命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
人権週間に際して〜クリスマス気分に飢餓と戦火を突きつける聖飢魔兇痢岼魔のメリークリスマス」
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     本日で人権週間も最終日です。本日ご紹介しますのは、聖飢魔兇痢岼魔のメリークリスマス」。この曲、「お前もクリスマスツリーにしてやろうか?」とのホラー路線ではありません。また、クリスマスやキリストを冒涜する内容でもないのです。「おっ、意外と聖書的じゃん」という歌詞なのです。この曲には「青春編」と「完結編」というふたつバージョンがあるのですが、今回は「完結編」の方を紹介します。

    悪魔による歌詞はこちら。悪魔の視点から見た日本のクリスマスを描いています。
    http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B14138

     youtubeでは、実際の演奏と歌唱も見ることができます。詞の内容に合わせて、悪魔的演技は控えめで、持ち前の歌唱力を発揮してメッセージソングとして歌っているように思います。個人的にはクリスチャンが見ても大丈夫と思うのですが、一応、自称悪魔が悪魔の視点で歌っているので、断っておきましょう。「視聴は自己責任」でということでお願いします。

    youtube 「悪魔のメリークリスマス」(完結編)
    https://www.youtube.com/watch?v=J6aDETu51b0

     
     この楽曲は、悪魔の視点から日本のクリスマスを論じた見事な社会批評、文明批判だと思います。作詞はデーモン小暮閣下のようですが、さすがです。「自称悪魔」というフォーマットを最大限に活かしています。宗教的にはヘビメタ版「悪魔の手紙・クリスマス篇」のようにも受け取れます。

     この曲は二つの現象を描いています。一つはクリスマスの本質を失っている日本の様です。「聖夜」が「性夜」に変えられ、「イブの夜は高級レストランと高級ホテル」というあり方を歌っています(youtubeでは、テレビ出演のためこの部分の歌詞はカットされているようです)。その一方で、蠅を追い払う力もなく弱り命を終えていく飢えた子どもたち、民族紛争や内戦、戦争などで死んでいく人々を示しています。そうです。キリストの生誕を祝うことなどなど関係なく性と快楽を楽しむ日本のクリスマスと飢餓と戦火に苦しんで過ごすクリスマスを対照的に描いているのです。

     神もキリストもそっちのけで、飢餓と戦火の中で死にゆく子どもたちのことを覚えることもなく、そのために祈ることも寄付をすることもなく、自分の性欲の充足のためにクリスマスを利用する姿。ここまで、クリスマスから宗教性と精神性を奪いとり、自己目的のために利用している日本のクリスマスを悪魔の視点から、描いているわけです。


     そして、結論は、"Just make love & die"という呪いの言葉です。下品な表現で恐縮ですが、悪魔的には「やるだけやって死んでいけ」となるでしょうか。日本におけるクリスマスの過ごし方はまさに「生殖行為を繰り返して死んでいくだけの人生」を表現しています。「罪の喜びにふけりながら滅んでいく」のはまさに呪われた姿そのものです。

     こうした日本的なクリスマスのありようは、まさに「悪魔の思う壺」です。キリストも隣人愛もない自己目的達成手段とされたクリスマスを見た悪魔がその愚かさを侮蔑しながらも、大喜びをして、呪っているのです。きっと、閣下は、悪魔の視点から神の愛も拒否し、隣人愛にも生きようとしない日本のクリスマスを描き、社会批評と文化を批判をしているのでしょう。


     この日本社会にあって、クリスチャンがすべきことは何でしょう?

     「罪の喜びにふけりながら滅びに向かう人たちに本物のクリスマスを!」
     
     「だから、クリスマスに向けて伝道しましょう!」

     「友人知人をクリスマス集会に誘いましょう」

     今日は人権週間最終日ですので、そうしたアピールはしません。「クリスマスこそ伝道」は大正解でしょうが、神様のみこころは、果たして、それだけでしょうか?クリスチャン自身が、神様の前に喜ばれるアドベントの過ごし方をしながら、クリスマスを待ち望む者としてふさわしく隣人愛に生きるているかが問われるはずです。

     ピリピ1章1−11節は、クリスマスにおけるキリストの姿勢を、自己中心を離れて、他者を省みて仕える隣人愛の模範として示しています。キリストがご自身を無にされ、私たちに仕えられたその模範にならって、クリスチャンである者は隣人に仕えるようにと聖書は勧めています。伝道と集会勧誘が唯一の他者へのアプローチというわけではないでしょう。


     ですから、クリスマス前の人権週間最終日のこの時、アピールさせていただきます。

     「蠅を追い払う余力なく飢えて死んでいく子どもたちのために祈りましょう。」
     
     「内戦に苦しむ人々、難民となっている人々のために祈りましょう。」

     「基本的人権を侵害されている人々のことを覚えて祈りましょう。」

     「とりわけ生存権さえ保証されていない人々のために祈りましょう。」

     「悲惨な差別と抑圧の中にある人々のために祈りましょう。」

     「重荷と導きがあるのなら、クリスマスの時こそ、そうした方々の支援のために大胆にささげましょう。」

     「遠い国のことだけでなく、地域や家庭の中で、あなたの助けを必要としているいつも顔を合わせている身近な隣人に仕えましょう。」


     C.S.ルイスの「悪魔の手紙」がそうであるように、クリスチャンにとって、聖飢魔兇痢悪魔のメリークリスマス」は、悪魔の視点を通して逆説的にクリスマスの本質とそれに歩む道を示している楽曲として受け止めることもできるでしょう。人権週間の最終日は、皮肉にも悪魔に「正しいクリスマスの迎え方」を教えられた記事となりました。


     類似の趣旨を持った曲として、2008年にバンドエイドの"Do they know it's Chritmas?"を扱った記事を紹介しておきます。

    ロックスターに勝る道?
    | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 11:59 | - | - | - |
    人権週間に際して〜12月、千畝、難民、クリスマス
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       人権週間を迎えているちょうど今、杉原千畝さんを主人公にした映画が上映中です。公式サイトはこちら。

      映画『杉原千畝 スギハラチウネ』公式サイト

       6000人ものユダヤ難民を救った命のビザで知られる杉原さんは、クリスチャンです。ハリスト正教会の信徒のようですが、入信の経緯などは、wikipediaに記されています。

      wikipedia「杉原千畝」


       今年、日本に生きる者たちにとって、二つの人権問題が、今までになく、身近で切実なものと感じられたのではないでしょうか?一つは、同性愛などの性的少数者の問題です。そして、もう一つは、難民問題だっと言えるでしょう。この時代とこの状況の中、きっと、この作品は、もはや過去の偉人伝としてではなく、鑑賞者自身の問題、そして、現代社会の問題、さらには、今後の日本の問題として受け止められることでしょう。


       今日のタイトルは「12月、千畝、難民、クリスマス」です。12月上映の千畝難民のことは既に記しました。次はクリスマスです。実はしばらく前に、ある方が、難民と思われる子どもの写真に"Jesus was a political refugee."と書かれた募金アピールのツイッター記事を紹介しておられました。

