパの名作絵画を買い漁る日本人が、国際的に問題となりました。築地で最高値のまぐろを中国人が落札したとの情報は多くの日本人にひんしゅくをかいました(実際は、この中国人は寿司文化に命をかけた尊敬に値する人物だったようですが・・・)。やはり、文化のような国家の宝や民族の誇りに通ずるものは、「お金で買える=お金で買っていい」とは言い切れないものがあります。つまり、「金銭交換してはならない金銭交換可能商品」というものが社会通念上は存在するのです。

       以前、水樹奈々のライブ応募券が付いたポテトチップス約1000袋、約200キロを不法投棄したとして、25歳の会社員の男が逮捕されました。もちろん、応募券目当てで、応募券は切り取られての大量投棄なわけです。これは投棄方法が違法であっただけで、自宅でごみに出せば、合法であったのです。もちろん、熱烈ファンがライブチケット目当てで、大金を投資するのは自由ですが、やはりこれは、捨て方が合法であったとしても、社会通念上は、異常行為レベルであり、倫理的に疑問視されるでしょう。

       AKBの握手商法もしかり。AKBを生きがいするオタク青年労働者が、給料の大半をCD購入に注ぎこみ同一CDを何百枚も買うのは自由でしょう。そして、特定のメンバーと長時間の握手をするのも自由でしょう。しかし、こうした商業方法が倫理的に疑問視されているわけです。それは、単に異性との肉体的接触を金銭と交換することへの疑問だけではないでしょう。熱烈なファンにこうしたお金の使い方をさせていることへの道義的責任が問われているのだと思います。

       絵画やマグロやライブチケットや握手の権利なら、モノやサービスですから、まだ、金銭交換性が獲得を正当化する面もあるのかもしれません。しかし、本件でこの青年が獲得しているのは、人命なのです。しかも、大人数のわが子なのです。獲得目的の違いは、本件の倫理的問題性を飛躍的に高めているように思えてなりません。

       
       「もう一つは、技術的に可能なら、いいのか?」という問題です。これまた言い換えますなら「技術的可能性は、倫理的妥当性を保証するか?」という問題です。カメラの小型化の技術が、盗撮を可能にしました。IT技術が、ハッキングを可能にしました。技術の発達はある犯罪的行為や人権侵害行為を可能とします。ですから、法整備をして、それを犯罪として、処罰を伴う法律を作らなくてはなりません。

       生殖技術はその最たるものでしょう。近年、それらの技術が、可能にしたことはなにでしょう?それは、男女産み分け、高精度の出生前診断障碍児の選択的中絶などです。それは生まれてくる前の人命に対しての差別、人権侵害と考えられるので、法律や医師の倫理規定により禁止されたり、一定の制限が設けられます。

       代理母制度も、新たな生殖技術ですが、それによって起こる問題も多くあります。それ故に、先進国では、禁止されたり、無償のみに限定されたりしています。しかし、タイでは、医師間での倫理規定はあるようですが、代理母についての法律もなければ、罰則規定もないのが現実です。


       新たな技術の誕生によって、犯罪行為や人権侵害の危険性が予想されるなら、法律等によって禁止・規制されなくてはなりません。それが、まだ為されていないのは、事実です。しかし、だからと言って、その法的不備をついて「違法ではないから」と「合法性」を主張して、自らの行為の正当性を示すのはどうかと思うのです。


       「経済的、技術的に可能で違法でなければ何をしてもいい」と言わんばかりの今回の事件です。それは、脱宗教的で世俗化の極限に至った現代人らしい個人倫理とも言えるでしょう。社会通念上、明らかに異常とされる行為が、こうした理論で正当化されていいのでしょうか?また、弁護士が彼を支援することには、弁護士倫理上や国際間の倫理を問う声はこれから上がってくるのでしょうか?それとも、法律論的に問題がないでしょうから、事実上不問とされてしまうのでしょうか?


      日本人は、経済的、技術的に可能で、違法でなければ何をしてもいいと思っているのか?」

       タイの人々は日本にそんな思いを持つに至っているのかもしれません。日本人の金に任せた性的搾取を身近に見てきたタイの人々が、本件を機に、新たに日本人を軽蔑し、異常と思うとしたら、残念であり、申し訳ない思いでいっぱいです。
      | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 15:52 | - | - | - |
      24歳にして23児の父(1)問題視されるべき危険な技術転用
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         タイでマンションで養育されていた9人の乳児が保護された事件は、予想外の事実が判明してきました。「人身売買目的」との大方の予想を大きく裏切り、見えてきたのは、かなり特殊なこの男性の地位と状況、そして、その特異な家族観と生命観です。

         まずは、この男性、タイでは実名報道されており、某大企業の御曹司で資産家と判明しております。これなら、多くの子どもたちにも物理的な養育責任は果たせるでしょう。また、入籍しているかどうかは不明ですが、事実上の妻にあたる女性(タイのマンションにいた27歳の日本人女性)は、性転換手術で女性となった元男性なのだそうです。同性婚カップルが、子どもを願って、代理母によって子どもをもうけるのは、国際的には既に珍しいことではなくなっています。中国の代理母は、欧米の同性婚カップルの子どもを請け負うことが多いと報道されています。

