命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
説教者として貴重な体験〜普遍的真理と特定の会衆をつなぐ
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     説教者として、普遍的真理と特定の会衆をつなぐというテーマを実感。月に一度お邪魔する教会で、ローマ12章以下の連続講解説教をしていたら、選挙一週間前の主日礼拝説教の箇所が、ローマ13章1−7節に。以下に、一部加筆した説教原稿を転載します。

     

    ローマ13章1−7節「救いのめぐみの歩き方〜国家と世俗の権威」

     

     最初から私事で恐縮なのですが、ここ数年、急に多くの質問を受けるようになったことが二つあります。一つは、同性愛など性的マイノリティーについてです。それについての見解をあちらこちらの教会尋ねられるようになりました。そして、もう一つ、ここ数年、頻繁に尋ねられるようになったのは政治についての見解です。

     戦争の是非について聖書はどう語っているか?という普遍的な問いかけ、テロや移民などの問題はどう考えればよいのか?というグローバルな疑問、憲法改正、安保法案、共謀罪など国内政治についての質問などを受けるようになりました。これは、国内外の政治的状況が近年、大きく変化してきたことを反映しているのでしょう。 

     日本のキリスト教会全体も、従来になく、政治についての議論が活発化しており、一週間後には、衆院選の投票日を迎えようとしています。そうしたタイミングで、まさに、聖書が政治について言及している箇所を通じて、この朝は、神様の語り掛けをいただきたいと願うのです。

     

     私が担当するメッセージでは「救いの恵みの歩き方」と題して、ローマ12章以降から、救われたクリスチャンはどのように歩むべきか?あるいは、どのように成熟していくのかをお取次ぎしています。まず、1,2節にあるように神様に体をささげ、心を一新していただきます。その上で3節から8節にあるように、正しい自己認識を持ちます。次には、教会の中において9節から16節を示す兄弟愛に生きるのです。そして、17節以降は教会の外との関係、とりわけ、迫害者、敵対者との関係を扱っています。

     

     実はそのことの関連で語られているのが、この13章の1節から7節です。神様は、今日もクリスチャンたちが、国家や世俗の権威に対して、正しい理解をするようにと願っておられます。その理解の上で、政治や権力関係という実に現実的な分野においても、神の民、キリスト者市民として主を証しする歩みをすることを期待しておられるのです。そこで、この朝は「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」と題して、ローマ人への手紙13章の1節から7節までを三つのポイントでお取次ぎしたいと願います。

     

     今日は先に三つのポイントをお伝えしておきます。一つ目は、「この御言葉が持つ背景」です。この聖書個所を正しく理解するためには、当時の政治的背景を理解することが不可欠です。続く二つ目は、「この御言葉が示す原則」です。これは、前回のメッセージでお伝えしたことですが、確認を兼ねながら、さらに理解を深めたいと願っています。そして、三つ目が、「このみ言葉の守備範囲」です。この聖書箇所は、国家や権威についてのすべてを語っているわけではありません。一定の守備範囲があるのです(前回のメッセージは「権威」についての主題説教でローマ13:1、ルカ22:26、汽撻謄蹌機В海ら、それぞれ仝威の本質:悪ではなく善であり、神からの一般恩寵、権威行使の動機:欲でなく、愛、8威が委託されている目的:支配するためでなく模範を示すためという三点を語った)

     

     それでは、今からの時、「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」と題しまして、このみ言葉が持つ「背景」、それが示す「原則」、そして「守備範囲」という三つのポイントでみ言葉をお取次ぎいたします。

     

    〜本論A〜

     

     さっそく一つ目です。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、一つ目はこのみ言葉が持つ「背景」です。パウロにはローマ教会に集うクリスチャンに対して、国家や世俗の権威に対して理解や取るべき姿勢や判断を語る必要がありました。その背景をまず共に見てゆきましょう。

     

     先ほど詩篇72篇を司会者がお読みくださいました。これは「王の詩篇」と呼ばれる詩篇です。ここに記されている王の姿こそ、理想なのです。詩篇72篇が描く理想の王は、王の王である神様から権威を委託された神様の代理者です。王はそのような自覚を持つゆえに私利私欲ではなく、正義と公正をもって民を治めます。社会的弱者に目をとめ、保護します。そして、地に平和をもたらします。今風に言えば「公正、平和、福祉」の三点セットです。そのような王であるがゆえに民は代々、王を恐れる、つまり尊敬信頼するのです。

     このことからわかるように旧約時代の神の民は、宗教と政治が一体化していました。神の民は、イスラエル民族という特定民族であり、それは創造者である神を礼拝する宗教的共同体であり、神の代理である王が、その神を礼拝する民を治める国家という形態をもっていました。つまり、宗教と民族と国家がほぼ一致していたのです。

     

     ところが、この手紙が書かれた当時は、状況は一変しています。まず、神の民は、国家を失い、大国ローマの属国となります。さらに、異邦人にも救いのめぐみは開かれて、神の民は一民族を超えて多民族化します。ローマ教会には、散らされたユダヤ人クリスチャンもいれば、ローマ人など異邦人のクリスチャンもいたのです。

     ですから、とりわけユダヤ系クリスチャンにとって、自らの国を失い、こともあろうに、偶像礼拝者である王に治められている現実は、受け止めがたい屈辱であったと想像できます。そうした背景があるので、福音書が記しているように、イスラエルの民は、イエス様を政治的な救い主と考えたのです。そして、イエス様に、武力によってローマから独立を勝ち取りイスラエル国家を再建する理想の王を期待したわけです。

     

     ローマ社会において、ユダヤ人のクリスチャンは民族的も宗教的にもマイノリティーでしたから、差別や迫害は一定あったでしょう。何よりイエス様はローマへの反逆罪によって死刑とされたのですから、その人物を救い主と信じる宗教団体は、今なら、公安の監視対象だったでしょう。

     

     ところが、ローマの支配は寛容なものでした。同化が困難で、抑圧しすぎると反乱がおこるので、寛容な支配をした方が利口だと判断したのでしょう。、ローマ国家は彼らに、かなり寛容な信教の自由を認めていたようです。そして、大国ローマに守られたクリスチャンたちは、それなりに平和に暮らすことができました。

     迫害は比較的軽く、平和で宗教的自由が認められる中で、最もローマの支配を実感し、屈辱であったのは、納税でした。ですから、この13章でも福音書でもローマに税金を支払うことが問題になるのです。福音書には、税金を払うことに猛烈に反対するある政治団体が登場します。それは、12弟子の一人シモンも以前に所属していた「熱心党」です。

     それは今で言えば、ずばりテロリスト集団です。いわばユダヤ民族主義に立つ過激派反政府組織です。彼らは殺人や暗殺の訓練を受け、ローマの権力者や兵士、あるいはローマの手先である取税人を殺すことを願っていました。さらに驚くべきことには、彼らはローマに税金を払う同族ユダヤ人さえ虐殺していたそうです。

     

