命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
カトリックの「万人祭司」と「会堂建築後神父交代」について補足
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     一昨日の記事では、「キリスト教のリアル」中の晴佐久神父の発言から、カトリックの「万人祭司」と「会堂建築後神父交代」について記しました。FBの方では、有益この上ないコメントを数々いただきましたので、補足として紹介し、私なりにコメントを。

     カトリックの万人祭司については、先輩牧師より的確な資料を教えていただきました。それは、第二バチカン公会議での『教会憲章』の第4章の「信徒について」で触れられているそうです。その冒頭に「神の民について言われたすべてのことは、信徒、修道者、聖職者に平等に向けられている・・・」(南山大学監修『第2バチカン公会議公文書全集』)とあるとのこと。第二バチカン公会議の公文書は日本カトリック司教協議会公認の公式訳も安価に出ているとして以下のものを教えていただきました。

    「第二バチカン公会議公文書改訂公式訳」(アマゾンのサイト)


    会堂建築後牧師交代」の可能性については、様々な声が。


     新会堂建築して牧師の世襲という日本の暗黙のルールと比較して賞賛の声がありました。神社やお寺同様、建造物と共に牧師も世襲されていくというのは、日本人のメンタリティーにとっては、安心かつ快適なのでしょう。また、そうなれば、教会の世代交代も順調なのでしょう。

     でも、そのメンタリティーが聖書的かどうかは疑問ですし、同族企業や世襲制の権力者を持つ国家が持つのと同様のリスクを背負うことになるのでは?個人的には教職者子弟が教職者になった場合は、別の教会に就任するのが好ましいと思っています。実際にいくつかの教団では、そのようなルールを実行しているようえす。牧師が信徒にとって信仰アイデンティティーとなることが不健全なのですから、二代続くと個人から一族がそうなってしまいかねませんから。教会が牧師一族と同一視されることは、信徒が教会をキリストの体として認識しないことにつながりかねません。同一教会を三代の世襲で牧会するのは禁じ手だと考えていて、相談を受けた場合は「三代続けば、北朝鮮(笑)」と答えています。

     もう一つは「借金をして会堂を建てた場合」のことです。一昨日の記事はこの現実を忘れて書いてしまったので、不十分でした。たぶん、カトリックは借金不要の会堂建築資金かその出所があるのでしょう。プロテスタント教会の場合は、借金をする場合がほとんどですから、会堂を建てた時の牧師がすぐに去ってしまい、後任牧師が苦労するというのは、ある意味、無責任でしょう。ある程度の負債返済の目途がつくか、返済完了まで留まるべきとの判断も、常識的かと思います。

     ただ、これも逆利用されていまい「返済の目途がつくまで」「返済完了」までという名目で、本来なら引退すべき牧師が働きを続け、教会が牧師とともに老いてしまい、新たな会堂は建ったものの、そこに集うはずの次世代の姿が見えないことも。

     そう考えると、カトリックとプロテスタントの違いは、歴史的に積み上げてきた知恵の有無ではなく、歴史的に積み上げてきた資産・資金の違いにあるのかもしれません。知恵であれ、資金であれ、日本においては、多くが創立100年にも満たない福音派にはないカトリックの歴史的積み上げを思い知らされます。

     ただ、歴史ある他教派の積み上げに学ぶだけでなく、その積み上げの欠けをカバーし得る熱心な信仰聖書的であろうとする真摯な姿勢が、福音派の強みだろうと考えたりもしています。
    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 17:21 | - | - | - |
    「キリスト教のリアル」が記す「福音派のリアル」
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       「キリスト教のリアル」の対談をしておられる福音派牧師は、牧会塾ディレクターの森直樹牧師。一昨日の記事でお知らせしたとおり、各教派とも標準からはかなり遠い方ばかりです。他教派というだけで、多くの福音派の牧師はビビります。しかも、この個性豊かなメンバーと臆せず対話をできる福音派牧師はそうはいらっしゃいません。

       その意味で、福音派内で「聖め派」と「会衆派」両方の教職経験を持ち、学校での働きを通じて、他教派とも交わりを持ち続け、なおかつ牧会塾の働きを通じて幅広く福音派内のリアルに触れてこられた森先生は、最適の方だと思うのです。同著の中では、福音派の信仰理解や教職や教会のありようを、時には最大公約数的に、時には最大公倍数的に紹介してくださっています。


       営業妨害にならぬよう一つだけ紹介しましょう。160ページにはこんな内容があります。神学校教育についてなのですが、概要だけ記します。

       アイデンティティーを確立せぬまま神学校に入学前し、頭だけ大きくなってしまうので、若い牧師は打たれ弱い。逆に神学を学んできたという権威を振りかざし、意に沿わぬ信徒を追い出す、反対に牧師が教会を追い出される場合も。聖書神学、組織神学、歴史神学ばかりで、自分のアイデンティティーがどこにあるか?言い換えれば霊性神学のようなことを神学校ではあまり学ばない。だから、若い人が潰れたり、過激に突っ走ったりする。

       すべてにあてはまるわけではないでしょうが、、福音派の神学校にありがちな傾向かと思います。自我の確立が遅れ気味の現代社会と家庭から献身者が与えられる現実を考えると、これは牧師養成機関にとっては、大きな課題なのでしょう。牧会塾も、こうした現状認識と問題意識から、始まっている部分があるのだと理解しています。こうした謂わば裏リアルも語ることのできるからこそ、森先生が適任だと思うわけです。


       教会に来れない方々のこと、うつになる牧師のこと、うつ病などで礼拝出席もできない牧師夫人のことなども記しておられます。私も奉仕先で、時々、牧師がうつであることを知ります。あるいは、そうだろうと察します。牧師夫人が心を病み一度もお会いせず教会を失礼することもあります。当人の信仰以外の理由で教会に行きたくてもいけない方々がいらっしゃいます。そうした現実を目の当たりにしても、自分には何もできないと思います。

       森先生のすごいところは、これらの課題を指摘するだけに留まらず、その課題に向き合い、同士と共に克服する具体的努力をしておられることです。教会に行けない方のためにクローズドの礼拝を持っていること、20年も「うつ牧師の会」を続けていること、うつ病などで礼拝出席もできない牧師夫人のための集会をされていることなどが、記されています。


       時には他の教派との共通項で、福音派のリアルを語り、時には、他教派との相違点を通じて、福音派のリアルを際立たせておられます。他教教派との対話の中で、福音派のアイデンティティーと課題を示してくださり、まさに適任者であります。森先生が語る「福音派のリアル」は、普通に教会生活を送っていても、知ることがあまりない牧師夫妻のリアルや教会のリアルが満載です。