         ですから、この事件の特異性は、ひたすら、「わが子の多さ」とそれを「短期間にもうけたこと」にあります。現在までに少なくとも23人の血のつながった子どもをもうけているのだとか。しかも、卵子提供者の女性は、アジア、欧州、南米にわたる多国籍で、逆に日本人女性はいないそうです。そうです。代理母を利用すれば、数年間で「23人のわが子」をもうけることが可能なのです。

         この日本人男性は、代理母仲介業者に対して、「100人から1000人の子どもをもうける計画」を打ち明けていたとのこと。どうも、本気で、実行するつもりらしいです。まるで、生殖技術系SF小説のようなことが現実に起こっているわけです。

         「事実上の同性婚をして、代理母によって23人の多民族児の父となった24歳の日本人資産家男性


         ここで、誰もが考えます。「この男性の目的はいったい何なのか?」と。100人から1000人もの血のつながった子どもを望む理由は、何なのでしょう。そこで、私なりに予想してみました。いくつかの仮説を記してみます。

        (1)一人少子化対策
         この男性、子どもの数なら、24歳にしてあのビッグダディーを上回っています。一夫多妻時代の王様や金持ちでも、数年間で23人はそうはないでしょう。この男性は、「子どもを産むことが社会貢献のひとつ」と語っているそうです。晩婚化、非婚化、少子化が国家的課題となっている中、資産家の彼は、個人的に多子家庭を願ったのか?

         しかし、どうも、子どもを日本に連れてきて全員を日本社会で育てる気は今のところはなさそうなので、この説は


        (2)現代版ナチス
         自分の優秀なDNAを可能な限り、後の人類に残そうとしているかもしれません。ヒトラーは社会的進化論に立ち、優れた遺伝形質を後世に残し、劣った形質は絶つことが、人類の進化に貢献すると考えました。これがいわゆる「優生思想」です。彼はヒトラーのごとく、優秀な自らのDNAを多く残すことを願ったのでしょうか?もし、そうなら、これは「現代版ナチス」です。

         しかし、この男性は、お金を使って優秀な形質を持つ日本人女性から卵子提供を受けていません。また、今のところ、優れた遺伝形質の持ち主が卵子提供者として選ばれたという報道もありません。ですから、この説も撤回です。


        (3)即席アブラハム
          アブラハムは祝福の基となるとの約束を受けて、その成就に生きました。約束の子が与えられたのも晩年に、たった一人でです。その子、イサクの家庭も男児は二人のみでした。そして、アブラハムから三世代目にようやくヤコブの父とする12人の男子がそろって、12部族がスタートします。アブラハムが大いなる民族となる12人の男児を得るのに、三世代を要しました。

         しかし、彼は、数年でそれを実現したのです。23人のうち、12人が男児だそうです。いかにも短い時間で大きな成果を見ることを願い、その実現を追求するインスタント時代らいい出来事です。アブラハムは見ずとも信仰によって信じて、存命中はその成就の一部しか目撃できませんした。それに対して彼は、数年でそのスタートを目で見ており、今後も今のあり方が許容されれば、存命中に、「自分の部族」を見ることになるでしょう。

         この事件は、当初、人身売買でなければ、財産相続目的だろうと言われていました。タイでは贈与税がないそうで、タイの国籍を取得して、多くのわが子に相続を有利な形でさせるためだと予想されました。しかし、弁護士の話では、子どもたちは「後継者」とのこと。最新号の「週刊ポスト」掲載の記事は、自分の事業を多人数の血族に後継させ、「一族経営」にしたいのでは?と予想しています。そうであれば、信仰とは異なる「産業系祝福の一族」「大いなる企業の民」の「」となることを願っているのでしょう。「即席アブラハム説」については妥当性を残していきたいと思っています。

         もう、お分かりでしょう。予想される彼の目的は、代理母本来の目的から大きく逸脱をしています。代理母の目的は、言うまでもなく、不妊カップルの不妊状態を克服することです。しかし、この代理母という生殖技術は、それ以外の目的にも、応用できてしまいます。

         多くの国では、核兵器開発に転用可能な機械は、特定国家への輸出が法律で禁じられているようです。そうです。危険な転用可能性ある場合、あることが国家間で禁じられるものです。しかし、危険な転用可能性をはらんでいた代理母という技術は、国際間での合意や調整が不十分なままです。

         この危険な技術転用をすれば、一夫多妻社会の権力者男性にしかできない「短期間での子だくさん」が可能となります。さらにその向こうにある目的は現時点では不明ですが、どう考えても、これは代理母という生殖技術の目的逸脱ですし、たとえ違法行為でないとしても、これは、「代理母の乱用」、「生殖技術の危険な転用」として道義的責任を問わざるを得ません。


         今回はこの特異な事件の持つ目的を予想してみました。今回の記事がこの事件の持つ特異性や不気味さを言語化し、問題を整理する助けになっていれば感謝です。次回は、この件の倫理的問題について記してみます。
        | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 17:25 | - | - | - |
        代理母出産障害児受け取り拒否(5)生殖器は人格の一部
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           代理母自体についての是非を記して最終回にしようと思っていましたら、以前に同様の記事を書いたのを思い出しました。2011年に、代理母問題について三回のシリーズで論じています。関心のある方は、ぜひともお読みください。

