命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
同性愛〜存在を認めないことも差別の一形態
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     日本では、LGBTと表現されるような性的少数者は、全人口の7%程度と言われています。この数字がどこまで信頼できるかどうか疑問ですが、5%程度は存在するであろう方々を、クリスチャン人口1%未満の日本の教会が、最初から宣教対象や教会の交わりから、意図的ではなくても結果的に排除しているなら、それが果たして神様の御心だろうか?と誰もが思うことでしょう。

     キリスト教会内には、一般に考えられているより多くの性的少数者がおられます。同時に、苦悩した結果、黙って教会の交わりを去った方も少なくありません。10月17日の神戸での集会の中、JCMの藤田先生はこんな趣旨の発言をされていました。

     「同性愛についての講演後、ある牧師先生が『大切なお話しでした。感謝します。でも、うちの教会にはそういう方はおられません』とおっしゃいました。しかし、その牧師先生の牧しておられる教会の信徒から、私は同性愛の悩みの相談を受けていました。」


     「認識せざるは存在せざるなり」との事実誤認に気が付くことから、動きは始まるのでしょう。「差別」とは、対象者を違いの故に疎外、抑圧することだけではありません。その存在自体を否定、無視することも、差別だと私は思います。それは「日本は単一民族国家」との発言が、少数民族の存在否定と差別に相当するのと同様です。そう言われても、ピンと来ない方はこちらをご参照ください。日本の歴代首相の中には、「単一民族発言」で批判を受けた方々もおられたわけです。

    wikipedia「単一民族国家」中の一項目「日本」

     私自身もカミングアウトをしていただいたクリチャンの内、3名はかなり昔から知っていた方でした。「ああ、そうだったんだ」と驚いたり、気づいてあげられなくて申し訳なくなったりでした。そうです。少し交際範囲の広いクリスチャンなら、既に出会っている方々の中に、性的マイノリティーはいらっしゃると予想されます。


     「存在する可能性がある

     「知らないうちに、人格や存在を否定する言動をしてきたかもしれない」

     「いたのに黙って教会を去てしまった可能性もある。」


    教会に集う者たちが、存在や可能性に気が付くことから、

    存在自体を認めないことも差別の一形態であることに気が付くことから、

    新しい歩みが始まるのだろうと思っています。
    | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 14:23 | - | - | - |
    同性愛〜動き始めた日本の福音派教会
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       全米での同性婚合法化を受けて、日本の教会でもリアルに、性的少数者、とりわけ同性愛について学び、正しく考え受け止めていこうとする動きが始まっています。実は、個人的にも、10月と11月だけで、そうした動きを実感する経験が三つほどありました。

       最近、ある福音の派神学校が、アメリカから講師を招き、同性愛についての講義をされたとお聞きしております。知人の神学生からお聞きして、驚くやら感動するやらです。基本的な指針は、私が「舟の右側」に記した論考と同様とお聞きしており、一安心しているところです。神学校を出て、現場に行けば、信徒から見解を問われるでしょう。また、教会員やその子どもからカミングアウトがある可能性もあるわけです。神学校でこうした学びの意義や有用性は間違いないでしょう。

       また、某福音派教団は、性的マイノリティーの教会員からの相談を受け止める機関を準備中のようです。先日、担当者の方とお会いする機会があり、「今後はアドバイスをお願いするかも」との光栄なお言葉をいただきました。これまで経験してきた事例と出会ってきた当事者から教えらえたことでお役に立てればと願っています。

       さらには、最近、ある福音派団体から研修会の講師として依頼をいただきました。テーマは同性愛など性的マイノリティーどう考え、どう寄り添っていくか?を考える趣旨です。私はこれまで同性愛について、三回講演の機会がありました。一度目は福音派神学校の卒業生会、二回目は牧会塾、三度目は、キリスト教主義の児童福祉施設の職員研修会でした。教会・教団からの依頼は今回が初めてです。(今後も本件での研修会や神学校での講義などのご依頼は大歓迎です。奉仕依頼をお待ちしています。)

       
       いわゆる福音派神学校での講義、福音派教団での相談窓口、福音派団体の研修会と、ここ二か月だけで、三つも性的少数者についての福音派教会での新しい動きを見聞きしました。もはや、福音派でのこうしたテーマを扱うことが、「ラディカル」と批判されない時代になったことを実感しています。そこで、「同性愛、動き始めた日本の福音派教会」とタイトルをつけました。まだ、一部でしょうが、日本の福音派教会が、性的少数者について真摯に考え始め、動き出しているその数歩をご報告します。
      | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 10:28 | - | - | - |
      横浜マンション傾斜との類似問題としての教会内性教育
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         土曜日の夜に神戸から帰りました。集会への参加者は60名程度積極的な意識をもって集って下さった方も多く、私としては大変やりがいのある奉仕でした。入門者にも対応できるように、三名ともが普段繰り返し語っている基本をコンパクトに発題しました。集会のレポートは川向氏がしておられますので、ご紹介しておきます。アカデミックな視点からさすがの神学的ツッコミをして下さっています。
         
         三名の発題後に、それぞれ「言い足りなかったこと、どうしても伝えたいこと」を話すために5分間をいただきました。そこで、私がお話したことを、少し編集・かなり加筆して、本日の記事といたします。参加者には、ベテランクリスチャンや指導的立場の方が多いようにお見受けしてので、私が働きの中で、若者たちからいただいたフィードバックや教えていただいたことを三つお話ししました。


        (1)若者たちの本音
         性について聖書からお話を聞き、若者たちは、こんな本音を持っています。言わないだけでこう思っているそうです。

         「『結婚まで待ちましょう』と言われても、結婚がよいものと思えなければ、きついでしょー。クリスチャンの両親を見ていて、そう思わなければ、教会に祝福されたクリスチャン夫婦のモデルがいなければ、『待ちましょう』に説得力なさすぎ

         そうです。どんなに聖書的な正論を語っても、その真理を体現している実態がなければ、悲しい程説得力がありません。上の世代は自分を安全地帯において、次世代に聖書的正論を語っていればそれでいいわけではありません。自らの結婚生活をもって、真理の具現化を見せる責任があるのです。自らがモデルとなっているかが、問われるのです。若者たちは、言わないだけで、そうした厳しい目で、上の世代を見ているのです。そのことを覚えて、語る側は、厳粛な責任を自覚したいものです。


        (2)若者たちの実態
         真面目な中高生・青年のクリスチャンたちは、「性と恋愛について、聖書からはっきり語って欲しい」と願っています。はっきり語れば、従うであろう若者たちが、ぼんやりとしか語られていないために、罪を自覚しないまま、罪を犯してしまいます。将来、教会の中核を担うであろうリーダー候補が性的罪を犯してしまいます。