     こうした過激派団体が起こるほど、信仰の問題と政治の問題は、ユダヤ人クリスチャンにとっては分離することのできない切実な問題であったわけです。王は神の代理者であるべきなのに、偶像礼拝者に支配されている屈辱的な現実の中、ローマ政府をどう理解し、税金を払うべきかどうかは、クリスチャンにとって極めて現実的で、深刻な問題であったわけです。

     

     約2000年前の葛藤は、程度の差こそあれ、今の私たちにも共通することでしょう。なぜ、この政府の下で生活しなくてはならないのか?自分の意に反する政治的な政策に生活を左右され、納得のいかない法律にも従わなければならないのか?と思うこともあるかもしれません。国家以外の権威も同じです。尊敬できない親や夫や姑に苦労し、聖書とは正反対の価値観で指導する上司、教師、先輩から理不尽な苦しみを受ける現実もあるでしょう。

     ですから、この朝、2000年前のローマ教会に集うクリスチャンたちが抱いていた切実な思いを深く理解し、それを現在の私たちの葛藤や問題意識と重ね合わせたいと願うのです。ローマ教会の苦しみを理解することによって、2000年前にローマ教会に送られた手紙を、今の私たちへの生きた神の言葉として、神の語り掛けとして、受け止めていただければと願うのです。

     

     「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、一つ目はこのみ言葉が持つ「背景」です。パウロにはローマ教会に対して国家や世俗の権威に対しての理解や取るべき姿勢と判断を語る必要がありました。その背景にあったローマ教会の葛藤をまず、深く理解しましょう。そして、それを今の自分と重ね合わせて、神様からの語り掛けを受け止めましょう。

     

    〜本論B〜

     

     続いて二つ目です。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、二つ目はこのみ言葉が示す原則です。パウロにはローマ教会に対して国家や世俗の権威に対して理解や取るべき姿勢や判断について、明白な原則をここで示しています。

     それは、1節と2節を読めば明らかです。この部分では国家権力や世俗の権威の正当性が3回も繰り返し示されています。しかもそれは大変、理路整然としております。繰り返しになりますが、もう一度、1節と2節をお読みします。

     

    「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

     

     この御言葉は三つのことを教えます。すべての人は上に立つ権威に従うべきであること、神なき世俗の権威を含めてすべての権威は神によって立てられたものであること、だから、権威に逆らう者は、神に逆らっているのであり、わが身に裁きを招くことになるということです。パウロがこのところで示している原則は単純明快、「権威と服従」です。

     

     この手紙を読んだローマのクリスチャンたちはどう思ったでしょうか?ある者は「ローマに政府に従ってもいいのだ、税金を納めてもよいのだ」と安心したでしょう。また、ユダヤ人クリスチャンの中には手紙を読んで、わが目を疑った者もいたことでしょう。「イエス様を十字架につけたローマ政府をこともあろうにパウロ先生が認めるのですか!パウロ先生本気ですか?」と。

     

     しかし、前回のメッセージでお取次ぎした通り、権威というものは本来、恵みなのです。そのことが3節記されています。3節をお読みします。

     

     「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。」

     

     もうお分かりかと思います。3節によれば、善を行わせ、悪を防止できるのは、国家権力があってのことです。国家権力の下に、法律や警察や司法という権威があり、それによって、民は平和で安全に暮らせるのです。権威とは、本来、そのように神様が私たちのために与えられた恵みなのです。それはクリスチャンであるなしに関係なく、注がれる神様からの恵み、神学的用語では、「一般恩寵」と言われるものです。

     実際にローマという国家は、当時としては最も成熟しており、一定、自由で平和な社会であったようです。とは言え、先ほど、お伝えしたように、ローマ教会に集うクリスチャンたちの多くは、時に自分たちを迫害する兵士には敵対心を抱くし、ローマに税金を払うことは屈辱であったわけです。

     

     ですから、4節以降でパウロは権威という「抽象論」で終わらせずに、「具体論」を展開します。それが、クリスチャンたちが葛藤していた兵士と税金のことなのです。パウロは権威という「理念」を説いた上で、兵士と税金という「現実」について教えます。まずは、4節と5節は当時の兵士のことについてパウロが語っています。4節と5節をお読みします。

     

     「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

     

     4節の途中に「彼は無意味に剣を帯びてはいないからです」とあります。「剣」をどう解釈するかは、様々な見解があります。剣を「死刑制度」を意味するという解釈もありますが、私は「字義通りの剣」、兵士が所持している剣という解釈をとります。私たちは兵士というと「軍隊」というイメージを持ちますが、平和であったローマ社会にあっては、兵士はどちらかというと現在の「警察」に相当します。ですから、今風に訳すなら、「警察官は無意味に拳銃を所持してはいないからです」となるでしょう。

     警察官が拳銃を所持していることは犯罪の抑制につながりますし、いざという時は、市民を犯罪者から守るたことができます。そのために拳銃は必要です。聖書がこのところで記している兵士と剣の関係はそういうことです。そのように、パウロはそのように警察権力の意味を示し、むしろ、神のしもべと考えて、怖いからでなく、良心の故に、従うようにと勧めています。

     

     税金についても同様です。6節をお読みします。

     「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」

     兵士同様、税を徴収する人たちも神のしもべです。平和で安全に暮らせて、社会正義が実現され、弱者が守られるような社会は、税金によって支えられています。だから支払うべき税金はちゃんの納税しましょうとパウロは勧めています。

     このように原則は「権威と服従」です。原則的には、すべての権威は神様によるものであるがゆえに、従うようにパウロは勧めていますが、彼は葛藤し苦しむローマのクリスチャンたちの現実と心情を、理解せずにこのような正論を語っているわけではないのです。むしろ、パウロは、その切実さを知っているからこそ、それに応答して手紙を書いたと思われます

     

     そして、今日の聖書読者である私たちが知るべき大切なことがあります。それは、そのためにパウロが書いた箇所はローマの13章1節から7節ではないということです。パウロが葛藤するローマ教会の信徒に書いた箇所は12章の17節からなのです。

     私たちは、13章に入って、テーマが変わったと感じるのですが、実は12章の最後から13章の最初までは、同じテーマ、つまり「敵対者、迫害者に対しての完全勝利の道」を説いているのです。

     12章17節以降でパウロは、「自分で復讐してはいけません」「悪には善で報いなさい」と教えますが、パウロは誰を想定していたのでしょう。具体的には、誰が「敵対者で迫害者」だったのでしょう。それは、ローマ帝国であり、その権威の下にあり、時に教会の迫害に手を貸していた兵士、屈辱をもたらす取税人たちです。彼らは、家族や職場の上司のような身近な敵や迫害者とは別次元です。なぜなら、その背後にあるのは、当時の世界最強権威、ローマ帝国だからです。

     

     そのような背景を知るなら、この手紙の直接の読者であるローマ教会の信徒たちが、12章の21節をどう読んだか?ローマ13章をどう受け止めたか?が想像できます。ローマ12節21節は勧めます。「悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」。それは、「ローマ政府や兵士たちが図る悪に負けてはいけません。かえって、権威に従うという善によってその悪に勝ちなさい」という意味となるでしょう。

     「権力側らの悪や迫害に、報復行為や暴力的な反抗などで応答してはならない。神が立てた権威として、従うことを通じて、悪に勝つのですよ。それが本当の勝利、完全勝利なのです。そして、このローマ社会に敵をも愛する愛を、神の愛を証しするのですよ。」とそんな思いでパウロは、12章の最後から13章のはじめを記したのだろうと想像するのです。

     

     12章の17節から始まったローマ政府を敵対者・迫害者と想定した教えは、13章の7節を結論として終わります。そこにはこう書かれています。7節をお読みします。

     「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

     

     社会的義務を果たし、正しく納税し、恐れるべきを恐れ、敬うべきを敬うというのは、当たり前の教えでしょう。しかし、当時のローマ教会のユダヤ人クリスチャンにとっては、大きなチャレンジ、できれば、聞きたくない神の言葉であったかもしれません。今日、私たちはこの言葉をどう受け止めるのでしょう?

