命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(5)父性の復権を願って二つの提案
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     このシリーズも今日で最終回。昔、昔、その昔、男として生まれた限りは、ほぼ強制的に親離れと社会参加と結婚をさせられ、責任ある社会の構成員とならざるを得ませんでした。その路線から外れることは社会的おちこぼれを意味していいました。つまり、社会の基礎構造に強烈な父性原理があったたわけです。

     古代の母系的社会を除けば、たいていの共同体にはこうした父性原理によるシステムが見られます。文明化されていない社会では、バンジージャンプのような一発男の勇気証明系の通過儀礼がありました。明治以前の日本では男性ばかりが共同生活し地域で生きるための教育を受ける「若者組」とか「若衆」がありました。それも、夜這いなど猥雑な要素があったたため、明治以降の意向で衰退。その名ごりが現在の青年団らしいです。

     やがて、日本も文明化され、他国と戦争をする管理社会になれば、徴兵制がその機能を担うこととなります。続いて敗戦後の平和主義の中では、企業戦士の徴兵制のような企業研修が通過儀礼の機能を果たします。プライドや学生気分を粉砕され、企業社会に自分を適応させ、終身雇用で働くわけです。さらに、それも終身雇用制の終焉と慢性不景気のため、もはや人材育成に投資はせず、人材は使い捨てです。

     そうです。日本は有史以来、ついに、男の子を男にして、強制的に社会参加させる通過儀礼システムを持たなくなったように思うのです。文明化され、平和で人権が尊重される社会になってきたのは、幸いなことでしょうが、皮肉にも、野蛮さ、猥雑さ、戦争、人権侵害とセットで機能していた通過儀礼を失ったように思うのです。本来、それは父親、学校、地域、スポーツ、文化活動などを通じた教育で代理できるはずですし、事実、意識的に父性原理を取り入れれば、ある程度できているのでしょう。

     でも、極端に父性を失った家庭や社会の中で、日本有史以来初の「父性愛欠損・母性愛一辺倒男子」が登場しているのは、間違いなさそうです。そして、クリスチャン家庭や教会が、この波の防波堤となりえず、子どもたちを犠牲者にしてしまったのだろうと私は認識しています。父性愛を持つ父なる神を信じていながら、父性欠損的な家庭を作り、父性愛なき神観や福音を伝えてきたとするなら、当世クリスチャン男子の課題を責める前に、悔い改めに立って、為すべきことがあるように思うのです。

     そこで今回は私なりに二つの提言をさせてください。
     
     一つは、「愛の忍耐」です。これは人を育てる際に聖書が示す必須要素です。「理解不能」「関わりたくない」と見捨てたり、諦めたりしないで欲しいのです。それは上の世代の責任放棄だと私は思います。自らの責任を受け止めた上で、いまどきクリスチャン男子をあるがままで受け止めながら、少しずつでも適切な期待と要求をして、まずは、達成できなくても、努力するだけで、認めてあげることでしょう。中高生の時から、洗礼を受けていなくても、受け身でなく、積極参加させ、可能な奉仕を与えていくことなどは、その具体的歩みの一つでしょう。

     ここで、気を付けるべきは、自分の感覚や基準で、期待や要求をしないことです。学生や青年たちをよく理解し、自分の物差しでなく、当人たちの物差しで適切な期待と要求をすることです。「えっ、そんなことで潰れてしまうの?」「この程度のプレッシャーで教会に来なくなるとは!」という失敗は、あちらこちらの教会でお聞きしております。家庭で父性愛を注がれてこなかった学生や青年男子たちが、普通に父性愛を注いでしまうと、受け止めきれず潰れます。あくまで、母性愛で受け止めながら、父性愛を小出しにしていくことかなと考えています。

     また、それを「甘い」とか、「それではだめ」とか、「自分たちの頃はこうだった」といまどきクリスチャン男子を愛し、理解使用としない、ベテラン世代が批判をするかもしれません。そんな時、若者を愛し、理解するリーダーや先輩や親たちは、防波堤になり、守ってやりたいものです。また、上の世代にも、対立したり、無理解を責めるのでなく、謙遜と愛をもって、理解をお願いしていくことでしょう。

     日本社会では、父性と母性のバランスは、世代間とリンクしています。団塊の世代の男性は、頑固おやじ雷親父に育てられたのでかなりの父性愛育ちです。次の団塊ジュニア世代は、父性が減少し、母性に大きく傾いた成育環境で育っています。そして、ジュニアの両親に育てられた今時の学生や青年クリスチャン男子は、どうしても母性愛一辺倒傾向が高まるわけです。ですから、団塊世代の男性クリスチャンがいまどき学生や青年クリスチャン男子を理解するのは、極めて困難なのです。だからこそ、攻撃から守るべきですし、対立してまで理解を訴えるのは賢くないと思うのです。

     世代間の無理解の中で防波堤として波を受けながら、下の世代を育てていくのは至難の業かと思いますが、そこから逃げてしまっては、教会の未来は見えてこないでしょう。ストレス覚悟で勇気をもって自らその役割を担う者を、神様のこの時代に求めておられると思うのですが、どうでしょう?まずは、愛の忍耐をもって、育てていく道です。


     二つ目は「愛の対決」ということです。「いつまで忍耐しても、変わらない」「愛の忍耐への応答能力自体が疑わしい」「忍耐の愛をこれ幸いに利用して、いよいよ変わろうとしない」。残念ながらそんな現実もあるでしょう。まさに「あるがまま、今のまま、ずっとそのままクリスチャン」を生涯の信仰スタイルにするクリスチャン男子がいるとしましょう。かと言って、強く踏み込めば「もう、教会来ない」「教会変わる」という最終兵器を出しかねません。どうしたらいいのでしょう?

