「子どもの脳死と臓器移植 課題は」
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0615.html
日本文化の問題は、親が「旅立った我が子が、他者のいのちを救うことに誇り」とのコメントだけによって、すべてをOKにしかねないことであります。ご両親の思いは真実なものであり、尊重されるべきでしょう。子どもにとっての最善を考えられての決定でしょうから、こうした親なりの決断を安易に批判すべきではないでしょう。
しかし、聖書的視点に立てば、子どもの命と肉体は、神からの委託であり、親のモノではありません。そうなると一般論として、親が他者である子どもの脳死を死と認めるか?脳死体からの臓器移植を許可するかは、意見が分かれるのは必然でしょう。特に幼児であれば、当人も、十分な判断材料を提供されても判断力はなく、自己決定権を認めることもできません。当人にかわり親が決定することは、行き過ぎた親権行使、子どもの人権侵害との見方もあるでしょう。
子どもの命の所有者を、神とし、親や当人より神の意志がなされることを是とするなら、どうなんだろうと思います。そもそも、私は、日本社会における脳死臓器移植は、純粋な議論が行われて決定と実行がされてきたとは思っていません。海外同様に臓器移植を進めるために、日本文化の死生観を超えて脳死を死と法的に決めて、臓器移植を可能にしているのが事実だろうと考えています。
さらに文明論的に考えれば、聖書が示す命と肉体の全体性はいよいよ失われ、人体は部品の集合体とされ、パーツの補充で有効期限が延長されるメカニズムのような生命観に移り変わっていくのではないかと危惧します。人命を大切にするための移植医療も、(私見では脳死は死でないと考えているので)特にそれが脳死体からとなれば、本当にそれは、生命を尊重する社会につながるのだろうか?と心配します。脳死移植というシステムは、人が人の死を決めて、他者の命のためとの理由で、その遺体(と決めた)の臓器を有効活用するものとの見方も可能でしょう。
「親の思い」や「命が救われるから」は尊重されるべきでしょうが、それが、他の多様な考えを牽制し、抑圧するような傾向が日本社会では見られます。クリスチャンの中でも意見は多様でしょうが、神を命の与え主、支配者とし、聖書的な生命観と身体論に立った意見が自由に述べられることは、大切な社会への発信であり、信仰の証ともなるでしょう。
こうした件については、本ブログのこちらのカテゴリーで、一連の記事をご一読ください。
脳死と臓器移植に関して
http://blog.kiyoshimizutani.com/?cid=14
生命の尊厳と生命倫理に関して
http://blog.kiyoshimizutani.com/?cid=2
また、今回は2004年のクリスチャン新聞に掲載された私の「オピニオン」を掲載します。「死体の臓器があたかもリサイクル資源とされていないか?」との視点は今回の記事と共通することでしょう。クリスチャン新聞の許可をいただいておりませんが、問題なしと判断して掲載します。読者の皆さんが脳死移植問題についてお考えになる一助となれば幸いです。
「いのちのモノ化、遺体のゴミ化」神様の御思いは?
少年少女による殺人事件、賛否両論を呼ぶ不妊治療や生命操作などが論じられる際、これらの共通項としてよく「いのちのモノ化」が指摘される。中絶された胎児が一般ゴミとして捨てられた事件は私たちの記憶に新しい。この事件はいのちがモノ化された社会が生み出した当然の結果ではないだろうか。いのちがモノであるなら、いのちを失った遺体はゴミである。いのちのモノ化はついには「遺体のゴミ化」に至った。この事件はその違法性よりも生命の尊厳という観点から大きな非難を受けたように思う。
一方、移植医療と人工臓器の限界を打破する治療方法として再生医療に注目が集まっている。特に脊髄損傷やパーキンソン病に対しての治療効果が期待されているそうだ。実際の再生医療の現場では、治療内容によっては中絶された胎児の組織が利用される。胎児の細胞は拒絶反応が起こりにくく、大きな治療効果が期待できるからである。本年4月には日本人の脊椎損傷患者9人が中国で中絶胎児からの細胞移植を受けたことが報告されている。また、8月には厚生労働省の専門委員会が研究目的に限り、中絶胎児の使用を両親の承認等の条件の下で原則的には許可することを確認している。近い将来、日本においても中絶胎児を利用した再生医療の開始が予想される。
中絶胎児ゴミ事件を強く非難しながらも、再生医療目的での中絶胎児の利用については、賛成あるいは容認する意見も少なくないようだ。現実に大量の中絶が行われているのだから、その遺体が難病治療に役立つならよいではないかという発想である。
しかし、私は異議を唱えたい。なぜなら、再生医療における中絶胎児の利用は形を変えた遺体のゴミ化に他ならないからだ。その根底にある発想はゴミのリサイクルと同様であり、中絶胎児を失われたいのちとしてではなくリサイクル資源として見ることである。廃棄目的のゴミ化を非難しながら、一方でリサイクル目的のゴミ化を容認するのは明らかな矛盾である。難病治療は人類が願ってやまない達成目標であろう。しかし、その手段として胎児の遺体をあたかもゴミのごとくリサイクルする社会的システムが容認されていいはずがない。
医療上の有用性や難病患者とその家族の苦悩のみに目を留めてしまうなら、私たちはことの本質を見謝りかねない。再生医療の恩恵を受ける側の視点だけが全てではない。今こそ日本社会はクリスチャンならでは視点、すなわち、いのちの創造主の視点あるいは胎児の人権という視点を必要としている。詩篇139篇13節以下が示すように胎児を一人格として愛し、自らも胎児としてマリヤの胎に宿られた神ご自身の御思いを社会に伝えてゆきたいと願うばかりである。