     

     聖書は言います。「人はみな上に立つ権威に従うべきです」。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、二つ目はこのみ言葉が示す原則です。2000年前のローマ教会の信徒同様、時に上に立つ権威に葛藤し、苦しむ私たちです。パウロが示した原則を受け止めて、日本社会に生きる者として、国家や世俗の権威に対して聖書的な理解を持ち、取るべき姿勢や判断を決めてゆきたいと願います。

     

    〜本論C〜

     

     最後に三つ目です。「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、三つめは、このみ言葉の守備範囲です。このローマ13章1節から7節には、守備範囲があります。言い換えるなら、カバーしきれない範囲があるということです。つまり、この聖書個所は、国家や世俗の権威についての理解や判断を決める「原則」ではあるが、「すべてではない」ということです。この聖書箇所が示す原則だけではカバーしきれない例外があるということです。

     なんでもローマ13章の1,2節は、政治思想の分野では、歴史上最も引用されてきた聖句なのだそうです。ただ、それは時に権力側に都合よく利用されることもあったようです。皆さんもお聞きになったことのある「王権神授説」はこの聖句が根拠とされてきましたし、王権神授説は、愚民政治とセットで帝国主義を生み出したとの見解もよくお聞きします。その見解が正しいなら、それは聖書的な原則論が悪用され、世界の歴史が聖書の示すのとは逆方向に歩んでしまったことを意味しているのではないでしょうか?

     

     今日のメッセージを聞きながら、皆さんの多くはきっと素朴な疑問を持たれたことでしょう。「では、権力にとって都合の悪いいのちは、抹殺するような独裁国家にも、黙って従うのか?」「信教の自由を認めず、教会を迫害するような国家も神様がお立てになった権威だから、服従するのがみこころなのか?」という疑問です。

     それは当然の疑問です。残念ながら、神の代理として、正義と公正によって、民を治め、平和を実現し、弱者を保護すべき国家自身が不正を行い、民を抑圧し、弱者を切り捨てることがあります。国家が、領土的野心や資源の獲得を目的に、もっともらしい大儀を掲げて、他国に侵攻し、暴力によって平和を破壊すること、他国を支配し、民を抑圧搾取することもあります。さらには、神のしもべであるはずの国家や国家元首が神にとって代わることさえあります。

     

     実は聖書には、国家という権威に従わなかった事例、さらにそれが神様に祝福された記述があります。つまり、権威に対しての抵抗や不服従が、御心であった事例があります。聖書が記す典型的な例を三つほど挙げてみましょう。

     

     出エジプト記1章によれば、生まれてきたヘブル人の男子は殺すようにエジプトの王に命じられた助産師たちはそれを拒否しました。これは明らかな法律違反です。しかし、聖書は、神様がその助産師たちを祝福されたと記しています。そのことから、今日も不都合ないのちを抹殺するような権力者や政府への抵抗・不服従は聖書的に正しいのだろうと判断されます。

     また、ダニエル書6章において、ダニエルは、法律で王様以外の礼拝を禁じられていたにもかかわらず、主なる神を礼拝しライオンの穴に投げ込ます。しかし、神様はそのダニエルを救われます。ダニエルは王の命令には忠実に従っていましたが、礼拝に関しては従いませんでした。ですから、国家権力が偶像礼拝を強制したり、真の神様への礼拝自体を禁じたりした場合は、それに対しては、抵抗・不服従が神様の御心だと言えるでしょう。

     さらに使徒の4章で弟子たちは、サンヘドリンという議会から「イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じられました。しかし、弟子たちは「人より神に従います。」と宣言し、宣教を続けました。このことから、法律で福音宣教自体が禁止されている場合に、知恵をもって宣教していくことは、神様の御心だろうと判断できます。

     エジプトの助産師もダニエルも弟子たちも皆、普段は権威を敬い、法律に従う人々でした。基本的には上に立つ権威に従っていました。特定の場合については、命令を拒否し、抵抗し、不服従の道を貫きました。神様はその判断と歩みを祝福しておられます。

     

     また、国家や王自身が神となり、自らを礼拝するよう強制することがあります。国家や王は、本来神様からの権威を委託された神の代行者です。しかし、その代行者が自らを神の座に置き、、国家や国家元首を礼拝するように命じるのです。それは、古代社会ではよくありましたし、この日本もほんの70年前までは、その通りのことを行っていたわけです。

     聖書の最後、黙示録13章には、そうした国家の姿が、「獣」という象徴で表現されています。一般的に、黙示録は未来の出来事を記しているとされますが、その多くの記述の根底にはヨハネが黙示録を記した1世紀後半の事実があるとよく言われます。

     ローマ人への手紙が書かれて、まもなく、ローマ政府は教会を激しく迫害し始めます。ローマ国王を神として、礼拝するように強制し、従わぬ者を罰するようになります。そのような歴史的事実に立って、ヨハネは象徴表現として、獣となった国家の姿を13章で記しているのだろうと多くの聖書学者たちは指摘します。

     

     「どんな権威でも従うのか?」その問いに対しての答えは、ローマ13章の守備範囲ではありません。そのことは聖書全体から考えるべきです。そうするなら、都合の悪い者、反対者を抹殺するような権威、信教の自由を奪う権威、獣となり自らへの礼拝を強要する権威は例外扱いすべきで、それに対しては、抵抗・不服従が、御心だとも言えるでしょう。

     

     そこで、問われるのは現代の私たちです。国家との関係において、ローマ教会の信徒と私たちとは大きな違いがあります。それは、間違った権威に抵抗するための様々な手段を神様から与えれているということです。その一つは、投票権です。選挙権を持つ者は、現政権を支持することも、反対票を投じて抵抗を示すこともできます。

     また、日本社会では、言論の自由が保障されています。そもそも言論の自由とは、王など権力者の不正を批判し報ずる自由が起源だそうです。ですから、権力の私物化、不当な権力行使があれば、言論によって抗議することが可能です。日本長老教会のホームページをご覧になれば、様々な声明文や公式見解、抗議文などを読むことができます。