       私もそれを見て、改めてイエス様が政治的な難民家族の一員であったことを覚えました。東の博士によるクリスマス礼拝の後に来るのは、マタイ2章16節以降に記されているベツレヘム男子嬰児大量虐殺事件です。博士から居場所を聞き出し「ユダヤ人の王」を抹殺しようと願っていたヘロデ王は、博士に騙されたと知り、ベツレヘムばかりかその近辺の二歳以下の男児を皆殺しにするという暴挙に及びます。ある牧師がこのことを癌を取り除くための広域切除手術に喩えているのを書物で読んだことがあります。

       自分から将来王位を奪いかねない嬰児の抹殺。それは宗教的というよりも、むしろ非常に政治的な動機に基づく出来事です。政治的権力闘争によくある「今のうちに潰しておこう」というパターンです。ヨセフは夢を通じて御使いから、そのことを伝えられ、エジプトへの避難を命じられます。ヘロデ王の権力による残虐行為からの避難は、"political refugee"に他なりません。


       ヨーロッパ諸国への難民について、多くのニュースでこうした趣旨を伝えていました。「難民になれる人は、一定経済力のある人たち、難民となるためのお金も払えない貧しい人たちが多くいることを忘れてはならない。」難民も不幸ですが、難民になりたくてもなれない人々はさらに不幸と言うべきでしょう。

       ヨセフの一家はどうだったのでしょう?当時は難民ビジネスも仲介業者もなかったでしょう。しかし、その日暮らしの貧しさでは、エジプトまでの旅費も厳しかったはずです。これは想像に過ぎませんが、その逃走費用は、元祖クリスマスで博士がささげた黄金だったのでは?との説もあるそうです。この想像が正しいとしたらどうでしょう?普通の赤子なら、「猫に小判」ならぬ「赤ん坊に黄金」です。しかし、幼子イエスにあっては「王に黄金」という最適、「難民家族に資金」という最善のクリスマスプレゼントであったわけです。そして、その高価なささげものは、難民となるしかない弱く貧しく小さな王の命を救ったのです。


       12月となり、人権週間を迎えました。その中で、杉原千畝の映画が上映されています。現在の難民問題との関連で映画を鑑賞する方も少なくないでしょう。同時に、嬰児であったイエス様が、政治権力による抹殺を逃れた政治的難民の子どもであったことも覚えたいのです。

       イエス様は神であられたのに、その地位を捨て、ご自分を無とされ、となり仕えらえれました。しかも、弱小民族の子、労働者階級の子、貧困家庭の子ども、非嫡出子中途母子家庭の子、難民家族の子として、お生まれになったのです。これは現代の難民となる方々、あるいは難民にもなれない貧困の中にいる被抑圧民族の子どもたちと酷似しているのではないでしょうか?まさに現代において「最も弱い者のひとりにしたのは、私にしたのです」の典型事例を見る思いがします。


      杉原千畝」「難民」「クリスマス

       この三つの言葉に意外な共通項のあることを思います。日本のクリスチャンたちは、どのような思いで杉原千畝の生涯を受け止め、いかに難民問題を考え、イエス様が政治的難民家族の子どもであったことの意味をどうとらえるべきなのでしょうか?「難民」という人権問題を突きつけられた今年のクリスマスについては、これまでとは異なる思いでの迎え方、従来とは別の意識での祝い方神様が導いておられるのかもしれません。
      | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 16:42 | - | - | - |
      人権週間に際して〜ローマ教会に見る違いを超えた一致
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         人権週間ということで、差別を克服しようと努め、一致を保っていた教会を聖書の中に見てゆこうと願います。それはローマ教会です。ある教会の信徒研修会で、教会の一致を学ぶ際に、理念以上にモデルを示し、一致の姿のイメージを共有していただければと願い、ローマ16章3−20節  から「聖書的一致、その具体的イメージ〜違いを超えた一致、確認されるべき一致、保たれるべき一致」と題して「違いを超えた一致」「確認すべき一致」「保つべき一致」の三つのポイントでメッセージをしました。

         今回はその中から、性別、民族、階級を超えて一致を保っていたローマ教会の姿をみ言葉に見てゆく箇所を抜粋します。それは、教会の外の当時の社会から見れば、「聖なる差別撤廃過激派共同体」であったでしょう。教会の外の社会で差別が克服されること、教会がその力となることは大切なのでしょうが、それに先立つのは、差別的社会に立てられた教会内部の差別克服でありましょう。

         聖書本文3−15節を以下に転載します。

         キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
         この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
         またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。
         あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。
         私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。
         主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。
         キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。
         キリストにあって練達したアペレによろしく。アリストブロの家の人たちによろしく。
         私の同国人ヘロデオンによろしく。ナルキソの家の主にある人たちによろしく。
         主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。
         主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマ  スおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。
         フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。

         「聖書的一致、その具体的イメージ」その一つ目「違いを超えた一致」ということです。「違いを超えた一致」です。そのことは、3節から15節に描かれています。この箇所は、名前の羅列で「よろしく」の連発です。ある方はこれを「パウロのよろしく攻撃」と呼んでいましたが、私たちのここに記された数々の名前から、大切なメッセージを読み取ることができます。
         
         ここには、個人として26人の名前が記されています。その名前を見ると、実に多様な人々が共に同じ教会に集い、同じ主を礼拝し、一致を保っていたことがわります。民族、性別、社会的地位の三つにおいて、多様であったことが分かります。
         

         こうした多様性について、有名なみ言葉ですが、パウロは、ガラテヤの3章28節でこう記しています。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみなキリスト・イエスにあって一つだからです。」

         ここにはキリストによって三つの代表的な差別が廃棄されることが書かれています。まずは人種差別、民族差別です。聖書で、「ユダヤ人もギリシャ人も」と言えば、それは自国の人も外国人もという意味です。「奴隷も自由人もなく」というのは当然、身分差別です。そして、「男子も女子も」というのは男女差別、性差別のことです。
         
         まさに、ローマの教会は、このガラテヤのみ言葉を具現化する教会でした。まずは、「ユダヤ人もギリシャ人も」という民族に注目しましょう。ローマの教会では、ユダヤ人とローマ人などの異邦人が一致を保っていました。ユダヤ人として登場するのは、まず、3節のプリスカとアクラ、11節にあるパウロが「私の同国人」と呼んでいるアンドロニコとユリアスそして、ヘロデオンたちでしょう。それ以外の多くは、ローマ人やギリシャ人らの異邦人かと思われます。

         
         次に性別に注目しましょう。プリスカを先頭に、26人中、9名は女性と思われる名前が登場します。女性の地位が極めて低かったこの時代と社会にあってパウロが9人も名前をあげているのは驚くべきことでしょう。今日、日本のキリスト教会を代表するような男性牧師が、一教会に名前を羅列した挨拶を送ったとしたら、果たして26人中、何名が女性となるしょうか?