         さらにはっきり語られていないために、罪が自覚できないだけでなく、悔い改めができず、赦しの確信を得られず、指導者などに話すこともできず、回復の道をたどれず、自分は教会に行く資格がない、牧師や皆に合わす顔がない考えて教会から離れていきます。私の予想では、高校卒業以降に教会を離れていく若者の3人か4人に一人恋愛や性的罪が原因だと思っています。

         その原因をクリスチャンの親や牧師は知りません。親しいクリスチャンの友人たちは知っていることが多いです。まるで、こうした現実がないかのように歩んでいてよいでしょうか?しっかりと聖書から性について語れば、従う若者はたくさんいるのです。また、はっきり語ることは、青年期の教会離れを一定防ぐことになるのです。「教会に若者がいない、少ない」と嘆きながら、中高生たちに性を語らないのは、大きな矛盾ではないでしょうか?


        (3)若者たちの被害状況
         教会が性を語らなければ、若者たちの性意識は未信者とほぼ同じです。ですから、同じ恋愛観に立って、同じスタイルの恋愛パターンを踏襲し、未信者同様の性行動をとります。その結果、クリスチャンホーム育ちの青年たちも、キリストを信じ救われていながら、同棲、でき婚をします。性について教えられていないので、結婚してからも、価値転換がされておらず未信者同様となります。結婚1,2年でのセックスレス・不倫、あるいは離婚や事実上の結婚生活破たんが起こります。10代で教えないので、教会の指導は後手となり、対処療法に終始します。こうした実態を、若者や牧師たちから多くお聞きしています。

         そうなれば、クリスチャンホームが破たんし、子どもの信仰継承も失敗しやすくなります。10代の内に、性について聖書から語らないなら、それは、将来の結婚や家庭の破たんを招き、次世代の教会を弱体化されることとなります。性教育の問題は、実は、次世代や次々世代の教会形成に直結しているのです。教会がクリスチャンの親が性を語らないことは、若者たちを、ある意味、被害者としてしまうことにならないでしょうか?


         今、横浜のマンションが傾いていることが問題になっていますが、教会で性を語ることは、強固な地盤まで杭を打ち込むことだと私は思うのです。それを怠ったり、ごまかしたままにしておくと、その上に建てたものが傾くのです。もし、若者が少ない、教会を去って行くこと、教会内での性的罪と結婚の破たんが、教会が傾いていることを意味するとしたら、それは、土台工事において、杭を正しく打ち込まなかったことに原因があるのかもしれません。私たちは謙虚になって、そうした可能性を検討すべきでしょう。


         ここまで、記して思います。

         ある方の言葉です。

         「教会は、答えを持っているが、問題が分かっていない」(仮想解決)

         「教会は、聖い歩みを説くが、教会内の聖くない現実から目を背けている」(仮想聖化)

         「教会は悔い改めを世に説きながら、自らの悔い改めを怠っている」(仮想回心)


         随分チャレンジングなことを書いてしまいましたが、他者批判としてではなく、自らの痛みとして受け取るべきこととして記しました。その上で、思うのです。クリスチャンたちは、傾くマンションに教会の姿を重ね見るべきかもしれないと。杭打ちについての偽装、不正を見る時に、性教育に限らず、若者たちの基礎工事期に必要不可欠な教育と訓練をしてきたか?強固な地盤まで杭を打ち込んできたか?を省みる必要があるのではないかと。 
        | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 17:43 | - | - | - |
        「結婚まで待て」と言われるクリスチャンたちの本音
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           女子高生が母親のことを詠んだ川柳です。

          「勉強、勉強と言う母は、化粧はド派手で、中身空っぽ


           女子高生ともなると怖いです。母に対して女として本質を見抜いています。親子ではなく、素の女どうしのバトルがあります。


          「勉強、勉強としか言えないのは、何のために勉強するかも、子どもに語れないんだろう!」

          「勉強して、私のような大人になりなさいと言えるのかよ?」

          「お前が、勉強、勉強って言ったって、何の説得力もないんだよー!」

           そんな心の言葉が聞こえてきそうです。高校生の娘が女としての母親を正しく評価し、見下げてしまっている中での本音が見え隠れします。



           「結婚まで待ちましょう」と教会やクリスチャンの親から言われる青年や学生のクリスチャンたちから、よくこんな本音を聞きます。

          「結婚まで待てと言われても、結婚がよいと思えなければ、無理」

          親の結婚生活を見ていたら、そこまでして待とうとは思えない

          「結婚まで待てと言うなら、苦労してまで待つに値する結婚のモデルを教会は見せてほしい」


           親や大人たちが、口だけで、結婚の素晴らしさとそれ故に結婚まで待つことの祝福を語っていても、それは「言うだけ番長」でしょう。どんなに的確な聖書的正論も、ある程度の現実性が証しされていなければ、悲しいほど説得力がありません



           冒頭の女子高生がクリスチャンなら、こんな川柳を詠むかもしれません。

          「結婚まで待てと言う親は、向き合えぬ夫婦で、信仰からっぽ


          これは、子どもから信仰を持つ親へのチャレンジです。

          「結婚まで待てとしか言えないのは、何のためそう命じられているか聖書から子どもに語れないからだろう!」

          「結婚まで待って、私たちのような夫婦になりなさいと言えるのかよ?」

          「お前が、結婚まで待てと言ったって、何の説得力もないんだよー!」


           子どもの恋愛を心配したり、苦言を呈すると共に、親であるクリスチャンや指導する既婚者は、自分が「言うだけ番長」になっていないかを省みるくらいの謙虚さはあっていいと思います。クリスチャンなんだから、それくらいの謙虚さは持ちましょう。親としての権威を神様から授かっているのですから、み言葉の前に、自分を棚に上げて、子どもにだけ説教するような権威の誤用・濫用はやめましょう。


           結婚を間近に控えたクリスチャン女性が私に言いました。「私の母は、自分は、生涯一人の男性と体を一つにしてきた。それが本当に最高だと思う。だから、あなたにも同じように歩んで欲しいと私に語りました。誘惑に負けそうなこともあったけど、母の言葉があったら、結婚まで待つことができたのです」

           また、あるクリスチャンの母は、青年期に差し掛かった娘たちに、未信者であった自分が結婚前に性体験を持ったことを正直に伝えて、それをどんな後悔しているか、結婚まで待つことがどんなに幸いかを語りました。その子どもたちは、母の身を切る言葉に誠実に応えてこられたようです。


