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西野カナは、現役大学生なのだとか。どうも、私も年に一度は特別講義でお邪魔している某ミッション系女子大の学生らしいです。もしかすると、私の講義も聞いているかも。
同世代の女性たちの強い共感と支持を得ているそうですが、詩を読むと、世代間ギャップありすぎの私でもなんとなく理解はできます。携帯で作詞していると聞きましたが、携帯のような短いフレーズに瞬間瞬間の心情が凝縮されるように言語化されているのでは?
私なりに驚いたのは、詩の内容が「超主観主義」であることです。恋愛当事者の二人を描く映画のようではありません。自分の心情を他者の視点から観察して描写しているのではありません。二人の間で起こった出来事をどこまでも自分の受け止めた心情で伝えています。恋愛者であるのに、相手の立場に立った相手の心情を想像することのない詩であります。
通常、歌詞の多くはAメロで、ストーリーや情景描写、あるいは出来事など、映画の画面を見るような一定の客観性を持つものです。そして、Bメロ、いわゆるサビで、曲のテーマとなる主張、心情、思想などが歌われます。これはある程度主観性のあるものです。
その点で、西野カナの詩は、ユニークに感じました。ストーリーや情景描写、あるいは出来事なども、自分カメラ、自分目線、自分の解釈とそれに伴う心情と込みで描かれているのです。
これは展望、他者理解、論理性、客観性などより、「その場の自分の心情」が優先されたり、絶対視される当世恋愛者女性のあり方を見事に描いているのかも?などと考えてしまいました。
「愛の他者中心性」を主張する"I wish for you"が「君の幸せを願うことこそ愛」と成熟した大人の愛を歌うのと対照的に「私の感情こそが最大の問題」と「恋愛感情の自己中心性」を示すかのような西野カナの詩であります。それを悪いと評価しているのではありません。成長過渡期の恋愛者女性は、昔も今もそのような「超主観主義」を経由して、大人の恋愛者になるものです。ある特定の年代の女性の共感と支持を勝ち取る事は、大成功であり、優れた歌詞と評価されるべきでしょう。
しかし、あくまで過渡期であることを忘れてはなりません。今後、西野カナがさらに恋愛者としても人間としても成長し、歌詞も成熟に向かっていくと思われます。それに連れて支持者も年齢を重ね、共に恋愛者として成熟していくことと期待しております。それは、歌い手と聴き手が共に年齢を重ねて成長し、ずっとファンであり続けられたら、一時期のヒットよりもはるかに価値のあることではないでしょうか?西野カナは、一時的なブームで終わらないだけの才能の持ち主と期待している私です。
どうでしょう? I wish と 西野カナの詩を比較検討することから見えてくるものは結構本質的なのではないでしょうか?