         少々皮肉を込めて申し上げているのですが、そう考えますとやはり、この時代と社会において26分の9は、すごいと言わざるを得ません。男女で役割は異なり、男性がリーダーシップをとることが多かったのでしょう、それでも、女性が豊かに用いられており、正当に評価されていたことが分かります。
         

         最後は社会的な身分ですが、今日は特にこの社会的身分に注目したいと思うのです。民族や性別同様、名前で一定、社会的身分も分かるのです。日本でも、「水谷」と言えば、先祖は大抵、農民です。「綾小路」と言えば?お笑い芸人ではありませんよ。貴族階級でしょう。「徳川」なら、武家の出だと分かります。古代ローマは、日本の江戸時代のような階級社会でしたから、名前で身分が分かるのです。

         8節、9節の「アンプリト」、「ウルバノ」、「スタキス」
        などはどれも当時の奴隷の名前なのだそうです。10節に出てくる「アリストブロ」は当時の名門と言われる家柄です。日本なら、三井、住友、鴻池でしょうか?11節の「へロデオン」はお察しの通り、王族であることを示します。興味深いことに、奴隷が先で、そのご主人であったであろう一族や王族が後なのです。
         
         当時のローマは、明確な階級社会で、自由人もいれば、奴隷もいました。ローマ教会が大きくなったのは、奴隷階級が先にイエス様を信じて、奴隷達が、自分が仕える富裕層や高貴な身分の人々に伝道していったのだろうと考えられています。そうです。どんなに身分が高くても、金持ちでも、学歴や家柄があっても、誰も誇れません。なぜなら、すべての人は神様の前には、罪人だからです。一方、どんなにが身分低く、貧しく、無学でも、卑下する必要はありません。すべての人は、神の命の代価支払われた程、価値ある存在だからです。そして、この前提が、違いを超えた一致を与えるのです。
         

         しかし、身分や階級を超えて一つになるのは容易なことではありません。私は想像するのです。ローマ教会婦人会には、こんなことがあったかもしれません。王族の奥様が言います。私のイメージではあのデヴィ夫人のようなセレブな奥様がおっしゃるのです。「あたくし思いますの。奴隷の信徒の皆さんはお食事のマナー知らないのかしら。あの食べ方、嫌ねー」。

         逆に奴隷の女性が言います。私のイメージではあき竹城です。「王族の奥様方、あんな高価な宝石じゃらじゃらさせて、私たち奴隷が何人も買える値段だわー、嫌よねー」。キレイごとではない、そんな生々しい現実受け入れがたい思いがあったかもしれませんが、それでも一つでいられたのです。身分を越えて、違いを超えて一致を保っていたのです。


         考えてみれば、キリスト教会ほど、身分や立場を超えて一致している交わりはないでしょう。それは、多様性における一致です。一人一人は異なるのですが、主にあって一つなのです。教会の外での一致は、大抵、「画一性における一致」です。立場や郷里、卒業した学校、利益が同じ人たちが一致をします。ある意味、一致しやすいでしょう。

         否定的に言えば、一般的な一致は異なるものを排除して一致とも考えることができます。言うなれば、「排除による一致」です。特定の学校、会社、職場、試験合格者だけ、努力する人だけ、資格のある人だけが参加できる一致で、そうでない人は入れない一致です。
         
         それに比べると、教会の交わりは資格のいらない交わりです。誰でも交わりに歓迎されます。基本的に誰も排除されません。ある時、テレビで吉本興業のお笑いタレントが、こう言っていました。「吉本興行は、すごいでー、所属タレントには、政治家から犯罪者までおるでー」と。昭和を代表する漫才師コンビ「やすし・きよし」は、片方が国会議員で片方が前科者でした。でも、キリスト教会はもっとすごいのです。牧師だけでも、元国会議員から元暴力団の方までいらっしゃいます。吉本興業の上を行っています。


         実際に私はある教会でこんな体験をしました。その教会は午前に二回礼拝が持たれるのですが、第一礼拝で、初めて来た方の紹介がありました。ひとりのおじ様が立ち上がって挨拶します。「近所の公園で暮している〇〇と申します。」私は思いました、「公園で暮しているって、それ、ホームレスでしょー!」。この教会はホームレス伝道をしているのです。私は、その方に駆け寄り、握手して、「この教会で支えられて、イエス様信じて新しい人生を初めて下さいね。」と話しかけ、祝福をお祈りさせていただきました。

         次に第二礼拝での奉仕を終えて、教会の玄関近くで皆さんに挨拶しいますと、久しぶりにお会いする顔が。「ああ、お久しぶりですね。こちらの教会の方でしたね、日曜は地元にお戻りなのですか?」。私がは話しかけたのは、国会議員でした。その方は当時、衆議院議員でした。同じように握手をさせていただき、しばらく、立ち話をしました。

         私は感動を抑え切れませんでした。そして思ったのです。ああ、この教会は、初代教会のようだと。奴隷と貴族が共に同じ主を礼拝し、平等な交わりをもっていた初代教会のようだと思ったのです。
         

         教会は、原則として、資格不問で誰も排除しません。男女、世代、職業や立場、クリスチャンであるなしの違いは問いません。お互いには、感性、好み、考え方、価値観の違いは当然あります。一致しようとすれば、ストレスは当然のこと、一致を妨げる要素は誰にだってあります。しかし、大切なことは相手を理解し、違いを認めて、聖書が許す違いであれば、違ったままで、一致を保つことです。

        「聖書的一致、その具体的イメージ」、その一つ目は「違いを超えての一致」です。そのことは8節から15節の人名が示しています。このローマ教会の一致の様子をイメージしながら、一致を保つ群れとして歩みたいと願います。
        | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 08:41 | - | - | - |
        人権週間に際して〜赤坂泰彦さんのエピソード、四度目の掲載
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           この記事も4度目の掲載となります。クリスマス前の一週間は、「人権週間」です。「白人だけ、男性だけ、大人だけ、自由人だけ」に与えられていた人権は、今世紀、それ以外の人々へと広げられていきました。クリスマスの直前が、人権週間なのは、意味のあることかもしれません。本ブログも、数年前までは「人権・差別問題」をかなり積極的に扱い、クリスチャンの皆さんに問題意識をもっていただくことを願って発信していました。今もその願いは変わりませんが、ネタがないので、記事が駆けないだけです。

           というわけで、人権週間の間、クリスマスを待ち望みながら、以下のカテゴリーの記事を読まれることもよいのでは?と思います。ということで、三つのカテゴリーをお知らせします。

           そして、ここからが、4度目の掲載となります。
            
           私が人権や差別、隣人愛をメッセージするときにしばしば用いる緒論。タレントの赤坂泰彦があるテレビ番組で語っていた子どもの頃の思い出話です。

           「僕が、まだ、小学生の頃のことです。僕が住んでいた隣りの町には、日本国籍でない人たちばかりが集まり住んでいる地域がありました。その方々は主に廃品回収業をして生計を立てていました。僕の近所の人たちは、その人たちを、とてもテレビでは言えないような呼び方で呼んでいました。学校で同じクラスの仲良しの友達が、その地域に住んでいました。僕は、その子の家に時々遊びに行っていました。僕の両親はそのことを特別に問題にしていませんでした。ところが、近所の人たちの間では、僕がその友達に家に遊びに行っていることが問題になっていました。

