命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
豊田信行著「父となる旅路」は、父性、霊性、聖性が合流した大河の書である!
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     とにかく絶賛、絶賛、大絶賛!あくまで個人的評価なのですが、私にとっては数年に一度巡り合えるかどうかの名著となりそうです。私の中では、早くも、「ブック・オブ・ザ・イヤー2016」でほぼ決まりです。最近、出版された豊田信行師が著わされた「父となる旅路」を少しでも早くご紹介したかったのです。

    アマゾンのサイトはこちら。
    父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て (いのちのことば社)     

    いのちのことば社のサイトはこちら。
    父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て

    著者自身のブログでの紹介はこちら。   
    「父となる旅路」                        

     同著は、タイトルにあるように「父性、霊性、聖性が合流した大河の書」だと私は受け止めています。同著をネタに、ブログ記事を書こうとすれば、私は余裕で100以上の記事を書くことができます。それ程、豊かで深い内容を持つ「大河」なのです。副題の「聖書の失敗例に学ぶ子育て」というのは、大海に見間違う大河のようなスケールの大きさの故に「何の本だか分からない」と思われないように、つけたのだろうと邪推しています。


    父性、霊性、聖性が合流した大河の書」とのタイトルに沿って、紹介、絶賛をします。

     まず、同著は父性について記しています。聖書中の父親と息子の事例を取り上げて、父性を考察します。聖書が記す父と息子の物語りに対しての考察がとても深く、み言葉の取次ぎ自体が極めて秀逸で、目からうろこが連発です。フロムや河合隼雄らの発達神学的見解の援用も最適で、聖書の現場と読者の現場をつなげます。


     また、同著は霊性の書であります。ですから、「聖書の失敗例に学ぶ子育て」という副題は、本著の三分の一しか示していません。著者は9歳で牧師であった父を失い、それ以前も父の献身生活などのため、父親との触れ合いが希薄でした。それ故に持つ自らの弱さや葛藤、そして失敗までも正直に記しています。同時に、それが克服されていった深い神様の取り扱いが書かれています。

     ナウエンやウィラードの引用もあるのですが、まさにそうした霊性の書が示す歩み(いわばスピリチュアル・ジャーニー)をしてこられたのが分かります。正直な自己開示と深い霊的取り扱いの記録を読みながら思いました。「もし、カトリック司祭のナウエンが結婚して、父親になったら、このような書物を記すだろう」と。ここまでのレベルの霊性の書を、翻訳ではなく、日本人著者がいのちのことば社から出せたこと自体が、注目されるべき出来事でしょう。また、家庭に関するテーマは、聖書を源泉としても、民族や文化によって適用はどうしても、異ってきます。その意味でも「日本人による、日本人のための、日本人の霊性・家庭版」と言えそうです。


     さらに、同著は聖性を示す書物だと思っています。聖書が記す父子物語と著者の父子物語と読者の父子物語、この三つの物語が、重なり合い、読者は著者の「父となる旅路」というスピリチュアルジャーニーを追体験します。その意味では、「聖書人物、著者、読者の父子物語が合流する大河の書」とも表現できる内容です。優れた信仰書を読めば、聖書的価値転換があり、自己変革もあるでしょう。しかし、同著はそれ以上に深い霊的刷新へと読者を導くように感じました。その先で出会うのは、罪深く愚かな父子といつも共にいてくださり生きて働かれる真実な神様。
     
     本ブログでは、優れた信仰リーダーにして最悪の父親について何度も扱ってきました。イサク、祭司エリ、ダビデなどのゲス振りを紹介しながら、反面教師のように示してきました。その一方で「反面教師とするだけでは、何か物足りないそれだけのために聖書が正直に信仰リーダーのダメ父ぶりを記しているとは思えない!」と葛藤を覚えていました。自分では、反面教師を超える本来の意味・目的を見出せず、もどかしく思っていました。でも、今回、豊田先生がそれを記してくださっているを発見しました。


     これだけ、絶賛しても、まだ、伝え切れない思いでいっぱいです。父や息子である男性読者はもちろんのこと、母や娘である立場の方々も男性とは異なる恵みをいただくことでしょう。スケールの大きさ、霊性の深さ、内容の豊かさ、まさに「大河」です!「父性、霊性、聖性が合流した大河の書」であり、「聖書人物、著者、読者の父子物語が合流する大河の書」でもある同著、自信をもってお勧めします!
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 22:59 | - | - | - |
    親ラブ族の普遍性〜いまどきの牧師と信徒の関係も?
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       親ラブ族を生み出す時代や社会の背景は、普遍的なものです。ですから、教会内の文化や人間関係にも共通しており、多大な影響を与えています。多分、読者の方の中には、「親子共依存」が「いまどきの牧師と信徒の関係」と共通であると思われた方も多いでは?

       個人的に名著と絶賛している「リーダーシップのダークサイド」(いのちのことば社)には、リーダーの闇が五つの類型に分類され、紹介されているのですが、日本の牧師や信仰リーダーに、最も多いのは「共依存的リーダー」だそうです。

       同著は、機能不全家庭に育ち、他の人を喜ばせることを最優先して、あからさまな嘘をつき、失脚したクリントン大統領を「共依存的リーダー」の実例としてあげています。また、聖書人物としては「サムソン」を「他者の期待に沿い」、「他の人を喜ばせる強い欲求を持ち」、「他者を失望させることを耐え難い苦痛とする」という特徴をあげて、「共依存的リーダー」の実例としています。


       本来、信仰リーダーは、信徒たちの成長を助け、信徒たちがやがて自分を離れて、キリストに強く結びつき自立した歩みをしていくことを目標とすべきです。しかし、残念ながら、それは「神様が牧師と信徒に願っていること」であって、「信徒たちが牧師に願っていること」では、ない場合も。

       いまどきクリスチャンの多くは、自分が成長して、指導者を心理的に離れ、キリストに深く根差して、自立した歩みをすることを願っていないかのように見えます。あるいは、そうした歩みをするように教えられたり、実際の指導を受けていないかのようです。どうも聖書的な「自己成長イメージ」や「成長意識」を持っていないように思うのです。

       そもそも、自我の確立が不十分で依存的な現代人は、しっかりと教えられ、指導を受けなければ、「牧師に依存せず、自分で聖書を読み、祈り、決断し、神の前に結果責任を負う」などという自立したクリスチャンの歩みを願わないのが当然でしょう。あらゆる人間関係において、相手に対して依存的であるかの支配的であるかの両極端になりやすい現代人の傾向は、牧師と信徒の関係においても例外ではないでしょう。

       牧師当人の側も自立不足で依存的な現代人の傾向を免れるわけではありません。「信徒に喜ばれたい」「信徒を失望させたない」という強い思いが、「神様に喜ばれる歩み」「神様を失望させないように」に優先してしまう危険性や誘惑は常にあることでしょう。

       聖書が示す神様の願う牧会よりも、信徒を喜ばせることを最優先とする牧会をしてしまうと、やがて、「牧師=教師」「牧師=僕」「牧師=指導者」であったはずが、「牧師=精神的サービス業」になってしまいます。「信徒の成長と祝福を願い仕えること=」であったはずが、「信徒のお世話をすること=愛」に入れ替わります。