       というわけで、話題の新刊「キリスト教のリアル」、福音派のクリスチャンは、森先生の発言を中心として他教派との対比で、「福音派のリアル」を読まれるのもよいのではないかと思います。
      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 18:30 | - | - | - |
      カトリックも「万人祭司」だったんだー!考えさせられる「会堂建築後神父交代」の知恵
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         「キリスト教のリアル」から教えらえたことを、営業妨害にならない程度で、記してみます。今日は晴佐久神父から学んだことです。

         211ページに記述を読んで、とても自分が恥ずかしい思いがしました。知らなかったのですが、カトリックも「万人祭司」だったのですね。晴佐久神父によれば、これは、第二バチカン公会議で、はっきり宣言されているのだそうです。ただ、同時に、サクラメントとしての叙階は譲らないのだそうです。私の理解では、カトリックとプロテスタントは教職論は異なりますが、実は、万人祭司という聖書的理念は同じなのだと受け取りました。

         「カトリックは万人祭司でないから、神父は聖職者、プロテスタントは万人祭司で牧師は教職者」などと、これまでブログに記してしまった自分が恥ずかしいです。自分のカトリック理解が、50年遅れだと判明し、トホホであります。無知と不勉強の故に、間違ったことを記してきたことをお詫びします。


         もうひとつ、144ページの晴佐久神父の発言には、考えさせられました。何でも、カトリックでは、教会を立て直すと、多くの場合、神父が交代するのだそうです。これは半ば暗黙のルールで、神父が自分のために建てたかのような感覚に陥らないための知恵だと思われるとのこと。

         この「会堂建築後神父交代」の知恵は、一種の歴史的積み上げの中で、確立されたものでしょう。プロテスタント教会でも、「新会堂を建てたのは神様、献金したのもほぼ信徒牧師が自分の手柄のように思うなど、とんでもない」とよく聞かされました。「献堂したはずなのに、わが物顔してどうすんの?」との苦言をお聞きしたことも。そういう勘違いをしたまま続いて牧会を続けると、教会が自分のものであるかのような錯覚に陥りかねないわけです。

         牧師の教会私物化予防はもちろんのこと、健全な教職観と教会観の育成のためにも、「会堂建築後牧師交代ルール」は、良い知恵ではないかと思うのです。でも、すぐに実行アピールに消極的になりました。なぜなら、こんな声が聞こえてきそうだからです。

         「牧師先生に続けて欲しいから会堂建てない」「牧師が変わるなら、会堂建築献金のモチベーションなくなる」と思ったり、逆に「牧師に代わって欲しいから、会堂建築をしよう」と言い出す本末転倒信徒

         「牧師交代なら、会堂建てたくない」「会堂建てても、転任ならモチベーション下がるなー」と思ってしまう牧師の肉性。

         そんなことを想像して、不信仰にも「無理だろうなー」と思ってしまったのです。実際に会堂建築後に、自分が留まるのはよくないと判断して、自ら転任していく牧師というケースは知りません。とりわけ、牧師の求心力信徒と献金が集まって立派な会堂を建てるタイプの大規模教会の場合には、これは実行困難かと予想します。

         プロテスタント教会では、よく「○○先生の教会」という不適切表現をお聞きします。私も言ってしまうことがあり、反省しています。これは、カトリックではないことだそうです。この違いは、会堂建築後に神父が交代するという歴史的知恵の有無と関係がありそうな気がするのです。「○○先生の教会」という表現は、福音派内に、「聖書信仰」と言いながら、聖書的な教職論と教会観がまだまだ浸透、徹底していないという歴史的蓄積にの乏しさを意味しているのかも。このことは、きっと、歴史を積み上げながら、克服していくべき課題なのでしょう。


         晴佐久神父が語るカトリックのリアルに、一つの偏見誤解を正され、一つの歴史的所産としての知恵に考えさせられました。

         「キリスト教会のリアル」、カトリックについては、こんなところが読みどころでした。
        | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 07:27 | - | - | - |
        "Ministry"の特集「牧師たちの失敗」がリアルで泣ける、そして、教えられる(3)
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           教会立てこもり事件を扱って以来、アクセスが3000を超えることも珍しくなくなり、昨日は4500を超えてしまいました。フェイスブックでは、普段は「コメントは歓迎せず、いただいても返答せず」という塩対応を貫いているのですが、あまりによいコメントをいただいたので、ついつい、仏心、いや、キリスト心を出して、返答してしまったら、大変なことになってしまいました。

           最近は、某大学学長から、元暴力団員牧師まで、有名牧師からコメントをいただくことに。昨日の記事には「牧会塾」と「説教塾」それぞれを担ってこられたお二方からのコメントが。ご両名は、私にとっては、「野球選手にとっての王と長嶋」のような存在なので、恐縮至極。そういうわけで、「びびる水谷」となってしまいました。なので、今日はトーンダウンして、強い問題提起はせずに、Ministryの特集記事をあっさりとアピールするとしましょう。

           
           さて、今日の記事です。キリスト新聞社から金をもらっているわけでもなく、同社の販売促進担当でもないのですが、本当によいと思うものは、紹介したいのです。昨日、紹介した二つの事例を受けて、「まとめに代えて」ということで、藤掛明先生が、「牧師が失敗しないための10箇条」と「牧師の家庭内暴力(DV)にはどう対処?」という二つの記事が掲載されています。

           今日は後者については詳しく触れませんが、一般的なDVの対処に終わらず、牧師家庭であることを考慮しており、かつ、相談先や対処方法を紹介するなど、とても現実的な内容です。


           そして、10箇条の方は、臨床の立場からのアドバイスなのですが、これが、「そうそう!本当にその通り!」なのです。多くの牧師と牧師家族の相談を受けてこられた先生ならではの専門的かつ現実的アドバイスです。多分、他国と比較するなら、真面目で信仰的で献身的な日本の牧師が、陥りやすい考え違いや間違ったあり方に対応しているのです。ここにその10のアドバイスを書けないのが、もどかしい程です。

           実は私自身も、これまで藤掛先生の発信や働きを通じて、この10箇条のいくつかに触れきて、何度も解放されてきた牧師の一人です。「こんなにいいがげんで神様に申し訳ない」と思っていた自分が、実は、真面目過ぎて自己破たんに向かいやすいことに気づきました。それまで自分のある一面が見えていなかったのです。牧師自身の正しい自己認識は、牧師の精神衛生とその家庭と牧する教会に大きな恵みを与えることを私は実感しています。そういうわけで、今は、かなり楽に牧師してます。(うらやましいと思ったら、この記事を読みましょう!)