           そして、近所の人たちが僕のおふくろに言うのです。「お宅の泰彦ちゃん、あんなところに友達がいて時々、家にまで遊びに行っているらしいわよ。止めさせた方がいいんじゃない。」最初は何も言わなかったおふくろも、さすがに近所の人がうるさいので、一言、言わなくてはと思ったのでしょう。
           
           親父、おふくろ、そして僕と一家がそろった時、おふくろが親父に向かって言ったのです。「ねえ、お父さん、泰彦は隣りの町に友達がいて、時々家にまで遊びに行っているらしいのよ。それで、近所の人がいろんなことを言うのよ。あなたから、泰彦にもう、その友達のところに遊びに行かないように言ってやってください。」

           次の瞬間、僕は信じられないような光景を見ました。「お前は何と言うことを言うんだ」親父が、怒鳴って、おふくろを平手で打ったのです。親父がおふくろに手を上げたのを見たのは、僕の人生でこの一度限りでした。親父はおふくろに向かって言いました。

           「その子がどこの国の人だろうが、その子の親ががどんな職業だろうが、そんなことは関係ない。泰彦の友達なのだから仲良くすればいいんだ。泰彦がその子の家に遊びに行きたいなら遊びに行かせればいい。その子がうちに遊びに来たければ、来てもらえばいいんだ

           親父は、おふくろにそう言うと、僕の方を振り向いて一言、こう言いました。「いいか、泰彦、人間の財産は金じゃないぞ、人だ。泰彦、人を大切にするんだぞ」。僕はまだ、子どもだったから、親父の言葉の意味がよく分かりませんでした。

           しかし、大人になるに連れて、その言葉の意味が分かるようになったとき、僕は心から、親父を尊敬しました。僕は、大人になってからも、この芸能界に入ってからも、親父の言う通り、人を財産とし出会った人たちを大切にしてきました。そのおかげで、僕は今、とても幸せな人間関係の中にいます。多くの人に愛されて、支えられて、今の僕があるのです。僕の人生にとって、一番大切なことを教えてくれた親父に、心から感謝しています。」

           赤坂さんはこのお話をバラエティー番組の中、多数の芸能人の中で話されました。それはブラウン管の前の人たち以上に、スタジオ内の人々に大きなインパクトを与えたに違いありません。なぜ、赤坂さんんはこんなヘビーな話をあまり真面目ではないバラエティー番組の中で話したのでしょう?


           どうもこれは、ただのよいお話とは思えません。赤坂さんは以前から話したかったのでしょう。あるいは事前に話すことが番組制作側か司会者と打ち合わせ済みだったのかも。赤坂さんのにはきっと「芸能界に生きる者の一人としてこのことを語りたい」との思いが強かったのだろうなと私は察しています。


           日本社会は、ほんの少し前までは歴然とした身分社会、階級社会でした。そして身分や階級はその職業と一体化していました。実は日本の歴史の中では芸能は最下層階級の人々が担ってきたのです。

           私は子どもの頃、芸能は非生産的職業と評価され、江戸幕府は芸能を職業とする者を士農工商のさらに下の身分に置いたように教えられました。今では研究も進みこの説は支持されなくなっているそうです。宗教的な背景などによってかなり以前から芸能は特定の身分と結び付けられていたようです。

           歌舞伎、能、狂言、人形浄瑠璃、浮世絵など、日本を代表する文化は被差別部落の人々が担い発展させてきたのです。明治以来、音楽教育が西洋音楽一辺倒になってしまった理由の一つはどうもここにありそうです。

           四代目市川団十郎は「錦着て 布団の上の 乞食かな」という有名な句を残しています。どんな大スターで贅沢な暮らしをしても、その社会的アイデンティティーは「乞食」なのです。
           山城新伍さんの著書で読んだのですが、歌舞伎で「成駒屋!」「高麗屋!」という掛け声が掛かります。市川、尾上、中村の姓なのに、商人でないのにどうして「〜屋!」と掛け声がかかるでしょう?
           それは士農工商の下に置かれた身分にある役者たちが、「商」として扱われたいとの切実な願いの表れなのです。

           こうして日本の大衆は、優れた芸能人を賞賛しながらも、他方で差別し見下げてきました。こうした芸能史の流れの中、戦後の日本の大衆芸能を担ってきた人々の中にも驚くほどに、被差別部落出身者と在日の方々が多いのです。

           そして、実力や実績の世界である芸能界にも、差別や偏見は根強くあります。芸能界で起こる不自然な出来事や意外な出来事、その背景には民族問題や部落差別の問題が潜んでいる場合が多いのです。大人気の芸能界のスターたちの中には四代目市川団十郎と同じ葛藤や苦悩を持つ方も少なくないでしょう。

           芸能人の出自を明らかにすることは、差別的な日本社会では、芸能人の商品価値を落としますし、芸能プロダクションのマスコミに対しての圧力などもあり、はたまた、様々な利害関係もありで、日本のマスコミ界ではタブーなのです。そうした中で、赤坂さんの発言はきっと彼なりの精一杯の抵抗、一芸能人としてのできる限りの主張だった可能性もあるのではなどと思っています。

           今、話題となっている海老蔵さんの父親は何代目かの市川団十郎です。その屋号である「成田屋」には、山城さんの著書が示すような歴史的経緯があるのでしょう。歌舞伎は被差別階級の方々が壮絶な苦難を経ながら、築き上げてきた文化です。そして、それは今、日本の優れた伝統芸能として評価されています。この歴史的経緯を思う時、なおさら、今回の件が偉大なる伝統を汚し辱めるようなことがないようにと願ってやみません。


           そして、クリスマスの舞台も差別に満ちた社会でした。安息日を守らないからと市民扱いをされず住民登録の必要もない羊飼いたち(今で言えばホームレスか無職住所不定)や神を知らず犬畜生と考えられていた異邦人である東の博士たち。遊女や収税人たちへの職業差別、外国人差別に性差別、奴隷制度など、差別に満ちた社会でクリスマスがあったことを、忘れてはならないでしょう。

           そのような社会であったことは、イエスが聖歌「この人を見よ」の歌詞のように「友なき者の友と」なられたことの意味をいよいよ深くします。こうした面にもクリスマスのリアリティー、神が人となりこの地上で生きられた現実性があるのでしょう。2000年前、家畜小屋のような、悪臭ただようこの罪深く醜い現実社会に、「あなたがたのために」と愛の故に主は来られたのです。
          | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 19:32 | - | - | - |
          人権週間に際して〜「ヨイトマケの唄」は被差別者による被差別者のための被差別者の唄である。
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             昨日の予告通り、以下に2012年末の紅白で美輪さんが「ヨイトマケの唄」を歌ったときのことを書いた記事を、4度目になりますが、掲載します。この歌は、クリスチャンにとっても、被差別者や抑圧された少数者を理解し、その心に寄り添い、神様が望まれるような考え方、接し方を学ぶための教材だろうと考えております。

             
             この大晦日は、紅白歌合戦を観て本当によかったと、久しぶりに思えました。理由は三輪さんの「ヨイトマケの唄」をフルバージョンで聴けたから。

             youtubeで、フルバージョンが視聴可能です。
            http://www.youtube.com/watch?v=KYJgKHfA5IE

             紅白では、キムタクは、「親子の信頼」「無償の愛の歌」と紹介しています。確かに歌詞内容はそうでしょう。しかし、この歌が持つ歴史は、それだけの歌ではないことを示唆しています。人権オタクの私はこの歌を、「被差別者による」「被差別者のための」「被差別者の」歌であると受け止めています。