          代理母問題(1)倫理と意味を問わぬ大衆社会

          代理母問題(2)義務でも権利でもなく賜物としての出産

          代理母問題(3)生殖器は人格的器官につきレンタル不可


           今回は、最終回ということですが、上に紹介しました「代理母問題(3)生殖器は人格的器官につきレンタル不可」を結論代わりとして以下に転載します。そもそも不妊の克服という切実で正しい目的であっても、「目的は手段を正当化しない」ということです。有償ならもちろんのこと、無償であっても子宮という生殖器官をレンタルすることの不当性を記してみました。では、お読みください。


           代理母問題については、以下の「三者の合意があればいいのでは?」という考え方があります。
          (1)代理母という方法によって出産を願う夫妻
          (2)代理母を申し出る女性
          (3)それを実現する医師
           (正当な医療として許可する社会や法律が背景に)

           臓器移植の時も論じましたが、当事者がよければそれでよいという理論はメチャメチャです。それは「売春してでもお金欲しい女子中高生」、「お金出してでも女子中高生と性関係を持ちいおじさん」、「それを仲介する性産業」の三者の合意があれば、当人がよいのだからいいのでは?という理論と同じです。その事象、行為、方法論自体の倫理的是非を問うことをしなくなったのが、現代社会の病的状況なのでしょう。

           今回はタイトル通りのアプローチで、代理母出産という方法論自体の不当性を論じたいと願います。生殖器官は人間のそれ以外の機関とは、本質的に大きく異なる器官であることを聖書は示していると私は考えます。

           創造主である神様が人類に生殖機能を与えられた目的は二つ。「結婚した男女が愛し合い深く結びつくため」と「いのちを生み出すため」です。これはどちらも人格と深く結びつき、伴侶や子どもという人格に対して大きな責任を持つものです。そうした人格的要素を強く持つ生殖や性関係のために、性があり、それを実現化するために生殖機能があり性器があるのです。ですから、生殖器官は極めて人格的な器官と言えるでしょう。聖書的には、性器、生殖器は「人格直結器官」、「人格表現器官」と呼べると思うのです。

           割と最近まで日本では、特別な人々の生殖機能を奪うという人権侵害行為がひっそりとしかし問題視されずに為されていました。月経があると介護が大変ということで、知的障害を持つ女性の子宮が摘出される、ハンセン氏病の男性に子孫を残さないように強制的に断種手術が行われるなどの蛮行があったのです。それが国際的に非難を受けてなくなったのは、それ程昔のことではありません。

           では、なぜ、生殖機能を奪うことが人権に反するのでしょう?それは、生殖器が、人格の深い部分と直結し、人格的愛の表現と実現に用いられるべき個人的な器官だからでしょう。「使わないから」「必要ないから」「あると不便だから」と言って、当人の意思に反して奪い去ることは、人格否定、人権蹂躙に他なりません。極論すれば、人格の本質部分を奪うことでしょう。

           それは売春や生産業などの性的労働についても言えることです。性労働者、セックスワーカーを正当な労働者として扱おうという思想があります。実際、オランダでは売春は合法で行政管理の下で行われています。そのために性労働者の人権や労働上の権利が一定守られているようです。もちろん、そうした方々の人権は尊重されるべきです。しかし、その労働行為自体は正当だとは言えません。
           
           全身、頭脳、手、足、目、鼻、口などの身体器官を用いて、サービスをすることは正当な労働です。肉体を用いてのそのサービスが金銭と交換されることは倫理的に正しいでしょう。しかし、自分の生殖器を用いて、あるいは相手の生殖器に対してサービスをすることは不当な労働です。それは人格と金銭を交換したことになるからです。金銭と交換してはならないものを交換するから不当な労働なのです。

           では、サービスをする側が金銭を受け取らないボランティアなら正当ではないのか?という議論も起こります。ヨーロッパのある国にはセックスボランティア組織があり、一定普及しているとか。(日本にもあるそうですが、普及はしてない様子)。
           障害ために、結婚や通常の恋愛、いわゆる風俗通いで性的な欲求を実現できない人々のために、奉仕の精神で性的サービスを無報酬でするボランティアです。

           障害者にも性的自己実現の権利がある→現実にそれが不可能に近い障害者が存在する→その人たちに少しでも豊かな性生活を送らせることはである→そのために善意をもって奉仕するボランティアが必要→自主的であり、金銭と交換しないなら、それは正当なボランティア活動である

           きっと、そんな論理だと思います。障害者の性の問題は、非常に深刻な問題であり、最近は日本でも、障害者の性的自己実現の権利を強く主張する考え方が主流のようです。

           血も涙もないと言われるかもしれませんが、聖書に立つ時、私はそうしたボランティアもやはり不当だと思います。金銭との交換はなくても、それは「人格なき性」だからです。たとえ動機が社会的弱者を助けるという善意であったとしても、性と人格を切り離して、生殖器を用いることは、性を与えた神様の御心に反することでしょう。動機は正しくても手段が間違っているのです。生殖器を人格的愛のない異性との間で用いることは間違った手段なのです。

           賢明な読者は、本題の代理母問題のために、なぜ長々と生殖器官とそれに関連する事項の是非について論じてきたかはご理解いただけるでしょう。女性の子宮は生殖器官であり、人格的器官です。たとえ、自主的であり善意の動機だとしてもレンタルすることは不当かと思うのです。