       そうした牧師は、依存的な信徒の願う牧師像に一致するので、「親子共依存」同様の関係に陥ります。共依存の親が、いつまでたっても、子どものお世話をすることを愛と考えて、子どもに依存し、子どもが自立して親を離れていくことがないように子どもを自分に依存させるのと同様のことが起こります。

       つまり、牧師が信徒のお世話をすることが愛と考えて、信徒に依存してしまうのです。信徒の世話をすることで、信徒を愛している実感使命を果たしている気になります。また、それを信徒が喜び、いよいよ信徒が自分に依存してきます。そして、この「病的な共依存関係」を「牧師と信徒のうるわしい信頼関係」と取り違えるのです。「自立できない者同士の心情的絆」にすぎないものを「主にある一致」であると錯覚するのです。面倒見のいい牧師などは、とりわけ、信徒との共依存関係に陥る危険と隣り合わせだと思います。

       こうなると信徒は「永遠のベビークリスチャン」です。「牧師に決めてほしい」「牧師に祈ってもらうから自分は祈らない」「うまくいかなければ牧師の責任」という赤ちゃんぶりです。牧師の側はさんざんお世話をしても、成長しない信徒に失望します。実態は、牧師が信徒を成長しないように導いているのにです。

       さらに、牧師の評価は「どれだけ信徒の依存心を満足させるか?」という顧客満足度で測られます。そうなれば、市場原理が働き、都市部では教会移動が起こり、「信徒の依存心をより満足させる牧師と教会」に信徒が集中します。逆に聖書的に健全な教えを説き、それに基づいて自立に向けての信徒教育をする健全な教会が敬遠される傾向さえ起こってしまいます。まさに「悪貨が良貨を駆逐する姿」です。


       現代日本における個の確立の弱さとその裏返しの依存性は、普遍的であるように思えてなりません。それは、家庭にあっては、親子共依存となって現われ、キリスト教会あっては、牧師と信徒間の共依存関係に現れているように思えてなりません。親ラブ族と今日の教会の課題には、根底に大きな共通項を見ることができるのではないでしょうか?

       これらのことを「日本人的肉性」「現代人の病理」として、とらえながら、それを克服しうる聖書の原則と指針をいかに伝え、教え、実践してゆくがが問われているように感じます。しかし、ある意味、パウロがテモテに警告したような初代教会が持っていた同様の課題に対して、同様の教えで克服してくのですから、現代的な課題のようで、実は、課題自体が極めて普遍的なのだとも言えるのかもしれません。そのあたり、どうなんでしょうね?
      | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:23 | - | - | - |
      親ラブ族の起源〜親の側の自立不足
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         ようやく「親ラブ族」シリーズに帰ってきました。ほとんど、シリーズであることが忘れられていることでしょう。初回の記事をアップした際に、FBにおいて、一人の牧師からこんなコメントをいただきました。その一部を抜粋して紹介します。


        「子どもが自立していない」という現象はまさしくその通り。
        ですが、「自分が自立しちゃうと、パパが/ママがかわいそう」という子ども心理が接する中で伝わってきます。
        まさに共依存なのですが、子どもの方が「依存してあげることで親の欲求を満足させてあげてる」という様子――。
        どんなもんでしょう?


         以上がコメントの引用です。

        自分が自立しちゃうと、パパが/ママがかわいそう

        依存してあげることで親の欲求を満足させてあげてる


         子ども側に見られるこの2点は、実に深刻な問題です。親が子どものニーズを考えて、それを満たしているのではありません。子どもの側が親のニーズを考えて、それを満たしているのです。これは親と子どもの関係が逆転しています。家族カウンセリングで学んだ覚えがあるのですが、確かこれは「逆転親子」などと呼ばれたりする家族病理に準ずるのではないか?と心配になります。

         親の過保護や過干渉が、子どもの自立を妨げることや、子離れできない親の問題は、数十年前から、指摘され続けてきました。しかし、近年台頭した「親ラブ族」はそれとは少し異なるようです。問題は親が「子ラブ族」であることです。言い換えるなら、親自身が自立できておらず、他者と依存的な関係しか築き得ず、子どもとも適切な距離感が持てないことです。


         このことを尾木直樹先生は著書「親子共依存」の中で強く指摘しておられます。そのことを私なりに消化して、説明させてください。親は大人なのですから、本来は精神的に自立しており、「個」を確立した上で、他者との関係を築くはずです。しかし、今の親は、精神的自立が不十分で、大人になりきれておらず、「個」が確立しないままで、「」や「つながり」などの他者との心情的なかかわりに依存をしているのです。つまり、大人同士の成熟した関係が築けず、依存的な関係しか築けないのです。


         個が一定確立していないと人は正しく愛することができません。

         自立不足で未熟な人物は依存関係を愛の関係と取り違えます。

         そうした人物が親になると、子どもに対しても、依存的な関係を築くのです。

         子どもとの心情的つながりに依存するのです。

         子どもの世話をすることで、自己価値確認をして依存するのです。

         子どもが依存対象ですから、世話を焼くことを止められません。

         子どもが成人しても、就職しても、結婚しても、それは続きます。

         子どもは親に依存をされていますから、心理的距離をとることは親を悲しませることです。

         そこで、子どもの側も親のために、依存を続け、世話を焼かせてあげるのです。

         こうした共依存は、親子の適切な心理的距離を取ることなく、双方が自立しない関係です。

         親が、子どもを自らの依存欲求の生贄とし、子どもを犠牲にして依存欲求を満たしているのです。

         しかし、当の親は、その異常な関係「親子の絆」「親子のつながり」と本気で信じています。

         恐ろしいことに、健全な心理的距離間のないこの病的な親子関係を「幸せな親子」と評価します。

         
         もう、お分かりだと思います。親ラブ族の起源は、その親である「子ラブ族」にあります。さらに突き詰めれば、親たちの自立不足とその裏返しの依存体質にあります。今の親たちの多くが「父親に育てられていないこと」などは、その主要な一因であろうと私は考えています。

         一体感はあっても他者感覚に欠け、つながる愛は得意でも、距離を取る愛は苦手。一般的傾向としては、それが母親の愛でしょう。他方、父親の愛は、一体感にかけ、冷たいようですが、他者感覚を持ちます。心情的につながることは苦手ですが、距離をとって愛することが得意です。子どもを自立させるためには、こうした「成熟した大人の男親の愛」言い換えれば「父性愛」が極めて有効だと思うのです。

         どうも、「成熟した大人の男親の愛」を受けずに育った親たちが、男女とも、自立不足のまま親となり、健全な父親モデルを持たないために、依存的な関係しか、子どもと持てなくなっているのでは?親自身が、自立していないために、子どもを依存対象とする親子関係しか築き得ないのでは?そんな恐ろしい、罪の拡大再生産を思い描いてしまします。

         
         聖書の創世記2章24節は「それゆえ、男はその父母を離れ」と教えます。これは、であるものが、子どもを自分から離れさせるべきことを教えているだけではありません。親である者に、自らの親からの心理的分離を問う言葉でもあることを覚えたいものです。
        | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:53 | - | - | - |
        親ラブ族の侵略〜キリスト教会への浸食
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           前回は親からの性的自立の大切さを記しました。親からの性的自立の遅延は、それ自体が問題なのですが、さらに大きな問題を生み出します。諸説ありますが、私は性的自立は他の自立の前提、土台となると考えています。尾木直樹先生もそうした見解のようなので安心しました。だとしたら、性的自立の遅延は、親からの心理的自立、経済的自立、社会自立などに障害をもたらしかねないわけです。、