             ヨイトマケの唄についてwikipediaが解説しています。これをお読みいただければ、私の見解も暴論とは言い切れないと思っていただけるかもしれません。

            http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%81%AE%E5%94%84
             
            (1)被差別者による歌 
             まず、この歌は、被差別者が作詞作曲し歌っています。まさに「被差別者による歌」であります。美輪さんを単なるオネエとか、スピリチュアルの大御所、日本中を魅了したかつての美少年だと思ったら、大間違いです。美輪さんは、同性愛者がカミングアウトするなどありえない時代に、そのことを公にしました。当時の一般的な感覚では、その決断は、テレビ出演などできなくなることを意味していたようです。実際にそのために人気は低迷していたとのこと。

             以前、テレビ出演で話しておられたのですが、美輪さんのカミングアウトの背景には、同性愛者であることを周囲から責められて自ら命を絶った友人を思っての世間への抗議の意味もあったようです。同性愛の是非とは別に、それを理由に友人を死においやったことへの怒りが、そこにはあったと思われます。自らすすんで世間から蔑まれ、抑圧される道を選んだ歌手だからこそ、この歌のリアリティーが倍増したのでしょう。


            (2)被差別者のための
             また、この歌は、被差別者のための歌でした。多分、当時の美輪さんは華麗な衣装でシャンソンを中心に歌っていたと思います。しかし、wikipediaの解説にあるように、手違いで炭鉱労働者たちの前でうたうこととなった時、労働者のための歌の必要性を覚えたのです。

             一般的に炭鉱労働者は最も過酷な労働条件の故に、底辺労働者として扱われます。地域にもよりますが、被差別部落出身者や在日の方も少なくありませんでした。ちなみに麻生副総理の家系である麻生財閥が経営していた麻生炭鉱は、そうした被差別者を多く含む労働者に極めて過酷な労働を強いたことで知られています。ですから、この歌は元来、底辺労働者として蔑まれ、差別されることもあった炭鉱動労者などの貧しい労働者のための歌なのです。


            (3)被差別者の
             さらに、この歌が歌っているのは、被差別の労働者たちのことです。この歌は、人気曲でヒットもしているのに、長い間、放送禁止扱いを受けてきました。理由は「土方」「ヨイトマケ」などの言葉が、職業に対する蔑称であり、自主規制により、放送禁止用語とされているからです。また、日本社会では、職業差別の背景として部落差別と民族差別が指摘されるケースが多いです。それだけに、この歌の扱いにはメディアも慎重にならざるを得なかったのだろうと予測します。私見ですが、結果としては、「言葉狩り」となり、優れた楽曲が、公のメディアに乗らなかったことは、日本の芸能において、大変な不幸であり、損失であったと思います。

             キムタクが解説したように、親子の信頼と無償の愛がそこにはあります。しかし、そんな美しく高尚な内容で終始するものではないでしょう。そんなキレイごとではありません。貧しい母子家庭で、子どもを育て、生きていくためには、ヨイトマケとして日雇い労働をせざるを得ない現実があっての親子愛なのです。この歌詞において、日雇い労働者の子どもは「汚い」と言っていじめられています。論理的根拠もなく、特定の職業が「汚れ」と結びつけられています。生々しい当時の職業差別を知らずして、この歌の持つリアリティーと本来の感動はないでしょう。

             貧しい母子家庭でヨイトマケの母に育てられた息子が大学まで出てエンジニアになり、母に感謝しているだけの歌としてこの歌を聴くなら、それは普通の名曲です。森進一の「おふくろさん」、海援隊の「母にささげるバラード」、コブクロの「蕾」でも代理可能です。

             「ヨイトマケの唄」がそれらの名曲とは異質の魂への深い感動を与えるのは、この歌が持つ歴史とスピリットでありましょう。私はこの歌に匹敵するのは、近年ではザ・ブームの「島歌」くらいであろうと思っています。それぐらい、この歌は強いスピリットを持っており、それが紅白の会場であったNHKホールを静まり返らせたのだと私は考えています。

             そう、「ヨイトマケの唄」とは、差別される痛みを身を持って知っている歌い手が、差別される炭鉱労働者ら貧しき底辺労働者のために、差別されていた土方、ヨイトマケの親子のことを歌った歌だと私は考えます。この歌は、「被差別者による」「被差別者のための」「被差別者の」歌でありましょう。そして、これまでの経緯と共に後世に伝えられていく価値ある作品であると確信しています。


            その時の映像がyoutubeにアップされています。ご存知ない方には視聴をお勧めします。
            紅白2012「ヨイトマケの歌」美輪明宏
            https://www.youtube.com/watch?v=qt70qMMSlhY

            ※この記事に関連した別の記事は以下のととおりです。
            「昨日の記事に大量いいね!」
            http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3344

            「ヨイトマケの唄が各方面で話題に」
            http://blog.kiyoshimizutani.com/?eid=3420
            | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 14:39 | - | - | - |
            今日から人権週間〜性的少数者と教会に課せられる内外二つの戦い
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               本日から、人権週間がスタートです。1948年12月10日に持たれた国連総会で世界人権宣言が採択。それを記念して12月10日までの一週間は人権週間となっております。ですから、今日からスタートなのです。一回くらいは、人権啓発を兼ねて、関連記事をアップしようということで、本日の記事を書きました。


               本ブログの人権ネタで、多くの支持をいただいた一つは「ヨイトマケの唄」に関する記事でした。多分、日本で最も尊敬されている被差別者兼性的少数者は、美輪明宏さんでありましょう。すべての人に人権は認められるべきであり、性別、人種、宗教、出自、生涯の有無などによって差別されてはならないと人権宣言は教えます。

               近年は、不当な差別理由にセクシャリティーも含まれるようになりました。LGBTと表現される性的少数者であることを理由に差別がされてはなりません。クリスチャンたる者、まず、セクシャリティーに関係なく、出会った隣人を神様に創造され愛されている一人格として尊ぶことでしょう。

               その上で、その方の性行動についての聖書的判断はしっかり持ってはいるべきだと思うのです。いわゆる「聖書信仰」に立てば同性愛行為(傾向でなく行為です)は、神の創造の意図に反する行為(ローマ1章)であり、性的罪に相当すると私は考えています。ただ、それを前面に出して拒否的態度をとるのは、イエス様の似姿に歩んでいないだろうと思うのです。

               婚前の性関係を持つ人、でき婚した人、不倫をしている人には、ある程度、それができるのに同性愛者性同一性障害の方には、それができないのは、なぜでしょう?多くのクリスチャンは、通常の性的な罪の中に歩んでいる方々に対しては、葛藤や躊躇を持ちながらも、聖書的な基準で裁かず、まず、一人の人格として受け入れようとします。ホストや愛人さん、風俗嬢が求道者として来会したら、教会は拒否するでしょうか?