           神様は女性の子宮が、実験における細菌の培養のように、機械的に人間の培養するようには作ってはいません。子宮の中の子どもと妊娠した女性は、既に一定の人格的交わりや心理的共感などを持っています。そうした面からも子宮は他者のためにレンタルすべきものではないといえるでしょう。本来的意味からして、極めて個人的で他のいのちとの絆を形成する器官と言えるからです。

           では、乳母はいいのか?という話になるでしょう。聖書的にも、乳母は正当なのです。もちろん女性の胸部は性的な器官であります。それを金銭と交換してもよいのかという話になります。

           生まれる前のいのちは、基本的に女性個人の子宮の中で育成されるべきです。しかし、子宮から外に出た後は、親だけでなく、共同体と社会が子どもを育てるのです。母乳が出ない場合は、他者がそれを補うことは正当です。ですから、授乳代理業は正当な労働だと言えるでしょう。子宮はどこまでも個人的人格器官ですが、女性の乳房は場合によっては、社会的補助機能でもあると私は聖書に立って考えています。

           子宮はいのちと直結し、その女性自身の人格とも直結する極めて個人的で人格的な器官。善意とは言え、他者のためにレンタルすること、他者の幸福実現のために利用されることは、性と生殖器官と機能を与えられた神様の意図に、やはり反するのではないかと思うのですが、どうでしょう?


           以上が引用です。海やプールに入る時、水着で隠す場所、それは男女で異なります。この箇所は命と生み出し育てる器官。そして、それは非常に個人的で、他の場所とは違い、人格に直結するところ、そして、本来、共に生きる愛する異性にのみ、触れさせることを許すべきところ。利他的な善意であったとしても、生殖器の使用権を他者に委譲することは、創造主の御心ではないだろうと考えています。代理母については、命と性と肉体の創造主、所有者を知るものとしての判断があるのでしょう。5回にわたる連載のご愛読を感謝します。
          | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 15:30 | - | - | - |
          代理母出産障碍児受け入れ拒否(4)植民地支配、奴隷制度、基地原発問題との類似性
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             シリーズの四回目です。何でもオーストラリアの法律では、国内での代理母は、慈善的な申し出に限定されているようです。つまり、法律で営利的なあり方を禁じているわけです。こうなると国内での代理母による出産は困難となります。しかし、法的規制のない貧困国であれば、それなりの金額で可能となるわけです。と言いますか国際間のルールが確立されておらず、可能になってしまっているのが現状のようです。このことが、植民地支配、奴隷制度、基地・原発問題と類似性をもっており、そこに問題性があるのではないかというのが、今回の記事の趣旨であります。

             国際的視点からすれば、富裕国の白人が、貧困国の有色人種を代理母としているという構造があります。自国民を代理母の持つリスクから守るが故に、結果として、貧困に苦しむ他国の女性を犠牲にしているのが現状です。もちろん、両者には、合意と契約があるのですから、単純に「侵略行為による子宮に対しての植民地化」とは言えないでしょう。しかし、合意と契約が成立する要因には当然、富裕国と貧困国の経済力の差異があるわけです。ですから、強者が弱者の子宮を力の論理で使用権利を得ているという構造はあるはずです。

             このことは経済の世界では続いていることで、私たちが恩恵にあずかっている安価なバナナやチョコやコーヒー、そして衣料などの背後には、かつての植民地時代同様の奴隷労働や児童労働などがあります。政治的な植民地支配はなくても、経済面での植民地支配は部分的に継続していると私は思うのです。今後、法的規制がなされなければ、インドとタイなどは、かつての列強国によって、女性たちの子宮は植民地支配同様の扱いを受けるのではないかと危惧をしております。

             白人なら断わる業務を有色人種が引き受けているという構造は、かつての奴隷制度と共通しています。代理母は危険を伴いますし、営利目的でなければ、すすんで申し出る女性はそうは多くないでしょう。実際、オーストラリアでも受容に対して供給が極端に少ないから、海外に代理母を求めるのです。アメリカでの代理母の費用は1000万だそうです。それに比してタイ人女性なら、150万で済むのです。有色人種が低賃金で危険な仕事に就くという階級構造は、欧米国では、当たり前のことなのでしょうが、それを、国家間で行うのはどうかと思うのです。これまた代理母の意志によることですから、「奴隷制度」というのは、飛躍しすぎかもしれません。それなら、せいぜい「階級制度」で収めておくとしましょう。

             最後に思うのは、これは、基地・原発問題と似ているということです。何度もこのブログでは、引用していますが、ある牧師は、「沖縄の基地問題は、政治問題でなく、民族問題だ」と指摘されました。大和民族が、貧しく産業の乏しい異民族に、必要悪ともいえる基地を押し付け、それと共に産業と雇用の場を与えたということでしょう。原発も同じく貧しく産業の乏しい地域に都市部の電力供給のため押し付けてきたという経緯があります。基地も原発も、補助金があり、基地と原発に依存させてしまい、地域の産業が発展しないという問題があります。