           言うまでもな、中学生以降も親と入浴するような共依存的な親子関係は、子どもの心理的親離れをも遅らせます。「親ラブ族」に該当するレベルまでは至っていなくても、キリスト教会には同様の問題が既に起こっています。たとえば、大学を卒業して22歳になり、社会参加する時点でも、親からの心理的自立ができていません。自分で決めて、自分で実行して、自分で責任を取ることができません。

           うまくいかなければ、人のせいにして責任は親がとってくれるかのような甘い考えを温存したまま、大人となり、社会参加しています。当然、就職しても、職業生活はうまくいかず、職場の信頼関係を築くことができません。にもかかわらず、それを自分の自立不足が問題だとは考えず、自分にも問題にも向き合わせず、会社や社会のせいにします。

           最初から、社会参加失敗が予想できる場合は、社会参加自体を回避します。たとえば、学問を究めるつもりもなく、社会参加回避を主たる動機として大学院に進学します。(これを「入院」というそうです。ある意味、現代病でしょう)。あるいは、フリーターなどをしながら、自分探しをします。私はそれが一概に悪いとは、思いません。現代のような自分を見失いやすく、親からの自立が遅れがちな時代にあっては、一旦、立ち止まり、自分を見つめて、さらに親との関係を振り返り、自分なりの生き方を選択するためには、社会参加以前の猶予期間も必要だと考えています。

           ただ、そうした猶予期間は、「社会参加に踏み出すための一時休憩所」であって「社会参加シェルター」や「避難所」ではないのです。どうも、近年は「社会的責任の猶予期間」が「社会的責任の無期限放棄」に変質してきたように感じています。「嫌だけどいつかは、社会参加をしなくてならない」という前提自体が、失われているように思うのです。同時に、それでは現実に生きていけない、安定した生活ができないというリアルな感覚さえ、失われている、時には親が失わせているように感じます。

           そこで、当人たちは、「無期限で社会的責任を放棄すること」が「社会的に容認される」を名目を必要とします。つまり、「社会参加逃避を合理化する名目」を作り上げます。その体表が「夢」です。等身大の自分を受け入れて、地に脚のついた歩みをせず「夢」を語り、それをいつまでも追いかけます。「夢」という名目で社会参加しない自分を合理化します。それによって、社会参加できない自分を見なくて済みます。さらには、本来向き合うべき「自立不足」「不健全な親子関係」と課題に向き合わずに済むのです。

           
           クリスチャンである親が「子どもは親のものではなく、神のもの」「子どもは父母を離れる存在」「神様のみこころは親を離れての社会参加」との聖書的価値観に、価値転換していないと同様のことが、今後はいよいよクリスチャンホームや教会内で頻発することでしょう。クリスチャンであっても、実際の家庭生活を未信者の価値観で歩むなら、「親ラブ族キリスト派」や「教会内親ラブ族」が教会とクリスチャンホームで台頭します。というか、中高生や20代が多い教会からお聞きする限りは、既に日本全国の教会で台頭し、勢力を強めているようです。

           クリスチャン青年が「夢」を名目に社会参加回避を始めるとより回復が困難となります。なぜなら、クリスチャンの場合、その逃避の名目に過ぎない「夢」を「信仰」と結び付けてしまうからです。「これは神様からの夢」→「夢の実現がみこころ」→「だから社会参加しない」という論理を展開します。「神様から」「みこころ」と断言すれば、周囲のクリスチャンを黙らせることができてしまいます。

           かくして「社会参加できない自分」を「みこころに歩んでいる自分」に「信仰を名目に現実逃避している自分」を「信仰ゆえに頑張っている自分」に、「本当の問題に向き合おうとしない自分」を「本当の使命に向き合って生きる自分」に見せることに成功します。もっとも、成功していると思っているは、当人だけで、賢明な周囲の大人たちは、その「偽装」に気が付いているものです。気が付いていても、偽装を指摘しても認めないで逆切れすることが予想されるので、騙された振りをしながら、いつか本当の問題に向き合ってくれることを祈り願っているものです。

           それが証拠にクリスチャン女性たちは、ちゃんとその「夢」を判別しています。神様からの夢を追求する男性には、それを共有する女性が、登場し、結婚することもあります。しかし、「怪しげな夢」の持ち主には、賢明なクリスチャン女性は寄り付きません。親離れが著しく不足している男性は、社会参加もせず、結婚もしないのですが、それさえも「夢の追求」という「聖なる目的」によって、正当化するのですから、まさに教会内では無敵です。この自己防衛の解除は至難の業となります。


           このように「夢」を「信仰」と結び付けてまで、社会参加回避を合理化して、本当の自分を見ないようにして、自己防衛をして、自分を欺くのです。まさに「あるがままの自分」を自ら受け入れていませんし、人に対しても神に対しても、「あるがままの自分」で受け入れてもらおうとしていません。つまり、自分も人も、神をも欺いているのです。にもかかわらず、愛をもって問題を指摘したり、本当の問題に向き合わせようとすると「あるがままで愛し、受け止めてない」「愛がない」と逆切れしたりすることも。「あるがままの愛」に自分が生きずに、人に強要しているという痛すぎる構図です。

           「まず、お前があるがままの自分を受け入れろよ!」ということでしょうが、それを言えば、決裂となり、教会から姿を消しかねないので、大変です。「これ以上、介入するとサヨナラだよ」、「本当の問題に触れたら、いなくなるからね」という無言の脅しやプレッシャー受けてしまいます。そのようにして、対人操作をされたり、都合よく利用されたりしながら、こちらは大変なストレスを抱え、愛の労を注ぐのですが、当人は、あいかわらず「偽りの夢」という「偶像礼拝」を続け、神様のみこころである親からの自立と社会参加にチャレンジをしようとはしません。

           これは「自らと人と神を欺き、本当の問題に向き合わず、神様のみこころと異なる人生を歩んでいる自分を承認しろ」と要求していることに他なりません。言い換えれば、「教会は、自己中心と罪の歩みの免許証を配布しろ」と言っているようなものでしょう。でも、今日、不健全な親子関係の犠牲者となったクリスチャン青年たちに、真摯に向き合う指導者や先輩、信仰の友たちは、まさに、この問題に直面し、葛藤や無力感を覚えておられることでしょう。


           しかし、悲観材料ばかりではありません。希望は大いにあります。クリスチャンの親が子どもを自立に向けて育てようとせず、社会参加すべき年齢に達してしまったクリスチャン青年たちが、本当の意味での信仰に立って、自立不足を認め、親との関係を見つめ直し、苦しみと葛藤を経ながらも、神様が導いておられる進路や社会参加に向かっていった例を多く見聞きしてきました。やがては、結婚をして、子どもを与えらえ、正常な子育てと結婚生活をしている事例など、いくらでもあります。当人が、正直な自分と問題を認めて、向き合えば、そして、神様と周囲の助けを得るなら、回復は決して困難ではありません。