           「結婚まで待て」と言われる時、「それなら、そう思える結婚を」と心の底で願っているのが多くの青年クリスチャンたちです。親であるクリスチャン、既婚者クリスチャンは、その「ごもっともな求め」に応答する責任があるのではないでしょうか?若い世代の性的罪の問題の原因は、当人や世の影響だけでなく、クリスチャンである親の結婚生活にもその一因があることを、次世代クリスチャンは指摘しているかのようです。

           み言葉のチャレンジに対して自らは安全地帯に置きながら、子どもや次世代に対してだけ、み言葉からチャンレジする大人など、誰が信頼するでしょうか?若い世代のクリスチャンをなめてはいけません。彼らはとっくの昔に大人の偽善を見抜いています。逃げたり、ごまかしたりするのでなく、結婚生活において、真摯にみ言葉に向き合い、不従順は悔い改め、夫婦で向き合い、為すべき努力をすることが、次世代の性的な歩みを正しく導くためにできる最高のことでありましょう。

           自らを見本として示すにせよ、自らの失敗を語って諭すにせよ、わが身をもって、わが身を切って、次世代クリスチャンたちを正しい歩みへと、祝福の結婚へと導くお互いでありたいと願います。
          | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 21:20 | - | - | - |
          一般用語としての「ドS」「ドM」、プラトニックSMとしての「春琴抄」
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             昨日まで、山形で奉仕、昨日は記事のアップができせんでした。先ほど、帰宅しました。書き溜めてあった記事をアップします。

             数年ほど前でしょうか?テレビ歌番組を見ていてビックリしました。人気アイドルユニットのメンバーが「私はドSだからー」とか、別のメンバーのことを「あの子はドM」とか、発言しているのです。これを聞いた瞬間、愚かにも「えーっ!人気アイドルが自分やメンバーの特殊な性癖をカミングアウト?」と思ったのです。でも、すぐにそれが、「性癖」ではなく「精神的傾向」を意味することがわかり、一安心でした。

             「」とか「」という言葉自体が「口にするのも汚らわしい」とされた昭和に育った私にとっては、人気女性アイドルが、たとえそれが、精神的傾向を表現するだけにしても、「ドS」とか「ドM」という言葉を発するのは、カルチャーショックだったわけです。最近は、教会の青年男女も、同様の表現をするのを聞くのですが、正直言えば「できれば、別の表現にして欲しいなー」と思ってしまう年代の私です。

             そのように最近は、SMが、抽象化、観念化、精神化されてきたように思います。それは、現実のSM行為を想起させることはなく、生理的嫌悪感を感じさせません。昨日も記したように、昭和から平成にかけて、SMは「倒錯→特殊性癖→性欲の一形態」、「ありえない→ありかも→ありだよね」と社会通念が変遷してきた流れとこの抽象化リンクしているように思います。

             「性癖を示す特殊な用語」が「一般的な精神傾向」を表現する言葉となるのは、極めて異例なことだとも言えるでしょう。この現象の背景には、性における「正常と異常」の境界の曖昧化、あるいは崩壊があるように感じています。


             「SMの抽象化、観念化、精神化」ということで、もう一つ。サマージャンボ宝くじのCMをご存知でしょうか?お嬢様(米倉涼子)とは下男(原田泰造)が演ずるあのCMです。ドSの米倉とドMの泰三のコンビは、まさに、はまり役です。この設定は、谷崎潤一郎の「春琴抄」がモデルだと推測しています。あの春琴と佐助が、米倉と泰三のモデルというわけです。何度も映画化をされていますが、「春琴抄」をご存知ない方はこちらを参照して下さい。

             wikipedia「春琴抄」

             やけどを負い美貌を失った春琴を見ないようにと自ら両眼を針で刺し盲目となり、結婚もせずに仕え続ける佐助の愛を「究極の愛」「献身愛」「純愛」と考える読者もいるでしょうが、それでは、漫画の「愛と誠」レベルで、任期恋愛小説にはなっても、文学にはなりません。
             
             wikipediaは、「マゾヒズム超越した本質的な耽美主義」と評価をしています。「悪でも、不道徳でも、反社会的でも、倒錯でも、美しければよい」と、「美」を表現上の最優先目的とするのが、耽美主義であります。「美」という高尚なものを表現しているので、この作品は、ポルノ小説でなく文学、エロでなくアートとされるのでしょう。

             でも、私は思うのです。この作品は「マゾヒズムを超越した耽美主義」ではなく「マゾヒズムを極めた耽美主義」だと。究極のマゾヒズムは自分の性欲や身体性の否定に至るのでは?と考えるからです。春琴が、肉体的暴力を振るうことに快感を覚えるわけでも、佐助が肉体的攻撃を受けて性的興奮を持つわけでもないので、これは「プラトニック・SM」だと私は解釈しています。そして、身体性をも放棄した性愛が、「最高の美」とされているように受け止めています。

             聖書の性は、身体性を有する性です。結婚を通じて、体を一つとして、共に生きる性です。むしろ、身体は必須です。いいえ、聖書によれば、身体を一つにすることによって、霊が一つになるのです。ですから、谷崎が描いた「身体性なき性」は、純粋なように見えて、最大の逸脱にして最高の倒錯であります。

             また、昨日記した通り、聖書の基準では、SMは「性の邪道」と考えられますので、「春琴抄」が描く二人の「プラトニックSM」は、究極的な逸脱美、倒錯美であろうと思うのです。

             
             というわけで、SMの精神化は、ある意味、「春琴抄」のように、昔から文学や芸術の世界ではあったのです。(正確に言えば、SMとは、本来は精神性であって、それが性行為に現れたというのが、正しいのでしょう)。それが今やアイドルの発言にあるように、大衆文化にまで、降りてきたということのようです。

             性的な概念を持つ言葉が、抽象化、精神化される時に、その生々しく具体的なイメージとそれに伴う生理的嫌悪感は取り除かれ、大衆が受け入れやすいものへと変質します。一旦、その概念が大衆に受け入れられ、社会的認知を得るなら、今度は、本来の生々しい具体的な性のあり方が、社会的に受容されていくのだと私は考えています。つまり、こういうことが起こっていると思うのです。

             性的言語の抽象化→具体的イメージと嫌悪感の消失→大衆による受容→本来の具体的な性のあり方に対する社会的認知
             

            口にするのも汚らわしい」と本ブログが、読者に言われてはならないので、SMの話題はこれで終わりとしましょう。そもそも、SMを論じたいわけではありません。それを通じて、近年の日本社会における性について一般的な傾向を考えたかったのです。