           現実の情けない自分家庭や人間関係の問題があること自体が受け入れらず、葛藤してしまう牧師。

           いつのまにか孤立しまい、勝手に孤高の人となり、交わりに生きないクリスチャンになっている牧師。

           挫折したら、いつまでも引きずるのは不信仰だと考えて、信仰を名目に無理したり、自分を責めてしてしまう牧師。

           何でもかんでも、「成功」と「失敗」の二つに分別して評価して、自分を追い詰めてしまう牧師。

           プライベートに至るまでどこか「牧師らしくなくては」と思い、そのように振る舞って無意識にストレスを溜めている牧師。


           真面目で理想主義的な牧師には「あるある」ではないでしょうか?皮肉なことに「真面目で誠実で純粋で信仰的で献身的な牧師」が挫折や自己破綻しやすいという面もなきにしもあらずのように観察します。そんな牧師たちに、この10箇条は、思いとあり方において解放を与えることでしょう。そして、多くの失敗を未然に防ぐだろうと期待します。あるいは、失敗したとしても、正しい対応を経て、牧師を続ける道を示してくれるだろうと思っています。

           この10箇条は、いわば、「藤掛流、牧師失敗道の極意」とも言えそうです。極意の伝授を希望する方は、ご購読を。

          Ministry最新刊 28号の詳細はこちら!
          http://www.ministry.co.jp/book/view/282/

          これで、三回にわたるシリーズは終了とさせていただきます。

          <付記>
           FBで藤掛先生からコメントをいただきました。以下のブログ記事で10箇条の一部がチラ見できます。まあ、見本ということで、営業妨害にはならないと判断して紹介します。

          「季刊誌Ministry(ミニストリー)28号!」
          http://fujikake.jugem.jp/?eid=4447

           

           
          | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 10:10 | - | - | - |
          "Ministry"の特集「牧師たちの失敗」がリアルで泣ける、そして、教えられる(1)
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             キリスト新聞社の”Ministry”は毎号、購読しております。最近、気が付いたことがあります。それは、朝岡勝師が編集委員に加わっておられること。師が「中堅説教者奮闘記」(若者にメッセージを届ける方は必読)を連載しておられるのは存じ上げておりましたが、最新号を読むまで、編集委員をされているとは知りませんでした。3年間、同誌にコント掲載をしてきた者として、福音派に属する編集員をと願っておりましたが、積年の願いが果たされ、感謝なことです。というわけで、朝岡ファンの方も是非、ご愛読を。

             最新号は、特集「牧師たちの失敗」がおススメ。「失敗」と言っても、金銭、異性、パワハラなどの不祥事ではありません。牧師を続けていけなくなった失敗で、どちらかと言えば、自分の内面に起因する「しくじり」です。人気テレビ番組「しくじり先生」のコンセプトを採用した企画なのでしょう。こちらはテレビ番組とは違い、およそ笑えません。大真面目です。


             「成功談より失敗談が人を活かす」などと聞きます。これは、まさに、牧師の場合に言えることです。牧師の「成功談」、特にこちらが頼まないのにお話くださる「成功談」は、意外と役に立ちません。ひねくれ者の私は「大きな教会、立派な教会堂=成功なの?そうでないと成功ではないの?」と心の中で反発したり、「それは高度経済成長期の成功モデルですよね。シャープは成功体験再現幻想を抜け出せず、どうなりました?」と心の声で突っ込んだりしています。


             逆にいつまでも深く心に残っているのが、先輩牧師からお聞きした「失敗談」です。「教会は大きくなった。でも、こんな権威主義的な群れにしてしまって神様に申し訳ない」と深く悲しまれた大教会の有名牧師、「あなたたちは、私たちの世代が作ったような教会をつらないようにしてください。」と伝えて下さった戦後の教会をリードし、某団体の長を務められたこともある方の言葉は、今も深く心に残り、指針となっています。私は、これらの先輩牧師の言葉を頭が下がる思いで受け止めました。

             前者は、牧師依存体質で、自らみ言葉に立って思索し判断することができない多くの信徒たちを見ての正直な悔い改めとして、受け止めました。そして、後者は、「礼拝共同体」としての第一義的歩みや「神の家族」としての交わりを脇に置きながら「礼拝つき伝道団体」のように歩んできたことへの反省の言葉として、お聴きしました。私にとって、これら「成功者と評される牧師たちの失敗談」は、生涯の財産となっています。


             そこで、Ministry最新号の特集です。これは上のような教会論的、神学的失敗談ではなく、牧師個人レベルでの失敗談です。牧師が牧師を続けられなくなる場合、その原因は、牧師個人の内面的問題、人格面での歪みなどが原因だと考えています。もちろん、直接的には、未熟な信徒や教会、団体の体質などが原因かもしれませんが、それへの対処や受け止め方に牧師個人の問題が反映してしまい、問題が深刻化し、決裂していくように感じています。

             最新号では、二人の牧師の実例が紹介されています。それは、同労者の一人として、リアルで泣ける内容です。でも、教えられます。そして、決して失望に終わっていない内容です。こうした闇を扱うことが”Ministry”の意義の一つだと私は考えています。それは、聖書が信仰リーダーたちの光だけでなく闇を遠慮なく描き、後世に伝えているのに通じる意義だと言えるでしょう。

             信仰リーダーやその家庭の闇に触れることに、強い嫌悪感を持つ方がいらっしゃるのも事実です。しかし、その嫌悪感とは何でしょう?もしかしたら、それは「信仰的応答」ではなく「生理的反応」であり、「向き合いたくない現実」から逃避するための拒否感情なのかもしれません。聖書の真理は神の側の光だけでなく、人の側の闇にもあることを忘れてはならないと思うのです。むしろ、その闇に福音の光を当てること、その闇に赦しの恵みと回復の希望をもって向き合うことこそ、真理に歩むことではないでしょうか?
             