           多くの回復事例を見るなら、そこには、大抵、温かい理解をもって、学生や青年を受け入れながら、聖書の指針を示し、忍耐をもって成長を見守り、励まして教え導く、指導者や先輩たちや仲間たちがいます。なかなか、自分一人では、健全な自立と社会参加は難しいと思います。

           だからこそ、教会やクリスチャンたちの交わりに生きることは必須だと考えます。最も有効な対策は、まず先輩だたちが自分の課題や悩みを出し合える正直な交わりを作り、青年層が、本当の自分を出しても大丈夫な状況を与えることでしょう。教会の交わりの質、正直さが問われると思うのです。

           「いかに決裂を避けながらも、対人操作をされず、少しでも正直な自分と本当の問題に向き合わせていくか?」このあたりが、牧会や周囲の支援の大きな方向性だろうと考えています。実行は決して簡単ではありませんが、この方向性でチャレンジしていく中での困難は、たとえ願った結果を生み出さなくても、神様が喜ばれる「みこころにかなった困難な歩み」だと私は確信しています。むしろ、「決裂するか、操作を受けて放置した方が、楽だ」という誘惑に負けないことが、大切かと思うのです。


           「親ラブ族キリスト派」や「教会内親ラブ族」が台頭し、勢力を拡大し教会を苦しめたり、その自立不足故に教会を離れてしまったりと、既に、「親子共依存」の問題は、教会内でも起こっているのでしょう。ほとんど場合、教会には、親の側も集っています。しかし、多くの親たちは、子どもの問題を嘆いたり、自分を責めたりするのですが、自分の側の本当の問題に気が付き、認め、悔い改め、親子関係を再構築しようとはしません。それどこから、子どもと同じように自己防衛をし、対人操作をするケースも珍しくありません。

           この点などは、牧師や問題が見えている周囲とっては、もっとも辛いことでしょう。親ラブ族を生み出す親たちについては、親自身の夫婦関係や成育歴、親子関係に大きな問題のあるケースが多いように観察します。次回は、「親ラブ族」を生み出す「親子共依存」の病理について、親の側の問題について記してみます。
          | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 13:17 | - | - | - |
          親ラブ族の驚愕事実〜親子混浴による性的自立遅延
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             前回の「親ラブ族」では尾木直樹先生の「親子共依存」を紹介しました。同著の帯にには「あなたの親子関係、健全ですか?」と題した7つのチェック項目があるのですが、その第一はこれです。

            □お風呂は、中学生でも親子一緒に入る。

             親子共依存の最も端的な現われは、中学生以降の子どもが親と入浴することです。家庭内の混浴も、夫婦であれば、円満かつ健全です。幼い子どもとその親であれば、よきコミュニケーションの機会でしょう。

             しかし、昨今、増加しているのは中学生男子が母親と入浴、中学生女子が父親と入浴するというケースです。以前から、「中学一年男子だとクラスで一人の割合で、母親と入浴している」と聞いていました。それは、誇張だろうと思ったのですが、児童相談員などに聞くとどうも本当のようで、驚いていました。そうした母子密着は以前から問題視されていましたが、最近は中学生以降の女子が父親と入浴するというのですから、さらに驚きです。


             何でも、米国では子どもが6歳以上ですと、親子での入浴は「性的虐待」として訴えられる可能性があるそうです。これは、アメリカ社会での虐待の多さによるだけでなく、キリスト教的背景を持つ社会が、「親子分離文化」だからだろうと思います。日本の感覚からすると米国は極端かもしれません。しかし、それでも、中学生が異性の親と入浴というのは、「ありえない!」という感覚は日米共通のものでしょう。

             時々、教会でもそうした親子に出会います。私は親からの自立の大切さを、聖書からお話しする中、中学生男子が母親と入浴する事実を話すと、多くの母親は驚きます。しかし、ときどき、「うちは(中学生の息子と)一緒にお風呂張っているけど、それっておかしいの?」と言いだす母親、「私は中学生になってもしばらくは父親とお風呂に入っていた」と報告する母親たちに出会います。

             周囲の母親たちが、次々と「それはおかしい」「不健全でしょー」「あり得んわー」と言いだすと、「自分の家庭は普通ではないのだろうか?」と考え始めます。こうした方々の中には、「親子であるから不純でない」「この歳で一緒に入浴できるのは強い絆の証拠」「クリスチャン親子だからこそ成立するピュア―な関係」と考えている方々も。


             男子は幼児期から、児童期までは母親が恋愛対象であり性的対象でもあります。やがて、思春期が始まれば、「うるせー、ばばあ」と暴言を吐いたり、心の中で叫んだりして、母親を恋愛対象から除外します。つまり「うるせー、ばばー」とは「干渉するな、子どもじゃねーぞ」という独立宣言であるとともに、「おめーは女じゃない」という「対母親恋愛対象排除勧告」でもあるのです。そのプロセスを通過して、多くの男子は、同年代の女性を恋愛対象として求めるようになり、結婚へと向かうのです。

             女子も同様で、ある時期までは父親が、恋愛対象でありえます。しかし、思春期に入れば、「うざい、きもい、不潔、」と思えてなりません。父とは心理的にも身体的にも距離を置くのもようになります。いわゆる加齢臭も娘に不快さを与えて、近親姦を防止するためだという説を聞いたことがあります。父親を生理的に嫌悪して、距離を取るプロセスを経てこそ、女子の多くは同年代の男子を恋愛対象として、結婚へ向かうわけです。

             創世記2:24が「父母を離れ、妻と結び合い」と記しているように、性的にも心理的にも、親との分離があって、初めて、結び合いという結婚に向かってゆきます。つまり、親子分離は、恋愛・結婚に向かう前提条件なのです。つくづく聖書の言葉はリアルだと思います。中学生の親子混浴が示す「親子不分離」は、第一回目に紹介したように、恋愛に対する消極性を生み出しています。こうした親子関係の増加は、いよいよ晩婚化、非婚化、少子化に拍車をかけ、労働人口減少など国家的課題を深刻化していくことが予想されます。


             それだけではありません。親からの性的自立の遅延は、さらに重大な問題を生み出します。そのことは次の記事で。
            | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 16:51 | - | - | - |
            親ラブ族の台頭〜君は「親ラブ族」を知っているか?
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               1月6日の午後に、ラジオで朝日新聞に掲載された「親ラブ族」のことを聞き、ショック。知ってはおりましたが、「ここまでか!」の危機感をいだいて、さっそく朝日新聞を購入。該当記事は「18歳をあるく」というシリーズ記事の4回目で、1,2面に掲載されています。1面のメインタイトルは「親子密着 気にならない」、2面のメインタイトルは「恋人はいらない 親ラブ」。さらに2面の小見出しは二つあって「親子でお風呂 抵抗感ない」、「SNSで束縛面倒」となっております。

               さて、「親ラブ族」と言われても、ご存知ない方は、まずは、こちらをお読みください。的確な起源と定義、そして評価が示されています。親である方や教育者はもちろんのこと、教会教職や次世代育成にかかわるクリスチャンは必須知識でありましょう。

              wikipedia「親ラブ族」

               「親ラブ族」の名付け親は「さんまのホンマでっかTV」で御馴染みの牛窪恵さんで、本来は女性に用いられたようですが、男女共通の現代的現象のようです。尾木ママこと尾木直樹先生は、私の予想通り、親への心理的依存による性的自立の遅れを問題視しておられます。