             代理母もよく似ています。タイ人にとっての150万円は多分、何年分かの年収に相当するでしょう。富裕国の国民が車を購入する金額が、貧困国の何年分かの年収なのです。莫大な補助金と差し替えに基地や原発を受け入れる地域と似てはいないでしょうか?一度、これを体験したら、貧困国の女性が、普通に働こうとするだろうか?と心配です。妻に代理母をさせて働かない夫たちも増加するのでは?これも基地と原発に依存して産業が発展しない地域の問題と共通かと思うのです。

             今回は、外形的構造の共通性で、本質面の共通性を指摘するというかなりの暴論ですが、少しでも、説得力があればうれしいです。合意と契約の上とは言え、富裕国の白人が、貧困国の有色人種女性に、謂わば「子宮レンタル」という危険で人権侵害的な業務をさせていているという構造は、「21世紀の植民地支配」「両者合意による生殖系奴隷制度」「生殖の世界における基地・原発問題」とでも言うべき一面を持っているのではないでしょうか?
            | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 13:20 | - | - | - |
            代理母出産・障碍児受け取り拒否(3)商品化により生産・管理・供給される命
            0
               またまた、続きの記事を書こうとしていたら、昨日はタイの代理母に関係する別の事件が報道されました。

              タイで乳児9人を保護、父は日本人か 代理出産施設など摘発

               いろいろな情報を総合すると、24歳の実業家である日本人男性が、後継者候補として自分の子どもを代理母に産ませたとのこと。代理人の弁護士がそのように説明しており、違法性がないと主張しているようです。ベビーシッターたちは、代理母とはどうも別人のようで、一人だけいる日本人女性はこの男性の秘書とも言われ、その女性は自分の子どもだと主張しているそうです。

               DNA検査などと捜査が行われているようです。警察介入後、この男性はマカオに移動しており、警察は行方を追っているとのこと。あまりに不自然なことですから、当然、これは人身売買のなどの犯罪や不正な代理母出産ビジネスなどが疑われます。

               タイは、人身売買の発信国と言われています。タイから世界中に乳幼児が売買されて行きます。今回の件では、身元不明の子どもたちを誕生させ、売っていた可能性が疑われます。そうした場合は、不妊夫婦への養子縁組ではなく、奴隷労働や性産業従事、臓器売買の資源とされることが予想されます。つまり、大人に利用、搾取されるための命を生み出して売っているのです。

               一部報道では、この9人を含めて12人の乳幼児が、代理母出産によって誕生しており、一人の赤ちゃんは日本に渡っているとのこと。


               この事例は、通常の代理母ビジネスとして、かなり不自然です。この男性と秘書とされる日本人女性の発言がただしいとすれば、この男性は、同時期に多くの子どもを持ったわけです。また、この女性はこのマンションで自分の子を育てているわけです。

               ですから、あくまで仮定ですが、私が想像する最悪のケースは、こういうことです。

               この男性と秘書の女性の間(日本人同士)で胎外受精が行われる→その受精卵を低価格で依頼できるタイ人代理母の胎内で育てて出産→マンションでベビーシッターを雇い、斡旋先が見つかるまで、お世話する→「日本人の赤ちゃん」として高価格で取り引きがされる。

               これは、「日本人の赤ちゃん」というブランド商品の大量生産システムです。そして、血のつながったわが子を商業目的で譲渡しているという「鬼畜ビジネス」です。さらに、子どもたちは両親の愛を受けて育つとは限りません。私の知識では、これでは日本への国際養子縁組はできないだろうと思うからです。だとすれば子どもたちは、奴隷労働、生産業従事、虐待目的などに利用される可能性も高くなります。ますます、これは「鬼畜ビジネス」です。

               もちろん、これは今回の件についての私の勝手な最悪の想像に過ぎません。事実がそうでないことを願います。しかし、法規制が十分されておらず安価で依頼できるタイの代理母システムを用いるなら、こうした悪徳ビジネスが可能となるのは事実です。そして、人を人とも思わぬ犯罪組織がこれに関係する可能性が高くなるわけです。だからこそ、代理母ビジネスの標的になる貧しい国は自国の法整備が、依頼者となる豊かな国は国際間での取り決めが必須なのです。

               今朝のテレビ番組の中で香山リカさんは保護された9人の子どもたちのことを一番問題にしておられました。それぞれの子どもに人生があること、また、乳児期の劣悪な育児が成人以降に問題となって発症することをあげて、こうした育児環境に置くことの問題を指摘していました。


               代理母が産業化されていく中で、「生まれ来る子どもの命は何か?」が問われます。この産業システムの中では、子どもは、「依頼者という顧客を満足させる商品」のように扱われます。それは商品ですから「生産・管理・供給」というプロセスを歩んでいきます。

               胎外受精卵というから、代理母というを借りて、乳児という命が生産されます。そこに至るまでの商品ですから、商品管理が為されます。障碍児は規格から外れた不良品扱いをされ、今回のように中絶が求められることも。また、事実上タイの代理母システムでは、男女の産み分けという商品管理もされているようです。このようにして最終的に顧客のニーズにマッチした乳児という商品が供給されるのです。


               農業も牧畜業も命を育て、生み出し、管理し、供給する産業です。食用の命が商品化され、それによって、人命は支えられています。それは、基本的かつ尊い産業だと思います。しかし、人命を食用の命と同等に扱ってよいものでしょうか?神のかたちを宿す人間の命を、それを持たない動植物の命と同等のように扱うことは、神の御心にかなうのでしょうか?