             現代はそのようにして、昭和には、倒錯とされた性のあり方が、社会的に受容され、それに対して聖書を基準に是非を言おうものなら、「人権侵害」、「人格否定」、「少数者差別」と社会的非難を受けかねない時代となっているようです。性については、倫理や医学での是非、正常・異常の尺度自体が無効となりつつあるように感じています。聖書を基準に是非を発信すると同時に、多様な性に生きる人々を愛し、その人格を尊重することの両立を、いよいよ日本の教会も求められる段階に移りつつあるのかもしれません。
            | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 16:12 | - | - | - |
            クリスチャン女子が経験する「い〜じゃないの〜?」「ダメよ〜、ダメ、ダメ」(補足編)
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               シリーズの中心的な内容は終わりにして、いくつか補足をしておきます。それは、「い〜じゃないの〜?」に対して「ダメよ〜、ダメ、ダメ」を貫けず、彼氏の性的要求に応答してしまいやすくなる要因です。

               このことを記す目的は三つです。まずは、クリスチャン女子自身が、神様から委ねられた自分の性と体の尊厳を守るため、次に、読者の皆様が周囲のクリスチャン女子を支え、助けるため、さらには指導的な立場、先輩たちの方が、表面的な行為に囚われ過ぎず、本当の問題を特定し、それを取扱い、克服に向うお手伝いをするためです。では、以下に四つの要因を記しておきます。

              (1)「結婚を想定しない安易な交際

               これは、言い換えれば、「恋愛のための恋愛」、「寂しさを解消するための恋愛」、「彼氏によって自己価値確認をする恋愛」、「自分の愛情欲求を満たすための恋愛」です。決して、何年か後の結婚を考えないで始めてしまう交際です。

               クリスチャン女性がそのような思いで交際をするなら、未信者男性にとっては、「セックスをしても、結婚を要求してこない都合のいい女」となってしまいます。事後責任がないので、性関係さえ結べば、後は飽きたり面倒臭くなれば、別れればよいのです。ですから、結婚を前提としない交際の場合は、クリスチャン女子が、彼氏の要求に応えた末に、ほとんどが、半年から一年で別れてしまうのです。

               逆に、結婚を想定した真剣交際となると男性側はそうは行きません。責任もって、交際をします。結婚してからも相手の信仰を尊重しなくてはなりませんから、結婚前から、クリスチャン女子の信仰を尊重する傾向は強くなるでしょう。もし、嫌がる彼女に強く要求しすぎて、信頼関係を壊すなら、結婚予定自体が、壊れかねないので、クリスチャン女子の信仰や意向を一定、尊重するようになります。さらには、結婚して共に生きようとしているのなら、本当に彼女が嫌がることを、そうそう強く強制することはできません。「結婚まで待つ」という価値観にも男性は、同意しやすいでしょう。

               個人的に見聞きしたり、相談に乗ってきたケースでも、クリスチャン女子が不本意にも過ちに至ってしまうのは、圧倒的に結婚を前提としない交際の場合が多かったです。その意味で、結婚を前提としないで未信者男性と交際することは、一般的にクリスチャン女性が思っているよりリスクが高いことはお知らせしておきたいです。


              (2)「父性愛の欠損
               思春期以前に父親からの愛を実感してきたか否か、また、父親から深く傷つけられたかどうか?は、女性の恋愛行動にとって、かなり決定的な影響を与えます。クリスチャン女子が、性非行に走ったり、性的罪を繰り返す場合は、このことが原因となっているケースが多いです。

               父親の娘への無関心、母へのDV家庭放棄家庭破壊行為、愛情が感じられぬ極度の厳格さなどによって、父親から愛情実感を得ずにあるいはひどく傷を受けたままで、大人となり、潜在的に父に対する憎しみや怒りを持ったままでいると、父と同じ本質の男性に魅力を感じて、わざわざ不幸な恋愛をしてしまいます。これはよく「家庭内ストックホルム・シンドローム」と呼ばれる仮説で説明されます。

               同じく、父親から愛情を受けられず、「してもらたかったのにしてもらえなかった」状態のままで、大人になると、時に、父親にしてもらえなかったことを取り返すために、父と似た性格の男性に好意を持ち、相手に父親の機能を求めてしまいます。こちらは「思い残し症候群」などと呼ばれる仮説です。当然、相手男性はその機能を果たせないので、不幸な恋愛で終わります。結婚してしまうともっと悲惨です。

               根底に幼児から続く根深い愛情飢餓があるので、性的関係を求められると、相手男性の愛を逃すことを、強く恐れるのです。そうなれば、どうしても、性的誘惑が信仰的判断を勝ってしまいやすくなります。「真面目で忠実なクリスチャンなのにどうして?」というケースの多くは成育歴の中で受けた傷や生じた欠損に原因があるように観察しています。

               そのことは、以前、何回かにわたって記しましたので、未読の方、復習される方は、こちらをどうぞ。

              恋愛・結婚より先に、親子関係の清算かもよ?(1)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3380

              恋愛・結婚より先に、親子関係の清算かもよ?(2)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3381

              恋愛・結婚より先に、親子関係の清算かもよ?(3)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3382

              恋愛・結婚より先に、親子関係の清算かもよ?(4)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3383

              恋愛・結婚より先に、親子関係の清算かもよ?(5)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3384

              リベンジ婚、しない、させない、したらフォロー(1)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3392

              リベンジ婚、しない、させない、したらフォロー(2)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3400

              リベンジ婚、しない、させない、したらフォロー(3)
              http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3401


              (3)「重大な性犯罪被害」
               
              不幸にも性犯罪の被害者となった場合、自尊感情を失って、自分を大切にできなくなりがちです。人によっては、性的に自暴自棄となります。あるいは、自分を汚れていると感じ、自傷行為のように自らをもっと汚そうとして性的罪を繰り返すことがあります。

               当人なりに真実に悔い改めるのですが、第三者の支援を受けないと、悔い改めの実を結ぶのは困難で、同様の罪を繰り返し、悔い改めても変わらぬ自分を見せつけられて、当人の信仰自体、神様への信頼自体が衰えてしまいます。そのために、罪に対しての抵抗感を失い、悪循環に落ちてしまうことがあります。


              (4)「一部の精神疾患

               ある種の精神疾患を患っていると、症状として、性的に自制心が弱くなったり、性的欲求が通常になく強くなってしまうことが知られています。行為自体は罪ですから、愛をもって罪を示し、悔い改めに導き、回復を支援するべきでしょう。しかし、その一方で、それが病気の症状であることも理解した上で、愛をもって対処していく必要があると私は考えています。方向性としては、医療とも連携して、そうした症状を有する病を持ちながら、どう性的に聖く歩むかを具体的に支援・指導することかと思います。