               その尾木先生の著書「親子共依存」(ポプラ社)はこちら。第一章は「親ラブ族 急増中!」となっています。そして、この著書紹介のサイトには「親子共依存」かどうかを簡単にチェックできる7項目があります。心配な方はぜひ、チェックを。

               尾木直樹著「親子共依存」(ポプラ社)


               朝日新聞の記事はそれを裏付ける様々の統計を紹介しています。代表的なものをお知らせしておきましょう。

               2012年にベネッセが大学生の保護者6000人を対象に実施した調査によれば「子どもと仲がいいので、一緒にいても苦にならない」が74.5%にのぼったそうです。

               大学生対象の別の調査では「保護者のアドバイスや意見に従うことが多い」は08年の40.1%から12年には45.9%に上昇。

               どうも、子どもにとっての親が、反抗によって自我を形成し、乗り越えることによって自立に向かっていくライバルではなくなっているようです。共依依存対象化しているのでしょう。このことは、自我形成の歪みと自立不足を心配させます。


               結婚情報サービス楽天オーネットの新成人を対象とした意識調査によれば、「交際相手が欲しい」と回答したのが、男性63.8%、女性64.2%で、2000年の男女とも約9割から、大幅な減少。実際に交際相手がいるのも、1996年には、男女とも約半数であったのが、2011年以降は4人に一人に激減とのこと。


               当たり前の理屈ですが、親からの心理的分離の不足、特に異性の親との密着は、恋愛行動や結婚意欲に大きな影響を及ぼします。聖書にも「父母と離れ、妻と結び合い」(創世記2:24)とあるように、親からの心理的分離が進行する中で、人は異性を求め、分離がほぼ完了となり、社会参加し、結婚するのです。昨今の草食化や結婚婚遅延傾向の一因はこうした親子関係にあると見て間違いなさそうです。

               これは、直接的には、若者の恋愛・性行動が短期間に著しく変化したことを示しているのですが、本当に変化したのは、親子関係、いいえ、親の子育ての価値観、親の子どもに対する意識や接し方のほうでしょう。


               はてさて、「親ラブ族」の実態がお分かりいただけたでしょうか?あと何回かにわたりこの件を聖書を基準に様々な角度で考えてみたいと思います。
              | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 16:54 | - | - | - |
              信仰継承とは「三代目JSoul」と見つけたり(5)〜教会存続の危機か?次々世代絶滅の危機か?
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                 日本の教会は、いま、地域や団体によっては、教会存続の危機と次々世代絶滅の危機という両方の危機に瀕しています。近年は、小規模な単立教会が、後継者が与えられない、あるいは財政的困難から、閉鎖をして、信徒は近隣教会へ合流というケースをいつくか見てきました。単立教会に限らず、団体に所属する教会でも、近隣の同じ団体の教会と合併するとの計画をお聞きすることも増えてきました。

                 その段階まで至らなくても、教職者不足の中で、教会を存続されるために、一人の牧師が複数教会を併牧するケース、牧師夫妻が共に教職の場合は、夫妻で別教会を担当するケース、引退牧師が、働きを続けて教会を担当するケースなども増えてきました。

                 どれも、教会の礼拝と働きが継続されるためには、必要なことでしょう。しかし、あくまでこれらは、緊急対処、応急処置であり、恒常的体制になってはならないと感じています。その理由は、ある教会でこの状態が10年以上続くと、教会自体は存続しても、次々世代が絶滅しかねないと考えるからです。つまり、応急処置を恒常的体制に移行させることは、教会の次々世代を絶滅に追い込みかねないと私は危惧をしています。


                 一人の牧師、一組の教職夫妻が、一教会に忠実に仕えても、昔とは違い、現代の日本社会においては教会を担う次世代を育てるのは、困難だと私は感じています。普通に忠実に仕えていれば、そこそこ子どもたちが信仰継承し、青年たちが信仰的に自立をして、成熟に向かう時代は過ぎ去ったようです。

                 ましてや、この時代にあって、併牧や夫婦別教会担当での牧会となれば、いよいよ次世代育成が停滞することが懸念されます。ます。その結果、次々世代を育てる次世代リーダーは育たず、次々世代においては、教会員数ゼロという絶滅の危機に瀕しかねません。

                 また、引退牧師のお働きは尊く感謝すべきですが、引退牧師が二人、三人と5年も10年も担当しますと、次世代は衰退しかねません。一般的に高齢牧師の担当が続きますと、教会自体が牧師と共に老いてしまう傾向は否めません。(もちろん、牧師の次世代の信徒リーダーが、中高生や青年層を活性化されることはできます)。これまた次々世代滅亡の危険度を増してしまうと思うのです。


                 さらに、近年は、定年後の教会員の比重が増えて、一教会の財政では、牧師家族を支えられなくなってきました。ですから、併牧をして、あるいは夫婦別教会担当によって、二つの教会からの謝儀なら、生活可能となるという事例も多くお聞きします。何か、本末転倒のような気もするのですが、だからと言って、二つの教会が合併して、一教会となればいいとは簡単に言えません。引退牧師のご活躍も同様で、本来はそれなりの福利厚生があるべきでしょうが、そこまでの財政基盤がないのが現実です。また、引退牧師ならではの働きの場があったらいいのですが、日本のキリスト教会にはそこまでの成熟をしていないようです。


                 かくして、「併牧」、「夫婦別担当」、「引退牧師の教会担当」の三つは、牧師家族の生活を支えるための必需システムとなっていきます。そうなると、一牧師が一教会を担当する本来のあり方に戻れず本来の引退ができなくなってきます。つまり、教職者が、緊急対処システムに依存せざるを得なくなります。そうなれば、「緊急対処」は「恒常的状態」に変質してしまいます。

                 最終的には、教会の存続と教職者の生活保障が自己目的化します。「何のための教会か?」「何のために、教職者家族の生活保障をするのか?」はどこかへ行ってしまうという根本的本末転倒に至ります。つまり、外的形式維持のために内的本質が損なわれ、物質的現状維持のために、霊的本質が犠牲にされるのです。


                 やはり、こうした本質の喪失本末転倒次世代育成に明確に現れると思うのです。次世代が育てられなければ、その世代の多くは教会を離れます。また、残った次世代も、育ててもらえなければ、次の世代を育てる力はありません。その結果、次々世代は、絶滅の危機に瀕すると予想できてしまうのです。


                 教会を存続させるための応急処置が悪いとは、私は全く思いません。しかし、応急処置が、応急処置でなくなるなら、その応急処置の是非は問われかねないと思うのです。「回復の見込みもない応急処置」を「恒常的状態」とすることは、「次々世代で教会を終わらせる選択」となりかねないと思うからです。

                 応急処置で教会存続の危機を当面は回避できるでしょうが、その状態が10年以上続けば、教会は未来を失いかねません。ですから、応急処置をしながらも、次々世代を想定した展望のある対処が求められるのでしょう。(言うのは簡単ですが、実行は極めて困難ですね)