             また、二人の牧師の事例は、私が教えられたような「成功者と評される牧師たちの失敗談」ではありません。まさに「失敗者のレッテルを貼られたであろう牧師たちの失敗談」です。これがまた、教えられるのです。このタイプの失敗談を取り上げるところが、さすが”Ministry”であります。テレビの「しくじり先生」の先生は、かつての成功体験者ばかりですが、お二人はそうではありません。それこれが、今回の特集が、単なる「しくじり先生牧師版」で終っていない所以であり、そこにこそ、この特集の意義があると思えてならないのです。


             「牧師、やめようかなー」とか「牧師、続けられそうにないな」と思っておられる当事者の方、また、身近な牧師がそう思ってそうだという方は、是非、ご購読を。これを読めば、辞めずに済むかもしれませんし、安心して辞められるかもしれません。牧師を続ける希望が与えられるか、辞めても大丈夫だと思えるか、どっちに転んでも祝福に向かう?ことでしょう。

            Ministry最新刊 28号の詳細はこちら!
            http://www.ministry.co.jp/book/view/282/



            明日は、掲載されている二つの事例に触れてみます。
            | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 13:51 | - | - | - |
            「招詞は信徒で、祝祷は牧師?」への回答に教えられる
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               昨日の素直で大切な疑問に対しては、今朝までに5名の方から、さっそくの返信をいただきました。私自身が勉強になり、疑問が解消したと同時に、問題意識が正しくされて、さらに深まった面もあります。自分が「聖書は礼拝について何を語っているか?」一辺で学びながら、「教会は、どのような礼拝をささげてきた」については、ほぼ学んでこなかったことを思います。現行の礼拝の聖書性という表面だけを考えて、歴史と伝統という奥行きを考えてこなかったわけです。聖書の記述と現行の礼拝という両端だけに注目し、実際の礼拝の歴史という中間部を見逃してきたということでしょう。

               いただいた返信を読みながら、きっと読者の皆さんにとっても有意義な情報だろうと判断して、いただいた返信を紹介します。どうか、招詞を聞き、祝祷を受ける側の皆様におかれましては、正しい意味を知っていただき、さらに豊かで喜びある礼拝をささげられますようにと願います。

               いわゆる福音派を中心に諸団体で礼拝奉仕をしておりますが、およそ、2割程度の教会には、礼拝開始に際して、招詞がありません。逆に、祝祷のない礼拝は皆無です。また、福音派の教会で、説教者である牧師が司式もして、信徒が司会を一切しないケースには遭遇したことがありません。日本基督教団長老主義の教会では、そうした礼拝に出席したことがあります。知人牧師からはご自身の体験から、「長老教会と日本基督教団では招詞も牧師がするという取り組みをする教会もありました」とのメールをいただきました。では、以下に5名の方からの応答をお知らせします。いずれも、太字は私の編集によるものです。


               ブログのコメント欄にいただいたのは、「自由王子」さんと「ミーちゃんはーちゃん」のお二人。

              自由王子さんの応答は、神学的知識からではなく推測によるものですが、本質をついておられると感心します。「カトッリク招詞不要論?」などはとても興味深い推察かと思います。

               全くの推測ですが、招詞はプロテスタント教会独自のもの、祝祷はカトリック教会からの伝統ということはありませんか?

               私の属している教会(プロテスタント)では、祝祷はありますが、派遣の言葉はありませんが、祝福と派遣をセットに考えている教会があり、同盟の教会の礼拝に出て、新鮮に思いました。

               これは、徳丸町キリスト教会のHPにある内容ですが「 終わりに、今一度、礼拝が「派遣と祝福」で締め括られることの意味を考えておきたいと思います。礼拝式の最後に派遣の言葉が語られる。それはこれが礼拝の終わりのしるしではなく、新しい礼拝の旅路への始まりであることを意味しています。カトリックの礼拝を「ミサ」と言いますが、それは古代から中世にかけて、礼拝の終わりに司式者がラテン語で「イテ・ミサ・エスト」と宣言したことに由来すると言われます。「礼拝は終わった、さあ行きなさい」という意味です。そして文字通り、礼拝堂の扉が開かれ、聖職者たちを先頭に会衆はみな礼拝堂から立ち上がって出て行くのです。」とあって、祝福と派遣はカトリックからの伝統ではないかと思うのです。そうすると、それを行うのは、司祭で、それがプロテスタント教会では牧師になった。

               しかし、カトリック教会では、もともと招かなくても教区にいる人は教会に来るのが当然なので、カトリックのミサには、招きの言葉はなく、プロテスタント教会では礼拝には招かれて来るものだという考えをどこかの宗教改革者が考えて、礼拝の式次第に入れたということはないでしょうか?


              ミーちゃんはーちゃんは、この件を、使徒継承権にまで還元し、法理理解の伝統とする見解をお知らせくださいました。福音派の一牧師として、重く受け止めるべきかと考えています。

              おひさです。

              結局、使徒継承権の問題ではないかと。

               信徒が按手礼を受けていないと、一種のサクラメントである『礼拝』において、祝福を受けるための使徒継承権を執行する権威性を信徒(たとえ信徒代表であったとしても按手礼を受けていない以上)法理的には、保持していないことになるわけで、その法理的な面で、使徒継承権を保持しないものが勝手に祝福してよいのか、ということがカトリックにおける論理であり、東方正教会を含む法理理解の伝統かと思われます。

               プロテスタント諸派において、使徒継承権があやしくなっているにもかかわらず、礼拝祝祷を順守する必要がない極端な平信徒主義のブラザレン派では、このようなことは致しません。

               最近ふらふらといろんなプロテスタント派の教会の巡回研修中の私からすれば、もはや、これは、カトリックのミサの伝統から派生している行為なので、本来的にはプロテスタント派では廃止して良かったはずなのですが、なぜかの理由がわからないけれども、そうするもの、として残ったものではないだろうか、と思います。

               まぁ、世俗の世界に教会という家から送り出す、という積極的な意味を見出せますが、それを牧師しかしないというのは、牧師のみの背景には、カトリックの司祭がしていたものを、よくも考えずに、司祭がするものであったものを、そこに関しては、そのまま引き継ぎ、そのことの教会法的な法理を解明しないままただ繰り返しているのではないか、と思います。

               まぁ、そういう意味で言うとサクラメント論がまだ十分に広くその構造と理解が日本のプロテスタントは、福音派では十分でない、ということの証左として、今回のこのご発言を重く受け止めました。

              以上、私見の開陳で御座います。


               フェイスブックの方では、深谷美枝師と金井望師から応答をいただきました。

              深谷美枝先生からは、すぐにコメントをいただきました。昨日の付記にある通り、短くポイントを示して下さいました。古代の教会の礼拝が、前半がみ言葉礼拝で、後半が聖餐礼拝であったこととを前提にお読みください。

              祝祷は元々は、一人一人に手を置いて、聖霊の満たしと祝福を司祭が願い求めた名残りであるからと、礼拝学の授業で聞きました。そして、招きの言葉は、前半言葉による礼拝の入り口であり、遥かに後半の聖体拝領より軽いものです。司祭でなくても補助者で担当出来たわけでしょう。いずれにせよ、古代のキリスト教会の礼拝を継承しているわけなのです。」