               もしかしたら、私たちは、神のかたちの有無という人間と他の生命との絶対的な差異を見失っているのかも知れません。人類があまりに自らの欲望を肥大させ、それを無制限に肯定し、その実現こそが幸福であるかのように考え違いしたために、動植物との絶対的な差異という人間の尊厳を自らの手で放棄しかけているのかもしれません。

               障碍児受け取り拒否事件と今回の邦人による異様な事件を期に、少し立ち止まって考えてみてはどうでしょう?生まれ来る命の商品化、人間と他の生命との絶対的差異、そして、欲望のあまり自らの手で人間の尊厳を放棄しかねない私たちの愚かさ、罪深さを。
              | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 15:05 | - | - | - |
              代理母出産・障碍児受け取り拒否(2)代理中絶が持つ三つの違反性
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                 続きの記事を書こうとしていたら、昨日には二つの新たな情報が飛び込みました。

                代理出産児引き取り拒否騒動、父親に性犯罪歴

                「ダウン症児拒否」は誤解、代理出産依頼の豪夫婦が反論

                  父親にあたる男性が、女児に対しての性犯罪歴が複数あるというのは、誰もが心配を抱くでしょう。もちろん、性犯罪歴があっても、既に克服していれば問題がありません。しかし、現実には、こうした性的指向は克服が困難であることはよく知られています。また、この男性の妻は中国人女性であり、いわゆる「中国人花嫁仲介ビジネス」を介しての結婚らしいです。このこと自体が悪いわけではないでしょうが、父親、あるいは家庭人としての資質や適性については、心配要素とされてしまうでしょう。

                  夫婦の反論がなされていますが、もし、この反論が事実であるとしたら、仲介業者が、依頼者に一切を内緒にして、ダウン症の男児を闇に葬り、死産ということにして、円満にビジネスを成功させようと企んだ疑いもあります。

                 今回の件で、問題視されているのは、受け取り拒否はもちろん、その家庭で妊娠人工中絶が要求されたことでありましょう。通常、代理母が代理機能を果たすのは、「妊娠継続と出産」です。その二つができない女性のためにいわば子宮をレンタルしているるわけです。しかし、今回の件では、「中絶」までがその代理機能に含まれかねなかったことが問題なわけです。


                 私はこのことには三つの違反性があると思います。一つ目は、社会的違法性です。タイでは、性犯罪による妊娠を除けば、人工妊娠中絶は違法なのです。多分、代理母と業者が交わした契約内容には、障害が発覚した場合の中絶は記されていなかったと思われます。たとえ、契約書に明記されていなくても、仲介業者が中絶を要求したことは、タイにおいて社会的に許容されることではありません。

                 二つ目は、生命の尊厳への違反です。これは二つの意味で生命の尊厳に違反していると言えるでしょう。一つ目は、言うまでもなく障碍を持った胎児の命の尊厳です。代理母は命を生み出す目的に同意して、代理母を申し出たのですから、中絶を要求することは、命の誕生という本来の目的に反するわけです。

                 さらには、代理母自身の命の尊厳に関わります。中絶が違法であるタイには、多分、「闇中絶業者」が存在するのはほぼ確実です。代理母には中絶という選択肢も可能だったはずです。しかし、闇中絶は費用が高額で、医療技術も低く危険性も高いのです。ですから、この女性の生命自体をリスクにさらすことになったはずです。妊娠継続にも出産にも生命のリスクはありますが、闇中絶はそれより遥かに高いリスクなのです。その意味で、代理母自身の生命の尊厳にも反すると言えるでしょう。

                 三つ目には宗教的自由の否定です。タイの一般市民は仏教への信仰心が厚いです。生命を神や天からの授かりものと考え、その尊厳を重んじるのは、伝統的宗教に共通することです。日本の水子供養などは、逆に特殊な事例と言えるでしょう。報道によれば、今回の代理母が中絶を拒否したのも、違法だからではなく、宗教的理由なのだそうです。

                 代理母に「代理中絶」を求めたことが、代理母の持つ闇の部分を、多くの人々に知らしめたと言えるでしょう。「代理母への中絶要求」、それは、社会的には違法性があり、倫理的には生命の尊厳に反し、信仰的には宗教の自由に反することです。この問題を考える上でこの三点が参考になれば感謝です。
                | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 21:11 | - | - | - |
                代理母出産・障碍児受け取り拒否(1)〜抱えきれない課題の多さ
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                   タイ人の代理母が男女双子を出産、男児の方が障碍を持っていることが出産前に判明しており、依頼者のオーストラリア人夫妻は、受け取りを拒否し、代理母夫妻が、受け止めて育てることになったとのこと。日本でも、代理母を認める法案が作られつつある中、その課題を投げかけることになっています。既に二児の母である代理母と引き取られたダウン症男児のために、募金がなされ、昨日4日の段階で既にに2000万円を超える支援が集まっているとのこと。


                  こちらのNHKニュースが初期の報道だったようです。
                  「代理出産で障害児 引き取り拒否に議論」
                  http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140803/k10013507601000.html


                   本ブログでは、かつて野田聖子氏の代理母出産に際して、本質的な問題を記しました。光栄ななことにその記事の一つは、朝日新聞系のWebronzaで「注目のブログ記事」として紹介されました。代理母自体の問題と関連事項についてはこちらをお読みください。

                  野田聖子議員、養子縁組を断念しての、代理母出産

                  野田聖子議員に学ぶ女性のステージごとの決断と責任

                  野田聖子議員の妊娠報道、「好き嫌いは本質に先立つ」?