                 高齢化が進む教会は、教会に体力があるうちに、働き人がいる間に、数少ない子どもや学生、青年たちを、数が少ないからこそ、大切にしましょう。それさえできなくなってしまう前に、絶対にチャレンジしましょう。宝石に価値があるのは、美しいからだけではなく希少だからです。少ないからこそ、愛と祈り、お金と手間をかけましょう。彼ら彼女らが、次世代を育てることのできるクリスチャンとなるように、今、私たちが育てましょう。

                 とにかく、そうした意識改革と実践を今からでも始めることでしょう。既に始めている教会や団体は、多くあります。すぐに大きな結果はでないでしょうが、少なくとも、次々世代絶滅は免れることでしょう。いいえ、神様の御心なら、育て上げた一人次世代リーダーが30倍、60倍、100倍の実を結ぶことを期待しましょう。

                 
                 これは補足ですが、私は教会の存在意義の第一は伝道ではなく、礼拝だという考えです。ですから、過疎地域などで高齢者ばかりの数名の礼拝がささげられ、次世代はおらず、閉鎖するまで教会が存続し、そこで牧師が仕えることは、それも牧師とその教会の尊い使命でしょう。そのためには、教職者が働き自活する、年金生活がでるなどが前提となることでしょう。教会や地域によっては、次世代や次々世代で教会が閉鎖することが、必ずしも悪いわけではありません。そのことも付け加えておきます。


                 今、都市部であっても、少なくない教会が、教会存続の危機と次々世代絶滅の危機の両方を迎えているように感じています。前者は応急処置で一定期間対処可能です。しかし、後者は、第二テモテ2:2が命じた継続的歩みによって克服されていくものでしょう。

                 このシリーズでは「三代目評価基準説」を提唱していますが、今の世代の教会存続だけを願うと、かえって三代目を拙滅危機に向かわせかねない現状があるように思います。当面の近視眼的な対処が、未来を失わせることを危惧します。では、どうすればいいのか?も分かりません。当面の教会存続だけを考えての対処が悪循環本末転倒を産み、次々世代絶滅に至らせかねないジレンマに、これから多くの教会と団体が苦しめられて行くのだろうか?と思うと心は痛みますし、やりきれない思いがします。これと言った具体策も出てこない自分が情けなくも思えてきます。

                 奉仕先などでお会いする多くの牧師から、この課題についてお聴かせいただきます。極めて切実で深刻な課題なのでしょうが、教会によっては、どこか他人事のような雰囲気や教職や団体が何とかしてくれるとか、信仰があるから大丈夫などの無責任な楽観ムードがただよっているように感じています。まずは、冷静な現状認識と責任ある未来展望が求められていると感じています。

                 不信仰で悲観的な展望を語り、危機感を訴えているだけの拙い記事になってしまい申し訳ありませんが、それでも、何かの参考になればと願っています。
                | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 16:51 | - | - | - |
                伝統芸能継承者である野村萬斎に、信仰継承を学ぶ
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                   昨日に続いて野村萬斎さんから学んだことを記します。思春期に入った野村萬斎さんが、狂言の世界に進んでいくことについて「不自由で、親の言いなりで、本当の自分でない」ように感じたとのお話しを聞いて思ったのです。「これって、クリスチャンホームの信仰継承問題と似ているよなー」と。

                   クリスチャンホームに生まれた子どもたちは、狂言のような世襲制の伝統芸能一家に生まれた子どもと同様の葛藤を持つのでしょう。親がクリスチャンですと、こどもの頃から、芸のお稽古ならぬ、信仰のお稽古を受けます。それは、教会学校への出席であったり、暗証聖句であったり、家庭礼拝であったりするわけです。最初はそれが当たり前だと思っていても、友だちの家庭との違いに気が付きます。「普通の家の子はそうではないのに、うちはどうして?」と疑問や葛藤を覚え始めます。

                   この段階で、「素直に疑問と葛藤を話せる子どもと、それを受け止めて誠実に応答する親」という親子関係であることが望ましいです。しかし、「親に遠慮してそれを言いだせない子どもと、無意識にも、言わせないにプレッシャーをかけている親」という関係になりやすいのが事実でしょう。まず、この段階で信仰継承をこじらせやすいように思います。

                   思春期以降になれば、親の価値観を否定することによって、自我を確立していく段階に入ります。クリスチャンホームの子どもにとっては、自我を確立していくためには、親の中心的な価値観であるキリスト教信仰を否定することが必然となってきます。

                   思春期の信仰継承のポイントは「いかに親から離れさせて、神様につなげるか」であります。親が触媒となり、子どもを自分に従わせるより、神に従うよう育てることです。ここで、「親には反抗しても、神様には従おう」「親にむかつくのはしかたないよね、でも、神様は愛していこう」となればいいのですが、どうしても「親への反抗=神への反抗」「親へのむかつき=神への反逆」となりやすいわけです。

                   クリスチャンホームの子どもにとって、本来、思春期は親から離れて、神につながることで、「主にある自我」を確立する時期だと私は考えています。残念ですが、それを実現するような中高生への聖書的親子関係の教えや、同じくそれを実現するような思春期の子どもを育てる親への教育が悲しいほど不足していると感じています。信仰継承のために必要なのは、「中高生キャンプ」だけではないだろう、むしろ「中高生の親キャンプ」の方が、必須だろうと個人的に思うほどです。


                   野村萬斎さんのように中高生ともなれば、教会生活を送ることがを不自由に感じ、親の思い通りに歩むようで、本当の自分でないようで、嫌でたまらなくなることもあるでしょう。しかし、同じく、野村さんのように、一つのきっかけで、親の意向とは無関係に神にある自分が本当の自分であり、そこにこそ本物の自由があることを発見します。

                   聖書の放蕩息子の譬えのように、父なる神を離れることに「親の意向を離れた自由と本当の自分」を求めようとするのが、思春期にあるクリスチャンホームの子どもの経験する誘惑や葛藤でありましょう。その中で、タイプは四つに別れると思うのです。

                   まずは、「信仰優等生タイプ」です。神様を離れずに、主にある自我の確立に向かい、本当の自由を体験して喜ぶ「最短距離経由クリスチャン」がいます。

                   また、「放蕩息子タイプ」があります。一度神様を離れて、挫折を経験しないと、主にある本当の自分と自由に目が開かれないタイプもいます。神様に立ち返るプロセスとして「豚飼いの自分と自由」が必要なケースもあると思うのです。豚飼いとなった惨めな自分と豚から離れられない不自由を経験しないと、本来の自分と自由に気が付かないのです。これは「豚飼い経由クリスチャン」と呼びたいです。

                   さらには、「放蕩息子の兄タイプ」です。ただ、親の意向通りに歩みながら、自我の確立はなく、不自由さにいらだっているのです。外見は優等生のようで、神様とも本当の自分にも出会っておらず、律法的な歩みに不自由を覚えており、主にある信仰の喜びを味わってはいないのです。これは「自立的信仰も喜びもないクリスチャン」であります。

                   最後にあげるのは「帰ってこない放蕩息子タイプ」です。親の意向を離れて、自分なりの自由の中を歩みながら、豚飼いにまでは落ちぶれないので、帰ってこないのです。豚の餌を食べたい境遇にまでは至らないのか、放蕩息子のように「我に返る=父のもとに帰る」にならないわけです。これは「喜びのない自立したノンクリスチャン」であります。


                   以上を無理やり類型化すると以下のようになるでしょうか?