               この四つのうちで、(2)〜(4)は、ある意味で例外的なケースと言えるでしょう。起こった性的罪という行為にだけ目をとめてしまってはならないでしょう。悔い改めに導くとともに、背後にある本当の問題を特定する必要があります。性的罪という行為はその本当の問題の現われに過ぎません。行為の背後にある問題を扱わなくては、同様の行為を繰り返す心理的傾向が継続してしまいます。

               逆に言えば、その問題を取り扱わないと、当人としては真実に悔い改めても、同様の行為を繰り返してしまい、自分にも、信仰にも、神様にも失望して悪循環に陥りかねないのです。男性からの性的要求に繰り返し何度も応えてしまい「何度悔い改めても同じ」となっているクリスチャン女子や、「彼女は真実に悔い改めているのにどうして?」と思える支援者・指導者の方々には、上の例外的ケースについて記述がお役に立てば感謝なことです。


               このことは、「牧会相談の実際」という書物にも簡単に記し、推薦図書をあげているのでご参照ください。また、同著についての本ブログの記事を紹介しておきます。何かの助けになればと願います。

              個人的に?待望の「牧会相談の実際」が出版!!

              「牧会相談の実際」を今、読める神学生、若手牧師は幸いである!

               
               長く続きましたこのシリーズもこの補足編をもって終わります。このシリーズがクリスチャン女子が「い〜じゃないの〜?」を事前回避するための、また、回避できない場合に「ダメよ〜、ダメ、ダメ」を貫き通すための一助になればと願って止みません。
              | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 20:43 | - | - | - |
              クリスチャン女子が経験する「い〜じゃないの〜?」「ダメよ〜、ダメ、ダメ」(下)
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                 とりあえず、今回で最終回としましょう。次回に少し補足するかもしれません。クリスチャン女子が経験する「い〜じゃないの〜?」「ダメよ〜、ダメ、ダメ」。これについては、できれば、この「修羅場」を避けられたらと願うのです。


                 今や18歳以上(あるいは高校生以降)なら、男女交際をしたら、最終的には性関係を結ぶのが、一般常識となっています。ですから、とりわけノンクリスチャン男性は、性関係というゴールを目指して、交際をしていくという面があるのは否めません。どんな真面目な男性でもクリスチャン男性でも、大抵は意識下には、そうした面があるものです。

                 まず、中高生女子をはじめ、10代の女性には、そこから知って欲しいです。女子校育ちのクリスチャンには、まず、それが信じられなかったり、知って男性不信になったりする方も珍しくありません。女性にとってはがっかりでしょうが、これは決して男性の罪深さを意味するだけではなく、命をつなぐために神様が与えられた本能、恵みとも受け取るべきでしょう。

                 そして、性関係を持っても、結婚しない選択がOKなのも標準です。今から30年ほど前は、結婚適齢期の女性と性関係に至った男性が結婚をしない選択をすると、「下衆の極み」のような評価を受けました。まさに適齢期の男女の性関係は「契り」を意味し、結婚しないことは、契約違反のような規範・道徳が日本社会にはありました。

                 それを一転させたのが、「男女7人夏物語」だと言われています。このドラマでの共演がきっかけとなり、明石家さんまさんと大竹しのぶさんが結婚したことでも知られています。「男女7人夏物語」1986年に放送され、視聴率が30%を超える人気番組で、社会現象化しました。つまり、このドラマが描いた恋愛パターンが、その後の日本の若者の恋愛モデルとなっていきました。「性関係に至っても、結婚しなくてよい、自由だ」との恋愛観が日本に普及してゆきました。

                 ですから、2014年現在において、世間一般の常識はこうです。

                「交際をしたら、最終的に性関係を持つのが常識
                「むしろ、ないのが不自然・異常
                「性関係を持っても結婚する必要は全くない」
                「セックスと結婚は基本、別


                 クリスチャン女性は未信者の彼氏が、こうした常識をもって、交際を始めているという認識は持っていただいたきものです。そして、クリスチャン女子が持つ聖書的価値観は、まさに一般社会からすれば「非常識」です。彼氏にしてみれば、交際を続けてきて、いよいよという時に初めて、彼女からその「非常識」を聞かされたのでは、たまったものではありません。

                 一定の交際期間を経て「い〜じゃないか〜?」を発した時、初めて「ダメよ、ダメ、ダメ、クリスチャンだから」と言われても納得がいきません。きっと、男性からしてみれば、詐欺被害にあったような気分になるのでしょう。「今頃、言うなよ!」「なぜ、最初に言っておかないんだ」、「分かっていたら、最初から付きあわない」などと言われ、中には、「将来、オレは絶対にクリスチャンにならない」と不信仰告白をする男性もいるそうです。また、これに応答して、彼の救いのために体を差し出すクリスチャン女子もいます。もちろん彼は、クリスチャンになりません。

                 クリスチャン女子が、未信者からは、独善的な態度と見えることについて、私はよくこうアドバイスします。

                 「それは、彼からしてみたらダメダメ詐欺だよなー。」と

                 彼氏が、クリスチャン女子を不当だ、不誠実だと訴える気持ちも分からんではありません。一般的な社会常識からすれば、彼の怒りはごもっともでありまして、修羅場が展開するのも必然なのです。


                 これを防ぐには、やはり、「い〜じゃないの〜?」を言われる先に「ダメよ〜、ダメ、ダメ」を通達しておくことでです。つまり、交際スタートの前に、交際の初期の段階で、「自分はクリスチャンだから性的な行為はできない」と彼に伝えることです。交際開始を際して、クリスチャンの親に紹介して、そのようなご指導を、親が彼氏にしてくれるという家庭もあります。

                 これで必ずしも「い〜じゃないの〜?」が避けられるとは限りません。しかし、そのリスクを低下させることはできます。最終的に体を求められても、「約束したはずでしょ」で、断わりやすいです。クリスチャン女子の方に不誠実さはなく、男性の方が契約違反なのですから、強気で断ることもでき、過ちに至る可能性はかなり減少するようです。

                 言うのは簡単ですし、理屈ではこれで修羅場や罪が避けられるのは、頭では理解できます。でも、これができるクリスチャン女子と、できそうにないクリスチャン女子が出てきます。

                 たとえば、自分から好きになって告白しておいて、こんな条件を相手に提示できるでしょうか?