              金井望先生からは、教職論を軸として、歴史的な起源と経緯を分かりやすく教えていただきました。これまであちこちでぼんやり聞いてきたことを、はっきりと系統立てて示していただいたようで、感謝しています。信徒が司式(司会)をするのは、歴史的には最近のことであり、一部教派のことであることは、知っておいた方がよいでしょう。私などは、まさにそうなのですが、そうなる以前の伝統や経緯と元来の理念の喪失が、礼拝を乏しいものとしている面は、無きにしも非ずでしょう。礼拝の司会をされる読者には、とりわけお読みいただきたい内容でもあります。


               そもそも、最も古い歴史を持つ東方正教会と、それに次ぐローマ・カトリック教会では、礼拝の「司式」はすべて司祭が行うのが原則だ、と思います。東方正教会の礼拝は今でもほとんど司祭の独壇場ですが、現代のローマ・カトリック教会では、神の代理者である司祭と信徒の会衆が言葉を交わし合う形式になっています。

               彼らの場合、司祭は霊的な「身分」ですから、信徒が代務者になり得ないはず。現代のRCCでは信徒の祭司性を強調しているので、変わっているかもしれませんが。


               これに対してプロテスタント教会では、牧師は「職務」であって、身分ではありません。その職務において祭司であることは、牧師も司祭と同じですが、身分としては牧師も信徒の一人であり、信徒の代表者です。礼拝の最後に、祭司が会衆を「祝福」して派遣するのは、アロン以来現代まで3000年以上続いている伝統です。


               ちなみに、プロテスタントの特徴と言われる「万人祭司」(全信徒祭司性)とは「万人牧師」という意味ではありません。

              プロテスタント教会最初の信条であるアウグスブルク信仰告白では、次のように定められています。


              ーーーーーーーーーーー
              第十四条 教会の職制について

              教会の職制について、われらの諸教会はかく教える。何人も、正規に召されたものでないならば、教会内で公に教え、あるいは聖礼典を執行してはならない。

              http://www.wjelc.or.jp/office/credo/augsburg/ 
              ーーーーーーーーーーー

               実際には、プロテスタント教会で礼拝の「司会」を信徒に任せるようになったのは、敬虔主義の時代以降ではないか、と思います。現代の日本のプロテスタント教会は、NCCも福音派もほとんどが、敬虔主義の影響を受けています。敬虔主義によって生まれたフリーチャーチでは「信徒運動」の結果だけが残って、それ以前の伝統は忘れがちです。ルーテル派や改革派・長老派、聖公会以外は、だいたい似たような状況でございます。もちろん当方も(^_^;)


              ズDになって、個人的に某牧師より、応答をいただきました。所属団体の研修会での発題原稿を添付して送っていただきました。祝祷についての考察や試論なのですが、これが秀逸で、大いに教えられました。私自身も、祝祈の言葉や所作については、これを読んで、変えてみようと考えました。この発題は、牧師不在時の礼拝で、信徒や神学生による祝祷の可能性を提言しています。その中で、越川弘英師著「今、礼拝を考える」の212ページの文章を引用しています。多くのプロテスタント教会では、祝祷が事実上「準サクラメント」となっているようですが、それに一石を投じる文章かと思います。


               「祝福を宣言する人もまた『神の代理人』として会衆に神の恵みを告げます。こうした『祝福と派遣』を与える役割はふつう牧師に委ねられることが多いようですが、必ずしも信徒が『やってはいけない』というわけではありません。不思議なことに多くの教会ではこの行為に対して『準サクラメント』のような印象を持っているように感じられることがしばしばあります。『祝福と派遣』をしっかり明確なかたちで行うことは大切ですし、教会を代表する人間として牧師がこの人を担うのに相応しいことも事実ですが、牧師の『独占的行為』ではないことも一応覚えておいていただきたいと思います。」


               以上、今朝までにいただいた5名の方からの応答を紹介しました。これ以降の応答は、感謝して受け止めますが、特別必要と判断しない限りは、ご紹介は致しません。それでもよろしければ、フェイスブックの個人メッセージで、ご連絡下さい。

               今回の記事が、読者の皆様が礼拝に対して深く正しい意識を持たれ、より豊かな礼拝をささげていく一助となれば感謝なことです。
              | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 11:38 | - | - | - |
              ホワイ?チャーチ・ピーポー! 招詞は信徒で、祝祷は牧師
              0
                 本ブログは、直接的には神学を扱わないポリシーですが、今回は例外厚切りジェイソンなる芸人が”Why?Japanese People!”とブチ切れて叫んでは、日本人の不可解さで笑いをとっているようですが、私は最近「ホワイ?チャーチ・ピーポー!」がありました。

                 妻から、初歩的と思われる質問を受けて答えられなかったのです。

                紹詞は、信徒である司会者がするのに、祝祷は牧師でなければできないのはどうして?」

                 恥ずかしながら、考えたこともありませんでした。多くのプロテスタント教会では、教職資格のない者は、礼拝で祝祷をすることが許されません。牧師などの教職が、礼拝から派遣されるための祝福の言葉として聖書のあることばを祝祷として祈り、読みます。しかし、同時に、多くの教会では、礼拝への招きの言葉、招詞として、聖書からある言葉を司会者として立てられた信徒が読みます。

                 私の理解では、招詞と祝祷は、同じ本質を持ち、なおかつセットである言葉です。招詞は、散らされていた神の民が礼拝に招かれ、集められる神からの招きの言葉であり、祝祷は、集められた民が散らされ、礼拝の場から遣わされるにあたっての祝福の言葉と言えるでしょう。

                 なおかつ、どちらも、聖書の言葉そのものが用いられますから、神の言葉を人が取り次いでいると考えられます。祝祷も私の理解では、祈り手が神に対して民のために祈るのでなく、神からの祝福の宣言を民に知らせることだと考えています。そして、招詞と祝祷は、どちらも神からの言葉であり、礼拝の最初と最後で対になっているわけです。両者は「招集」と「派遣」のセットです。さらに乱暴に言ってしまえば、「お帰りなさい」と「行ってらっしゃい」のセットのようなものでしょう。

                 招詞も祝祷も、神の言葉そのものを、民に取り次ぐわけですから、どちらとも、説教者の資格を持つ教職がすべきと考えるのが、筋だろうと思うのです。また、旧約聖書においては、どちらも祭司の職務であったように考えられますし。あるいは、信徒である司会者に招詞を読むことを許可するなら、祝祷をするのも許可してもいいのでは?と思ったのです。