     そこで考えたいのが、「何が本当の愛か?」「何のための教会か?」であります。
     
     愛は真理を喜びますから、愛は、相手が真理に歩むこと、真理に向けて成長することを願います。
     相手の弱さは愛の故に理解しますが、成長拒否を無期限で放置するのは、むしろ、愛に反することでしょう。

     また、何のための教会でしょう?教会が目指すべき目的はなにでしょう。
     
     人を集めて教会を大きくすることではないはず。
     奉仕者を増やして、事業拡大をすることでもないはず。
     献金を確保して、教職の生活と教会の運営を安定させるためではないはず。
     信徒一人一人がキリストに根差して成長し、愛のうちに結び合わされキリストの体を建て上げるため、神の栄光を現すため、神の業を行うためのはず。

     そう考えますと、愛の忍耐をもって待つにも、やはり限界や期限はあると思うのです。どこかの時点で「愛の対決」が必要となる場合もあると思うのです。残念ながら、年齢を重ね、社会人になると、プライドが高くなるばかりで、「愛の対決」が通用しなくなる傾向があります。若い時代にチャンスを逃すと「あるがまま、今のまま、一生そのままクリスチャン」になりかねないこともあるようです。それだけに、「忍耐し続けるよりも愛の対決」と判断した場合は、できれば学生時代に、遅くとも最終学校卒業数年目までに、「愛の対決」を実行するのが適切かと考えています。

     以前、ある教会の中高生科で奉仕をしました。献身的な大学生スタッフたちに大変感銘を受け、年長スタッフに「どのように育てたのですか?」と尋ねました。返ってきた答えは意外なものでした。スタッフの多くは、以前は、主日礼拝が終わったら、さっさと帰宅し、教会の働きには全く参与しないタイプだったというのです。

     中高科の先輩スタッフはそうたい大学生たちに向き合い、愛をもって「それでいいのか?」と問いかけたそうです。そして、涙を流しての悔い改めに導き、教え訓練し、育ててきたのだというのです。これは、まさに「愛の対決」です。教会を離れる、教会を去るというリスクと背中合わせです。

     牧師が異動する場合も「愛の対決」のチャンスかもしれません。愛の対決で勝負を決しておいて、後任に譲るのが、教会と当人と後任牧師のためという場合もあるでしょう。逆にあえて、愛の対決をせず、後任に判断を委ねるという選択肢もあるでしょう。大切なのは、常に、「愛の忍耐」と「愛の対決」のどちらを優先すべきかを考え、神様が導くタイミングを逃さぬことでしょう。

     私は考えるのです。愛の対決の故に、相手が教会を離れたとしても、人はそれを非難するかもしれませんが、神様はその決断を喜んでくださるだろうと。逆に、無期限で変わることを待ち続けるなら、低リスクであり、それは人には批判されずに済みますが、それは本当の愛で、教会の目指す目的に合致しているでしょうか?もしかすると、私たちの問題は、こうした「愛の対決」という選択肢を選ばないことではなく、リスクを犯してまでそれをするだけの愛がないことなのかもしれません。


     父性喪失文明で育ち、その欠損の犠牲者となったクリスチャン男子に、父性愛を注ぎ、受け止めてもらうことは決して、容易なことではないでしょう。しかし、愛をもって、優しくしかし、はっきりと課題を示し、向き合うよう勧めていく中で、教会を離れてしまうことはそれ程、多くはないように観察します。むしろ、こちら側が、弱さや境遇を理解し、心情に寄り添う愛を失い、裁いたり、責めたりしてしてしまうと、決定的決裂に至ってしまうようです。その意味で、愛の忍耐よりも愛の対決の方が、こちらの愛の真実さが問われる厳しい選択かと思います。

     結論として、愛の忍耐と愛の対決という二つの選択肢を、父性愛を注いでいくための指針として提案しました。この二つは一見、正反対のように見えて、実は同じ目的を持つものです。前者が母性愛で、後者が父性愛なのではありません。両者ともが父性愛なのです。あえて違いを言えば、前者が父性愛の長期訓練で、後者が父性愛の短期決戦と言えるでしょう。

     今回の記事が、父性欠損文明の犠牲者を健全なクリスチャンに育てていく一助になれば、感謝なことです。
    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 16:42 | - | - | - |
    「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(4)いまどきクリスチャン男子の「父性拒否体質」
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       日本全国、どこにいっても耳にするのが、青年男子クリスチャンたちに見られるある課題です。とりわけ、首都圏で奉仕をすると、牧師夫妻や婚活系クリスチャン女子たちから、いまどきクリスチャン男子たちについて、同じような愚痴や悩みを山ほどお聞きし、それについての相談を受けます。内容は似たようなものです。以下に箇条書きにしてみましょう。

        
       健全な自信がなく、現実に対応できない、社会参加できない、異性とコミュニケーションがとれない。
       それ故に強い劣等感を秘めているが、それを隠すために自分を大きく見せようとするか、内にこもってしまうかのどちらか。
       
       責任ある結婚生活を送る自信がなく、結婚を意味なく先送りにしている。
       成人していても、二次元萌えにはまっており、生身の女性との恋愛を恐れて、願うことがない。
       
       地道な社会参加ができないだけなのに、それを合理化するために、仮想優越感をもって、自称「夢」とやらを追いかける。
       弱いくせに、プライドだけ高いので、やっかいな存在になってしまっている。

       いい歳した大人なのに、キリストの愛に応えようとせず、ひたすら愛されたがりなのを女子から「キモイ」と嫌悪されている。
       すべての評価基準は自分が愛されていると実感できたかどうかで、未熟過ぎる。

       信仰生活において、底なしに愛されることを求める。
       「もっと愛されたい」と発言し、「どんだけ愛されたら、満足して愛に応答するの?」と呆れさせている。

       親から心理的な自立ができておらず、依存的で、自己防衛的で、自分の責任を認めない。
       自分の課題については、親と教会の責任にするだけで、自分からは何の決断も努力もしない

       口にする親と教会に対しての批判は、一定正しくても、実は、批判ではなく自己防衛のための言い訳に過ぎない。
       他者批判による自己防衛を無意識にかつ常習的にしている。当人にその自覚がないので、やっかいである。

       全力を尽くして自分の課題と向き合うことから逃げる。皮肉にも、そのためには、努力と犠牲は惜しまない
       課題を指摘すると「さばいている」と逆切れして、愛をもって指摘した者を責めて、黙らせようとする。

       課題に向き合わせようとすると弱さを盾に拒否する。
       それでも、当人の成長を願い愛をもって向き合わせようとすれば「教会来ない」「教会変わる」と言い出す。

       この最終兵器によって、周囲の愛の忠告をやめさせ、自分本位の信仰生活を継続させている。
       周囲は及び腰になってしまい、本気で向き合うことをやめてしまっている。


       こうした父性愛拒否体質と思われるクリスチャン男子たちに、接しながら、将来の教会の不安を覚えたり、大きな徒労感に打ちひしがれている読者も少なくないでしょう。いわば聖なる父性愛を拒否されて、途方にくれてしまっているという声を、実によくお聞きします。「どうしたら、いいですか?」とよく尋ねられますが、20年近くかけて父性愛の欠損で形成された人格が、短期間で変化することは、当人が変化を願わない限りは困難です。

       私自身も多少の徒労感や悲しみを覚えながらも、昨日の記事を書いた上で思ったのです。「これらは当人の課題で当人の責任だろう。でも、私たちに責任はないのか?」と。「世の父性欠損の波から彼らを守ってやれなかったクリスチャンホームや教会は、神様の前に、責任を問われずに済むのだろうか?」と。私自身はまず、この責任を認め悔い改めることから、始めるべきと判断しました。