                 これを通達して「じゃあ、オレ付きあうのやめるわ」と言われるのを恐れてしまいます。

                 彼氏に嫌がられる、嫌われる、彼氏が気分を害するなど、クリスチャン女子が言いだせず交際を続けてしまいます。


                 性関係という最終目標を目指して交際を続けていく彼と、交際の過程自体を喜びとして交際を続けるクリスチャン女子。いつまでも、この交際がいつまでも順調に続くわけがありません。両者の違いはやがて「い〜じゃないの〜?」「ダメよ〜、ダメ、ダメ」の修羅場となって現れてしまいます。つまり最初から掛け違ったままで、交際をスタートしているのです。

                 
                 なかなか厳しいアドバイスとは思いますが、私としては、後になって悲しい形で交際が終わり、交際が傷となってしまうよりは、最初の段階で、別れたり、交際をしない選択をする傷の方が浅いように思うのです。交際を継続して最終的に惚れた弱みから過ちを犯してしまうよりは、初期段階で交際をやめて寂しい思いをする方が、当人にも神様にもベターではないでしょうか?

                 初期段階でのより小さな傷を覚悟することで、最終段階でのより大きな傷を避けられるのです。交際初期に、寂しさや喪失感を恐れなければ、最終段階で過ちを犯すことはなくなります。


                 クリスチャン女子が未信者男性と交際する場合は、その分岐点は、実は、交際スタート直前や交際初期の姿勢にあると言えるでしょう。その分岐点で、信仰的姿勢を表明することを避けてしまうと、交際は続くでしょうが、やがて、決定的な場面を迎えます。それは、より危険な分岐点で、つらい別れや過ちのいずれかになりやすいものです。

                 最終段階まできて未信者男性が、クリスチャン女子の信仰を尊重するケースは、私が聞いてきた限りでは、かなり少ないのが現実のようです。逆に初期段階であれば、彼氏が了解してくれるケースが多いように聞いています。特に彼氏の方が、クリスチャン女子に好意をもって告白してきた場合はそうです。

                 ですから、クリスチャン女子の皆さん!未信者男性と交際をされるなら、「勝負所」を早めに置くことです。気持ちは分かりますが、くれぐれも勝負を避けて、交際を続けないことをお勧めします。

                 
                 今回のアドバイスが、「い〜じゃないの〜?」「ダメよ〜、ダメ、ダメ」の修羅場を避けて、辛すぎる別れや重大な過ちを経験することなく、クリスチャン女子たちが、祝福の結婚に向かって歩んでゆける役に立てればうれしいです。
                | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 22:50 | - | - | - |
                クリスチャン女子の経験する「いいじゃ〜ないの〜?」「ダメよ、ダメ、ダメ」(番外編)
                0
                   思わず、笑ってしまいました!このシリーズの(上)がアップされた数時間後に、日本エレキテル連合会のツイッターで取り上げられていることが判明しました。きっと、検索して上位にでたのでしょう。でも、リンク先が間違っていて、開けないのが残念。あまりに宗教色が強いので、意図的にそうしたのかな?などと考えています。もしかしたら、マネージャーでなくて、あの二人が、本ブログの記事を読んでいるかもしれないと思うと、うれしいやら、恐ろしいやらです。

                  ツイッターはこちらです。また、yahoo検索の「リアルタイム」で「命と性の日記」を検索すると出てきますよ。

                  〈追記と訂正〉
                   どうも、yahoo検索で出てくるのは、偽物のアドレスらしいです。こちらが本物とのこと。当人が記事を読んだ可能性はゼロのようで、残念。
                  https://twitter.com/elekitel_denki


                   さて、上中下の三回で完結の予定でしたが、最終回である下の前に、番外編を急遽いれてしまいました。実は、本日、大学教員である読者よりFBの方で、大変優れたコメントをいただいて、それにインスパイアされたのです。そのコメントを以下に紹介いたします。(太字は私の編集)


                   大学の教員として、青年がどうセックスを要求するのか、という観点からも興味深かったです。ここに書かれているような「殺し文句」は、信仰、純潔うんぬん以前に、情愛をおとりにした脅しに他ならないように思いました。愛していると言っている相手に対してさえ(否、対してこそ?)のこの敬意のなさに、一方で青年らしい情念と、他方でそれにしてもちゃんと相手と向き合えない、対話できない人間関係の未熟を感じます。そうした中で、純潔に生きようとすることは、自らの愛の訓練であるとともに、関わる人たちの愛を問うことでもあるのではないか、と考えた次第です。


                   このコメントは、個人的には大絶賛です。多くのことに気づきと思索のヒントをいただきました。このコメントが示している深い課題は、いつか別のシリーズで取り扱いたいと願っていますが、今回は一つだけ取り上げて「番外編」を記します。それは、このコメントの「情愛をおとりにした脅し」というフレーズです。

                   この表現は、青年たちの
                  「いいじゃ〜ないの〜?」「ダメよ、ダメ、ダメ」の本質を見事なまでに表現しています。つまり、これは私なりに言い換えるなら、「恋愛を人質にした誘拐犯罪」であります。どうでしょう。クリスチャン女子が経験する「いいじゃ〜ないの〜?」「ダメよ、ダメ、ダメ」は、誘拐犯罪に類似していると思いませんか?


                   誘拐犯罪と言えば、犯人が電話で「子どもはあずかった、助けて欲しければ、身代金を渡せ」というのが常套句。子どもを誘拐し、その人質と引き換えに、金銭を要求するのが、誘拐という犯罪行為です。

                   今回扱っている件も、人質をとっています。それから恋愛関係です。そして、要求はクリスチャン女性の肉体と性です。つまり犯人は、こう告げているのです。

                  「俺とお前の恋愛関係を人質にとった。こいつを殺したくなければ、身代金として体を差し出せ


                   異性理解の乏しいクリスチャン女子は、こうした犯罪的要求を、「愛の招き」と痛い勘違いをして、「彼氏の愛に応えなくては」と思ってしまいます。あるいは、「彼を失いたくない」「答えずに嫌われたくない」と人質を殺されたくないので、体を差し出すことを考えてしまいます。