                 そして、このことを疑問に思ってこなかった自分には、無意識ながら、招詞を祝祷よりはるかに軽いものとする思いがあったことに気が付きました。自分が、常々、「招詞はめちゃめちゃ大切、招詞以降の礼拝遅刻は、自分のために命を捨てた恋人とのデートに遅刻する以上の悪行三昧、王との謁見の場で王を待たせる家来の無礼以下」と考えているにもかかわらずです。(もちろん、やむを得ぬ理由での礼拝遅刻を責める意図は全くありません。)

                 あるいは、祝祷を、「神から民への宣言」でなく、「祭司が民のために神の祝福を祈ること」と考えていた面があったように思えました。もしかたら、そこに教職者としての鼻持ちならぬ特権意識を持っていたのでは?と自らが探られました。そして、自分の礼拝に対しての意識の低さを猛反省したのです。

                 多くの教会において「招詞は信徒で祝祷は牧師」なのには、ちゃんと聖書的根拠や神学的理由があるはずです。妻からの質問を受けて、悩んだ挙句、答えが出てこないので、自宅にある礼拝関連の書物やネット上の情報を調べたのですが、正解が見つかりません。そこで、お願いです。お恥ずかしい限りですが、読者の皆様でお分かりになる方は、コメント欄に、お知らせください。この記事のみ、コメントを受け付けますので。ただし「日本に来た宣教師がそう指導したから」という本質的でない回答NGでお願いします。

                 とういわけで、「ホワイ?チャーチ・ピーポー! 招詞は信徒で、祝祷は牧師はなぜー?!」と悩んでいる無知な牧師を助けてやって下さい。

                <追記>F.B.の方で、深谷美枝先生より、さっそくコメントをいただき、大いに納得しました。私が、現代の礼拝形式の起源や歴史性を学んでいなかったことに問題があったと判明。聖書的原則と現代の礼拝を結び付けるばかりで、古代教会の現実の礼拝を十分学んでいなかったわけです。特に「後半の聖体拝領」という言葉には、まさに祝祷の招詞にまさる重要性を納得しました。では、そのコメントを以下に転載します。

                 「祝祷は元々は、一人一人に手を置いて、聖霊の満たしと祝福を司祭が願い求めた名残りであるからと、礼拝学の授業で聞きました。そして、招きの言葉は、前半言葉による礼拝の入り口であり、遥かに後半の聖体拝領より軽いものです。司祭でなくても補助者で担当出来たわけでしょう。いずれにせよ、古代のキリスト教会の礼拝を継承しているわけなのです。」
                 
                | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 14:44 | comments(2) | - | - |
                信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり(6)〜都市部教会の現役世代より、地方教会の次世代
                0
                   今日で最終回としましょう。あと10年から20年程度で、無牧教会が急増し、なおかつ経済的自立ができない教会が大半となり、併牧、夫婦別教会担当、引退牧師の担当でも、教会存続が不可能となるでしょう。そして、最終的には、)匯嬋弸覆働き自活、近隣教会と合併教会閉会の三つに至ることが予想されます。

                   そこで、個人的に大変心を痛めていることがあります。それは、地方の小さな教会から先になくなっていくのでは?という危惧です。経済効率からすれば、地方の小規模教会から閉鎖、合併して行くのは、理に適ったことでしょう。しかし、そうした経済効率にによる判断は、先輩方が積み上げてこられた地域宣教にとって、取り返しのつかないマイナスになるのでは?と心配しているのです。
                   
                   たとえば、ある団体には、一都市に30人以上の教会を三つ(各教会の距離は車で30分程度)、そこから車で二時間の山間地方に10人未満の教会が一つあるとします。経済効率を優先すれば、地方の10人未満の教会を閉鎖するのが、賢明でしょう。しかし、地方の教会の10人の背後には都市部の30人に勝る祈りと労が積まれてきたのではないでしょうか?


                   地方では、歴代牧師がその土地に定住し20年以上もかけて地域から信頼を勝ち得て、教会が建て上げられていくとお聞きします。牧師が都市部から通っているようなあり方は本来好ましくないと見解にもたびたび触れます。ですから、地方の教会が一旦閉鎖されると、再開して軌道に乗るのには、また20年は要することになります。一方、都市部の教会は、三つを二つに減らしたとしても、将来、閉鎖された教会を再開すれば、5年から10年で軌道に乗るだろうと考えるのですが、この見込みは、甘いでしょうか?


                   また、都市部の教会は閉鎖されても、同団体の近隣教会、別団体の近隣教会に行くことができれば、現役世代と次世代は、教会生活が可能となります。しかし、どの団体も同じように地方の教会を先に閉鎖するとなると、その地域は教会空白地域となり、クリスチャンたちが教会生活を送れなくなるだけでなく、地域宣教ができなくなります。

                   近い将来、野党が選挙で共倒れをせぬよう、立候補者調整をするように、団体の間で「閉鎖教会調整」をせざるを得なくなるのかも?と空想しています。「A地区では、うちが続けますから、お宅は閉鎖でいいですよ、教会員は責任もってお受け入れしますから」「うちは閉鎖したいから、お宅は続けて、信徒受け入れお願いします」などの調整で地方教会の存続をせざるを得なくなるのでしょう。

                   地域の雇用がなく、青年たちが、都市部へ出ていく地域の伝道と教会形成は今でも、極めて厳しいです。育てた中高生や青年たちが都市部の教会で活躍するというのが、地方教会の現実でしょう。地方教会の牧師が手塩にかけて育てた青年が、地域を離れ、と師の教会で信徒リーダーとして活躍していく様を多く見てきました。

                   つまり、このシリーズが扱っているような信仰継承は、地方教会では、成立しないのです。育てて手放す、送り出すのです。都市部の教会は、育てることなく若いクリスチャンを受け止めるのです。自前で育てず、育てられた人材を獲得するのですから、どこかのプロ野球球団と似ています。地方都市の教会に仕える私としては、感謝よりは、申し訳ない気持ちで、罪悪感すら感じてしまいます。

                   こうして考えますと、現状でも次世代育成については、都市部の教会は地方教会の尊い犠牲の上に、成り立っていることを思います。これ以上、地方教会を犠牲にして、都市部教会ばかりが存続する道を歩んでいいのだろうか?と思うことが私はよくあります。地方に教会空白地域を作ってまで、都市部の教会を三つから二つに減らすのを阻止するのが、正しいだろうか?思うのです。場合によっては地方教会の次世代絶滅の上に、都市部教会の現役世代の快適な教会生活が維持されるとしたら、果たして、それは神様の御心だろうか?と悩んでしまうわけです。