       こうした残念な現実を認めた上で、まず悔い改めから始め、その実を結ぶこと願うべきでしょう。その悔い改めの結実の歩みとして、時間をかけ、忍耐をもって、父性愛を含む福音を語り続け、父性愛的な愛を注ぎ続けていくことからしか、何も始まらないでしょう。やはり、何と言っても、男性クリスチャンを成長させ、自立させ、責任ある働き人、力ある証し人に育てるのは父性愛ですから。


       「〜しなさい。そうすれば・・・」という父性愛的命令を受け止め、達成努力をする中で、クリスチャンは成長します。一定の達成をして自信をつけるし、試行錯誤しながら前進する中で、成長していきます。父なる神からの承認を経験すれば、それが節目となり、さらなる向上心が与えられ、成長し続けます。

       「従いなさい。そうすれば・・・」は、自分の願い通りではない、願いにまさる最善の道を歩ませます。

       「献げなさい。そうすれば・・・」は、失った以上のものが与えられる経験へと従う者を導きます。

       「委ねなさい。そうすれば・・・」は、委ねた結果に対する不安以上に、委ねた者しか味わえない深い平安を与えます。

       そうです。父性愛による命令が、み言葉のリアリティーを体験させ、生きて働く神を体験させ、健全な自信と成長意欲を与えるのです。男性たちはこれによって、たくましく、自立した、責任ある大人のクリスチャンに成長するのです。父性愛による命令がなければ、観念的、心情的、教条的な信仰に終始し、場合によっては、「言うだけ番長」「教会評論家」などを生み出しかねません。

       
       まずは、親や教会への批判にたじろがないことです。「親がこうだから、自分はこうなった」「教会が〜してくれないから、自分はこうなんだ!」その批判は事実性と因果関係において、正しいのかもしれません。事実として認め、悔い改め、詫びることもよいでしょう。でも、詫びたからと言って、相手の言いなりになってはなりません。むしろ、本当に悔い改めるなら、その実を結ぶためにこそ、たじろいではならないはずです。

       その批判は、自己責任放棄の口実だからです。今の自分を正当化する自己防御の手段に過ぎないからです。こちらの非を認め、詫びるとしても、その次には、「君の側でできる決断や努力はなんだろう?そのために助け支えたいから。」がなくてはならないと思うのです。「批判にたじろぎ期待要求をしない」のは、相手の思う壺です。何の変化もなく「あるがまま、今のまま、ずっとそのままクリスチャン」で終わっていくでしょう。しかし、「批判は受け止めつつも、愛をもって期待要求をする」なら、その謙遜と愛の姿勢の向こうに、希望の光は見えてくるのでは?と思うのです。


       もう一つは巧みな対人操作に支配されないことです。自分の弱さを知らせて、相手が父性愛的な期待や要求をしてこないようにコンロールしてきます。「そんなこと求めらても弱くてできない」と泣きごとを言ったり、「弱さをわかってくれない」と責めたりです。まるで、弱い者いじめをしているような感覚を相手に与えて、愛の言動を抑制してしまうのです。これが「弱さによるコントロール」です。

       また、クリスチャンが「裁いている」「傷ついた」と言われると、弱いのを知っていて、それを利用します。「裁いている」「傷ついた」と言えば、自分が精神的に優位に立ちます。悔い改めるべきは、愛をもって忠告した相手へと移り変わります。かくして見事に自分は悔い改める立場を免れるわけです。これは「裁いてる詐欺」あるいは「傷つた逆襲」と呼ぶとしましょう。

       最終兵器は、「もう教会来ない」「教会変わる」です。自分の愛の忠告によって、相手が教会に来なくなったら、教会を変わったら、その愛の人はどんなに苦しむでしょう。真面目な方は自分を責め続けるでしょう。その愛の人は、教会の方々から責められる可能性すらあるわけです。だからこのフレーズは最終兵器なのです。ここまで言われても、自分が悪者にされ嫌われててでも、教会の人々から批判されてでも、相手を真の課題に向き合わせ、成長させようと願う愛の人はそうはいないでしょう。

       この最終兵器の有効確率は90%を超えているようです。「教会を去ったら、改善の可能性がないから」と自分を納得させて、熱い愛の忠告をとりやめてしまいます。愛の人は「忍耐をもって待つのが愛」と自分に言い聞かせて、「忍耐」や「待つ」という言葉を「無期限放置」に置き換えてしまいます。果たして、この判断は、正しいのでしょうか?


       とにかく、批判にたじろがないことです。毅然として愛をもって真実を語りましょう。そして、「弱さによるコントロール」「裁いている詐欺」「もう教会来ない」という最終兵器、以上三つの巧みな対人操作に、やられないことです。まんまとやられてしまっているケースがあまりに多いように観察しています。

       この対人操作は「愛は不正を喜ばず、真理を喜びます」を「愛は不正を放置し、真理に歩ませません」に変換してしまいます。こうした偽物の愛が教会で「」とされる時、教会がどうなるかは予想がつくでしょう。いいえ、既にそうなっているのかもしれません。


       「父となる旅路」を読みながら、現代の日本の教会にありがちな愛の不健全さ愛の歪みは「父性欠損・母性愛一辺倒」にあるように思うに至りました。そして、そのような不健全さと歪みをもたらすのは、父性愛欠損で育ったいまどきクリスチャン独自の「父性愛拒否体質」にあるように考え始めています。

       明日は最終回として、この「父性愛拒否体質」の体質改善のために二つの大きな指針を提示してみたいと願います。
      | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 09:05 | - | - | - |
      「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(3)父性欠損・母性一辺倒型神観の問題
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         豊田信行著「父となる旅路」は、神様ご自身の父性と、聖書の登場人物の父性欠損自らの獲得し育てるべき父性の三者を結び付け、読者に父性についての気づきを与え、父性という面において、信仰者としての人格形成、あるいは霊性の深まりを与えてくれます。

         昨日の記事で示したように父性欠損問題は家庭だけでなく、キリスト教会内にも及んでいます。教会内の交わりだけではなく、その根幹にかかわる神観自身や神の愛の理解についてにまで深刻な歪みを与えているように思うのです。豊田先生も言及しておられるのですが、「あなたはあるがままで愛されています」が、福音の大部分のようになり、「献げよう」「従おう」「与えよう」「委ねよう」などの祝福をもたらす父性愛による命令や勧めが、隅に追いやられてしまっているようなことは、福音理解のおける父性欠損でありましょう。