     さらには、集会の自由もあります。信教の自由などをテーマに様々な集会が持たれ、時にはデモなどを通じて、抗議行動をなさっているクリスチャンたちがいらっしゃることは、皆さんご存知のことでしょう。

     

     聖書は「原則と例外」という一定の指針を示していますが、具体的個別的な判断は示してません。つまり、「ガイドライン」は与えていますが、「マニュアル」は与えていないのです。一つ一つの課題や事例についてどう判断するか?どこまでは権威による理不尽に耐えて従い主を証して、どこからは抵抗と不従順とするのがみこころなのか?そして、どのような方法で、どの程度の抵抗をすべきなのか?それは聖書に書かれていません。

     私たちが聖書のガイドラインに従って、具体的個別的事例について、どう判断し行動するかは、クリスチャン一人一人に委ねられているのだろうと個人的には考えています。これまた個人的な見解ですが、聖書はマニュアルを与えていないのだから、政治や社会事象についての見解は同じ信仰理解に立っていても、多様にならざるを得ないのはないでしょうか。

     同じ信仰理解であっても、教会と国家と関係が密接かつ友好的であったアメリカと、対立的で緊張関係をもってきた日本とは、異なります。また、兵役に就くことなく平和を論ずることのできる日本の教会と徴兵義務が課せられている韓国の教会とは見解が異なることでしょう。

     

     ローマ13章の守備範囲と言う面では、国家権力以外の権威についても同様でしょう。文字通り人を殺さなくても、著しい人格否定や人間の尊厳を根底から損なうような権威は、例外に準ずると判断すべきでしょう。

     カルト化し牧師が神のような絶対的権威となっている教会、子どもを虐待をする親、暴力で妻を支配する夫、生徒に対して恒常的に暴力を振るう教師、社員を過労死させるまでの違法就労が当然の企業、こうした場合も、神様が立てた権威だから、黙って従うべきでしょうか?

     実はローマ13章を根拠にそれでも黙って従うことが御心と考えるクリスチャンは少なくありません。また、稀に、そのように教える教会の指導者もいらしゃるようです。「ローマ13章にあるようにどんな権威にも黙って従えばいいのです。もし、その権威者が間違っていたら神様が退けるから」牧師からそのような指導を受けたという方も少なくないようです。

     それは、聖書の一か所だけから、すべてを判断をしてしまう間違った聖書の読み方と言わざるを得ません。ローマ13章の守備範囲を理解せず、聖書全体から神様の御心を考えようとしないなら、聖書的であることを願いながらも、間違った判断と行動をしますし、人にもさせかねません。

     原則は明白「権威と服従」です。確かに原則として、権威には従うべきですが、本質を失ってしまった権威については、抵抗や不服従、相手に改善を求めること、相手と距離をとること、とりあえず離れること、関係を断つこと、助けてくれそうな第三者への通報、専門家や専門機関への相談などは一つの選択肢だと私は考えています。それは決してた神様が立てた権威に従わないこと、神様への反逆には当てはまらないと思うのです。(もちろん、自分の罪深い反逆心の故に、従いたくないので、正当な権威を例外扱いするのは本末転倒です)

     

     「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」、三つめは、このみ言葉の守備範囲です。このみ言葉は大切な原則を語りますが、すべてを語っていません。守備範囲外となる例外があるのです。例外の可能性がある場合には聖書全体からのガイドラインを指針として、柔軟にみ言葉を当てはめて、多様性をもって判断していくべきでしょう。

     

    〜結論〜

     

     この朝は、「救いのめぐみの歩き方、国家と世俗の権威」と題しまして、背景、原則、守備範囲という三つのポイントでローマ13章の1節から7節までををお取次ぎしました。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」ローマ教会が置かれていた社会的背景を自らの現状と重ね合わせながら、このみ言葉を受け止めましょう。このみ言葉が示す原則は明らかです。それは「権威と服従」です。しかし、現実の社会を歩む中で、この原則に立つと同時に、守備範囲も考慮しながら、国家と様々な権威を理解し、神様に喜ばれる関係に歩みたいと願います。お祈りします。

     

    〜祈り〜

     

     国家をはじめ様々な権威の下で生活をしながら、時に葛藤し、苦しみを味わう私たちです。理不尽さ故に、反抗したり、暴力的な報復を思い描くこともあるかもしれません。しかし、この朝、そうした現実的な面にまで届くみ言葉の語り掛けをいただきました。どうか、権威関係という分野においても、私たちが、神様の御心に歩めるようみ言葉をもってお導き下さい。一週間後には衆院選の投票日を迎えますが、どうか、有権者である者たちが、私利私欲を離れて、神様の前に責任ある一票を投じることができますように。そして、まさに今、礼拝をささげた後に遣わされていく場に待ち受ける権威関係の中にあって、み言葉が示す神様の御心に歩めるよう助けと導きを与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。

    | ヤンキー牧師 | 活動報告・宣教 | 17:53 | - | - | - |
    新着情報の新設、完了しました!
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       予告しながら遅れておりました新着情報ができました。活動報告だけですが、よろしければご一読を。

      サイト「水谷潔の新しき地に踏み出だす」の「新着情報」
      | ヤンキー牧師 | 活動報告・宣教 | 21:41 | - | - | - |
      今後の発信について
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         久しぶりの更新となりました。突然になってしまい恐縮ですが、今後の発信は、以下のサイトに移行します。

        「水谷潔の新しき地に踏み出だす」
        http://kiyoshimizutani.com/

         5月上旬にこのサイトに「新着情報」を新設し、そこに働きについての情報や報告を掲載します。フェイス・ブックも基本、発信はせず、読むだけのお付き合いとなります。祈り、熟慮してのことですので、どうか、ご理解をお願いします。私の働きについては従来通りです。

        〈追記〉
         5月21日現在、まだ、「新着情報」のページを作成できていません。完成しましたら、この記事内でお知らせします。今しばらくお待ちください。
        | ヤンキー牧師 | 活動報告・宣教 | 13:41 | - | - | - |
        キリスト教性教育研究会・会長就任のご報告
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           大切なことをお伝えしておりませんでした。4月1日付で「キリスト教性教育研究会」の会長に就任しました。同会は、2004年3月にOCCビルを会場に、富永國比呂先生(ロマンダ・クリニック院長)と稲葉裕先生(当時、日本衛生学会会長、順天堂大学教授)の呼びかけにより超教派のキリスト教信仰に立つ性教育の学術研究会として立ちあがりました。12年間もの長きにわたり、会をリードしてこられた富永國比呂先生に替わり、私が会長に就任した次第です。

           「キリスト教性教育研究会」は現在、40名弱の会員構成されており、性教育を担う団体の働き人、医療者、大学や中高の教師、牧師、牧師夫人、カウンセラーなどが主要な会員です。キリスト教会においては著名な方も少なくありません。文字通りの超教派で、カトリック、無教会派、聖公会、リベラル派、改革派、福音派のクリスチャンで構成されています。大きな理念としては、結婚制度と性の人格性を尊重する保守的な見解に立っています。