                  (1)「信仰優等生タイプ」=「最短距離経由クリスチャン」

                  (2)「放蕩息子タイプ」=「豚飼い経由クリスチャン」

                  (3)「放蕩息子のタイプ」=「自立的信仰も喜びもないクリスチャン」

                  (4)「帰ってこない放蕩息子タイプ」=「喜びのない自立したノンクリスチャン」


                   きっと、世襲制の伝統芸能でも、この四つのタイプに類型化されるのだろうと予想します。野村萬斎さんは、(1)と(2)の間で「プチ放蕩息子タイプ」と言えるのでは?

                   上の四つを見て、親であるクリスチャンはどう思われるでしょうか?できれば、(1)が望ましいのでしょうが、(2)でなければ、自立的で喜びのあるクリスチャンに至ることのできないタイプの子どももいるよです。ですから、(1)でないからと言って、失望してはなりません。ましてや、子どもに「教会に行かない自分は親に愛されてない」と思わせるような態度をとってはならないのです。むしろ、放蕩息子の帰りを待つあの父のようでありたいものです。

                   また、逆に子どもが教会に来ているから、洗礼を受けたから大丈夫と考えるのも、どうかと思います。わが子が(1)だと思っていたら、実は(3)だったというケースは少なくありません。いいえ、むしろ、クリスチャンホーム育ちのクリスチャンたちの課題は、まさにここにあるようにさえ感じています。

                   四つの類型は、「安易な失望をせず希望を持つこと」と「安易な安堵をせず、使命感を継続すべきこと」の両者をクリスチャンである親に対して示しているのでしょう。そう、教会を離れたからと言って失望してはなりません。希望をもって祈り、可能な具体的努力があればチャンレジしましょう。逆に、子どもが洗礼を受けて教会に来ていれば、親の責任を果たしたわけではありません。見守りつつも、自立と成熟に向かってのサポートができればと願うのです。

                   「世襲制の古典芸能における芸の継承」と「クリスチャンホームにおける信仰継承」の類似性から、こんなことを考えてみました。読者の皆様、それぞれの立場で、次世代への信仰継承のために、活かして下されば、うれしいです。
                   
                  | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 20:22 | - | - | - |
                  「狂言=表現」と悟った野村萬斎に学ぶ「信仰継承におけるバンド活動の有用性」
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                     昨日の記事に続いて、「いただきます」に出演した三谷幸喜さんと野村萬斎さんのお話し。野村萬斎さんの方も、興味深いお話しがありました。狂言をする能楽師の世界は世襲制で、男子として生まれたら、家業を継ぐのが既定路線なのだとか。当然、中高生時代は、反抗期となり狂言が嫌いになります。狂言をしていくことに、不自由に感じ、親の思い通りに歩むようで、本当の自分でないようで、それが嫌でたまらなかったようです。

                     ですから、その反動で、野村萬斎さんは、中高生時代にはロックバンドを組んで演奏していたそうです。中学生時代はフォークギターで、高校生になれば、エレキギターやヴォーカルを担当してクイーンなどのコピーをしていたとのこと。狂言と違って、それが、かっこよくて、女の子にもモテると思ったからというのが理由です。また、そこに自分本来の自己表現を求めていたのです。

                     しかし、ある狂言の演目を演じている萬斎さんを観た黒澤明監督が、彼を映画「乱」の主要な役柄に大抜擢します。当時、まだ、高校一年であったそうです。それが、転機となり、萬斎さんは変わりました。自分にとっての最高の自己表現は、幼いころから稽古をしてきた狂言にあることを発見したのです。

                     野村さんの言葉では、その時まで「狂言」と「表現」が結びついていなかったのだそうです。つまり、「狂言」という芸能あるいは表現形式を、「自己表現」とは無関係であるかのように、接してきたわけです。「狂言」と「表現」が結びついた時、野村さんは、狂言が持つ魅力を体験し、その世界を究めていったと思われます。

                     このお話しを聞いて思ったのです。「バンドでの賛美が信仰継承と結びつくのはそういうことだったのかも!」と。


                     私の場合、中高生や青年を対象とした集会などにお呼びいただくことが多いのですが、信仰継承が一定できていたり、中高生が生き生きしている教会や団体では、バンド活動が盛んであることを実感します。しかも、中高生と青年たちの信仰的成熟度の高さバンドの演奏技術、賛美の質の高さ比例している傾向が強いのです。

                     その現実を目の当たりにしながら、私の中には「バンドやれば、若者が集まって、信仰継承して、成熟するって、そんな安易なもんじゃないだろう」という思いがあったのです。そして、確かに今でも「バンドやれば・・・」が安易だという見解は変わりません。しかし、もとから持っていた「バンドは、中高生たちの信仰継承に本当に有用なのだろう」との思いは、野村萬斎さんの体験談を聞いて、いよいよ自分の中で強くなりました。


                     私は考えたのです。萬斎さんが「狂言」と「表現」が結びついたように、バンドで賛美することによって、クリスチャンホームの子どもたちは、「賛美」と「表現」が結びつくのではないのだろうか?と。特に男子たちにとっては、バンドはかっこいいですし、教会の女の子にモテるかもという不純な?期待もあります。教会の他のことには、無関心で消極的な彼らも、バンドでの賛美にだけは前向きになれます。

                     伝統的な賛美では、「賛美」と「主にある自己表現」が結びつくことがなかった中高生が、「バンド」という自分たちにしっくりくる表現方法を獲得します。きっと、自分たちの表現方法で、賛美する中で、「主への賛美」と「主にある自己表現」が結びつくのだろうと思います。信仰的にも人間的にも未熟な中高生クリスチャンは、純粋な信仰を持っていても、それを言語化し、伝達する能力がありません。しかし、バンド演奏は、そんな彼らにとっては、自らの信仰を表現し、伝達する身近で好ましい方法論となるのでしょう。

                     もちろん、バンド演奏の中に、「主にある」とは異なる「肉的自己表現(=自己顕示)」や賛美にふさわしくない信仰的歩みなどの問題も起こることでしょう。しかし、それはオルガンやピアノなどの伝統的賛美形式でも、大人のクリスチャンでも、同じく問われる課題であり、それが問われることを通じて、賛美奉仕者の成長もあるのだと思うのです。

                     ですから、大人の賛美奉仕者の信仰姿勢が問題とされず、人間的に未熟で過渡期にある中高生のバンド演奏ばかりが問題視されるようなことがあるとするなら、それは、不公平、差別的と感じてしまうのです。もちろん、プレイズやワーシップソングの神学的是非を論じてのことなら、その限りではありませんが。


                     信仰継承に一定成功している教会は、まさに、ただ、バンドをやらせているのではなく、バンド活動の中で、中高生たちの信仰教育をしているのです。そこには中高生に重荷を持つスタッフやリーダーたちがいます。中高生を愛し、日々祈り、真剣に向き合ってくれる先輩や大人がいるのです。その信頼関係の中で、賛美に自己顕示を持ち込むことや賛美にふさわしくない信仰的歩みが、取り扱われていきます。