         あるがままで愛する母性愛だけが語られ、期待と要求をし、努力達成によって承認し、成長を与える父性愛が語られないなら、その神観は「父性欠損・母性一辺倒型神観」でありましょう。それは、聖書が示す神の愛の片面に過ぎません。そして、そのような神観に基づく福音が語られるなら、その神の家族としての教会は、「神の母子家庭」となります。一般的に母子家庭が、父親不在の故に持つ困難と同様の課題が教会に生じます。(母子家庭=欠損家庭という意味でなく、一般的傾向としての意味です)

         その代表的事例は「あるがまま、がわまま、ずっとそのままクリスチャン」であります。以前にも記事にしたことがあるので、それを加筆して、以下に転載します。


         「あるがまま、がわまま、ずっとそのままクリスチャン」。その福音理解は、「神様は自分をあるがままで愛しておられる。だからずっと今のままよい」という内容です。「あるがまま」が聖書の最上位の教理なので、他の教理はこれに反するならすべて否定・拒否していいのです。その結果として生ずるのは「現状肯定と成熟拒否の神様の無条件の愛による正当化」であります。あるがままで愛されていることを、「自分が変らず、悔改めず、ずっとそのままでよい」とのお墨付きにしてしまうわけです。

         当人にとっては「あるがまま、今のまま、ずっとわがままでよい」と絶対者から保証してもらっているのですから、行くところ敵なし状態です。自分にとって不都合な変化、成長、悔い改めを命ずる聖書のことばも、そのみことばに従って愛をもって導く人々も、ありのまま愛してくださる神様がご一緒なら、大丈夫?というわけです。

         「聖書は、心の一新によって自分を変えなさいと命じていますね」と問われても、「変えなくても愛されているから自分は満足です」と顧客満足度発想で返答。

         「栄光から栄光への主の似姿へと変えられましょうね」と勧めれば、「変えられなくても愛されているのだから、必要ない」と頑なに現状肯定であります。

         「聖書は『愛されなさい』でなく『愛しなさい』と命じていますね。あるがまま愛されたその愛で、人を愛する者に成長しましょう」と招けば「今のまま、ずっと愛される側でいたい」とがわままな拒否。

         「それは神様が悲しまれますね。悔改めましょう」と牧師が愛をもって罪を示し悔改めに導こうとすれば、「先生は自分を、罪のまま、あるがままで愛していない、先生には愛がない!」と逆切れしかねません。

         どうもこのタイプのクリスチャンにとって大切なのは、「あるがまま愛されている自分」であって「あるがまま愛してくださっている様」ではないようです。重要なのは、「あるがまま愛されて自己価値確認できる安心感」であって「その愛への応答責任」ではなさそうです。発想としては、「あるがままで愛される顧客満足度」が大切なのであって「あるがまま愛してくださっている神様の側のご満足」はどうでもいいのでしょう。どこまで行っても「自分のための神様」止まりで「神様のための自分」には至りません。いいえ、程遠いままです。


         そこで、思いついたのが、「あるがまま、今のまま、ずっとわがままクリスチャン」の信仰告白です。名づけて「あるがまま信仰告白」。


         「あるがまま信仰告白

         我は天地の造り主、我をあるがままで愛する全能の父なる神を信ず。
         
         我はその独り子、我をあるがままで愛する我らの主、イエスキリストを信ず。

         主は、我をあるがままで愛するため、聖霊によりてやどり、・・・・・・

         ・・・・・三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、我をあるがままで愛さんと全能の父なる神の右に座したまえり。

         かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを、あるがままで愛したまわん

         我は、人々をして我をあるがままで愛さしむる聖霊を信ず。

         我をあるがままで愛する公同の教会、

         あるがままで愛し合う聖徒の交わり、

         あるがままで愛するが故に、悔改め不要の罪の赦し

         今のままでも与えられる体のよみがえり、

         ずっとわがままでも保証されるとこしえの命を信ず。

         
         以上です。これは、すごいですね。「父、御子、御霊」から、「教会、永遠」に至るまで総動員で、「あるがままの自分」を正当化しているのですから。この「あるがまま信仰告白」が、聖書そのものより権威があるのですから、聖書が記す自己変革、成長、悔改めの言葉などは、すべてスルー、あるいは排除となるのです。

         「あるがまま」は福音の重要要素。でも、それがすべてとなれば、それは、もはや「福音」と呼ぶべきではないでしょう。「甘口の福音」でさえないと私は思います。


         ここまでが転載です。これは心理学上の理論が暴君として福音の上に君臨し、福音の国の秩序を破壊し、再構築してしまった現象のように感じています。さらに今回のテーマからすれば、父性欠損文明の影響が、福音理解にまで及んでしまった結果、福音を歪めてしまったのだと思うのです。私たちは、家庭において、社会において、父性を喪失してしまっただけではないでしょう。押し寄せる世の父性欠損の波から、自らを守り、抵抗し、むしろ、健全な父性を証しすべき、神の家族父性欠損の波に飲まれ、神の母子家庭可しているのではないでしょうか?

         そして、遂には、父なる神様についても、現代人に不都合な父性愛は黙殺し、現代人の安直なニーズに対応した「父性喪失母性一辺倒の神観」を提示し、そのことによって、教会に人が集い、集っている者たちも離れぬようにしているとしたら、それは聖書に登場する「異なる福音」「耳触りのよい言葉」に相当するのではないか?と危惧します。そのような福音理解に歩み、その福音に生きるクリスチャンが、自立し、健全な教会を建て上げ、宣教し、神の栄光を現していく者へと成長していけるかは、さらに疑問と言わざるを得ません。

         父性欠損の波に飲まれた福音や神観、その福音理解とそれに生きるクリスチャンたちの問題。言い換えるなら、「父性欠損・母性一辺倒型神観」がもたらす問題は、現代と将来の日本のキリスト教会においては、かなり深刻と言えるのではないでしょうか?

         さて、明日はこのことを受けて、福音理解と神観における「いまどきクリスチャンの父性拒否体質」について記しましょう。
        | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 15:37 | - | - | - |
        「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(2)日本の家庭における父性愛の欠損
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           もう10年以上前だと思います。「父性の復権」という書物が話題となりました。単に父親が役割を果たす必要性を訴えているのではありません。家庭にも、社会にも「父性」という原理が失われたことが、現代日本が持つ様々な課題の原因であり、父性の復権こそが、それらを克服するとの趣旨だったと記憶します。

           確かに今日の日本の子どもたちの問題のいくつかは、父性愛の欠損に起因すると思われます。これは豊田先生も著書の中で指摘しておられます。母性愛によって、あるがままで愛されて子どもは、安心や自己肯定感を持つでしょう。しかし、父性愛を注がれないと、期待と要求に応答し努力した結果として承認によって得られる自信、そして課題に取り組む勇気が育まれません。

           長時間労働などで父親が機能できないことも多いのが日本の現実。ならば、母親が期待し、要求していけば、父性愛の欠如は補えるのでしょうか?私は賢くかつ意識的に努力すれば、母親による父性愛は可能だと思います。