               
               ところが性的少数派に対しては、その人が性的罪を犯していない場合(同性愛傾向のみ)でさえも、一人格として受け入れようとせず、拒絶的な態度をとりかねないのはなぜでしょう?その理由は、やはり、私たちの内に、性的少数者に対しての十分な理解や経験がないために、聖書的ではない偏見や差別心があるからのだと思うのです。自らと異質な者を理解しようとせず、相手の立場に立たず、排除してしまう罪の問題があると思うのです。

               たとえば、教会の中で起こった信徒による同棲やでき婚などの性的罪が、赦しの恵みなどの名目で悔い改めに導かれず放置されたり、でき婚カップルに悔い改めなき結婚式がされながら、その一方で、性的罪を犯してはいない同性愛傾向を持つ方や性同一性障害者が教会の礼拝や交わりに受け入れられないとしたら、どうでしょう?

               「身内の性的罪には甘く、外部の性的罪には厳しく」「多数派の性的罪人は受け入れ、性的少数派は罪を犯さなくても(あるいは今後罪をやめようとしていても)拒否する」という一貫性のなさは、残念ながら、福音の真理に歩んでいないことを意味するのではないでしょうか?それは、ガラテヤ2:11以下で、一貫性を失い「福音の真理からの逸脱」だとパウロから面と向かって抗議を受けたペテロ同様の失敗ではないかと思えてなりません。

               もちろん、今すぐに、性的少数者が教会員全体にカミングアウトした上で、教会員の一致をもって受け入れましょうと訴えているのではありません。現状では、牧師夫妻や役員のみが、了解しており、教会員全体には、知らされないまま、教会の交わりに歩んでいる場合がほとんどです。教会員の中に一人でも偏見差別心があると、その言動によって、深く傷つき教会を離れていく可能性もあるので、なかなか全体の賛同を得るという選択肢は困難でしょう。ですから、最初に、問われるのは教職者とならざるを得ません。

               実際に一般に思われているよりはるかに多くの福音派・聖霊派の教会には、性的少数者が教会員として集っておられ、牧師夫妻や主にある親友だけには、カミングアウトをして、受け入れられて、性的罪を犯さぬ歩みを願いながら、信仰生活を送っておられるのです。カミングアウトを受けた教職者はその信徒のことを思い、その事例と情報を団体内で発信しないので、団体内の教職者で情報や事例が共有されず、そうした事例がいかに多いかが、理解されていないのが現実です。その結果「自分が牧する教会には性的少数者は存在しない=団体内のどの教会にも存在しない」という間違った認識になっているだけです。

               
               「同性愛=罪→拒否・断罪」という「乱暴な自動思考」が、まだまだ教会の中で見られます。もう少し丁寧に、「聖書は何を罪としているのか?」「性的罪人にどう接するように聖書は教えているか?」「人間の尊厳については聖書はどう記しているか?」「イエス様は性的罪人にどう接したか?」などを聖書に学び、聖書全体から総合的に判断をしていくべきでしょう。そうでないと自分は聖書的で、神様に従っているつもりでいながら、性的少数者に対しては神様が悲しまれ、キリストとは正反対の対応をしているという残念なことになってしまいます。

               同性婚法制化の世界的な流れの中で、クリスチャンが戦うべきは同性愛容認思想や同性愛者の人権運動ではないでしょう。アメリカのような社会と保守派のキリスト教会の関係では、そうした戦いも必然かと思います。しかし、今の日本社会と教会の現状、そしてクリスチャン個々の意識を考えますと、クリスチャンが戦うべきは、自身の内なる偏見と差別心との戦いと、今後予想される外からの攻撃・批判との戦いだと言えるでしょう。

               つまり、聖書を真理として、内なる偏見差別を克服する内なる戦いと同じく、聖書の真理に立って、「教会は差別的でクリスチャンは人権軽視」など、外部からの攻撃批判に屈することなく、性についての聖書的価値観を守り抜き、逆に社会に対して証していく戦いです。誤解を恐れず単純化すれば「教会は性的少数者の人間として尊厳を重んじ受け入れる。しかし、聖書の基準において性的罪に相当する行為については受け入れられない」との見解や姿勢をまず、教会が共有できればと願っています。

               人間の尊厳を認め差別をしないことと、世の流れに左右されず聖書の真理を守ることを両立するためには、この内外二つの戦いは避けられませんし、避けるべきでもないでしょう。覚悟して受け止めるべきかと思うのです。教会としても、クリスチャン個々としても、既に、後者の戦いに備える必要と前者の戦いを開始する必要は始まっていると私は考えています。

               福音書に登場する「罪人」という言葉は職業と直結した概念だそうです。取税人は盗みの罪の常習犯で、遊女は姦淫の罪の常習犯でした。しかし、イエス様は、取税人や遊女らの被差別者の側に身を置いて、当時の社会的タブーを犯してまで、被差別者たちの心に寄り添い、人格的な交わりに生きられました。今日、私たちはキリストの姿に生きているでしょうか?お互いはキリストに似た者として、この日本社会に歩んでいるのでしょうか?

               そのことを自らに問う時、私は、今後、日本の教会に、内外二つの戦いが課せられていくだろうと思えてなります。そんな思いをもって、明日は、2012年末の紅白で美輪さんが「ヨイトマケの唄」を歌ったときのことを書いた記事を、4度目になりますが、掲載します。
              | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 11:16 | - | - | - |
              「クリスマスと人権週間の間で」を再掲載
              0
                 この記事も3度目の掲載となります。クリスマス前の一週間は、「人権週間」です。「白人だけ、男性だけ、大人だけ、自由人だけ」に与えられていた人権は、今世紀、それ以外の人々へと広げられていきました。クリスマスの直前が、人権週間なのは、意味のあることかもしれません。本ブログも、数年前までは「人権・差別問題」をかなり積極的に扱い、クリスチャンの皆さんに問題意識をもっていただくことを願って発信していました。今もその願いは変わりませんが、ネタがないので、記事が駆けないだけです。

                 というわけで、人権週間の間、クリスマスを待ち望みながら、以下のカテゴリーの記事を読まれることもよいのでは?と思います。ということで、三つのカテゴリーをお知らせします。

                 そして、ここからが、三度目の掲載となります。
                  
                 私が人権や差別、隣人愛をメッセージするときにしばしば用いる緒論。タレントの赤坂泰彦があるテレビ番組で語っていた子どもの頃の思い出話です。

                 「僕が、まだ、小学生の頃のことです。僕が住んでいた隣りの町には、日本国籍でない人たちばかりが集まり住んでいる地域がありました。その方々は主に廃品回収業をして生計を立てていました。僕の近所の人たちは、その人たちを、とてもテレビでは言えないような呼び方で呼んでいました。学校で同じクラスの仲良しの友達が、その地域に住んでいました。僕は、その子の家に時々遊びに行っていました。僕の両親はそのことを特別に問題にしていませんでした。ところが、近所の人たちの間では、僕がその友達に家に遊びに行っていることが問題になっていました。