           研究会などを通じて、会員間の研鑽を図り、その成果を何らかの形で発信し、教会と一般社会に貢献することを願っています。恒常的な活動ではありませんし、私にとってメインの働きとなるわけではありませんが、その意義においては極めて重要であり、重い責任を感じています。また、学術的な面においては、決して長けているわけではありませんので、会員の皆さんに支えられつつ重責を果たせたらと願うばかりです。

           8月18日(木)には、東京(吉祥寺付近)で研究大会が予定されております。後日、改めてご案内申し上げます。

           というわけで、ご報告いたしますとともに、日々のお祈りの片隅に覚えていただければ幸いです。
          | ヤンキー牧師 | 活動報告・宣教 | 12:24 | - | - | - |
          J+Passion Tokyo16のご案内
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             気が付けば、今年のJ+Passion Tokyoは、もう来週の土曜日。実行委員会からの報告によれば、J+Passion Tokyo歴代最多出場講師は、何と、だそうです。密にそうではないかと思っていたのですが、やっぱりそうでした。以前は、毎年のように「恋愛・結婚・性」の分科会講師をさせていただいておりましたから・・・。強い思い入れのある集会だけに、大変、光栄であります。

             というわけで、来週土曜の同集会のご案内です。FBの情報を以下に貼りつけてお知らせします。
            会場地図やアクセスなどはこちらを、ご参照ください。
            https://www.facebook.com/events/1015301555203903/

             
            J+Passionは、教派を超えて教会・クリスチャンが協力して開催する、クリスチャンのための青年大会です

            J+Passion Tokyo 2016
            テーマ:「隠された宝」

            テーマ聖句:「マタイ13:44」
            天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
            ...
            【場所】大野キリスト教会
             小田急線「相模大野駅」から徒歩5分
            (駐車場のご用意はございません。お近くのコインパーキングをご利用ください)

            【講師】チョ・ドリュー(聖会機法
             クリスチャンアカデミーインジャパンCAJ 99年卒業 UCLA 03年卒業 ウェストミンスター神学校 07年卒業 日本宣教師である韓国の両親と共に9歳で日本に渡り横浜・川崎育ち。人生の三分の一を韓国、日本、そしてアメリカで過ごした背景を持つ牧師。4年前に日本に戻り去年から東京・品川で開拓教会を牧会している。
             特徴は、非常に若く見られること。初対面の人に35歳に見られることはない。「人生で燃え尽きる時があるなら、キリストのために燃え尽きたい」と思っている。

            吉永豊(聖会供
             1967(昭和42)年生まれ。中学1年の晩秋受洗。中高生時代はバスケ部に所属するが勉強をおろそかにしたため浪人。大学卒業後、会社員を経て2001年牧師を目指し中央聖書神学校へ入学。2004年卒業。現在、日本オープンバイブル教団町田聖書教会牧師。イエスキリストを信じ生きることの素晴らしさについて分かりやすく熱い思いを込めて語ることを目指している。

            【ワーシップチーム】浜名湖バイブルキャンプ中高生キャンプワーシップチーム
             日本同盟基督教団 浜名湖バイブルキャンプ中高生キャンプの賛美を導くワーシップチーム。心も体もすべてを尽くし爆裂した賛美を捧げようという爆裂賛美、通称「爆賛」をモットーに掲げる

            【分科会】
            1、キリスト教世界観から見るワンピース (東京キリスト教学園 広瀬薫)

            2、献身 (町田聖書教会 吉永豊)

            3、恋愛・結婚・性 (川口福音自由教会 大嶋裕香)

            4、貧困・社会貢献 (国際飢餓対策機構 田村治郎)

            5、教会を建て上げる (ニューコミュニティチャーチ チョ・ドリュー)

            6、ユースを助ける大人 (川崎キリスト教会 古波津真琴)

            【プログラム】
            9:45  受付
            10:00  開場
            10:30  聖会 淵瓮奪察璽検Д船隋Ε疋螢紂 師)
            12:00  お昼休憩
            13:30  分科会
            15:00  休憩
            15:30  聖会◆淵瓮奪察璽検У髪 豊 師)
            17:00  終了予定

            【参加費】
             大人:1000円
             学生(専門学校生、大学生):1000円
             高校生:500円
             中学生以下:無料

            【コアバリュー(J+Passionの理念)】
            ・福音的な聖書信仰に基づく超教派であること。
            ・クリスチャン青年の励ましと育成をすること。
            ・結果的に教会を力づけ時代に影響をもたらしていくこと

            【主催】
            J+Passion Tokyo 2016実行委員会
            | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 20:45 | - | - | - |
            神が今日求め給う「傷ついた癒し人」と「傷つける愛し人」
            0
               「父となる旅路」から考える母性愛と父性愛のシリーズは、それなりに好評であったようです。
                       

              (5)に対してはFBの方ではこんな応答が。(太字は私の編集)
               
               青年期を振り返るとき、大切な転機となったのは幾人かの年長者の愛ある叱責、警告、問いであったように 思います。ある人は細やかな配慮の中で控えめに、ある人は多少の誤解を恐れず大胆にぶつかってくださいました。その時、確かに自分のことについては言い訳はそれなりにしやすいわけですが、神は人間関係、特に信仰者の交わりの中で、人間の限界を用いつつそれを超えて語り給うと信じて、先ずは聴く、そして御心を問う、というというふうにすることで、己を違った角度から見つめ直し、砕かれる経験をしたように思います。


               傲りにせよあきらめにせよ、もう変わらない、変わる必要もない、というのではなく、常に生かされ変えられて行くことに開かれている、というところに信仰生活の革新があり、しばしば母性的と捉えられる聖霊は、しかし革新者、変革者として立ちたもうという意味においては、先生の記事の文脈で言うところの「父性愛」を持って働いておられるのかもしれません。


               以上が引用です。信仰者の交わりの中、年長者からの愛のある叱責が青年期の転機となること。聖霊の働きが父性愛的側面を持つこと。適格で鋭い考察と指摘だと思いましたので、ご紹介しました。残念ながら、昨今は相手を傷つけることを恐れるあまり、こうした人間関係の中での恵み、聖霊の父性愛的な働きが経験されなくなっているのかもしれません。


               また、ある方は(4)を。シェアをしてくださり、その際に、箴言27:6の後半のみことばを記されました。

              「憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」


               これら二つのことを通して、考えました。

              (後記:以下は、一連のシリーズ記事の文脈の中、豊田先生による「父性愛」の定義の中でお読みください。)


               「傷ついた癒し人」という表現があります。イザヤ53:5は記します。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」キリストは傷つけられたことによって他者を癒す者となられました。同じように、小さなキリストであるクリスチャンたちも傷つけられた経験が用いられて、他者を癒す者とされるのでしょう。