                  WEBRONZA編集部が「注目のブログ記事」として本ブログ記事を選出

                  野田聖子議員のいのちに対する責任意識


                   
                   この件は、より明確に代理母制度が持つ様々の課題を浮き彫りにしました。子どもを望みながら、障碍児を拒否し、結果として代理母に押し付ける依頼者の身勝手、いわば、「親のエゴ」「金持ちの横暴」や「欲望の無限肯定」の問題があります。言うまでもなく、ここには、出産前での障碍者差別の正当化という問題があります。

                   国際的視点からすれば、豊かな国の白人(かつて亡国の名誉白人であった日本人も含む)が、貧しい国の有色人種を代理母とするわけです。もはや代理母は純粋なボランティアではなく金銭獲得方法も兼ねたものへと変質します。これは、ビジネスチャンスでもあり、仲介業者も出てきます。そして、そこには、必然的に貧困の問題人種差別的側面があります。「強者と弱者」との視点に立てば、これは「子宮に対しての植民地支配」「生殖における奴隷制度」「生殖界の基地・原発問題」とも呼ぶべき一面もあるでしょう。とりわけ、出産の代理だけでなく「中絶の代理」まで、させようとしたことは、国際社会に「強者横暴の極み」を見せつける結果となりました。


                   さらには、「子どもは親を選べないのに、親は子どもを選べるのか?」という問い掛けもあるはず。そして、障碍を持つなら受け取り拒否との態度には、「命の商品化」や依頼者の「顧客満足」を求められる生殖ビジネスの問題もあるわけです。それにともなう法整備や国際的ルール作りも課題です。いいえ、こうした問題が当初から予想されているのに、法整備をしなかった各国政府の責任を私は問いたいです。

                   最後に考えたいことがあります。それは生まれ来た双子の男女です。弱者は代理母や貧困国の有色人種だけではありません。生まれてきた双子はそれぞれが、ある意味、弱者であり、犠牲者です。私たちは忘れてはなりません。代理母問題の最大の当事者は、この双子なのです!

                   この方法と経緯によって生まれ、大人たちのエゴやしがらみによって人生を左右されて、それでも生きていくのはこの双子なのです。障碍の有無によって双子が、豊かな家庭と貧しい家庭に別れて育てられるのです。まるで映画かテレビドラマです。この子どもたちには、出自を知る権利(ルーツを知る権利)は、保障されるのでしょうか?あるいは、生き別れた双子であったことを嫌でも知ることになった時に、どうなのでしょう?

                   代理母を認めていくということは、こうした生まれ来る子どもたちへの重大かつ厳粛な責任を負っているのです。それを果たせる見込みもなく、わが子を望む金持ち依頼者側の希望のみが実現される制度はどうかと思うのです。金持ち白人の不妊夫婦が自分の希望をかなえようとしたその方法が、国と人種を超えて、様々な弱者を苦しめ、世界中の人に課題を問いかけたというのが、今回の件の全体像でしょう。


                   国境を超えての代理母が、こうした問題を生むことは予想されていたのです。受け渡し拒否もあれば、受け取り拒否もあったのです。悲しいことに過去には、今回と同様の理由でインド人の代理母から、受け取り拒否をした日本人夫婦もいたのです。既に、日本もこの問題の当事者なのです!

                   課題が多すぎる今回の件ですが、上にあげた問題のいくつかを取り上げて、明日から何度かにわたって、記事を記してみたいと願っています。
                  | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 11:16 | - | - | - |
                  stap細胞、幸せの可能性と不幸を避ける倫理性
                  0
                    stap細胞が、大変な話題となっております。私はある聖書的身体論の立場から、移植医療については慎重派ですが、再生医療については、肯定派です。特に今回のstap細胞は、発ガン性のリスクと受精卵を用いる倫理性を克服しているようで、より問題なく、病で苦しむ人々に希望を与えるものだからです。

                     でも、手離しで肯定しているわけではありません。どのようにすぐれた医療技術も、それが生命にかかわる限りは、倫理性についてのチェックは不可欠だと思うのです。もし、倫理を問わず、「治療可能となる人たちの幸福」ばかりを最優先するなら、人間の欲望は無限に増長され、「新たな医療技術」が、人類に「新たな不幸」をもたらす可能性があるからです。新たな医療技術は「新たな幸せの誕生」を意味しますが、同時に「新たな不幸の誕生」の可能性をも含んでいるのです。だからこそ、倫理を問うことによって、幸せの可能性を尊重しつつも、不幸を避けるのです。今回のタイトルである「幸せの可能性と不幸を避ける倫理性」は、医療や生命に関する最先端技術を考える際に不可欠な指針だろうと思いつけてみました。