                 そして、近所の人たちが僕のおふくろに言うのです。「お宅の泰彦ちゃん、あんなところに友達がいて時々、家にまで遊びに行っているらしいわよ。止めさせた方がいいんじゃない。」最初は何も言わなかったおふくろも、さすがに近所の人がうるさいので、一言、言わなくてはと思ったのでしょう。
                 
                 親父、おふくろ、そして僕と一家がそろった時、おふくろが親父に向かって言ったのです。「ねえ、お父さん、泰彦は隣りの町に友達がいて、時々家にまで遊びに行っているらしいのよ。それで、近所の人がいろんなことを言うのよ。あなたから、泰彦にもう、その友達のところに遊びに行かないように言ってやってください。」

                 次の瞬間、僕は信じられないような光景を見ました。「お前は何と言うことを言うんだ」親父が、怒鳴って、おふくろを平手で打ったのです。親父がおふくろに手を上げたのを見たのは、僕の人生でこの一度限りでした。親父はおふくろに向かって言いました。

                 「その子がどこの国の人だろうが、その子の親ががどんな職業だろうが、そんなことは関係ない。泰彦の友達なのだから仲良くすればいいんだ。泰彦がその子の家に遊びに行きたいなら遊びに行かせればいい。その子がうちに遊びに来たければ、来てもらえばいいんだ

                 親父は、おふくろにそう言うと、僕の方を振り向いて一言、こう言いました。「いいか、泰彦、人間の財産は金じゃないぞ、人だ。泰彦、人を大切にするんだぞ」。僕はまだ、子どもだったから、親父の言葉の意味がよく分かりませんでした。

                 しかし、大人になるに連れて、その言葉の意味が分かるようになったとき、僕は心から、親父を尊敬しました。僕は、大人になってからも、この芸能界に入ってからも、親父の言う通り、人を財産とし出会った人たちを大切にしてきました。そのおかげで、僕は今、とても幸せな人間関係の中にいます。多くの人に愛されて、支えられて、今の僕があるのです。僕の人生にとって、一番大切なことを教えてくれた親父に、心から感謝しています。」

                 赤坂さんはこのお話をバラエティー番組の中、多数の芸能人の中で話されました。それはブラウン管の前の人たち以上に、スタジオ内の人々に大きなインパクトを与えたに違いありません。なぜ、赤坂さんんはこんなヘビーな話をあまり真面目ではないバラエティー番組の中で話したのでしょう?



                 どうもこれは、ただのよいお話とは思えません。赤坂さんは以前から話したかったのでしょう。あるいは事前に話すことが番組制作側か司会者と打ち合わせ済みだったのかも。赤坂さんのにはきっと「芸能界に生きる者の一人としてこのことを語りたい」との思いが強かったのだろうなと私は察しています。



                 日本社会は、ほんの少し前までは歴然とした身分社会、階級社会でした。そして身分や階級はその職業と一体化していました。実は日本の歴史の中では芸能は最下層階級の人々が担ってきたのです。

                 私は子どもの頃、芸能は非生産的職業と評価され、江戸幕府は芸能を職業とする者を士農工商のさらに下の身分に置いたように教えられました。今では研究も進みこの説は支持されなくなっているそうです。宗教的な背景などによってかなり以前から芸能は特定の身分と結び付けられていたようです。

                 歌舞伎、能、狂言、人形浄瑠璃、浮世絵など、日本を代表する文化は被差別部落の人々が担い発展させてきたのです。明治以来、音楽教育が西洋音楽一辺倒になってしまった理由の一つはどうもここにありそうです。

                 四代目市川団十郎は「錦着て 布団の上の 乞食かな」という有名な句を残しています。どんな大スターで贅沢な暮らしをしても、その社会的アイデンティティーは「乞食」なのです。
                 山城新伍さんの著書で読んだのですが、歌舞伎で「成駒屋!」「高麗屋!」という掛け声が掛かります。市川、尾上、中村の姓なのに、商人でないのにどうして「〜屋!」と掛け声がかかるでしょう?
                 それは士農工商の下に置かれた身分にある役者たちが、「商」として扱われたいとの切実な願いの表れなのです。

                 こうして日本の大衆は、優れた芸能人を賞賛しながらも、他方で差別し見下げてきました。こうした芸能史の流れの中、戦後の日本の大衆芸能を担ってきた人々の中にも驚くほどに、被差別部落出身者と在日の方々が多いのです。

                 そして、実力や実績の世界である芸能界にも、差別や偏見は根強くあります。芸能界で起こる不自然な出来事や意外な出来事、その背景には民族問題や部落差別の問題が潜んでいる場合が多いのです。大人気の芸能界のスターたちの中には四代目市川団十郎と同じ葛藤や苦悩を持つ方も少なくないでしょう。

                 芸能人の出自を明らかにすることは、差別的な日本社会では、芸能人の商品価値を落としますし、芸能プロダクションのマスコミに対しての圧力などもあり、はたまた、様々な利害関係もありで、日本のマスコミ界ではタブーなのです。そうした中で、赤坂さんの発言はきっと彼なりの精一杯の抵抗、一芸能人としてのできる限りの主張だった可能性もあるのではなどと思っています。

                 今、話題となっている海老蔵さんの父親は何代目かの市川団十郎です。その屋号である「成田屋」には、山城さんの著書が示すような歴史的経緯があるのでしょう。歌舞伎は被差別階級の方々が壮絶な苦難を経ながら、築き上げてきた文化です。そして、それは今、日本の優れた伝統芸能として評価されています。この歴史的経緯を思う時、なおさら、今回の件が偉大なる伝統を汚し辱めるようなことがないようにと願ってやみません。


                 そして、クリスマスの舞台も差別に満ちた社会でした。安息日を守らないからと市民扱いをされず住民登録の必要もない羊飼いたち(今で言えばホームレスか無職住所不定)や神を知らず犬畜生と考えられていた異邦人である東の博士たち。遊女や収税人たちへの職業差別、外国人差別に性差別、奴隷制度など、差別に満ちた社会でクリスマスがあったことを、忘れてはならないでしょう。

                 そのような社会であったことは、イエスが聖歌「この人を見よ」の歌詞のように「友なき者の友と」なられたことの意味をいよいよ深くします。こうした面にもクリスマスのリアリティー、神が人となりこの地上で生きられた現実性があるのでしょう。2000年前、家畜小屋のような、悪臭ただようこの罪深く醜い現実社会に、「あなたがたのために」と愛の故に主は来られたのです。
                | | 人権問題 | 16:16 | - | - | - |
                表現者と視聴者の埋めがたき断絶
                0
                   なかなか「明日ママがいない」の件が決着を見ないので、また、書きます。今回の件は、表現者側と視聴者側の意識の乖離によるものとの見方もあります。つまり、できる限り自由に表現をしたいし、視聴率狙いで過激な表現も容認して欲しいという表現側がいます。一方、人格形成期で取捨選択能力もなく、感受性も強く悪影響を受けやすい子どもなどには、それを見せたくないと願う親などの視聴者がいます。

                   本件については、よく「嫌なら見なければよい」という意見を聞きますが、それは間違いでしょう。テレビの地上波放送は、観たくない視聴者にも見たくない情報を届けるものだからです。テレビとは視聴者にお構いなしで、一方的にお茶の間に情報と表現を送り込む映像機械なのです。これが現実です。よほど高い意識がない限り、取捨選択は行われません。