               一方で、真実な愛の故に愛する者の罪や課題を指摘し、その結果として相手を傷つけてしまうことがあります。愛の名目で人の罪や欠点を指摘して、意図的に傷つけるのではありません。傷つけることが目的はなく、予想される結果、リスクなのです。目的は罪であれ欠点であれ、課題を示し、相手がそれに向き合い、回復成長し、祝福されることです。相手を傷つけてしまえば、その事実が自分を傷つけます。それでも相手のためにと願うのは、自己犠牲を伴う献身的な愛キリストの愛と言うべきでしょう。

               (後記:愛という動機が相手を傷つけることを正当化するわけではありません。これは、相手を傷つけ、それによって自らも傷つくことを恐れるあまり、愛することから逃げてしまうことへの警鐘です。また、エペソ4:15の「愛をもって真理を語り」とのみことばに生きることを願って記しています。この点は誤解をされませんように。)


               私はそれを、「傷ついた癒し人」ならぬ「傷つける愛し人」と呼びたいです。


               そして、思うのです。

               傷つきやすい現代人が集う日本の教会において、今、神様が求めておられるのは、

               傷ついた者を癒す「傷ついた癒し人」とともに、

               傷つけることを恐れず愛する「傷つける愛し人」でもあるのだろうと。


               そう、君も誰かの「傷つける愛し人」になろう。

               傷つける愛し人に愛されたら、たとえ傷ついても、逃げず、心閉ざさず、逆切れせず、その愛を感謝し、受け止め、その真実の愛に応答しよう。
              | ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 15:35 | - | - | - |
              プロ野球ポッドキャストで再び、ドラゴンズを語る
              0
                 大野キリスト教会を牧する中澤信幸牧師が、スタートしましたプロ野球ポッドキャスト番組。シーズン開始を受けて、光栄なことにトップバッターは私となりました。今週月曜に2回目の収録を済ませ、昨日既にアップされております。

                 ご存知ない方はこちらを。

                「プロ野球ポッドキャストの番組紹介 」
                http://nobu.bokushi.jp/pykp000/

                 昨日アップされたその番組がこちら。

                中日ドラゴンズvol.2 2016年4月(ミズタニさん)
                http://nobu.bokushi.jp/pykp005/

                 今回は25分にわたり、至って真面目な野球解説をしてしまいました。次回からはもっと面白くせねばと反省。やはり、名古屋弁を入れるべきかと検討中。

                 ポイントは、ほぼ5割の勝率ながら、上位チームとも対等に戦えそうな戦力になっていること。打撃成績打率部門は月曜の時点ではビシエド選手が1位で、高橋周平選手が2位であります。誰も予想しなかったこの新戦力台頭。この二人は怪我さえなければ、シーズンを通じてかなりやるでしょう。中継ぎ抑えも安定し、昨年に終盤の逆転と僅差での敗戦の多さはないでしょう。打線の弱さと先発のコマ不足は否めませんが、しばらくは、5割程度の勝率はキープできると読んでおります。既に今年もホームで強く、アウェイで弱いのが、予想できてしまいます。これは中澤牧師も指摘してくださったのですが、球場動員数が増えるので、プラスに評価すべきなのでは?

                 楽しみなのは、シーズン中に若手が成長し、ベテランの復活が期待できるので、だんだん強っていくことです。高橋周平に続いて、堂上直倫がレギュラー定着、若手投手の台頭があり、吉見、浅尾、岩瀬らが一定戦力になる期待もあり、ドラ1の小笠原投手のデビューもあるのでは?と後半戦が楽しみです。3位から上位は行けそうですし、優勝も夢ではないとの展望を語っております。

                 というわけで、完全に牧師を捨てて、名古屋の居酒屋でよく生息が確認されるただのドラゴンズ親父となっております。プロ野球ファンの皆様はぜひ、お聴きください。
                 
                | ヤンキー牧師 | スポーツ | 16:49 | - | - | - |
                成功するために召されたのではなく、忠実に仕えるために召されたのでは?
                0
                   「何のために召されているのか?」そのことは、すべてのクリスチャンである職業人、家庭人、教会員にとって大切なこと。しかし、召しの目的を自覚して始めた使命だったのに、いつの間にか、大切なことを忘れがちなもの。とりわけ牧師など教職者はスタート時の召しが問われ、検証されるのに、その後の召しは、あまり他者から問われることなく、いつの間にかスタート時の原点を忘れてしまいがちかと思うのです。そして、召しの目的がいつのまにか別のものへと逸脱してしまう危険は少なくないように感じています。

                   そのことを私自身改めて、問われたのが、こちらのデイリーブレッドの記事です。
                  http://japanese-odb.org/2016/04/05/%e9%80%83%e3%81%92%e3%82%8b%e3%81%aa/

                   ジョン・パイパーの経験が紹介されます。パイパー師はその後大きな組織をリードして、成功者と見られるようになりました。しかし、そうでなかったら、どうだろう?とこの記事は問いかけます。パイパー師が召しにとどまり続け、その結果として注目される働きや大きな責任を担う有名牧師にならなければ、大きな名声と豊かな功績を後世に残すことはなく、成功者として評価されることなくその生涯を終えたことでしょう。

                   しかし、聖書は、エレミヤという人の目から見れば失敗者の記録を残しています。エレミヤがそれでも、召しに歩み得た理由をデイリーブレッドはこう記しています。「成功するために召されたのではなく、忠実に仕えるために召されたと知っていたから」だと。この記事にあるように、エレミヤは民が立ち返ることを願う神の言葉を取りついだだけでなく、愛なる神の姿を体現していたのでしょう。

                   この記事には、私自身が問われましたし、さらには私自身がお会いする牧師たちに抱く思いを問われました。牧する教会の規模や知名度や著書などで、態度を変えるようなところがあるのを探られました。いつも、このブログで、教会の規模や知名度や著書など、評価基準ではないと語ってきたのにです。教会を大規模にした牧師ばかりが評価され、用いられ、団体の重責を担うことに強い反発を覚えてきたにもかかわらずです。他方で、地域にあって小規模教会で忠実に仕えておられる牧師夫妻たちに、心から尊敬を抱いてきた自分であったのにです。


                  成功するために召されたのではなく、忠実に仕えるために召されたと知っていたから」

                   まずは、今更ながらに「何のために召されたのか?」を繰り返し確認しながら、歩みたいと願いました。成功を微塵たりとも追求せず、召しに忠実であることを追求する自分になること、それを徹底すること。また、成功者と目される牧師ではなく、忠実に仕えておらる牧師を尊敬し、それに倣う自分でありたいと願いました。


                   僭越ながら、職業生活も、学校生活も、教会生活も、結婚も育児も「召し」であることを忘れがちなのでは?神様から召されて、その場に遣わされていることを覚えましょう。エペソの5章ー6章によれば、夫と妻、親子、上司と部下は、仕え合う関係です。誰かに仕えるために、家庭でも社会でも召されているのです。家庭内で、職場で、地域で、教会で与えられている権威も、神様からの委託であって、それは、人を支配するための権威ではなく、人に仕え、模範を示すための権威なのです。