                   経済効率>神様の御心

                   都市部教会>地方教会

                   現役世代>次世代



                   この三つは、聖書が示す教会論や信仰継承とは、全く異なる「強者の論理」と言うべきでしょう。この聖書が支持しない論理や優先順位によって「弱者の犠牲上に成立する強者の利益」が正当化されるとしたら、その団体はみ言葉に歩んでいると言えるだろうか?と考え込んでしまいます。

                   こうしたことを書きますと、「総論賛成各論反対」となる方も多いのでしょう。つまり、「地方の教会を閉鎖しないために、都市部の教会は犠牲を覚悟すべき、でも、自分の所属教会が閉鎖、合併になることは反対」という矛盾した態度です。もちろん、ご自分が仕えておられる教会はめちゃめちゃ大切です。でも、自分の教会第一では、戦後に宣教師たちが多大な犠牲を払ってもたらした地方での福音の灯は消されてしまい、再び灯るのはいつのことやらになるのです。

                   今後、都市部教会のクリスチャンがいわゆる「マイチャーチ主義」を克服することが、地方宣教の灯を消さずに済むことにつながるだろうと予想しています。聖書的な教会論を持った成熟したクリスチャンは、本来それを実行できるはずだと私は信じています。


                   都市部教会の現役世代か?地方教会の次世代か?

                   都市部教会の合併か?地方教会の閉鎖か?

                   再開可能な都市部宣教の縮小か?再開困難な地方宣教の停止か?


                   こうした痛みを伴う選択が既に迫られていますし、これからはいよいよ厳しくこの優先順位が問われることでしょう。私は地方宣教に重荷を持ってきたわけではないので、多くの認識不足もあり、暴論となってしまっていたら、失礼をお赦し下さい。また、一連のこのシリーズは、お聞きしてきた現場の悲痛な声を私なりに統合分析したものです。拙いものであることは、自覚しておりますが、それでも、何かの参考になれば感謝なことです。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 14:34 | - | - | - |
                  信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり(4)〜第三世代基準説から見た戦後70年
                  0
                     今日は、第一回に記した原理原則を戦後70年間の日本宣教に適用して考えてみます。まずは、「各世代は誰に相当するか?」であります。難しいのは、生物学的親子ではないので、第一世代は70−90歳、第二世代は50−70歳などと簡単に年齢で割り切れません。

                     パウロに相当する第一世代は教職であれ、信徒であれ、戦後間もなく働きを開始され、ずっとリードして下った世代でしょう。その世代の多くは、既に天に召されたか働きを退かれていることでしょう。

                     テモテに相当する第二世代は、そのリーダーたちに導かれ、育てられてきた世代です。現在のリーダーの多くは第二世代でしょう。年齢としては、広く考えるなら40代後半から70歳程度でしょうか?第二世代に導かれ、育てられたのが第三世代なら、今の青年層でしょう。その中心は、二十歳前後から、40歳まで程度かと思います。既婚者や子持ちもいますし、牧師なら30代の青年牧師なのでしょうが、多くの教会では、この年齢層が薄いわけです。

                     もし、前回記した「三代目評価基準説」が正しいとするなら、日本のキリスト教会の戦後の宣教の評価は、今の青年層を見て、評価すべきということになるでしょう。つまり、戦後をリードして下さって来た大先輩方のお働きの評価も、一定、現在の青年層のありようで測られるというわけです。


                     わが子が孫を育てる姿を見て、自分の子育ての最終的な評価できるように、戦後第一世代の尊いお働きの評価は、第二世代が第三世代を育てる姿を見て、定まるのでは?と思うのです。もしかすると、天に召された大先輩たちは、第三世代のありようを見て、自己評価をしておらるのかもしれません。

                     かつて、多くの子どもたちが教会学校に集い、若者たちも救われていったことは大きな実りには違いないでしょうが、評価基準が第二世代でないなら、それはあくまで過渡的な結実と評価すべきでしょう。私はそれを、決して「成功体験」としてはならないと考えますし、「昔はよかった」と回想すべきでもないし、ましてや「かつての繁栄をもう一度」と再現を願う成功体験でもないと思うのです。なぜなら、本当の成功は第三世代に現れるからです。第二世代における結実を「成功」と評価して、それを「教会版ビジネスモデル」のようにするのは、近視眼的ではないかと考えます。


                     貧しさを厭わず、犠牲を惜しまず、魂への熱愛をもって伝道牧会に励んで下さった先輩世代には感謝し、尊敬するばかりですが、「他の人にも教えられる忠実な人たちを育てて委ねる」という視点に重きをおけるほど、キリスト教会全体が成熟していなかったのも事実だと感じています。戦後の教会の伝道至上主義が問題視され、時に批判をされます。私もそれには同意しますが、スターターである第一世代には、そうならざるを得なかった事情限界もあり、第一世代に対してはそうした理解と寛容さは必要かと感じています。

                     そういう事情や限界もあってのことでしょう。第一世代が、第二世代に対して「このように次世代を育てて、さらに下の世代を育て委ねられるようにするのだよ」という模範を示してきたか?と言えば、あまりできてこなかったように感じています。また、熱心な伝道によって、多くの教会が生み出されたことは、感謝につきませんが、それを担う次世代育成にも同様の熱意と労と経済を注いできたか?教会学校は盛んであっても、信仰継承の要である親であるクリスチャンの教育がどうであったか?なども問われるのでしょう。

                     第一世代から見れば、第二世代がお叱りを受けることは多々あるでしょう。しかし、信仰継承で苦戦して、現在の第三世代激減していることの原因を、第二世代のみにあるかのように評価されることがあるとするなら、私は異議を唱えたいです。数値や統計によって、第一世代から引き継いだものを第二世代が衰退させたと結論するのは、全く聖書的ではないだろうと私は考えています。むしろ、その数値や統計上の衰退は、第一世代の働きの評価でもあるはずです。


                     では、同時に第二世代に責任がないかと言えばそうではないでしょう。第二世代は従来の伝道至上主義のマイナス面を認識して、次々世代を視野に入れての次世代育成に働きを一定シフトできたはずです。もし、それさえ認識できていない第二世代がいるなら、それはスターターからバトンを受け取る者としてどうかと思います。また、これは私自身の反省もあるのですが、その必要性を痛感しながら、様々なしがらみや抵抗勢力に苦戦して、十分シフトできなかった教会も少なくないように観察しています。

                     実際に教派や団体を超えて、中高生や青年の働きに触れさせていただいて実感してきたことがあります。「他の人にも教えられる忠実な人たちを育てて委ねる」を共有して取り組んできた団体や教会は、中高生と青年の数と信仰的成熟度が、そうでない教会とはかなり違ってきているということです。


                     どこまで説得力のある説かは怪しいですが、もし聖書的信仰継承が次々世代を視野に入れるべきものであるとするなら、戦後70年の日本宣教の結果は、第三世代、つまり、今の青年層のありように反映していると言えるでしょう。現在の青年層のクリスチャンたちをどう評価するかは、それぞれでしょうが、戦後に本格的なスタートをした団体などは、現在の青年において、初めて一定の結論や評価が見えてきたと受け止めるべきではないでしょうか?