           しかし、母親にとってはそれはかなり難しいのだろうと考えています。たとえば、夫に愛想をつかしている場合などは、息子に向かって「〜ちゃん、勉強頑張ってねー。ママはあなただけが希望なの。パパはダメだから」というようなお約束フレーズで、子どもにプレッシャーをかけてしまいます。男児への母の期待や要求夫への失望の裏返しである場合、その期待と要求が息子を「いい子疲れ」や「いい子破たん」に向かわせてしまいます。

           また、父親の場合は「親からの期待・要求→子の努力と達成→親から子への承認」があまり意識的に努力しなくても、それなりにできるようですが、母親はなかなかそうはいかないように観察します。母親からの期待や要求に男児が応えても承認がないケースをよく見かけます。

           たとえば、ある母親は達成できなくても努力していたことを認めて承認しようとしません。「できなかったけど、がんばっていたのを知ってるわよ。ママはうれしいわ」という褒め方、励まし方ができる母親はあまり多くないように思うのです。結果より過程を評価することが、誠実に努力する子どもを育てます。逆に、結果だけを評価するなら、それは親子ではなく、上司と部下でしょう。それでは、逆に母性愛を欠いてしまい、子どもが不安を覚えてしまいます。

           また、母親によっては、息子が期待や要求を達成しても承認せずに、減点法で評価してしまうことも。達成した事実や努力を評価せず、「まだ、ここがダメ」「こっちもできなければ意味がない」と努力して達成したのに、認めず、足らないことの指摘をするわけです。いわば「永遠の期待要求と永遠の不承認と永遠のダメ出しの三点セット」です。このことを息子だけでなく夫に対してもしている女性を見かけます。夫に改善を要求し、妻のために頑張った夫を認めず、夫の成長意欲を削ぎ、浮気心を増幅させる妻です。

           どうも、男性が自分のためにする努力を認めず、無意識に文句をつける女性というのは、日本では珍しくないようです。自らは無意識のうちに、息子であれ、夫であれ、男性の向上心を削ぎ、成長を妨げながら、自分は家族男性の文句ばかり言っているというパターンです。周囲の女性や男性指導者などが、指摘しても認めず、場合によっては逆切れする方もおり、周囲は腫れ物にさわるような態度をとらざるをえなくなっている場合も。身に覚えのある方は、一度、なぜ、自分が男性の誠実な努力を評価も承認もできず、無意識に文句をつけたり、否定をしてしまうのか?お考えになることをお勧めします。


           ただ、賢く意識的に努力すれば、私は母親も、男児をたくましく誠実に育てる父性愛は可能だと考えています。また、母子家庭などでは、血縁者や教会の男性などが、一定、男児に必要な父性愛を満たしていくことが大切だと思っています。

           近年見られる男性の晩婚化の原因は、当人たちにアンケートをとるとに「自信がない」というのが第一位なのだとか。日本男性の結婚先送り傾向も、父性愛の欠損が一因ではないかと思われます。承認されてきた経験がないと、自分の本当の課題を認めて、向き合い、克服していこうとする克己の精神や向上心は、育まれません。これは、賢い女性にとっては、結婚相手としては大きな不安材料となります。

           自信のなさと課題に向き合えず逃げるメンタリティーは当然「働きたがらない息子」「社会参加を拒否して夢に生きる男の子」などにつながります。自信のなさは劣等感を生み出し、それを認めたくない男性は、「仮想優越感」に浸り、現実社会にコミットしません。かくして、できるだけ社会参加と結婚を先送りにしようとするわけです。その傾向が強ければ、社会適応できなかったり、女性とのコミュニケーション自体が不能となってしまいます。

           創世記2章には、神との交わり、職業、結婚のスタートが記されており、3章には、神との断絶、職業の呪い、結婚の呪いが記されています。クリスチャン男子が、無意味に職業生活から逃避し、結婚を先送りにしようとするのは、3章から2章への回復を願う神様の御こころに真っ向から反するように思えてなりません。


           自分が傷つくことも他者を傷つけることも恐れ、やさしいさを持つ反面、責任回避傾向が強く、自己保身的で、自分の課題に向き合おうとせず、ヘタレという当世の男子気質。やはり、必要なのは母性愛と父性愛のセットかと思うのです。否定せず、あるがままで受け入れていくと同時に、プレッシャーを与え過ぎない適切な期待や要求をして、努力や達成を承認し育てていくことの両面が望まれるように思います。

           各家庭の中で、そのために何ができるか?とりわけ親の側の意識変革を考えられたらと願います。
          | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 21:44 | - | - | - |
          「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(1)神様の統合的愛
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             今日から京都で二泊三日の中学生キャンプで奉仕です。出かける前に記事をアップしておくとしましょう。 

              豊田信行師著「父になる旅路」にぞっこん状態が続いていますが、ようやく関連記事が書けます。同著の中では「母性愛」と「父性愛」に違いと両者の必要性が、大切なこととして記されています。豊田先生は、心理学者フロムの理論に立って、母性愛は「受容の愛」、父性愛は「承認の愛」と表現しています。

             母性愛は、あるがまま受け入れる無条件の愛です。極論すれば、子どもは生きてさえいればいいのです。その存在自体をあるがままで受容します。よく、母親から「男の子はバカなところがかわいい」と聞きます。時には「バカなほどかわいい」とおっしゃる母親も。つくづく母性愛のスケールの大きさを思います。この愛によって、子どもは深い安心や自己肯定感を持つわけです。

             一方の父性愛は、承認の愛です。子どもに期待・要求をし、それを達成したら、それに向けて努力をするなら、評価し承認する愛です。父親もおバカな息子をかわいがります。その意味で、父性愛も無条件の愛でないわけではありません。ただ、父親は、おバカな息子の成長を願い、しつけ、勉強、スポーツ、習い事などがんばるように要求や期待をします。息子はそれに応えて、達成し、父から認めらることを通じて、健全な自信や向上心、そして困難に立ち向かう勇気を獲得して大人になってゆきます。

             かつては、「要求する父と受け止める母」でしたが、今は「要求する母と受け止める父」という両親も少なくないでしょう。父親が母性愛担当で母親が父性愛担当というパターンもありますし、両親それぞれが、母性愛と父性愛をある割合で持っていることも多いでしょう。

             こうした見解に加えて今回、教えられたこと。それは聖書が掲示する神様は母性愛と父性愛の両者が統合された愛の持ち主であるとうことです。私はこれまで、ずとお「父なる神」の愛は父性愛だと考えてきました。ユダヤ文化における父は、子どもを無条件で愛し、あるがままで受け止めるので、日本の伝統的な父のイメージとは異なると聞いたり、そのように考えてきました。これも、ある意味、伝統的な母性愛と父性愛を兼ね備えた方として神様の愛を考えていたのでしょう。