                   その目的は「成功」ではありません。ましてや「自己実現」や「自己満足」などのはずがありません。神様は、結果としての繁栄、勢力拡大、世間からの称賛ではなく、私たちが「忠実に神と仕えるべき人に仕えているか?」を見ておられます。そうです。「忠実に仕えているのに、願った結果が出ない」、「忠実に仕えているのに評価してもらえない」というのは、きっと、残念で不本意でしょうが、必ずしも失敗ではありません。むしろ、神様の目にはその歩み自体が、既に成功と映っているのかもしれません。

                   この世がすべてではありません。すべてのクリスチャンは再びキリストの前に立ちます。タラントのたとえでは主人は「よく儲けた」と喜んだのではなく、「よい忠実な僕」と褒めました。神様は実績主義者ではありません。再臨のキリストの評価基準は「成功したか否か」ではなく「忠実に仕えたかどうか」であることを覚えたいものです。「結果」でなく「プロセス」、「業績」でなく「姿勢」が地上から永遠につながる評価基準であることを覚えて、この地上の生涯を歩みたいものです。まずは、今、置かれた場所で忠実に仕えることから、スタートです。

                   今日は、デイリーブレッドから教えられたことを記事にしてみました。
                  | ヤンキー牧師 | キリスト教会(出来事・情報) | 10:29 | - | - | - |
                  日本伝道会議に申し込んだぞ
                  0
                     9月27日(火)から30日(金)まで神戸で、第6回日本伝道会議。前回の札幌に続いて、分科会で発題をすることもあり、全日程参加します。3月までに申し込むと2000円割引と知って、大慌てで3月31日に申し込みました。8月末までの申し込みで、12000円6月までなら、1000円割引。この金額で全日程参加できて三回の食事代が含まれているのですから、ありがたくて泣けそうです。(あとは、宿泊費と交通費ですな)

                    余計なお世話とは思いますが、同会議の概要はこちら。
                    http://jcenet.org/index.shtml

                    また、申し込みはこちら。
                    http://jcenet.org/application.html

                     申し込みはネットでの買い物や予約申し込みになれている方なら、15分程度でできてしまうのでは?むしろ、前もって参加するプロジェクトと分科会を決めておかないと時間がかかるかなと思いました。申し込みフォーマットの中にもリンクがあり、申し込みをしながら、プロジェクトと分科会は選べますが、申し込みより、先に決めておくとスムースかなというのが個人的実感。

                    まずは、こちらで参加希望のブロジェクトを第二希望まで決めて、番号と名称をメモしておくといいのでは?
                    http://jcenet.org/project.html#1

                    次に、こちらで、二回の分科会も第二希望まで決めて番号と名称をメモ。
                    http://jcenet.org/program/subcommittee.html

                    さらに、有料のオープン集会に参加希望の方はこちらの「オープン集会」を参照。
                    http://jcenet.org/program.html#4

                     これだけ決めておいて、申し込みをするとスムースかと思います。お支払いは、カードまたは、振り込みです。


                     ホテルについては、外国からの宿泊者が多く、急がないとホテルが取れないかもと聞いたので、こちらも、さっそく予約してしまいました。会場へのアクセスを考えると、三ノ宮のホテルがよいのでは?二つのホテルチェーンのメンバーカードを持っているのですが、安いホテルから予約が満杯になりつつあるようです。私はあと2人というところで、最安値で予約ができました。3泊で15000円未満となり、感謝。大手チェーンのホテルの空室はまだまだあるようですが、安く泊りたいなら、そろそろ予約をしなければならないでしょう。

                     今のところ、ブースを出す気もなく、ぶらぶらしながら、全日程、会場におりますので、携帯電話の番号をご存知の方はお気軽にスカイメール(ガラケーで普通のメールもしていませんので)をお送りください。この機会でなければお交わりのできない皆様とは、よき機会となるかと思います。では、参加予定の皆様、特別、関西の皆様、秋には神戸でお会いしましょう
                    | ヤンキー牧師 | 活動報告・宣教 | 15:53 | - | - | - |
                    「父になる旅路」から考える母性愛、父性愛(5)父性の復権を願って二つの提案
                    0
                       このシリーズも今日で最終回。昔、昔、その昔、男として生まれた限りは、ほぼ強制的に親離れと社会参加と結婚をさせられ、責任ある社会の構成員とならざるを得ませんでした。その路線から外れることは社会的おちこぼれを意味していいました。つまり、社会の基礎構造に強烈な父性原理があったたわけです。

                       古代の母系的社会を除けば、たいていの共同体にはこうした父性原理によるシステムが見られます。文明化されていない社会では、バンジージャンプのような一発男の勇気証明系の通過儀礼がありました。明治以前の日本では男性ばかりが共同生活し地域で生きるための教育を受ける「若者組」とか「若衆」がありました。それも、夜這いなど猥雑な要素があったたため、明治以降の意向で衰退。その名ごりが現在の青年団らしいです。

                       やがて、日本も文明化され、他国と戦争をする管理社会になれば、徴兵制がその機能を担うこととなります。続いて敗戦後の平和主義の中では、企業戦士の徴兵制のような企業研修が通過儀礼の機能を果たします。プライドや学生気分を粉砕され、企業社会に自分を適応させ、終身雇用で働くわけです。さらに、それも終身雇用制の終焉と慢性不景気のため、もはや人材育成に投資はせず、人材は使い捨てです。

                       そうです。日本は有史以来、ついに、男の子を男にして、強制的に社会参加させる通過儀礼システムを持たなくなったように思うのです。文明化され、平和で人権が尊重される社会になってきたのは、幸いなことでしょうが、皮肉にも、野蛮さ、猥雑さ、戦争、人権侵害とセットで機能していた通過儀礼を失ったように思うのです。本来、それは父親、学校、地域、スポーツ、文化活動などを通じた教育で代理できるはずですし、事実、意識的に父性原理を取り入れれば、ある程度できているのでしょう。

                       でも、極端に父性を失った家庭や社会の中で、日本有史以来初の「父性愛欠損・母性愛一辺倒男子」が登場しているのは、間違いなさそうです。そして、クリスチャン家庭や教会が、この波の防波堤となりえず、子どもたちを犠牲者にしてしまったのだろうと私は認識しています。父性愛を持つ父なる神を信じていながら、父性欠損的な家庭を作り、父性愛なき神観や福音を伝えてきたとするなら、当世クリスチャン男子の課題を責める前に、悔い改めに立って、為すべきことがあるように思うのです。

                       そこで今回は私なりに二つの提言をさせてください。
                       
                       一つは、「愛の忍耐」です。これは人を育てる際に聖書が示す必須要素です。「理解不能」「関わりたくない」と見捨てたり、諦めたりしないで欲しいのです。それは上の世代の責任放棄だと私は思います。自らの責任を受け止めた上で、いまどきクリスチャン男子をあるがままで受け止めながら、少しずつでも適切な期待と要求をして、まずは、達成できなくても、努力するだけで、認めてあげることでしょう。中高生の時から、洗礼を受けていなくても、受け身でなく、積極参加させ、可能な奉仕を与えていくことなどは、その具体的歩みの一つでしょう。