                     実は「バンド活動=実践的信仰教育」となるわけです。それができていると、チャラチャラしているように見えても、自分たちの演奏と歌詞を自分で聴きながら、賛美を通じて信仰的なアイデンティティーが築かれ、教会への帰属意識も高まっていきます。そうなれば、中高生時代には不安定さもあれば、未熟さ丸出しでも、青年になる頃には、かなりしっかりしてきます。

                     バンドだけやらせて、あとは放置では、そのバンドは「キリスト教の歌を演奏する自己顕示集団」にしかなりません。バンドメンバーの信仰的成長は望みえません。「主への賛美」と「主にある自己表現」が結びつくことはないでしょう。むしろ、主への賛美は、肉的な自己表現の手段化されてしまい、バンド活動は内面的な信仰の養いに結びつくことがなくなってしまうでしょう。やはり、鍵となるのは、リーダーやスタッフの熱意と教育力なのです。

                     中高生を「教会のおまけ」「大人のついで」程度に思っているなら、バンドをやらせても、そうした結果が予想されてしまいます。ですから、私は今でも「バンドやらせたら、信仰継承うまくいく」との発想などは、逆に信仰継承の本質が見えていない安易な考えとしか評価しません。むしろ、真剣に中高生らを愛し仕えるスタッフやリーダーがいて、なおかつ、中高生の側からの要望がある時に、バンドが始められて行くべきだと考えています。


                     野村萬斎さんは、幼いころから稽古を受けてきた「狂言」と「自己表現」が結びついた時、嫌いだった狂言が好きになり、この世界を献身的に歩みだしました。同じように、現代日本のクリスチャンホームの子どもたちの中にも、幼いころから稽古?してきた「賛美」と「主にある自己表現」が結びついた時、賛美が、神様が、教会が好きになり、信仰の世界を献身的に歩む若者が起こされていくのではないでしょうか?

                     野村萬斎さんの体験から、「信仰継承におけるバンド活動の有用性」を考えてみました。バンド活動が唯一の有用な方法論ではありませんが、お互いが集う教会が、それぞれの方法によって、野村萬斎さんのような葛藤にある中高生たちに、野村萬斎さんと同様の解決を与えられたらと願います。 
                    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 17:49 | - | - | - |
                    2014年のリベカ(4)生涯強制母子分離
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                       このシリーズも今回で最終回としましょう。選んだ限りは見捨てない神様はヤコブに対して「祝福の器に向けての大改造計画」をお持ちでした。今で言う機能不全家庭にあったイサク家にあて、ヤコブが自立した信仰者となることは不可能だったのでしょう。特に、ヤコブは、梯子を降ろしても無駄な母子関係にありました。そこで、神様は、選びの一族を回復させようと手荒な最終手段をとります。ヤコブを母親から強制的に分離させたのです。

                       クリスチャンたちは、「イサク家は悲惨だったけど、神様は回復させてくださった」「選ばれた信仰者家庭を人は壊すが、選んだ神様は見捨てず回復させて下さる」と理解をしています。これは正解ですが、誤解をしてはならないと思うのです。確かに、神様は壊れた家庭を回復して下さいますが、両親夫婦に関しては、当人の悔い改めとその結実努力があって、はじめて回復するのだと私は思っています。

                       イサク家などは、その実証例だと思うのです。ヤコブは回復してゆきました。しかし、イサクとリベカの夫婦関係は回復しているでしょうか?イサクはその偏愛を悔い改めて、新たな歩みをしたでしょうか?リベカも自分の間違いを認めて悔い改めているように読めますか?そして、エサウは、俗悪信仰者から敬虔な信仰者へと成長したでしょうか?異邦人であったエサウの妻は改宗してエサウ家は主に仕える家系となっているでしょうか?

                       そう考えますと、全き回復の恵みにあずかったのは、ヤコブだけで、他の家族にも神様の祝福はあり、多少の改善はあったかもしれませんが、明確な悔い改めと回復の恵みはなったと判断するのが妥当ではないかと思うのです。


                       聖書を読むとリベカは一生ヤコブに会うことなく、この世を去って行きます。神様による密着母子の強制分離は、一生涯にわたったのです。リベカが受けた報いは、「生涯強制母子分離」でした。そして、想像するのです。あわれみ深い神様ですから、もし、ヤコブがリベカに再会しても、大丈夫なら、きっと会わせてくださったことでしょう。リベカが、同情すべき面は多々あったとしても、夫を軽蔑し、過保護と母子密着でヤコブを歪めてしまい、神の祝福を妨げていたことを、自覚し、悔い改めたなら、きっと神様は、安心して「健全な母子関係」を再スタートさせて下さったことでしょう。

                       この想像が正しいなら、リベカは生涯、自分の非や罪を認めず、夫を軽蔑し続け、嫌いなエサウと忌まわしい異邦人の嫁に悩まされながら、長子略奪計画の失敗を悔やみ、それ故にヤコブと別れたことで自分を責め、自己憐憫に陥りながら、一生涯を終えたと想像されます。悔い改めなかったので、回復の恵みのないままだったと予想できるわけです。そして、残念なことに、何千年もの前のこのリベカの姿は、時代と文化と国境を超えて、2014年時点の信仰者家庭にも、人類の原罪と共に継承されています。


                       そこで2014年のリベカです。「夫を軽蔑し、向き合えない夫婦で息子を犠牲にしてしまったけど、ヤコブのように神様が息子を回復させてくださる」と自らの罪を悔い改め、次世代の回復希望を願うのは聖書的に正しいだろうと思います。しかし、「夫を軽蔑し、母子密着となり、子どもを犠牲にしてしまったけど、神様は私たちの家庭を回復してくださる」と安易に考えるべきではないでしょう。悔い改めて夫に対する態度を変えて、夫婦が向き合うことなくして、夫婦関係や家庭全体の回復を望むのは間違いでしょう。

                       夫に責任があるとは言え、夫を軽蔑し続け、それを悔い改めぬ母親、それ故に、向き合わない夫婦関係をスタイルとして固定させたクリスチャンの母、子どもを親から離さない子育てをし、過保護と過干渉で息子をスポイルする母、機能しない父親の下で欠落を持って育つ息子を助けず、俗悪な信仰者にしてしまった母・・・。信仰のサラブレッドにして、最低の家庭人であった夫に翻弄され、夫を責め、自己憐憫に陥りながらも、多分、自らの罪と過ちを悔い改めをせぬまま、回復の恵みを逸して、「クリスチャンなのにどうして」とつぶやきながら、一生を終えていく信仰者家庭の母・・・。


                       創世記25章以下が描く、リベカの姿は何と現代的でしょう。母であるクリスチャンは、日本の子育ての現状では、誰もが2014年のリベカとなる危険を免れないように思います。四回にわたったシリーズでしたが、2014年のリベカを教会全体の痛みや課題として受け止められたらと願います。2014年のリベカとして歩むクリスチャン母を心情的には温かく理解し、同時に聖書的な視点で課題を特定し、支え、回復に向かうお手伝いをするために、このシリーズが少しでも貢献できればと願っています。
                      | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承・家庭・養子 | 19:56 | - | - | - |
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