             しかし、「父となる旅路」では、聖書の啓示する神様が、母性愛と父性愛の両者を統合的にもっておられ、その愛で私たちを愛しておられるという趣旨のことが記されています。神様が私たちを無条件で愛し、あるがままで受容してくださるのは、よく聞くところです。

             豊田先生は、神様の父性愛を指摘されます。たとえば、アブラハムなどは、「〜しなさい、そうすれば、あなたを祝福しよう」というある意味条件付きと見える祝福の約束を受けます。つまり、神様はその人物にふさわしい期待をもって適切な要求をし、それに従い、達成するなら、約束の祝福を現実としてくださるのです。これによって神の子とされた者に向上心を与え、成長へと導き、達成した者に正しい自信を与えるわけです。


             異論もあるでしょうが、聖書が啓示する神様は、母性愛と父性愛が統合された愛の方と言えるのではないでしょうか?いいえ、むしろ、これは本末転倒でなのかもしれません。むしろ、神様は子どもが安心、自己肯定と向上心、自信の両者を得るようにと、神の完全な愛を、父と母の二人に分担して託していると考えるのが、聖書的なのかもしれません。つまり、人間の両親の愛が神様の統合的で完全な愛の半分ずつの反映ではないかと思ったりもするわけです。

             「父となる旅路」は父性愛に目を開くだけでなく、神様の愛の全体像をも教えてくれる良書として、お勧めします。
            | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 08:36 | - | - | - |
            親ラブ族の結婚問題〜依存対象奪還のための結婚破壊行為
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               近年、何名かの牧師から、親子共依存に起因すると思われる結婚問題のご相談を受けてきました。クリスチャンの親子で、表向きはあまり問題は見られない、むしろ順調に歩んできた親子です。子どもである息子や娘が結婚します。すると、親が子どもの結婚生活に干渉し始めます。これだけなら、従来からあった「子離れできていない親」が起こす典型的問題です。しかし、二つの面で、これまでの事例とは大きく異なります。

               一つは、「介入」というより「破壊」なのです。子どもの結婚生活に「口を出す」「手を出す」のではなく「ミサイルを撃ち込む」のです。「外交上の介入行為」でなく、「安全を脅かす軍事行動」なのです。そして、第三者から見ると、最終目的が「子どもの結婚生活向上」ではなく、「子どもの結婚の破壊による子どもの奪還」のように見えてしまいます。

               過干渉な親によくある「こうした方がいい」「これはどうなってるの?」というお節介や心配ではないのです。親が子どもの結婚相手の悪口や批判などを言うのです。しかも、客観的に見れば、夫婦関係は概ね良好で、結婚相手には、とりわけ非難されるような要素がないのです。極端な場合には、良好な夫婦関係なのに、別居や離婚するよう指示・命令する親さえいます。牧師や周囲は、真面目なクリスチャン親子に起こった突然かつ異常な出来事に驚いたり、ショックを受けたりです。

               心理的自立を欠き依存的な親は、子どもの結婚によって、子どもという依存対象を失うわけです。そうなると無意識行動として、依存対象を取り戻そうとします。それで、無意識に子どもの結婚を破たんに向かわせる「破壊行為」に及ぶわけです。クリスチャンの親ですと、依存対象奪還のためには信仰さえも手段化します。たとえば、「あなたの結婚はみこころでなかった」などと、新婚の息子や娘に断言して、子どもを不安に陥れます。


               もう一つの違いは子どもの側の応答です。従来なら、子離れできていない親から、結婚生活への介入を受けた子どもは、戸惑いや葛藤はあっても、結婚関係を守ることを優先しました。強い姿勢で「子離れしろよ」「自分たちの結婚に口出さないで」とはっきり拒否をします。また、ある夫婦は、聞き流したり、無視したりで、親と適当な距離をとって、結婚を守ります。

               しかし、親子共依存は違います。自立不足で依存的な子どもは、結婚を機に、依存対象を親から結婚相手に移行させることがあります。でも、いつもそうとは限りません。長年依存してきた親への依存心を強く残したまま、結婚してしまうと、親のこうした「不当な破壊行為」に応答してしまうのです。親の間違った言い分に従いたくなってしまうようです。どうも、子どもの側も長年慣れ親しんだ依存対象からの依存的要求に、依存することで応答してしまうようです。

               聖書の真理は明らかに「夫婦>親子」です。夫婦は愛し合い一つになる関係、親子は愛して、離れ、別れる関係です。しかし、親子共依存関係にあると、クリスチャンでも、親子共に「親子>夫婦」という価値観で歩んでいます。ですから、親は子どもの結婚を破壊してでも、依存対象を取り戻そうとします。親から「共依存ラブコール」を受けた子どもの側も、結婚相手を捨てでも、かつての共依存関係に帰ろうという心の動きが起こります。

               特に子どもの側が、信仰的に親から自立していないと、未信者の場合より問題が深刻化するようにお見受けします。子どもが神様との個人的関係を構築しておらず、あくまで親を通じて、神様につながっているまま、結婚することがあります。20年から30年もの長期間をかけて、「親に従うこと=神に従うこと=祝福」と刷り込まれて育って結婚に至った場合もあります。

               これら心理的自立だけでなく、信仰的にも自立しおらず親に依存している子どもたちは、結婚しても夫や妻の意向よりも、親の意向に沿うことが、神様の御心であり、祝福であると、根拠もなく自動的に考えてしまいます。それで、親からの不当な結婚破壊攻撃を、「自治権侵害」「領空侵犯」「安全を脅かす不当な軍事行為」と認識できず、「独立国家への愛ゆえの警告」「不遇な独立国家への母国帰還の呼びかけ」と受け止めてしまうのでしょう。


               自国から、独立した国家を、まるで自国の領土のように考え、

               失った利権を取り戻そうと他国に対して、安全を脅かす不当な軍事行為を仕掛け、

               独立国家を壊滅させ、再び自国の領土にしようとする。


               国際関係にたとえるなら、いかに異常であるかが分かります。これは、国際社会からの非難を一身に受けるべき、ゆるされざる暴挙です。


               社会参加し、結婚した子どもさえ、依存対象とし続け、世話を焼くだけでは満足できず、依存対象奪還のために、結婚関係を破壊する親たち。それを、親への依存性の故に、それを不当と認識できず、親の意向に沿うことを願う子どもたち。