                     各世代の課題を記したのは、責任を明確にして責めるためではありません。むしろ、自分の世代の責任を棚に上げて、上の世代や次世代のあり方を責めるようなことがあるとしたら、そんな非生産的な行為を停止するためです。では、なぜ、やめるべきかといえば、原因追及や責任転嫁を神様が喜ばず、聖書が明示している神様の願いを実行すべきだからです。

                     戦後70年を総括し、恵みを感謝し、み言葉と異なる歩みをしてきた部分は悔い改めて、パウロがテモテに命じたことを実行したいものです。戦後70年とは、まさに、そのことの必然性を見せてくれる第三世代が見えてきた時期だと思います。この時代のこの日本に生きるクリスチャンは、今、集っている数少ない青年たちのありようを前に、もし、自らの果たしてこなかった責任があるなら、それを認めて悔い改めたいものです。そして、今後、果たすべき責任を自覚し実行すべきだろうと感じています。


                     「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

                     戦後70年を迎えて、自らをパウロに命じられたテモテの立場において、教会にあって、このみ言葉を具現化するお互いでありたいと願います。
                    | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 12:28 | - | - | - |
                    信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり(3)〜第三世代基準説で考える教会
                    0
                       ある伝道団体のスタッフが、このシリーズの一回目の記事をご自身のフェイスブックでご紹介くださり、その際にこんなコメントを記して下さいました。

                       私の所属する団体では、これを「霊的倍加」と名付け、いわゆる「一発勝負型アウトリーチ」「足し算的伝道」以上に重要なものと位置づけ(もちろん、それらも重要ですが)、強調しています。そういう「倍加するテモテ」が生み出されることを本当に見たいのです。

                       おお、この団体では第二テモテ2章2節が命ずる内容を「霊的倍化」と名付けているのですね!「一発勝負型アウトリーチ」「足し算的伝道」も伝道にとっては、重要としながらも、それよりこの「霊的倍化」を重要だと位置づけているわけです。私はこの優先順位は、第二世代は問われてきたことでしょうし、今も問われながら葛藤していることのように感じています。

                       この「霊的倍化」について、第三世代までを想定して、教会の伝道を考えるとどうなるでしょう?日本昔話風にシュミレーションしてみました。題して「日本教会昔話


                       ある町に、礼拝者数200人の大規模教会と礼拝者20人の小規模教会がありましたとさ。200人教会の牧師は、それはそれは魅力的な人物で、信徒を惹きつける説教者でもあり、「一発勝負型アウトリーチ」「足し算的伝道」を軸に、一世代で20人教会を200人教会にまで、成長させたんじゃ。もう一方の20人の小規模教会の牧師は、カリスマ性のかけらもない地味な人物で、当たり前の堅実な説教をしながら、「霊的倍化」を目指して信徒教育に力を注いでおったのじゃ。

                       しばらくすると、ほぼ同時期に両方の教会の牧師は引退し、後継者が牧師に就任したそうな。すると、大規模教会の信徒たちは、就任した牧師に不満を抱き始めて、たった数年で礼拝者数が半減してしまったのじゃ。ところがな、逆に、小規模教会の信徒たちは、牧師が交代しても教会から離れることがないどころか、他の人にも教える力のある忠実な信徒たちが用いられ、後継牧師の在任時には、礼拝者数は倍化して40人となったのじゃ。

                       さらに数十年がたった頃だったかのー?またまた、ほぼ同時期に牧師交代があって、三代目の牧師が就任したんじゃ。100人教会は昔ながらの「一発勝負型アウトリーチ」「足し算的伝道」一筋が機能せず、教会の少子高齢化もいよいよ進み、さらに半減して、礼拝者数は50人になってしまったそうな。一方の40人となった教会は、「霊的倍化」路線を継承し、子どもたちの多くも信仰継承をしたこともあり、三代目牧師の在任時には、倍の80人が集うようになったのじゃ。

                       礼拝者数が200人と20人だったそれぞれの教会は、三世代後には50人と80人と人数が逆転してしまったのじゃ。こうして三世代をかけて、第二テモテ2章2節のみ言葉の正しさが実証されたのだとさ。めでたし、めでたし

                       
                        以上が「日本教会昔話」でした。 礼拝人数で教会の結実が測れるとは思っていませんし、現実はこんな単純ではありません。あくまで、話を分かりやすくするために数値化して比較していることをご理解下さい。

                       「牧師につながっていても、キリストにはつながっておらず他の人にも教える力はない不忠実な信徒たちが大多数の200人教会」と「牧師よりもキリストにしっかりとつながり、他の人にも教える力のある忠実な信徒たちが大多数の20人教会」を比較し、3世代目には、逆転する可能性があることをお伝えしたかったのです。

                       「一発勝負型アウトリーチ」「足し算的伝道」偏重の伝道は、世代交代に弱く、「霊的倍化」は世代を超えての結実につながりやすいのでは?次々世代まで想定した信徒教育をしないと、牧師交代後の次世代においては、「霊的倍化」とは正反対の「肉的半減」という悲劇も起こりかねないのでは?と問いかけたかったのです。前者のような同時代への水平方向への伝道はもちろん、大切なのでしょうが、後者のような世代を超える垂直方向の伝道を軽視してはならないでしょう。


                       自分の世代での結実は、あくまで途中経過に過ぎないことを覚えて、今の結実を願いつつも、次々世代を見据えて今すべきことをすることが大切なのでしょう。それは、ボディーブローのように三世代目に効いてくるというのが第二テモテ2:2を命じたパウロの思いだったのでは?三世代目に「めでたし、めでたし」で終われる教会のストーリーを、今の世代から作ってゆきましょう。
                      | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 19:07 | - | - | - |
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