                   ここでよく考えてみましょう。起こっていることは、極めて犯罪的な行為です。誘拐犯罪との対比で考えるとこういうことでしょう。前者が誘拐犯罪で後者が本件です。


                   人質=「子ども」と「恋愛関係

                   交換条件=「子どもの命の保障」と「恋愛の延命

                   被害者が恐れること=「子どもの死」と「恋愛関係の死

                   交換対象=「身代金の提供」と「体と性の提供

                   犯罪加害者=「誘拐犯」と「彼氏

                   犯罪被害者=「人質の親」と「クリスチャン女子

                   
                   さらにこのことも言えると思います。

                   犯罪報告先=「警察機関」と「神様・教会

                   犯罪抑止力=「警察権力」と「信仰、祈り、学び


                   日本社会ではまず、誘拐犯は成功しません。日本は法治国家で警察が真面目で優秀ですから。犯人に「警察に連絡したら、子どもの命はないと思え」と脅されても、ほとんどの被害者は警察に連絡します。現金引き渡し現場には、そうとはわからぬよう警察が張り込んでおり、犯人は拘束され、犯罪は罰せられ、子どもの命は助かるのです。

                   このことは、クリスチャン女子が被害者となる「体と性の誘拐事件」も同様です。犯罪被害にあったら、すぐに、神様に連絡をしましょう。被害を訴えるのです。交換条件に応じたいとの迷いが生じたら、教会に連絡です。指導者や成熟した信仰の先輩や友に相談しましょう。犯人の要求が不当であること、そして、人質との交換に応じないように、人質を失うことを恐れないようにと愛の説得をされることでしょう。

                   また、クリスチャン女子自身に交換条件を拒否できるまでの信仰的な確信があるか?神様の喜ばれる恋愛を祈り願ってきたか?聖書から恋愛や性を学んできたか?が問われます。それが、犯罪被害者とならないための大きな分岐点になるのです。

                   ここで、残念な結果となり、大きな後悔をするクリスチャン女子の特徴は、ここで、神様も教会にも背を向けて、自分で決めてしまうことです。恋愛の世界への神様や福音の光の介入を拒否するのです。神様もそのみ言葉も排除して、彼氏と二人きりの世界に歩んでしまうことです。

                   犯罪行為の成立後はどうなるでしょう?人質の命はその時は、助かりますが、ほとんどの場合、半年から一年の命です。来年には人質は死んでいます。クリスチャン女子は次の年には、元カノに降格です。どうか、知って下さい。「どうせ、結婚するからいいや」と交換条件に応じながら、結婚に至らないケースも山ほどあるのです。

                   ですから、クリスチャン女子の皆さん!人質の半年や一年の延命のために、神様から授かった体と性を差し出すような「愚かな女」にならないでください!聖霊の宮である体で男をつなぎとめるさもしい女」にならないで欲しいのです。


                   ここまでは、両者の類似点を記してきましたが、ここからは二つの相違点をお伝えします。両者には、決定的な違いが二つあるのです。 

                   まずは、一つ目です。子どもの誘拐なら「どうぞ、好きにして下さい。殺してもらって結構、お金は払いませんから」で電話ガッチャンができません。子どもの命は、お金に代えられない価値があるからです。この交換条件を親は飲まざるを得ないのです。事実上、選択の余地はないのです。

                   しかし、恋愛の場合は選択肢が他にあるのです。犯人からの犯行声明電話に「どうぞ、別れてもらって結構、体は差し出しませんから。」電話ガッチャンができるのです。犯罪被害者となったクリスチャン女子は、自分の意志で犯罪被害を免れることがかのうなのです。

                   よく考えてみましょう。神様が授けた性と体の尊厳は、犯罪的方法で欲望を満たそうとする男性との恋愛関係よりも、はるかに価値があるはずです。決して、交換すべきものではありません。どう考えても、提案されて応答するような交換条件ではないでしょう。つまり数式で言えば、この違いです。

                   わが子の命>全財産

                   犯罪的方法で体を求める男との愛<神様から授けられた体と性

                   これが、決定的な違いです。通常の誘拐犯罪は成立するだけの必然性がありますが、恋愛界の誘拐犯罪は、冷静かつ信仰的にに考えれば、犯罪として成立するには、どう考えても無理があるのです。

                   
                   二つ目の違いは警察と神様との違いです。クリスチャン女子の皆さん、決して忘れてはなりません。神様は遍在される方です。あなたが現金引き渡し場所に行き、人質と交換をするなら、その引き渡し場所にも、神様はご臨在なのです。神様は警察のように犯人を拘束し、強制的に犯罪行為をやめさせることはしません。そこにご臨在される神様は、あなたが自分の意志で犯罪被害者となったその犯罪成立を見ながら、深い悲しみの故に涙を流されるでしょう。

                   聖霊の宮であるを、神の栄光を現す結婚のために与えたを、愛とは異なる一時の欲望と交換してしまっているその現場で、神様は、どんなに深く悲しく涙されることでしょう。


                   この神様のお悲しみを自らの悲しみとして、歩みたいものです。自らの意志で被害者、あるいは加害者となった方は、真実な悔い改めをと願います。それは、罰でも責めでもなく、神様が愛の故に備えられた恵みの回復への道程ですから。また、教会に集う若い男女が、こうした犯罪行為の被害者にも加害者にもならないために、教え、導き、祈り、守るべき責任が、大人の世代にはあることを自覚し、それを実行する教会でありたいと切に願います。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 18:49 | - | - | - |
                  クリスチャン女子が経験する「い〜じゃないの〜?」「ダメよ〜、ダメ、ダメ」(中)
                  0
                     今日は、クリスチャン女子が現場で経験する「い〜じゃないの〜?」と「ダメよ〜、ダメ、ダメ」の両者の典型例有効な回答をいくつかご紹介し、その上で少しアドバイスができればと願っています。をしたいと思います。


                     クリスチャン女子に体を求める男性たちは、あの手この手で「い〜じゃないの〜?」を仕掛けてきます。「壁どん」をされて、身動きが取れない状態で、「い〜じゃないの〜?」と迫られるパターンもあるとかないとか。夜のドライブでドアロックをして、運転席から「い〜じゃないの〜?」と囁いてきたり。いろんな現場があるものです。

                     クリスチャン女子からの証言によれば、以下が、「い〜じゃないの〜?」フレーズの典型らしいです。

                     「愛しあっているなら、体で確かめ合うのは当然だろ?」

                     「俺に身を任せないってことは、俺を信頼していないんだろ?」

                     「俺は、お前の信仰を大切にして、いろいろ譲ってきた、今度はお前が俺に譲るべきだろう?」

                     
                       「最初に言わないで、今になって嫌というのは、騙してきたってことだぞ。そんなの世間では通用しない」

                     「教会に行ったり行かなかったりなのに、このことだけはクリスチャンらしいことが言えるんだなー」

                     「聖書のどこにそんなこと書いてあるんだ?分かるように説明してくれよ」

                     「応じないなら、別れるよ。他の彼女作ることにするよ」


                     男子諸君は、「ただ、やりたいだけ」なのに、様々な理論を展開するのであります。一般常識論、契約論から、信仰論や神学論まで持ち出して説得にかかりますが、本質は単なる「やらせろ・やらせない議論」であります。