                     そこで、倫理的問題を書こうと思っていたのですが、愛読するブログに最適のものを見つけたので、自分では書かずに、そちらを紹介するとしましょう。倫理的問題点を指摘した記事と、その問題点をSF小説風に事例として提示しているものです。本当は自分がこうした記事を書くべきとは思いつつも、思わず「あっぱれ」と思ってしまった秀逸な記事であります。


                    ブログ「伊那谷牧師の雑考」より
                    「STAP細胞の人間への応用に伴う倫理について
                    http://zios.seesaa.net/article/387440667.html

                    「STAP細胞にまつわるサイエンス・フィクション」
                    http://zios.seesaa.net/article/387468996.html
                    | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 17:59 | - | - | - |
                    安藤美姫の選択「スケーターになるために生まれてきたのではない」
                    0

                       昨夜はニュースで、安藤美姫選手が、4月に出産していたことを告白。今日は、メディアはその話題でもちきりであります。オリンピック出場や選手生活のことを考えて、周囲には出産に反対する声が強かったようです。しかし、彼女は自分の強い意志によって出産を選択したとのこと。そのことに関して語った言葉の一つがこれ。

                       「スケーターになるために生まれてきたのではない」

                       彼女はスケートやオリンピックのメダル以上に本質的で優先すべきものが分かっていたのでしょう。自分がスケーターである前に一女性であることを、優先したのです。アメリカでの生活を通じて、アメリカのアスリート達が、個人生活を大切にしているのを目撃し、彼女の価値観は変えられたようです。国民が期待する「公人」としての自分よりも、「私人」としての自分の幸福を優先したということでしょう。

                       日本では、女性芸能人や女性アスリートは、「個人生活を犠牲にしてでも、芸能活動、競技生活に励むべき」との恐ろしい価値観があるように思います。安藤選手自身、休暇やデートを目撃されると「そんな時間があったら練習すべき」と言われたのだとか。自分を棚に置いて、公人には、個人生活を許さず、滅私奉公を強要する日本文化は異常だと私は思います。

                       以前の記事で故・大原令子さんが、芸能活動のため中絶をしたことをお知らせしました。同情されるべきでしょうし、その壮絶な女優根性は、立派なのかもしれません。しかし、どのような優れた表現芸術も演技も作品も、生まれ来る一人のいのちに勝るだろうか?と私は思うのです。

                       同様に、生まれ来る一人のいのちを犠牲にしてまでして、獲得するほど、ソチ・オリンピックの金メダルは価値があるのでしょうか?安藤選手はその選択をしたら、一生後悔をせず、胸を張って自分の人生を歩めただろうかと考えると、今回の選択は、本当によかったと思います。

                       思えば、8歳にして父を事故死で失った彼女です。女癖が悪いと噂される年配の敏腕コーチと公私共に歩んだのも、その影響との見解は強いようです。個人的には「安藤美姫は、失った父親からの愛情をパートナーに求め続ける不幸恋愛者になるのでは?」と心配をしておりました。今回の件で、その心配がなくなったわけではないのですが、最悪の選択をしなかったことで一安心しています。

                       かつて水泳の千葉すず選手は、「メダルばかり欲しがる関係者は異常」との発言が上部から問題視され、干されて、その後に目立った活躍もなく、選手生命を終えてゆきました。私は今回の安藤選手の選択とカミングアウトは、ある意味、千葉すず選手のリベンジのように受け止めています。

                       女性アスリートに対して、「オリンピックでのメダル」「国民の期待」「公人」などの名目で、個人生活や一女性としての幸福を認めてこなかったあり方が、今回の件で、終わっていくことを私は切に願っています。

                       明らかに彼女は、スケーターになるために生まれてきたのではありません。それ以前に女性として、生む性として、神の恵みにあずかるようにこの世に生を受けたのです。そのように神からの普遍的恵みは、個別的恵みに優先されると私は思います。

                       薬物依存で破綻した女子体操選手、10代から競技に明け暮れ人格的成熟がないまま、結婚が破綻していった女子スキー選手などが記憶に上ります。そうしたことは、もう、終わらせましょうよ。女子アスリートの指導者は、勝利やメダル至上主義に走りすぎず、競技人生が終わった後も幸せになれるよう人間、女性としても健全に育成していただければと願います。

                       きっとよほどの事情があって、父親を報告できないのでしょう。願わくは、それらの諸事情が克服されて、生まれ来た娘さんの父にあたる男性と共に娘さんを育て、幸せな人生を歩んでいただければと思っています。

                       人一人のいのちは地球より重いのです。いいえ、既に2000年も前に、神様のいのちと等価交換を申し出ていただいているのです。オリンピックのメダルも、国民の期待も、栄光の競技人生も、たった一人の芽生えた小さないのちに勝るものではありません!

                       大震災を経て、人命の尊厳を突きつけられてもなお、人命より、他のものを優先すべきとする人々が安藤選手の周囲に多くおられたことは残念でなりません。それほど、「世の誉れ」は芽生えたいのちや一女性の人生などの本質を見失わせるのでしょう。

                       妊娠に至るプロセスについてはどうかと思うところもありますが、厳しい状況の中で、優先すべきものを優先する選択をした安藤選手にアッパレです!そう、あなたは、スケーターである以前に、一女性として生まれてきたのですから。   

                      | ヤンキー牧師 | 生命の尊厳・生命倫理・医療倫理 | 14:44 | - | - | - |
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