               放置しておけば、子どもの全生涯を犠牲にしてでも、自らの依存欲求を満たし続けていく、自立できていない未熟な親たち・・・。


               近年は、この類の牧会事例をいくつもお聴きするようになりました。今後、日本社会では、もちろんのこと、キリスト教会でもこうした事例は増加するものと予想しています。教会の中で、また、周囲で、こうした事例に触れることがあれば、今日の記事が、「何が起こっているか」を理解し、「では、どうすべきか」を考えていく一助になれば、感謝なことです。
              | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 14:26 | - | - | - |
              クリスチャンの「親を愛せない問題」の深刻さと切実さ
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                 土曜日にアップした記事が、予想外の「いいね!」をいただいております。クリスチャンの「親を愛せない問題」の深刻さと切実さを覚えます。

                 問題をまとめると以下の五つに集約できるように思うのです。

                .リスチャンとなった後も、親を愛しえない程の悲惨な親子関係に育ったこと。

                例外的なケースを考慮せず、あるいは愛の配慮なく、聖書的正論に従うべきとの声が教会内にあること。

                0幣紊里茲Δ幣況下で苦悩するクリスチャンの存在や声が、課題として認識されず、考察されていないこと。

                だ蚕馘正論の前に沈黙を強いられていながら、その不当性を訴える発信が乏しいこと。

                キ△里茲Δ弊蚕馘正論に反論するだけの聖書的根拠や神学的論理を適切に言語化して示すのが困難であること。


                 牧師である一読者が、個人的に、日ごろから考えていることとして、以下のようなコメントを下さいました。


                 日本のキリスト教界においては、「父と母を敬え」とか「親を愛する」という言葉のイメージがあまりに画一的であると思います。無条件に理想的な形でそうするものだと思い込んでいる節があります。心の傷が有る、もしくは親が継続的に虐待的な存在である場合に、距離を置くようにすることは自然なことですし、暴力的な反撃や罵りを選択しないという形で敬意を表すことも「敬う」とか「愛する」の形であり得るという理解が乏し過ぎるように思います。


                 考えさせられる見解だと思いましたので、ご紹介申し上げました。「親を愛せない問題」に苦悩する方やそうした方を支える方々の一助になれば感謝なことです。
                | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 17:49 | - | - | - |
                「黒子のバスケ」事件の渡邊被告からの私たちが聞くべき発信
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                   お世話になっているCLCの店員さんがF.B.で紹介して下さっているので、読んでみたらビックリでした。

                  【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告のロジカルでドラマチックな『最終意見陳述』があまりにも切ない
                  http://kamipro.com/blog/?p=16006


                   テレビに映る渡邊被告の様子を見ながら、「きっと大きな人格欠損をもっているのだろう。どんな家庭に育ったのだろう」と思っていました。裁判での発言には「反社会的」というより「脱社会的」な要素、あるいは「社会性欠如」を感じていました。回復しがたい破壊や欠落の持ち主であろうと同情を覚えておりました。

                   
                   しかし、この記事を読んで驚きました。差し入れられた一冊の書物が、どうも、彼を明確な自己理解に至らせ、劇的な転機を与えたようなのです。それは子供時代に虐待を受けた大人が発症する「被虐うつ」の治療に取り組む精神科の著書だったのだとか。その結果、世間を騒がせたあの冒頭陳述を撤回しています。

                   後半に記されている彼の自己分析や発信には、感嘆しました。うらやましいほどのキャッチ―な言語センス、明確な論理展開、無駄のない簡潔な文章表現には圧倒されます。そして、伝えている内容は、差し入れられた著書から得た劇的な自己理解でしょうが、これは、是非、お読みいただきたいです。この記事の執筆者が「延々と続く見事な論理構成で綴ったロジカルな分析は、現代社会に表面化する親子関係や子育ての病巣をえぐって見せる。」と記している通りです。

                   「社会的存在」ー「生ける屍」
                   「努力教信者」ー「埒外の民」
                   「キズナマン」ー「浮遊霊」


                   この対義的表現による著書の再構築や自己分析などは、圧巻です。プロのライターや学者でも、これだけの文章はなかなか書けないでしょう。特に子育てをしておられる方々、また、学校の先生方、児童福祉などで被虐待児童に接している方々などには、何としてもお読みいただきたい内容です。

                   そして、クリスチャンである親もともすれば、信仰という大義名分によって、渡邊被告が受けたのと同様の苦しみを子どもに与えかねないと危惧します。言うなれば「信仰名目による精神的虐待」や「信仰による子どもの人格否定、魂の殺人」です。実際に親から同様の傷を受けて育ったクリスチャンホーム子弟には多く出会ってきましたし、子どもに重大な歪みが現れてから、初めて自らの過ちに気づき悔いるクリスチャンの親たちの姿も見てきました。

                   差し入れされた書物の内容を自分なりに受け止め、自らの言葉でその要約をして、自分自身に当てはめて自己分析をして、自らが経験した悲劇を起こさぬようにと願い社会に発信しています。彼の発信には、今日の日本社会に生きる私たちが、耳を傾けるべき貴重な内容に満ちているように思うのですが、どうでしょう。

                   もしかしたら、この記事は、虐待を受けて育ってきた当人やそれを支えようとする方々に、一つの光や指針を与えてくれるのかもしれないとの期待もあって、紹介してみました。

                   被害者が受けた不当な損害は彼には到底弁償しきれるものではありません。本当の意味で償いきれないことを彼はしてしまいました。それでも、彼が自分のしたことを理解し、更生に向かっているように見えることは、一筋の光として受け止めました。この記事は「あまりにも切ない」です。でも、読み返した後に私の心に残ったのは、大きな喜びと希望でした。それは、彼が、更生しうるという希望健全な人格への回復が既にスタートしているのだろうと思えることの喜びです。
                  | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 09:10 | - | - | - |
                  家族にとって一年で最も大切な日は?(再掲載)
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                     昨日が元旦だったので、以前、掲載した記事を以下に再度、掲載します。

                     本日、車内でラジオを聴いているとこの質問が。その番組で紹介されたアンケートによれば、40台以降のトップ回答は、「お正月」とのこと。特に60代では、70%を占めるのだとか。家族が元旦にそろうことでアイデンティティーの確認という文化なのでしょう。

                     それに対して、20代、30代のトップ回答は、私にとっては意外なものでした。それは・・・

                     「子どもの誕生日

                     そのアンケートでは、これ以外の質問項目も含めて、一つの結論を出しています。それは「国家や会社が自分を守ってくれるという幻想が崩壊している世代は家族回帰、家族を最優先する傾向が高まっている」との分析結果。同様の指摘は様々な分野でなされていますが、私なりには納得です。

                     しかし、この「子どもの誕生日」という回答はどうなんでしょうね?確かに国家や会社が自分を守ってくれるという幻想を捨てて、最も基本的な共同体である家族への回帰は正解でしょう。しかし、その家庭優先の具体化が「子どもの誕生日最重要」というのはズレているでは?と批判的になってしまいます。これは子どもを家庭の中心にし、お子様扱いをしてしまい、子どもの自立や健全な成長を妨げやすい日本の家庭の悪い面を露呈させていているようにも思うのです。

                     「では、日本社会に生きるキリスト者としての模範解答は?」と考えてみました。

                     子どもの誕生日よりも救い主の誕生を祝うクリスマス?
                     子どもの誕生日よりも家庭の代表である父親の誕生日?