                   以前にも、表現者と視聴者の乖離を本ブログで問題にしたことがあります。この事例は、西田浩著「ロックと共に年をとる」(新潮新書)に記されていたもので、子どもに有害と評価される音楽表現をするミュージシャンが親となり、自らの表現に向き合い葛藤するというパターンです。

                   1998年に来日したアメリカの人気ロックバンド「コーン」を西田氏がインタビュー。当時このバンドはセカンドアルバムが400万枚も売れていたのだとか。このバンドの特徴は攻撃的な音楽とボーカルのジョナサン・ディヴィスによる特異な歌詞内容だといいます。ジョナサンは、自分が幼少から父と義母から虐待を受け、学校でもいじめられ続けた体験や心の傷を生々しい言葉で激しく表現し、アメリカ社会では「反社会的」「教育上好ましくない」と問題視されたのだとか。

                   西田氏から、アメリカ社会での批判について質問を受けるとジョナサンは、「それは表面的、自分の心の傷と格闘する歌詞は、人を励ますこともある。解釈は受け取り手の自由、自分は間違っているとは思わない」と表現者として自信をもって、理路整然と返答。

                   その返答を評価し、さらに表現者としての強い確信を引き出そうと西田氏が突っ込んだ質問をします。西田氏は、彼の主張の正しさを認めながら、同時に子どもに醜いものに触れてほしくない親の思いがあることを話します。さらに、幼い子どもを持つジョナサン自身について尋ねます。

                   あなたの子どもが物心つき、コーンの音楽を聴き、「僕はお父さんのこんな過去を知りたくなかった」と言われたらどう答えますか?

                   ジョナサンは考え込み、沈黙、やがて「ちょっと失礼、すぐ戻ってくる」と言ったきり二度と戻ってきませんでした。コーンの担当者に探しに行かせると「トイレの個室にこもっています。どうも、吐いているようです。」との報告。実はこの後、予定されていた各社のインタビューはすべてキャンセルして、ホテルに帰ったのです。

                   確信をもって醜い現実や内面の葛藤をストレートに伝える表現者としての自分の正しさと、親として子どもを有害情報から守る責任との著しい乖離が彼に嘔吐を催させたのでしょうか?表現者であり幼い子ども父でもある彼の自己矛盾は、繊細な彼に嘔吐させるほど、辛いものだったのでしょうか?

                   この件を「教育上好ましくないミュージシャンの自己矛盾」「一貫性の欠如から来る自己崩壊」などとして断罪的に考えてしまうのは、それこそ、表面的でしょう。むしろ、ジョナサンなりの親としての子どもへの責任を自らに問う真実さを、見るべきなのかも知れません。「芸と生活は別」「表現者と父親は別人」と割り切らないところに逆に、彼の真実さやアメリカの親らしい責任感を垣間見るように思うのですが、どうでしょう?

                   そこで、「明日、ママがいない」であります。監修とは言え、事実上の表現者の中心である野島氏は、近年、かなり年下の女性といわゆる「でき婚」をされ、現在は一歳になるお子さんがいらっしゃるそうです。野島作品は以前から、PTAの非難を受け、「子どもに見せたくない番組」の筆頭になることもありました。そして、現在、「明日、ママがいない」は「親が最も子どもに見せたくない番組」の第一位なのだそうです。

                   そこで思ったのです。野島氏は、やがて成長し、物心ついた子どもに自分を作品を見せるだろうか?それとも見せたくないと願うだろうか?と。野島伸司氏は、その時、初めて表現者と視聴者の埋めがたい乖離を実感するのかもしれません。
                  | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 23:01 | - | - | - |
                  「明日ママ」が内容変更へ
                  0

                      今朝のyahooヘッドラインによれば、スポンサー全社降板となっていた「明日ママ」が内容変更を約束したとのこと。

                    「明日、ママがいない」日テレ「明日ママ」内容変更へ “具体例抗議”に「改善を検討」
                    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140130-00000107-spnannex-ent

                     具体例を挙げての抗議に、ようやく問題の深刻性が従来とは異なることを認識したのでしょうか?それとも、世論の反発とスポンサー降板を受けて、不本意な決断に追い込まれただけなのでしょうか?

                     ずっと紹介している水島宏明さんのブログ記事は、メディアがあまり報道しない慈恵病院側の抗議内容を伝えて、コメントしています。ぜひ、お読みください。私個人もこの内容に全面的に賛成です。

                    日テレ「明日、ママがいない」 マスコミが詳しく報道しない慈恵病院の主張 子どもにフラッシュバックも
                    http://blogos.com/article/79122/

                     日テレのOBであり内部事情を知る水島宏明さんは、社長が番組内容の改善をしないことに不自然さを覚え、情報が正しく経営トップに伝わっているのか?と日テレの体制を問いただしています。今回の件は、責任者の降格につながりかねないので、自己保身的な管理職が、都合のよい情報だけをトップに伝えている可能性を示唆しています。

                     ある表現や主張のために、犯罪、暴力、差別などを描くことは、表現の自由の範囲でありましょう。そして、それを描く限りは、被害者や被差別者の誰かが傷つかざるを得ません。傷つく人がいるから、表現の自由を制限、否定するというのは、一般論として間違っていると思います。

                     しかし、「どう描くか?」は公共性のある地上派放送の場合は、一定、責任が問われるはずです。本件では、わざわざ現実にはない人権侵害を描き、児童養護施設関係者への偏見を助長し、トラウマを持ち、フラッッシュバックによって自傷行為を繰返すことが予想される被虐待児を苦しめているのです。最終的に描こうとしているものは、人権侵害的なものではないでしょう。だからと言って、それを表現する課程において、表現が弱者を傷つける暴力となることが正当化されるはずがありません。今回については、表現の自由が境界線を越えて、表現の暴力となり社会の最弱者を傷つけてきたように思います。水島さんが指摘するように、極めて傷つきやすく自傷行為や自死に至る心配がある一部の繊細な被虐待者への想像力が決定的に欠けていたのだと思います。

                     既に自傷者は出てしまったようですが、自死が起こる前に、放送内容改善となり少し安心をしています。しかし、24時間テレビを持つ日テレなのですから、番組内容の変更を検討することなく第三回まで放映したことは、大きく社会的信頼を失わせることになるでしょう。BPOには、バランスと良識のある見解を、日テレに伝えていただきたいと願っています。

                    | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 15:13 | - | - | - |
                    「明日ママ」、スポンサー8社、全社が降板
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                       今朝のyahooヘッドラインによれば、「明日ママがいない」のスポンサー8社全社が、降板とのこと。日テレ側は、放送中止の検討も、放送内容の改善もしないようです。この異例の応答は、文春が記すように、野島氏に誰も逆らえないのか?芸能裏情報として伝えられているように芦田真菜が所属するバーニングの圧力か?

                       本件の問題は、表現の自由を逸脱した人権侵害でしょうが、さらに問題を深刻にしているのは日テレの異例の対応でありましょう。
                      | ヤンキー牧師 | 人権問題 | 08:33 | - | - | - |
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