                     特徴としては、要求に応えない女性側の不当性や、信仰の未熟さをついてくるものが多いようです。つまり、自分の要求の正当性を主張するより相手女性のマイナスをついてくるのです。確かに信仰の土俵でなければ、男性側の主張にも一定の正当性があるわけです。

                     そうなると、信仰的に未熟であったり、内側に確信のないクリスチャン女子は、「自分が悪い、自分の側に非がある→要求に応じるのが正しい」と本気で考えてしまうことがあるようです。ましてや、寂しがりやで、彼に嫌われたくない、彼氏を失いたくないとの思いが強い「依存的」で「恋愛体質」のクリスチャン女子となれば、いよいよ危ないわけです。


                     一方、クリスチャン女子が発する「ダメよ〜、ダメ、ダメ」はこんなフレーズでしょうか。前半が典型例で後半が学習したクリスチャン女子ならではの回答です。

                     「聖書にそう書いてあるから」

                     「神様が悲しまれることはできません」

                     「私のことが本当に大切なら、結婚まで待ってください」

                     「教会でそれが最高と教えられて、その通りだと思っているから」

                     「10代でセックスすると、半年以内に80%が別れると聞いているから。長く付きあいたいから」

                     「クリスチャンの母と約束をしているから、破りたくない」

                     「あなたと結婚するとは限らない、将来、別の男性と結婚する時に後悔したくないから」

                     「将来、夫となる男性に対して、申し訳ないから」

                     「万が一、命を授かったら、今は二人で育てることができないから、無責任なことはできない」

                     「性的自由は法律で保障されているもの。嫌だと言えば、誰もそれを侵害する権利はないの」 


                      言葉はいろいろあるでしょう。以前、中高生キャンプでこのテーマの話をした時に、未信者の彼氏がいる高校生女子が真剣に悩んでいたと女性スタッフから聞きました。「どうしよう!断りたいし、断るのが絶対正しいと信じているけど、断る言葉がない!自分の言葉でどう言ったらいいかが分からない。」

                     これは、本気で現場を想定したからこそ、出てくる葛藤だと思います。大切なことは、「ダメよ〜、ダメ、ダメ」フレーズが借り物でなく、自分の言葉になっていることです。言葉が信仰的確信と結びついていることです。また、これが不自由なルールや決まりではなくて、産む性である女性を傷から守り、幸いな結婚に導くための神の愛ゆえの言葉として受け止めていることです。

                     聖書から結婚まで待つことを学ぶこと、それが最善であることを理解し、納得するところまでいったとしたら、大変な感謝です。でも、そこまでは、「理論編」なのです。後は実践です。「い〜じゃないの〜?」が来た時に、きっばりとした態度で、はっきりと相手に伝えるべき自分の言葉を用意しておきたいものです。真面目な男性であれば、思いとどまってくれるような言葉を、先に考えておきましょう。

                     あとは、「ダメよ、ダメ、ダメ」のような可能性を感じさせるフレーズではなく、はっきりと嫌であることを伝えることが大切でしょう。できれば、それで納得しなければ、自分の方から、離れたり別れたりするくらいの覚悟をもってくれたらと願うのです。


                     恋愛中のクリスチャン女子の皆さん。あなたの彼氏はあなたのために死んでくれるかどうか?不明です。たとえ、死んでくれるとしても、その愛は、来年はどうでしょう?再来年は?5年後10年後も変わらないでしょうか?もしかしたら、今の彼氏は別の女性と付きあっているのでは?そして、あなたは今カノから元カノになっているのかも。

                     でも、イエス様はあなたのために死なれました。その命がけの愛は実証済みです。そして、その愛は、来年、再来年、5年後、10年後、どころか永遠に変わることがありません。

                     彼氏の愛も尊いものでしょうが、残念ながら、人間の愛は不完全で限界があります。神様の愛だけが完全で永遠。この変わることのない真実な愛を、最優先として、恋愛の世界を歩んでくれたらと願っています。


                     明日は、「い〜じゃないの〜?」と「ダメよ〜、ダメ、ダメ」自体を避けることを考えます。
                    | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 21:43 | - | - | - |
                    韓国で初の同性愛者パレードと保守系キリスト教団体?の妨害行為
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                       四日前に教えていただいた記事ですが、他の記事を優先したため、本日のアップとなりました。どうも韓国で初の「クィア・パレード」が行われ、ある保守系キリスト教団体が、実力行使で妨害をしたとのこと。「クィア」とは同性愛者を意味する言葉で、このパレードは同性愛者の人権を訴えるもののようです。

                      「神様の名で同性愛嫌悪暴力騒動」
                      http://www.labornetjp.org/worldnews/korea/knews/00_2014/1402186858428Staff

                       生々しい多くの写真と詳細な記事は、この出来事をリアルに伝えています。この記事によれば、騒動の中、パレードの側が妨害するキリスト団体に向かって「君は愛されるために生まれてきた」を歌ったとのこと。私個人の感想としては、「クリスチャンの側が君愛歌われてどうすんの?」であります。

                       保守的なキリスト教会の一員として同性愛に反対するのは、正当なことでしょうが、問題はその方法です。デモという正当な権利を妨害し、しかも妨害が暴力によるのですから、それは違うでしょうと思うのです。抗議方法が不当で暴力的だから、「君愛」を歌われて非暴力の逆抗議をされてしまうのです。記事にもあるように、一般的なクリスチャンたちはこの妨害行為を、不適切と判断し、悲しんでいることでしょう。

                       同性愛に反対することは、同性愛者の人権を否定することでありません。「同性愛→ソドムとゴモラ→神に憎まれている→滅ぼされるべき存在」との短絡的な評価が一部のキリスト教会には、いまだににあるようで、残念です。多くの国での教会側の抗議行動は、この記事によれば、抗議のプラカードを掲げて静かに立っているなどが標準のようです。これなどは、成熟したクリスチャンの抗議方法かと思います。

                       たとえば、近い将来、日本で同性婚法制化の可能性が高まり、こうしたデモやパレードが行われることがあるとしたら、日本の保守派の教会は、抗議活動をするのでしょうか?団体として抗議文を公に発表するのでしょうか?正直、まだリアリティーはないですが、隣国の出来事に触れる中で、意外と近い将来に問われることかも知れないと感じています。
                       
                      | ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 18:20 | - | - | - |
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