                       ここで、気を付けるべきは、自分の感覚や基準で、期待や要求をしないことです。学生や青年たちをよく理解し、自分の物差しでなく、当人たちの物差しで適切な期待と要求をすることです。「えっ、そんなことで潰れてしまうの?」「この程度のプレッシャーで教会に来なくなるとは!」という失敗は、あちらこちらの教会でお聞きしております。家庭で父性愛を注がれてこなかった学生や青年男子たちが、普通に父性愛を注いでしまうと、受け止めきれず潰れます。あくまで、母性愛で受け止めながら、父性愛を小出しにしていくことかなと考えています。

                       また、それを「甘い」とか、「それではだめ」とか、「自分たちの頃はこうだった」といまどきクリスチャン男子を愛し、理解使用としない、ベテラン世代が批判をするかもしれません。そんな時、若者を愛し、理解するリーダーや先輩や親たちは、防波堤になり、守ってやりたいものです。また、上の世代にも、対立したり、無理解を責めるのでなく、謙遜と愛をもって、理解をお願いしていくことでしょう。

                       日本社会では、父性と母性のバランスは、世代間とリンクしています。団塊の世代の男性は、頑固おやじ雷親父に育てられたのでかなりの父性愛育ちです。次の団塊ジュニア世代は、父性が減少し、母性に大きく傾いた成育環境で育っています。そして、ジュニアの両親に育てられた今時の学生や青年クリスチャン男子は、どうしても母性愛一辺倒傾向が高まるわけです。ですから、団塊世代の男性クリスチャンがいまどき学生や青年クリスチャン男子を理解するのは、極めて困難なのです。だからこそ、攻撃から守るべきですし、対立してまで理解を訴えるのは賢くないと思うのです。

                       世代間の無理解の中で防波堤として波を受けながら、下の世代を育てていくのは至難の業かと思いますが、そこから逃げてしまっては、教会の未来は見えてこないでしょう。ストレス覚悟で勇気をもって自らその役割を担う者を、神様のこの時代に求めておられると思うのですが、どうでしょう?まずは、愛の忍耐をもって、育てていく道です。


                       二つ目は「愛の対決」ということです。「いつまで忍耐しても、変わらない」「愛の忍耐への応答能力自体が疑わしい」「忍耐の愛をこれ幸いに利用して、いよいよ変わろうとしない」。残念ながらそんな現実もあるでしょう。まさに「あるがまま、今のまま、ずっとそのままクリスチャン」を生涯の信仰スタイルにするクリスチャン男子がいるとしましょう。かと言って、強く踏み込めば「もう、教会来ない」「教会変わる」という最終兵器を出しかねません。どうしたらいいのでしょう?

                       そこで考えたいのが、「何が本当の愛か?」「何のための教会か?」であります。
                       
                       愛は真理を喜びますから、愛は、相手が真理に歩むこと、真理に向けて成長することを願います。
                       相手の弱さは愛の故に理解しますが、成長拒否を無期限で放置するのは、むしろ、愛に反することでしょう。

                       また、何のための教会でしょう?教会が目指すべき目的はなにでしょう。
                       
                       人を集めて教会を大きくすることではないはず。
                       奉仕者を増やして、事業拡大をすることでもないはず。
                       献金を確保して、教職の生活と教会の運営を安定させるためではないはず。
                       信徒一人一人がキリストに根差して成長し、愛のうちに結び合わされキリストの体を建て上げるため、神の栄光を現すため、神の業を行うためのはず。

                       そう考えますと、愛の忍耐をもって待つにも、やはり限界や期限はあると思うのです。どこかの時点で「愛の対決」が必要となる場合もあると思うのです。残念ながら、年齢を重ね、社会人になると、プライドが高くなるばかりで、「愛の対決」が通用しなくなる傾向があります。若い時代にチャンスを逃すと「あるがまま、今のまま、一生そのままクリスチャン」になりかねないこともあるようです。それだけに、「忍耐し続けるよりも愛の対決」と判断した場合は、できれば学生時代に、遅くとも最終学校卒業数年目までに、「愛の対決」を実行するのが適切かと考えています。

                       以前、ある教会の中高生科で奉仕をしました。献身的な大学生スタッフたちに大変感銘を受け、年長スタッフに「どのように育てたのですか?」と尋ねました。返ってきた答えは意外なものでした。スタッフの多くは、以前は、主日礼拝が終わったら、さっさと帰宅し、教会の働きには全く参与しないタイプだったというのです。

                       中高科の先輩スタッフはそうたい大学生たちに向き合い、愛をもって「それでいいのか?」と問いかけたそうです。そして、涙を流しての悔い改めに導き、教え訓練し、育ててきたのだというのです。これは、まさに「愛の対決」です。教会を離れる、教会を去るというリスクと背中合わせです。

                       牧師が異動する場合も「愛の対決」のチャンスかもしれません。愛の対決で勝負を決しておいて、後任に譲るのが、教会と当人と後任牧師のためという場合もあるでしょう。逆にあえて、愛の対決をせず、後任に判断を委ねるという選択肢もあるでしょう。大切なのは、常に、「愛の忍耐」と「愛の対決」のどちらを優先すべきかを考え、神様が導くタイミングを逃さぬことでしょう。

                       私は考えるのです。愛の対決の故に、相手が教会を離れたとしても、人はそれを非難するかもしれませんが、神様はその決断を喜んでくださるだろうと。逆に、無期限で変わることを待ち続けるなら、低リスクであり、それは人には批判されずに済みますが、それは本当の愛で、教会の目指す目的に合致しているでしょうか?もしかすると、私たちの問題は、こうした「愛の対決」という選択肢を選ばないことではなく、リスクを犯してまでそれをするだけの愛がないことなのかもしれません。


                       父性喪失文明で育ち、その欠損の犠牲者となったクリスチャン男子に、父性愛を注ぎ、受け止めてもらうことは決して、容易なことではないでしょう。しかし、愛をもって、優しくしかし、はっきりと課題を示し、向き合うよう勧めていく中で、教会を離れてしまうことはそれ程、多くはないように観察します。むしろ、こちら側が、弱さや境遇を理解し、心情に寄り添う愛を失い、裁いたり、責めたりしてしてしまうと、決定的決裂に至ってしまうようです。その意味で、愛の忍耐よりも愛の対決の方が、こちらの愛の真実さが問われる厳しい選択かと思います。

                       結論として、愛の忍耐と愛の対決という二つの選択肢を、父性愛を注いでいくための指針として提案しました。この二つは一見、正反対のように見えて、実は同じ目的を持つものです。前者が母性愛で、後者が父性愛なのではありません。両者ともが父性愛なのです。あえて違いを言えば、前者が父性愛の長期訓練で、後者が父性愛の短期決戦と言えるでしょう。

                       今回の記事が、父性欠損文明の犠牲者を健全なクリスチャンに育てていく一助になれば、感謝なことです。
                      | ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 16:42 | - | - | - |
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