                     いいえ、私なりの模範解答は、「結婚記念日」。

                     家庭の基礎、中心は夫婦。愛し合う夫婦こそが、子どもが健全に成長する最重要の土台。ですから、子どもの誕生日よりも神様が夫婦を結びつけ、家庭をスタートしてくださった日のほうが、重要なのでは?

                     私は、家庭観も実生活も、親子中心の家庭から夫婦中心の家庭への転換こそが、確実な日本の福音化だと思います。それは欧米化ではなく、福音化です。夫婦中心の家庭理念は欧米文化ではなく、聖書そのものに由来する原則だからです。

                     「我が家と我は主に仕えん」の具現化はたとえば、こういう優先順位を取るのでは?と思うのです。本気で私たちが福音に生きる家庭であろう、福音の光を拒まぬ家庭として歩もうとすれば、一つの具体的な現われとして、最重要の日やその祝い方は自ずと、クリスチャンではない方々の家庭とは異なってくるのではないでしょうか?こうした具体的なあり方が、さりげなく、しかし、明確に、日本の社会に福音を証ししていくように考えておりますが、どうでしょう?
                    | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 20:17 | - | - | - |
                    マツコ・デラックスと中村うさぎの往復書簡に教えられる
                    0
                       先日、歯医者の待合室で、サンデー毎日を読みました。マツコ・デラックスと中村うさぎの往復書簡のコーナーがあり、これが、興味深かったのです。その回は、中村うさぎのからマツコへの手紙。それまでの経緯が分かりませんが、予想するに、中村うさぎは自分と同様に社会的不適応者で、仲間であったマツコが、近年は人間関係においてバランス感覚を持つに至ったと知ったらしいです。そして、これまでの共依存的な関係をやめて、マツコを一人格として手離そうとしているという不思議で不健康な内容であります。

                       マツコ・デラックスさんは、突出したキャラと辛口発言だけが目立ちますが、観察すると、発言はよく計算されており、抜群のチームワークで働いているのが分かります。コメントなどは、怒りや攻撃から入るのですが、最後は優しく手加減して終わることが多いです。辛辣なインパクトながら、後味がよいのです。そして、「マツコって意外といい人」と思われます。バラティーなどでも、期待通りのタイミングで期待通りの発言をします。突出した外見とキャラとは違い、全体の調和を考えて発言しております。あれだけ仕事が多いのは、きっとスタッフや共演者からの評価がよいのでしょう。

                       多分、うさぎさんには、10年来、自分同様の社会不適応者と思っていたマツコが、このように成長したのを喜びながらも、寂しく思い、親が子を手放すような思いで記したのでしょう。中村うさぎは、律法的なクリスチャンの父親と世間体至上主義の母という両親に育てられました。中村自身の発言では、「そんな親を憎しみながらも、親の期待に応えたいと願っていた」とのこと。

                       その中村うさぎさんは、作家になってからも、風俗嬢になったり、整形手術依存症になったりの壊れ具合は治りません。常に破壊的な方向に歩み、自罰的あるいは自己否定的行為ばかりに走るのは、彼女の成育歴と無縁ではないでしょう。

                       律法的なクリスチャン父の願う「よい子」と世間体至上主義の母が願う「よい子」の期待に答えようとして、破綻し続ける彼女です。うさぎさんは自罰的行為を繰り返すことによって、今でも、両親の愛を求めるメッセージを送っているのでしょうか?あるいは両親のどちらからも「条件付の愛」しか与えられず、「期待とは異なるこんな自分でも愛せるか?」と両親の愛を試しているのでしょうか?あるいは、親の期待通りでないので、自己肯定感を持てずに、自分を大事にできないでいるのでしょうか?
                       
                       中村さんはマツコさんへの書簡の中で、自分を「人間関係不全」と評価していました。自分を育て、信頼し、助けてもらい、お世話になった人たちを、最後には傷つけ、裏切り、失望させてきたことを自覚しています。健全な人間関係を構築できないこと、社会的信頼関係を作りえない自分の現実とそれがどうしようもないことを彼女は認めています。

                       うさぎさんのような現象は、律法的なクリスチャンの親、世間的ばかりの母親の場合だけでなく、強い宗教や思想を指針とする親、わが子を厳しく鍛えるスポーツ指導者である親、子どもに期待をかけすぎる親、子どもを通じて自己実現を図る親、愛情実感なき厳しいしつけをする親などの場合に現われるように思います。

                       クリスチャンの親が子どもに、愛情実感を与えず、「〇〇しなさい」「〇〇してはいけません」の命令と禁止がメッセージの中心ですと、子どもにとってはそれは「条件付の愛のメッセージ」として受け取られます。子どもは「〇〇でなければ親は自分を愛してくれない」「〇〇でない自分は愛されない、価値がない」と判断します。それは時に中村うさぎさんと同様の傾向を子どもに生み出すようです。

                       「神様に従う子に育てる」というポリシーは何ら間違いではないでしょう。しかし、そこに人格的な愛、特に神の愛に準ずる「無条件の愛」がなければ、子どもは喜んで主体的に生き生きと神に従う者にはならないでしょう。聖書が示す神への従順は愛への応答を動機とするからです。親が子どもを従わせるのは、神に従う子に育てるためです。親を通じて子は、神を知ります。ならば、親には神の愛に準ずる無条件の愛を子どもに注ぎ実感させる責任があります。
                       
                       無条件の愛を受けて、子は親を信頼し、従う心を持ちます。これが健全な従順でしょう。みことばを盾に、子どもを従わせるだけの愛なき従順は、「奴隷の従順」です。聖書が示す「子の従順」ではありません。

                       厳しい牧師家庭や熱心なクリスチャン家庭で育った子どもたちの一部から、うさぎさん同様の叫び声を何度か聞かせていただき、涙したことがあります。立ち止まって、「厳しさと熱心さの底に無条件の愛があるか?」「その愛が愛として子どもに伝わっているか?」。自戒を込めて思うのですが、クリスチャンである親こそ、そうした自己検証が必要なのでしょう。社会適応を果たしたマツコさんに対する自称「人間関係不全者」であるうさぎさんの書簡から、そんなことを考えました。
                      | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 16:29 | - | - | - |
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